坂の下にいる少年
俺の体調も戻り、次の日からまた会社に通った。仕事だけじゃなく、生活は少し不便になったけれど、自分のことは自分で管理するというのは、思ったよりも楽しいことだった。今まで機械に言われるままに右に行ったり左に行ったりしていたことが、次は右に行くべきか、それとも先に左へ行こうかと自分で考えられるのだ。時々(こないだの熱中症のように)失敗したりするけれど、それすらも良い経験というか、面白味を感じていた。
俺の仕事はかなり時間が管理しにくい方だと思うが、機械がなくなったことで、逆に自由にできることが増えた。
今日は夕方、もう仕事がなさそうだから、早めに退社してきたのだ。
会社の面々も誰も何も言わなかった。
これが、機械が管理していたら「まだ就業時間です。あと3時間、アレとコレをやっておきましょう」などと、勝手に仕事を増やされたりする。逆に仕事が忙しい時は「今日はここまでにして早く退社しましょう」とピーピー警告音を鳴らしてついてきたりする。うるさいったらありゃしない。
まあ、そんなことはどうでも良い。
とにかく、今日はいつもよりかなり早く会社を出て、まだ夕方にさしかかった明るい町を鼻歌を歌いながら歩いていた。
住宅街を越えて、ひと気のなくなる道に入り、ふと前を見ると高台への坂道にさしかかるところに、人がいるのが見えた。
珍しいな、と思って見ていると、それはどうやら子どもだった。10歳くらいかな。ウロウロと上の方を見て坂道を上ろうとしたり、いきなり地面を蹴ったり、走って戻ってきて道の脇にしゃがみ込んだり・・・何やってんだ?
気になって近づいて行こうとしたところ、いきなり横から腕を掴まれた。
「ひっ!?」
驚いて変な声が出ちまった。
多分、顔も相当ビビった顔をしていることだろう。なにせ、俺の腕を掴んで俺のことを見ているオチ君が、すげえビビった顔をしている。
「お、オチ君か」
何とかそう言うと、オチ君は腕を離してくれた。そして小さな声で
「見てください」
と、あの坂の下にいる少年を指さした。
そんな物陰からこっそり見なくても、わかるよ。今まであの子のことを見てたんだから。
「うん?あの子、なんなの?」
「きっと、何か、あるんです」
そりゃそうだろー。
「そうかもしれないけどさ。帰ろうよ」
「は、はい」
何、その歯切れの悪い受け答え。帰っちゃダメなの?
だけどオチ君はそれ以上何も言わなかった。俺が歩き出すと、一緒に歩き出した。そして坂道に近づくと、さすがにお互いの存在が確認できる。あの子どもはこっちを向いて俺たちに気づくと、すぐに走り去った。
それを見てオチ君は少し息を吐いた。ホッとしたのかな。子ども相手にそんなに緊張しなくても。とにかく俺たちは坂道を上って家へ向かった。
坂道を上っている時、オチ君がまた緊張しだした。身体が固くなって右手と右足が同時に出ている。いや、逆に器用すぎだろ。
「ダイチ君・・・うしろ」
後ろ?
俺が振り向くと、あの男の子と目があった。あ、アイツ、坂道上って来てるじゃないか。と、思ったら、ダーっと下まで駆けて行った。
「なんだあれ、ついて来たいのかな」
オチ君はいきなりすごい速足になって、坂道を上りはじめた。おいおいおい、ちょっと待ってよ。俺も負けずに速足で上る。
ていうかね、この坂道、結構キツいんだけど。
「ハア、ハア」
息を荒げながら、俺たちは坂道を競歩で上りきり、下を向いたが、もう子どもの姿は見えなかった。
「よし」
何が良いのかわからないが、つい「よし」と言ってしまった。オチ君も少し落ち着いたようだ。
高台の上の壁沿いに歩いていると、ふと背後に人の気配を感じた。明確な足音が聞こえるわけじゃないんだが、何というか後を付けられているという気配がするんだ。
「ダイチ君、なんか、また・・・」
言いたいことはわかる。
バッと振り向く俺。
しかしそこには、誰もいなかった。
「いないぜ。気のせいだったみたいだ」
オチ君も恐る恐る後ろを向いた。そして誰もいないことを確認するとホッとしてまた歩き出した。
外壁の扉を開くときも、オチ君はキョロキョロとしていた。
誰もいないことを確認して扉を開ける。って、別に見られたって構わないけど、後をつけられてると思うと、気になるっていうか。
まあとにかく、誰もないんだけどな。
扉を閉めて、小道を通って、玄関に入る。
「ただいまー」
と俺たちが言うと、中から「おかえりー」とオーナーの声が聞こえた。
部屋に戻って荷物を置いた。オチ君はまだ一階にいる。多分今日の魚を台所に置いてるんだろう。
俺も下に降りて居間に行った。
「おかえりなさい」
オーナーとオーバさんがお茶を飲んでお喋りしている。そこに一緒に座った。
オチ君が台所から出てくると、一緒に座るかな、と思ったのだけど、オチ君は俺のことをジッと見て、そこに座らずに、居間を出て行った。
「ダイチ君、オチ君がついて来てって言ってませんでしたか」オーナーが言った。
「え?」
オチ君、声を発していたか?全然聞こえなかったけど?
「行ってあげなさい」オーバさんにも言われた。
「はい」
よくわからないが、オチ君についていけば良いんだな?
廊下に出ると、オチ君が俺を待っていた。それから、無言で廊下を通り玄関を出て、小道に出た。
そして、そこで見たものは・・・
外の扉からこちらを見ている目だった。