5.画家キース・グレイヴ
十五号のキャンバスを額から取り外し、キースは絵を観察する。
決して大きくはない肖像画だ。
暗く塗られた画面の中央で、若い女性が微笑んでいる。
深くて鮮やかな蒼いドレスが目を惹く逸品だった。砕いたラピスラズリが顔料に用いている。肌は柔らかで温かみがあり、瑞々しい生気を感じさせた。
しかし、ところどころ筆が走ったような跡が残り、ランカの作品らしくない。デッサンも微妙に狂っており、あとから慌てて描き足したような感が否めなかった。
誰かが絵を上から描き加えたに違いない。
「絵具の状態から、描かれて五年から十年以内と言ったところですね。上の絵を除去するのは難しくないと思います。油絵具は完全に乾くまで十年から二十年かかるものもありますし。この絵は、まだ乾ききっていないから、比較的剥がしやすい」
キースはそう言って、キャンバスを裏返す。
彼の一挙一動を視線で追い、リズは唇を曲げた。
「元通りの絵になるのか?」
「なります。ただし、上の絵は削り取ってしまうから、もう戻すことは出来ません」
「上の絵に興味はない」
リズが短く答えると、キースはもう一度、絵に視線を落とす。
彼は左右で違う色の目を少しだけ細めた。
「本当にいいんですか?」
「くどい。それよりも、そっちの依頼のことを聞かせろ。いったい、どの絵を盗みたいんだ」
わざわざ確認したキースの問いを一蹴する。
相手のペースで話が進むことに苛立ちを覚えずにはいられなかった。キースはまだなにかを言いたそうだったが、リズは聞き入れるつもりなどなかった。
――君に盗んでほしい絵があります。
怪盗ロビンの正体を口外しないことと引き換えに、受けなければならない盗みの依頼。
今まで、リズは自分の判断で盗む品も、狙う屋敷も決めていた。こんなことなど初めてだ。
もしも、意に沿わない依頼の場合、どうするべきか。
ロビンは王侯に反抗するために盗みを働いている。仮に、その信条に反する盗みの依頼をされた場合……。
なかなか本題を切りださないキースに苛立ち、リズは部屋を見回した。小さな中庭を見渡せる、彼のアトリエだ。
広い窓の取られた部屋には絵具や、顔料となる素材などが整然と並んでいる。壁には、のどかな湖水地方の風景画がかけられていて、部屋の印象も明るい。
リズは壁にかかった絵に視線をやる。
キースが描いた絵だろうか? だが、端に書かれたサインを見て違うと悟る。
壁にかかった絵には、「ウィリアム・エイムズ」とサインがしてあった。
エイムズは最近人気の若い画家だと聞いている。
一枚くらい所有していても不自然ではないが、それにしても、自分のアトリエに他人の絵を飾るものだろうか。
リズは部屋をもう一度見渡したが、これ以外の絵は見当たらない。
「綺麗な絵でしょう?」
キースがリズの横に立ち、絵を眺める。
横から見ると、スッと通った鼻梁や睫毛の長さが美しく際立つ。こんな顔で甘い言葉を吐かれたら、並みの女性は心がとろけてしまうかもしれない。
金の右眼は眼帯に隠れ、見えなくなっていた。
「ウィルは――ウィリアム・エイムズは僕の友人だった」
キースは優しげな瞳で絵を見て、静かに言った。
その微笑は初めて会ったときに見せた作り物ではなく、一抹の切なさを帯びた、本物だと直感する。柔らかさの中に切なげで、複雑な感情が読み取れた。
彼は絵を愛でるように、そして、それを描いた友人を想うように、灰色の視線を向けている。
本当に絵が好きなのだと語っているような眼に、リズは過去を重ね合わせそうになった。
あの頃、身近で見ていた表情と同じだ。今は思い出の中に霞んでしまったが、心が深く刻み込んでいる、あの頃。――しかし、今は関係ない。
リズはかぶりを振って、思考を切り替えた。
「盗んでほしいのは、彼の……ウィリアム・エイムズの絵です。王宮の北回廊にある」
「王宮の?」
「はい」
