3.絵画修繕家キース・グレイヴ
ブラシで入念に梳かしながら、しなやかなストロベリーブロンドをまとめあげていく。
鏡の中で瞬く翠色の瞳を愛らしく見せるために、瞼に色を乗せる。形よく整った唇には、淡い色の紅。香水は、控えめなスズランを吹きかけた。
アルヴィオン淑女らしい清楚な群青のドレスを身にまとい、リズは姿見に己を映す。
笑みを浮かべて佇む姿は、貴族令嬢に相応しく品がある。
リズはゆったりと屋敷の中を歩く。
使用人が布に包まれた一枚の絵画を手渡してくれるた。
リズは絵を大切に気遣いながら、エントランスで見送るセドリックを振り返った。
「それでは、行ってきます。お養父さま」
最高に爽やかな笑みを貼りつけて、リズはふんわりとお辞儀する。そして、屋敷の外に用意してある馬車へと足を運んだ。
背後から、「ちゃんと猫被れるんだから、いつもパパに優しくしてほしいなぁ」とかなんとか涙声の愚痴が聞こえるが、気にしない。
外出専用の猫被りを家でもしていたら、疲れて死ぬ。
リズはこの六年で身につけた淑女の技を駆使して、上品な口調で馭者に馬車を出すよう頼んだ。
六年前まで、リズはアルヴィオン王国西部の小さな町で暮らしていた。
しかし、十歳になったある日、突然、王都リンディンからセドリックが迎えに来たのだ。
――君の父上に頼まれた。今日からは、私をパパと呼んでくれて構わないよ。
信じていた父は、結局迎えに来てくれなかった。
薄々わかっていたことだが、そのときは絶望していたと思う。幼いリズは、人懐っこく笑う新しい養父を、冷めた視線で見上げたのを覚えている。
おまけに当時のセドリックは二十二歳で、父の親友の伯爵だと言われても説得力がなかったので、「知らない人についていくなって、養母に言われてるんだ。あばよ、変質者」とか言い返した気がする。当時のセドリックが爵位を継ぐには若すぎることくらいは、田舎で育ったリズにも理解できていた。
セドリックは町娘(しかも、ガキ大将やボスの類)と同じように育ってきたリズに、礼儀作法を教えてくれた。
だが、それを普段から使えとは強要しない。他人からそれなりに見えていれば、なにも文句は言われなかった。
最低限のことさえ守れば、好き勝手が許される。
反抗して高い調度品を壊しても、嫌がらせをして階段から突き落としても、セドリックは怒らずにリズを自分の娘として育ててくれた。たいていのことは目を瞑ってもらえる。
あのときも、――。
「んぅ。ねぇ、リズ。お腹空いちゃったわ。お菓子持ってなぁい?」
馬車の隅から甘ったるい声が聞こえる。視線を巡らせると、小さな妖精がビロードの張られたソファに蹲っていた。
黒鋼色の瞳をウルウルと潤ませるメイを見て、リズは猫被りも忘れて息をつく。
「お前、なにしてるんだよ。屋敷の外にはついて来るなって、いつも言ってるだろ」
「だぁってぇ。その絵が良い匂いするんだもの。おいしそう……」
「美味しそうって……食べるなよ?」
「だめ?」
「駄目」
メイは甘い視線でリズを見上げた。
鋼鉄の妖精はせわしなく羽を動かし、フワフワと誘われるように、布に包まれた絵に近づく。
隙あらば絵具に使われている上質なラピスラズリを舐めとろうとしているメイを、リズは指で弾いた。
メイは貴金属だけでなく、宝石も大好物だ。本当に油断ならない大食妖精である。
「少しくらいイイじゃないのよ。上の絵はいらないんでしょ?」
「黙れ。これはお前のために盗んだ絵じゃないよ。昨日、金貨二枚やっただろ?」
「あんなの、すぐ食べちゃったわよ」
メイは悪びれもなく言うと、服の中から鉄クズを取り出して、美味しそうに頬張った。口の中からパキッパキッと異様な音が聞こえなければ、可愛らしい妖精の食事だ。
「太って飛べなくなっても知らないからな」
「そのときは、リズの肩に乗ることにするわ」
「あたしを肩凝りにする気か」
「大丈夫よ。リズ、力持ちだもの。昨日の夜も、すごかったわよ~?」
