9.ウィリアム・エイムズの『舞踏』
大変申し訳ありません。
身内が急な事故に遭って対応しておりましたら、小説の更新をすっかり忘れていました。数日間は少し多めに更新しようと思います。
本当にすみません。
栄華を極めた王宮の回廊をメイドが歩く。
宴が終わっても、王族や一部の賓客は夜通し酒の席で談笑している。それでも、招待客の半数以上が帰宅し、会場の片づけも済んだことで、仕事もようやく落ち着いていた。
貴族のエロ貴族に口説かれて迷惑していたとか、酒癖の悪い若造が難癖をつけてきて大変だったとか、愚痴は山ほどある。これから、使用人仲間とそういった話で花を咲かせるつもりだ。
その前に、第三王子の部屋に菓子を届けなければならない。
十歳の幼い王子は甘いものに目がなく、毎晩、ケーキや砂糖菓子を食べなければ寝つかないのだ。宴の席で天井まで届く砂糖菓子の城を解体して遊んでいたのに、まだ足りないらしい。
ぶくぶくと太った小児肥満の王子の姿を思い浮かべて、思わず噴き出す。
「あら……?」
メイドは北回廊へ続く扉が開いていることに気づき、おもむろに視線を向けた。
ここは、先ほど衛兵が見回りを済ませているはずだ。
誰かいるのだろうか。娘は息を殺し、そっと扉の隙間から回廊を覗きこむ。
けれども、誰もいない。娘は安心して、息をついた。
「失礼」
刹那、背後に気配を感じる。
振り返る間もなく、娘の細い身体が何者かによって押さえつけられてしまう。後ろから襲った人物はメイドの唇を塞ぎ、耳元で囁いた。
「大声は出すな」
少年とも、少女とも言えない声音だ。
決して上品とは言えない荒々しい態度は貴族のものとは思えない。侵入者だと直感するが、声を出すことが出来なかった。
恐る恐る後ろを振り返ると、マスクの下で笑う顔があった。
侵入者は指先で羽根つき帽子を少しだけ持ち上げると、メイドの手になにかを握らせる。
とっさに受け取ったそれは、硬貨だった。金に輝く硬貨の表に描かれた猫の紋章は、一度だけ見たことがある。
ロビン金貨だ。
「ロビン!?」
メイドは思わず声を上げ、両手で金貨を握りしめる。
侵入者――怪盗ロビンは人差し指を唇に当て、「シーッ」と音を立てた。
静かにしろと言われているのはわかっているが、娘は興奮が収まらずに顔を紅潮させる。こんな場面、そうそう遭遇出来るものではない。
だって、噂のロビンである。
王宮に奉公しているので薄々期待はしていたが……まさか、本物に会えるとは思わなかった!
「すごい。ねえ、本物なの? 北回廊の絵を盗むのね! そうなのね!?」
「頼むから静かにしてくれ。出来れば面倒なことにしたか――」
「きゃあ! 感激! わたし、あなたのことずっと応援してるのよ! 今日はツイてる! うちのお母さんも、お婆ちゃんもファンなのよ! もっと、マッチョなオジサマかと思ってたけど、これはこれでアリね!」
「人の話聞いてるか? 大丈夫か? おい、騒ぐな!」
ロビンは慌ててメイドの口を塞ごうと手を伸ばしている。
だが、怪盗さまはなにやら大きな絵を抱えており、思うように動けないようだった。きっと、盗品に違いない、と、メイドはますます興奮した。
「こりゃあ、まずいな」
ロビンはあからさまに表情を歪めると、メイドのことを無視して、大理石の床を蹴って北回廊へと駆ける。
メイドは青いマントをはためかせて走る後ろ姿を見て、甲高い声を上げた。
「がんばってねー! あと、金貨ありがとう! うちに飾ります!」
だから、黙れって言ってるのに!