王宮の北回廊は名画が飾られることで有名だ。
そこに絵を置いてもらえた画家は、それだけで名が売れると言ってもいい。以前はランカの絵も何枚か飾ってあった。
「北回廊にある、ウィリアム・エイムズの『舞踏』を入れ替えてほしいんです。本物の絵に、ね」
「本物? まさか、王宮にあるのが偽物だってのか?」
「そうです。あそこにある作品は偽物だ。それなのに、今もずっと飾られ続けている。エイムズにとって、あの絵は汚点でしょうね」
キースはあらかじめ用意していたセリフを読みあげるように、スラスラと言葉を紡ぐ。
リズはどれが本当の彼の顔なのかわからず、困惑した。
「どうして、言い切れる」
「あの絵を描いたのが僕だから」
「あんたが?」
「そう」
キースはゆっくりとした口調で続けた。
「僕と違って、エイムズは早いうちから画家として名前を売っていました。一方、僕は画家としては少しも芽が出ない凡人。事業に成功するまで、名ばかりの爵位を持った貧乏貴族でね。生計を立てるために絵を描いても売れませんでした……だから、ときどき、エイムズに頼んでいたんですよ。僕の絵にサインをしてほしいとね」
それは画家の間では、よくある話だ。
売れる画家が売れない画家を助けるために、絵にサインをするのだ。ときどき、名画の作者が入れ替わっており、評価に困るという話も聞いたことがある。
エイムズのサインが入っていれば、たいていの絵は売れる。
キースは、そうやって自分の絵をエイムズの名前で売っていたのだろう。
「その一枚が王宮に買われて、飾られてしまいました。僕が描いた絵だと知られないまま。だから、君に絵を入れ替えてほしいんです。エイムズが描いた本物の『舞踏』と」
「その絵があんたの絵だっていう証拠はあるのか?」
「ありませんね。僕の証言だけでは信用なりませんか?」
「よくわかっているじゃないか。あんたは胡散臭い」
「それは心外だな」
冗談なのか、本気なのか。
キースは笑顔を作りながら、リズから視線を外す。
「それは、エイムズの希望なのか?」
胡散臭い話だ。
そう思いながらも、リズはキースに問う。
「……どうかな。少なくとも、僕の希望ではある」
エイムズは今ではアルヴィオンを代表する人気画家だが、ここ一年間、あまり活動の話を聞かない。スランプに陥ってこもっていると、噂で聞いたことがあった。
キースの話が本当なら、エイムズのスランプの原因は偽物問題なのかもしれない。キースの絵が自分の絵として王宮に飾られ続けることで、思い悩んでいるのではないか?
この屋敷に一枚もキースの絵がないのも、そこに原因があるように思えてならない。
もしかすると、自分の絵を嫌悪しているのではないか。そんな気さえした。
キースの名が通っているのは、飽くまでも修繕家としてである。
画家としてのキースについて、リズはなにも聞いたことがない。
「あんたが描いた絵を、エイムズが描いた本物の絵と入れ替えればいいんだな?」
リズは自然と口を開き、問いかけていた。
初めて素直に口を聞いたリズに、キースは一瞬、不思議そうな表情を浮かべる。だが、すぐに嬉しそうに頷いた。
ロビンが狙うのは王侯など権力者だ。
まだ王宮に忍び込んだことはないが、狙う相手としては不自然ではない。王宮で絵の入れ替えに成功すれば、街の新聞屋はこぞって記事を書くだろう。
それに、偽物を本物に入れ替えるのだ。ただ盗むのではなく、本来あるべきものに入れ替える仕事は、別段悪い気もしない。
貴族であるキースの依頼という点は矛盾するかもしれないが、エイムズのためだと思えばいい。それに、キースは王党派の悪徳貴族とも毛色が違う。
「引き受けてくれますか?」
「ああ、望み通り、ウィリアム・エイムズの『舞踏』を入れ替えてやる。その代わり、あたしの依頼も受けてもらうからな。これで満足か?」
少々乱暴に言うと、キースが人の良い笑みを浮かべる。
「約束しましょう」
交渉成立だ。