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2.伯爵令嬢エリザベス・バートン

 

 

 

 ――リズは良い子だね。さあ、お行きなさい。


 そう言って笑った父の顔を、リズは今までずっと忘れなかった。

 たぶん、これからも、ずっと忘れないと思う。


 深々(しんしん)と降り積もる雪の景色が本当に白くて、白くて……頭から離れなかった。

 知らない人に手を引かれて、大好きな笑顔から遠ざけられる。

 五歳だった。

 もっと泣き叫んで暴れてもよかったかもしれない。わがままを言って、大人たちを困らせるべきだったのかもしれない。

 けれども、リズはそうしなかった。いや、出来なかった。


 意味がないとわかっていたから?

 騒いではいけないと理解していたから?

 そうやって育てられてきたから?


 違う。


 きっと、違うんだ。

 リズは雪の上を歩きながら、ただ後ろを振り返った。優しい笑みを湛える父を翠の眼に焼きつける。冷たい風が頬を刺し、流れるストロベリーブロンドを乱した。

 真っ白い雪に塗り潰された背景はおぼろげで、父の顔だけがより鮮明な色合いをしているような気がした。


 ――お父さま。


 大好きだった。そして、愛されていることも知っていた。

 自分は捨てられるわけではない。ちゃんと、愛されているんだ。だから、大丈夫。きっと、迎えに来てくれる。

 お父さまは、ちゃんと迎えに来てくれる。

 そう思いこませてくれる優しい微笑。真っ白な雪に浮かぶ優しさと愛情を眼に焼きつけながら、リズは声もなく唇を噛みしめて泣いた。


「リズ」


 優しく語りかけてくれる父の温もりは、今でも忘れない。

 きっと、これからも。


「リズ、愛しているよ」


 忘れない。


「パパの愛しいリズ。甘い髪の可愛いエリザベス」


 優しい声が、リズを眠りの底から引き上げるように(いざな)う。

 リズは軽く閉じた瞼を震わせ、寝返りを打った。まどろみの熱が心地良く、意識がぼんやりしている。このまま二度寝してしまいたかった。

 だが、間近に只ならぬ気配を感じて、大きな瞳をパチリと見開く。


「リズはお寝坊さんだな。いい加減に起きないと、チュゥしちゃうぞ~?」

「……いい加減にしやがれ、このクソオヤジ!」


 翠の瞳に映り込んだ顔を見て、リズは即座に身を起こす。

 そして、寝台の傍らで興奮して変態的な表情を浮かべている青年の顔面に拳を叩きこんだ。

 少女の鉄拳は、相手の顔のど真ん中にヒットする。

 殴られた青年は「ぶべらっ」と泡を吐きながら、後ろに仰け反りかえった。目覚めの一撃としては、大変に気持ちの良い手応えである。


「痛いよ。パパのこと殴っちゃいけませんって、いつも言ってるでしょ!?」

「変態オヤジを撃退する権利を主張する!」

「変態じゃないし、まだオヤジって言われるような年齢じゃないし!?」

「変態だし、もう充分、オッサンだと自覚しろ!」


 寝台にしがみついて喚く養父――セドリック・バートン伯爵を睨んで、リズはため息をついた。

 セドリックはニコリと笑うと、寝台の傍らに置かれた台車を示す。


「まあ、ほら。可愛いリズのために、朝ごはん作ってきたよ~? マフィンとスコーン、どっちがいい?」

「……スコーン」

「じゃあ、紅茶はダージリンでいい?」


 ぶっきらぼうに朝食を選ぶと、優しい声で返される。


「……うん」

「はい、これ新聞ね」

「……ありがと」


 朝刊を差し出しながら、セドリックが人懐っこく笑う。

 伯爵のくせに、使用人の真似事までして構ってくるセドリックを煩わしく思いながら、リズは新聞をひったくった。


 セドリックは夜空のように澄んだ黒眸を柔らかに微笑ませる。そして、台車に乗せていた紅茶を注いで、リズの前に出した。

 彼女の好みに合わせて、砂糖は少なめで、ミルクたっぷりだ。

 貴族のくせにいちいち気が利いていて、なんだか食えない男だ。そして、悔しいが紅茶も文句なしに美味しい。芳醇で上品でありながら、優しい香りが爽やかな朝に相応しかった。


 エリザベス・バートン。

 セドリックの屋敷に引き取られてから、リズはそう名乗っている。

 彼とは親子ということになっているが、血の繋がりはない。要するに、養父である。

 リズが十六歳、セドリックが二十八歳なので、どちらかというと、親子よりも兄妹の感覚に近いかもしれない。


 この歳若い伯爵は「ワケアリ」のリズを六年前から引き取って養ってくれている。

 それはありがたいことだし、感謝もしていた。勿論、彼にも事情と思惑があることはわかっている。それでも、セドリックに恩があるのは確かだ。

 だが、それとこれとは違う。


「さげたカップにさり気なく間接キスすんな、クソオヤジ!」


 セドリックが白磁のティーカップに口をつけようとするのを阻止し、リズは息巻いた。

 油断も隙もない。


「パパの執事(バトラー)っぷり完璧でしょ? ご褒美もらってもいいと思うんだよね」

「執事は雇用契約以上の見返りは求めないぞ、このエロオヤジ!」

「だから、そんな汚い口を聞かないで、パパと呼んでくれたまえよ」

「呼ばん!」


 リズが猛烈な勢いで怒るので、変態養父は寂しげにツーンと唇を尖らせて、指先で壁を引っ掻きはじめる。

 その姿は、とても伯爵家の若当主(二十八歳、独身)には見えない。

 だいたい、使用人の真似事をしているのだって、「リズの目覚めを見る行為を正当化させたいから」という馬鹿げた煩悩からはじまっているのだ。

 親ではなく、大きな弟の相手でもしている気分になってくる。


「夢の中のリズはもっと優しいのに。パパ~って言いながらいつも抱きついてくるし、膝枕もしてくれるよ。鼻血垂らしたら介抱もしてくれるしさ……リズは、いつから、そんなに反抗的になっちゃったんだい?」

「夢の中の妄想を、現実のあたしに押し付けないでもらえるか? っていうか、夢の中でまで鼻血を噴くのか、貴様は」

「起きたら、本当に血まみれだった☆」

「より悪いわ!」


 リズは再びセドリックの顔に拳を叩きこむ。

 気持ちいいくらい綺麗に決まった、本日二回目の右ストレートを受けて、セドリックが派手に吹っ飛ぶ。実に良い殴られっぷりである。


 バートン伯爵家の養女エリザベスの一日は、こうして幕が上がるのだった。

 

 

 

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