25.ウィリアム・エイムズの『磔刑』
キースにささやかな仕返しをしたことで、ロビンは大変満足していた。
市警騎士から奪った馬で、リンディンの路地を駆ける。怪盗の仕事で騎乗することはないが、足手まといの詐欺師を連れていては、いつものように身軽に動くことも出来ないので仕方がない。
「適当な場所で乗り捨てるぞ。馬だと目立つ」
「同感ですね。女性に手綱を握られて相乗りなんて、いつまでも続けていたくありませんし」
「そうか。やっぱ、現地まで馬で行くか」
「嫌がらせを挟むのは、そろそろやめてください」
そんな会話をしつつも二人は適当な場所で馬を乗り捨てて、そのまま闇に紛れるように、聖メアリ教会を目指した。
聖メアリ教会は街に存在するいくつもの教会のうちの一つだ。聖母メアリを崇める教会で、孤児院も経営している。最近まで寂れていたが、ドハーティ侯爵の寄付で大きくなった。
聖母メアリは、全ての母。
この地を創造し、アルヴィオンの祖王リチャードを産み落とした聖なる女神として、信仰されている。祖王が迫害によって磔刑にされて死したときも、彼の復活を手助けしたと、聖典には語られている。
ランカ王朝は、その直系の王として人々から慕われていた。
ヨースター王家もランカ家の縁戚に当たるので、必然的に王族は聖母の血を引いていることになるだろう。
もっとも、繰り返される政略結婚などで血は薄れたし、聖典に書かれていることが全て真実だと信じる人々も、今では少なくなっている。
「メイ、頼む」
教会に着き、ロビンはメイを鍵に変身させた。
流石に、教会の壁を破壊して入るわけにもいかない。人が集まれば中で探れなくなってしまう。
最近改築されたばかりの教会内は、街の大聖堂などに比べると広くはない。
だが、一歩踏み入っただけで足音が幾重にも木霊し、共鳴する空間は異質な空気を感じた。外よりもひんやりと冷たい空気に、ステンドグラスの光が透き通る。
「どうだ、見えるか?」
正面に位置する祭壇の奥へと、キースが駆ける。
内陣に飾られているのは聖母メアリの像、その後ろには、エイムズが描いた磔刑に遭う祖王の絵画があった。
キースは黙って眼帯を外し、金色の眼を細めて絵を注視する。
「……なにも描いていない」
アテが外れたのだろうか?
キースは聖堂に飾られた他の絵も注意深く観察するが、なにも見つからないようだ。
「ねぇ、ロビンぅ。ここ、お菓子の匂いはしないわよぉ?」
メイも教会内を嗅ぎ回りながら、唇を尖らせた。
ロビンは改めて、教会を見回す。
内陣に飾られているのは、聖母像とエイムズの『磔刑』だ。他に絵は三枚あるが、どれも教会に古くからあったもので、エイムズの作ではない。
教会の両脇を飾るのは大きなステンドグラス。
アルヴィオン教会ではありふれた題材を扱ったもので、祖王リチャードと敬虔王ヘンリ、女王メアリ、獅子王チャールズ、戦王トーマスなど、誰でも知っている歴史上の人物がモチーフになっている。
「どこだ……!」
キースが珍しく取り乱し、悪態をついた。
そんな彼を見るのは初めてで、そこには嘘偽りは感じられない。本気で焦っているのだと思った。
「本当にエイムズを助けたいんだな」
「絵がわからない君には関係ありません」
絵が、わからない。
その言葉にロビンは眉を寄せた。
結局、自分にはわかっていない。
どうして、父が肖像画を描きかえたのか、わかっていなかった。
キースの言葉を嘘と片付けることは容易い。彼は詐欺師だ。
しかし、絵に向き合う姿や、こうして必死にエイムズの手掛かりを探す姿まで嘘には見えない。だからこそ、ロビンにあの絵を描きかえたのが父自身だと告げたのではないか。
だとすれば、そこになんの意味があるのだろう。
あの絵は父が描いた、娘への愛。ロビン――エリザベス・ランカが愛された証。その絵を描きかえなければならない理由。
愛されていなかったのでは。自分は捨てられたのでは。
ふと、頭の端にエイムズが描いた天井画が蘇る。
彼は絵の下にキースへの伝言を書いた。キースにしか知られたくないことを知らせるために。
下に描かれたものを、隠すために――。
――なにがあっても、私はリズを愛しているよ。リズを守る。
そう言って笑った父の顔が、嘘だっただろうか?
愛していなかったら、あんなに優しい表情で笑うだろうか?
「そうか……」
どうして、考えなかったのだろう。都合の悪い事実を嘘だと決めつけて、自分は考えることをやめていた。
少し考えれば、わかることだったのに……。
「だいたい、伝言がおかしいのよぉ。磔にされたのは、祖王さまでしょぉ? どうして、聖母さまなのよぉ?」
顔を上げたロビンの周囲を、メイが飛びまわる。
「それもそうだな」
メイの苦情めいた言葉を聞いて、ロビンは再び意識を伝言へと集中させる。
「――――ッ」
前に踏み出すと、床の凹凸に足を引っ掛けてしまった。
わずかに身体を傾かせると、とっさにキースがロビンを支える。上品な上衣から、かすかに油絵具の香りが舞い上がった。
視線を持ち上げると、すぐそばに神秘的な色合いを宿した灰と金の瞳がある。
一瞬、目のやりどころに困って固まると、キースはすぐに人好きのする爽やかな笑みを浮かべた。
「怪盗さんでも、転ぶんですね」
「黙れ」
まるで、さっきの仕返しと言わんばかりの笑みだ。
ロビンはばつが悪くなって、キースを突き飛ばすように身を剥がした。
「よかったら、どうぞ。その格好は……流石に年頃の令嬢とは思えない」
キースはボロボロになったロビンの着衣を指して、自分の上衣を脱いだ。
そういえば、フロルにやられたままの恰好で、破れた服から白い肌が露出していた。非常にきわどい。ロビンは気まずく思いながらも、キースから服をひったくった。
「礼は言わないからな」
ロビンはキースから顔を逸らしながら、先ほど自分が躓いた足元を確認した。大理石が一部欠けている。大幅な改装工事を行って綺麗になったはずだが、ここは手つかずなのだろうか。
床を区切るのは正方形の大理石だ。ところどころ、モザイク画のタイルで彩られており、古いながらも伝統を感じさせた。
その上に、明るい月光によって照らされた祭壇の聖母と、ステンドグラスの影が浮き上がっている。
胸の前で両手を合わせる聖母に重なるステンドグラスの格子模様が、まるで檻のように感じられた。
一つひとつは全く別物なのに、重なると印象が変わるものだ。