「……そりゃ、どうも」
リズ――エリザベス・バートンが初めて「怪盗」を名乗ったのは、一年前のことだ。
マスクを身につけ、夜の街を疾走する影がリズだと知って、セドリックは流石に驚きを隠せなかったらしい。
しかし、彼はなにも言わずに、リズの盗人行為を許している。あろうことか、ロビンが街に撒く金貨の鋳造にも協力してくれた。金貨に刻まれた猫の紋章は、セドリックの趣味である。
「これからも、アタシのお菓子をいっぱい稼いできてね☆」
「別にメイの食費を稼ぐために怪盗やってるわけじゃないんだけど」
馬車が止まると、リズは盗んだばかりの絵を抱えて降りる。
「お前は、ここにいろ」
「ええ~。いいでしょ? ねぇ、隠れてるから」
「ダメだ」
リズは後をつけてくるメイに口酸っぱく言い、馬車の扉を閉めた。
盗んだ絵は、描きかえられていた。
正確には、元々あった絵の上から絵具が上塗りされ、別の作品になっていたのだ。エドワード・ランカが描いたオリジナルの作品を誰かが改変している。
元の絵でなければ、意味がない。
上に塗られた絵具を落とさなければならなかった。
そのために、リズはここへ来たのだ。目の前に建った立派な屋敷を見上げ、唇を毅然と結ぶ。
完全修繕家と噂される画家キース・グレイヴ。
どんなに傷んだ絵画でも、完璧に元の姿に戻すと言われる修繕家だ。
本来、絵画の修繕作業は完全とならない場合が多い。絵具のひび割れや、剥落、破れを目立たなくすることが出来ても、完全に直すことは叶わないのだ。
修繕に蜜蝋を使ったがために、作品本来の色合いを失ったり、逆に傷みが進行したりすることも少なくなかった。場合によっては、修繕に当たった画家が新しい色や絵を継ぎ足して、別の作品に仕立ててしまうこともある。
しかし、キース・グレイヴという男は、いかなる絵画も完全に修繕するという話だ。
爵位は男爵。
最近、王宮に召されることを許された新興貴族だという。趣味で絵画の修繕をしており、その腕は貴族の間では評判だった。
そんな修繕画家なら、きっと、この絵も元通りにしてくれるはずだ。リズは期待をこめて、絵を見下ろす。
「うちにご用ですか? お嬢さん」
不意に、声をかけられる。
低くてしっかりしているが、歌うように美しくて柔らかい男の声だった。リズは立ち止まり、声の方を振り返る。
そこには優しげな微笑があった。
星砂のように煌めく金色の髪が、白い額に落ちる。妙に艶っぽいが、決して女っぽくない微笑が印象的な青年が立っていた。糊の効いた焦げ茶の上衣や、翠のタイ留めからは趣味の良さがうかがえる。
なによりも印象的なのは眼だった。
やや伸ばされた金髪の下で、右眼は眼帯に覆い隠されている。左は、不思議と惹きこまれる灰色の瞳が柔らかな笑みを描いていた。
どこか神秘的な雰囲気をまとった青年を見ていると、まるで妖精と対峙したときのことを思い起こしてしまう。
と言っても、馬車の中に隠れているメイは、神秘的というよりも憎たらしい小悪魔だが。
「……お屋敷の方ですか?」
リズは、しっかりと外出専用の猫被りを忘れず、青年に問う。すると、彼は頭に乗せていた帽子を取り、慇懃な動作で一礼した。
「キース・グレイヴと申します。ご用なら、中へどうぞ」
彼が、キース・グレイヴ。予期せず目的の人物に会って、リズは面食らった。
キースは颯爽と屋敷の前に歩み寄ると、扉に手をかける。そして、ゆっくりとリズを振り返った。
「僕に用なのでしょう?」
キースはそう言いながら、視線でリズの抱えた絵画を示した。
屋敷の前で絵を持っていれば、彼を訪ねてきたということは察しがつくのだろう。
リズは思わず息を呑み、返答が遅れてしまう。
「そうです。絵画の修繕を依頼したくお伺いしました。エリザベス・バートンと申します」
「では、レディ・エリザベス。こちらへどうぞ」
キースは蜜のように甘く、悪魔のように美しい微笑で、リズを招き入れた。