ロビンは後ろからの声援にうんざりしながら、回廊を走る。
あの声を聞きつけて、衛兵が戻ってくるかもしれない。せっかく、見張りの間を縫ってやり過ごしたのに、台無しだ。
いや、いつも市民に堂々と声をかけられて応援されてしまうことには慣れているが、こんなときにまで騒がないでほしい。
「巷では、ロビンの絵姿が流行ってるらしいわねぇ。伯爵さまが言ってたわぁ」
「あんなの、全然似てなかったぞ」
「似てたら困るんじゃないの?」
それもそうだ。
無駄に凛々しい美青年や、ワイルド系なマッチョ男の姿で描かれた絵を思い出して、ロビンは少し苦笑いする。
ついでに、シャーロックとライバル設定で、壮大な攻防を繰り広げる娯楽小説なんかもあったりする。
人の想像は現実とかけ離れているものだ。
「アタシは、美青年のご主人さまの方が好みよぉ?」
「うるっさいなぁ……悪かったな、美形の男じゃなくて! 誰が食わせてやってると思ってるんだ!」
気持ちを切り替えて目標の絵画の前で急停止しながら、ロビンはメイに呼びかける。
「はいはい、野蛮で猫被りがお上手なご主人さま。お菓子を盗むのはロビンだけど、おやつの鉄クズを買ってくださるのは伯爵さまよ? 伯爵さまに食べさせてもらってまーす」
「こいつ……」
揶揄するメイを無視して、ロビンは手際よく絵を壁から降ろす。そして、額の中身を素早く入れ替えた。
ロビンはキースの絵を丁寧に脇に抱える。
出来るだけ傷まないように扱いたい。この絵だって、偽物かもしれないが立派な絵画だ。こんなに素晴らしい作品を傷つけるわけにもいかなかった。
「何者だ!」
直後に回廊の端から声がする。
あのメイドがあんな大声を上げるから……頭を抱えたが、もう遅い。ロビンはとっさに、声のしない方へ走ろうと踵を返した。
「逃げられんぞ!」
が、反対側からも声が聞こえる。挟み撃ちにされてしまった。ロビンはその場に立ち止まり、舌打ちした。
回廊の両側から、兵士たちがじりじりと詰め寄る。
絵画の保存状態を考えて、回廊には小さな明り取りの窓しか存在しない。ガラスの窓を蹴破って外へ出ることは出来そうになかった。
左右を衛兵、後ろを壁に囲まれ、退路は断たれている。
逃げ場を失った盗人を捕まえようと、兵士たちが余裕の表情を浮かべた。
「メイ」
けれども、笑っているのはロビンも同じだった。
短く妖精に促すと、絵を一旦、足元に置く。
反撃か。兵士たちが息を呑み、身構えた。
「仕方ないわねぇ。二枚もらうわよぉ?」
メイが甘い声でおねだりし、その姿を変える。
「しょうがない」
「やったぁ♪」
ロビンが嘆息し、右手をかざした。
そこに、メイが変身した鋼鉄の塊――大型の金槌が現れる。ロビンはそれを軽々と受け止めると、両手で勢いよく振り回した。
壁の砕かれる鈍い轟音と激しい土煙、そして、驚いた兵士たちのどよめき。全てが一緒になった音をも粉砕して、ロビンは王宮の壁を一撃で破壊していた。
北回廊の壁に呆気なく風穴が開いた。
ロビンはなにが起こったのかわからず伏せる兵士たちを横目に、絵を抱えて悠々と穴に足をかけた。
「悪いな。マトモにやり合う気は最初からないんでね」
応戦すれば、他の兵士たちの到着を許してしまう。ここは早々に戦線離脱するのが先決だ。
力技で壁を穿ち、ロビンは颯爽と王宮を飛び出した。
セドリックに剣を教わったことがあるが、どうにも、自分には合わない。一応、人並み以上に扱える自信はあるが、もっと豪快な方が好みだった。
エリザベスではなく、ただのリズとして下町で暮らしていた頃。男の子との喧嘩に負けるのが嫌で、丸太を振り回していた名残かもしれない。
まあ、あのときは、突然丸太を振り回した怪力少女を恐れて、誰もなにも言わずに負けを認めてくれたのだが。
「ほんと、ロビンったら力持ちで野蛮ねぇ」
「誰のせいだと思ってんだ?」
「てへ☆」
元はと言えば、物心つく頃にメイと出会ったのが根源ではないか。
遊んでいると、ことあるごとに重い鉄製品に化けられていては、自然に筋力トレーニングしているようなものだ。お陰で、メイが変身出来るものなら、だいたいは持ち上げられるようになった。
メイいわく、一応は普通の鉄よりも、三割ほど軽くなってはいるらしい。
庭木に飛び乗り、手入れされた芝生の上に降りる。
見上げると、王宮の窓から使用人が何人か顔をのぞかせ、「ロビン、素敵よー!」などと黄色い悲鳴をあげている。
先ほどのメイドの仲間か。本当に面倒くさくて、うるさい。というか、王宮で堂々と盗人を応援して処罰されないものかと心配になるレベルだ。
まあ、表向きは彼女が衛兵を呼び寄せたようなものなので、不審者に対して声を上げていたと言えばいいのか?
嘆息していると、庭の向こうからも兵士が駆けつける。本当は穏便に事を運んで帰りたかったのに……ここのところ、静かに仕事を終えたことがほとんどなかった。
ロビンは高くそびえる王宮の壁を越えようと、芝生を蹴る。空気を読んだメイが長い棒へと姿を変えた。
そのまま棒を地面に突き刺し、軽やかに跳躍する。長い棒がしなり、ロビンの身体は空中に飛び上がった。
「そこまでだ、盗賊君。グッド・イーブニング。そして、グッバイ! このシャーロック・アボーンズが出席する社交場にノコノコとやってきたのが運の尽き。今日こそ、貴様を捕えてみせる!」
「きゃー! シャーロックさま素敵ですわ! 愛しすぎて、フロル……あぁん。だめ、そこは、ダメ、ですわッ!」
絶妙なタイミングを見計らって、壁の上に影が現れる。
馬鹿、じゃなくて、シャーロックは妖精フロルに出してもらった花吹雪の中でポーズを決めながら、高らかに宣言した。
シャーロックは薔薇の花を口にくわえ、ロビンが飛び上がった軌道上に立ち塞がる。そして、腰に帯びた剣を抜こうと手をかけた。
「さあ、盗賊君。いざ、勝負――ぐへぁッ」
「邪魔だ、どけ! あと、怪盗だって言ってんだろ!」
飛び上がったロビンの踵が、シャーロックの顔面に吸い込まれる。
予期せず顔を蹴られて、シャーロックはそのままバランスを崩し、壁の向こう側へと落下していく。彼のあとを追って、フロルが「あぁっんッ! シャーロックさまぁぁあああ!」と泣き叫んだ。
「ねえ、あの馬鹿いつもなにしに来てるのかしらねぇ?」
「わざわざ蹴られに来るあたり、重度のマゾヒストなんじゃないか?」
「勝手にロビンの足元にやって来たわよね」
「踏むつもりは、一割程度しかなかったんだがなぁ」
無事に壁の上に着地して、ロビンは三つ編みにしたストロベリーブロンドを振り払う。
そして、月下の街へと、颯爽と走り去った。
今夜も街を騒がせながら、少女が駆ける。
油絵具独特の匂いが部屋に充満し、キャンバスに次々と色が乗せられていく。
燭台に灯された光が揺れ、左右で色の違う瞳が明暗を吸い込む。
わずかに視線をあげると、アトリエの窓から、月明かりに照らされる中庭が見えた。
「君は嘘のつけない男だったね。――僕とは違って」
絵に命を吹きこみながら、妖艶な唇が淡々と語る。
だが、その言葉を聞く相手はいない。誰もいないアトリエに、自嘲めいた声だけが響く。
キースは自分の声が誰にも届かず、酷く無意味だということを理解している。それでも、彼は敢えて語りかけ、暗がりの中で皮肉っぽい笑みを湛えた。
「なのに、どうしてなにも語ってくれない」
淡々と、無表情で紡がれる言葉。
しかし、その裏側で――怒りでも、哀しみでも、寂しさでもない。ただ、疑問と焦燥に駆られて、キースは筆を動かした。
「この絵は、とても正直なのに」
声は誰にも届かない。
ただ静かに、キャンバスに鮮やかな蒼が置かれていく。
† † † † † † †
街では、新聞屋が号外を発行し、道行く人々に売りつけている。
そんな市井の様子を余所に、王宮では盗人に侵入されたことでパニックになっていた。
北回廊にあったウィリアム・エイムズの絵が盗まれた。
それも、同じエイムズ作の絵画と入れ替えられたのだ。王宮の命令を受けて、リンディン市警騎士たちが盗まれた『舞踏』の在り処を探している。
街では、敢えて絵を入れ替えて王族を欺いたロビンの行為と鮮やかさに賞賛の声が上がった。これほど、王族の権威に泥を塗った事件は今までになかっただろう。
物見好きな貴族たちは何かと理由をつけて、盗みのあった現場を見ようと詰めかける。彼らは入れ替えられた絵を見ようと、壁の壊された北回廊を好奇の目で見ていた。
その中の一人に、アルフォード・ドハーティ侯爵の姿もあったという。
自分が贔屓にしていた画家の絵が絡んだ事件に、侯爵も興味を示したのだろう。
だが、侯爵は入れ替えられた絵を見た瞬間に顔色を変え、すぐに屋敷へ帰る馬車に飛び乗ったらしい。
まるで、なにかに怯えているようだったと、目撃した者は言う。




