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15.アルフォード・ドハーティ侯爵

 

 

 

 ――『微笑』を描きかえたのは、ランカ自身です。


 暗闇の底から、悪魔のような声が響く。

 違う。そんなはずはない。

 だって、あの絵はリズのために描いてくれたものだから。今でも自分への愛を証明してくれる、唯一の証なのだから。

 リズは思わず手を伸ばし、なにかをつかみ取ろうとする。

 だが、闇に突き出した手は虚しく宙をかすめるだけ。なにもつかめはしない。

 つかみたいものに、届くことはない。あの日の笑顔には、届かないままだ。


「――――」


 暗い闇ばかりが広がる夢から醒め、肩で息をする。

 額には大粒の汗が浮かび、蒼白の肌を滑り落ちた。長いストロベリーブロンドが肌に吸いついて気持ちが悪い。

 視線を巡らせると、誰もいない部屋。

 見慣れない客間の寝台で、リズは独り横になっていた。脇の燭台では蝋燭が燃え尽きており、溶けた蝋が垂れて固まっている。


 寒い。


 汗をかいたからだろうか。

 急に寒さを感じて、リズは寝台の上で身体を丸める。だが、すぐに人肌が欲しいのだと知って、身体を起こす。自分で自分の身体を抱くが、少しも温かくならない。


 父があの絵を描きかえるはずがない。

 そんなことは、リズが一番よく知っている。

 それなのに、キースの言葉に惑わされている自分がいた。


 あんな詐欺師の言うことなど、信用出来ない。

 なのに、


 もしかすると、あたしは捨てられたのかもしれない。


 父の元を離れてしばらくして、こんなことを思ったことがあった。

 エリザベス・ランカという王族は表向きには、死んだことにされている。それは父がリズを守るために施した策であり、一時凌ぎの嘘にすぎない。


 だが、もしも……もしも、政変が起こらずにランカ王家が続いていたとしたら?

 リズはいつ、父の元に帰ることが出来たのだろうか。表向きには死んだことになっている王女など、迎えに来なくても支障はない。

 王子ならともかく、リズは女だ。国王の世継ぎ候補は他にもいた。

 実際、父はただの一度もリズに手紙を寄越さなかったし、会いにも来なかった。存在を隠しているのだから仕方がないと、リズは無理やり自分を納得させていた。


 父が生きていたとしても、迎えに来たとは限らないではないか。


 父と別れた日、密かに感じていた。

 たぶん、父と会うことはない。迎えに来てくれないかもしれない。――それは、暗に父が殺されることを悟っていたから。

 けれども、絵を描きかえたのが父だとしたら……?


 認めたくなくて、都合の良いように解釈した思い出を、本当の記憶だと勘違いして生きてきた?

 リズは本当に愛されていた?


「違う……!」


 違う。そんなはずはない。

 嘘に決まっている。詐欺師の言うことに惑わされるな……!

 リズは自らの肩を抱き、独り唇を震わせた。


「……お父さま……」


 信じてなんていない。

 それなのに、強く否定出来ない自分が虚しくて、酷く弱々しく感じられた。




 何食わぬ顔でモーニングティーに口をつける。

 宿泊した招待客たちが朝食の間に集まり、食事を摂っていた。こんがり焼けたベーコンエッグにマフィン、サラダとマリネが美味しそうな匂いを放っている。


 計らずして、正面に座ってしまったキースを見まいと、リズは美味しそうな料理に集中することにした。

 別に座りたくて、長いテーブルの向かい側に座ったわけではない。

 セドリックがいつものように部屋へ侵入していて、わけのわからないことを言い出すものだから、支度が遅れたのだ。そうしたら、たまたま席がなくてキースの正面に座ることになってしまった。


「どうかしましたかな、エリザベス嬢。気分が優れないようですが、昨夜は眠れませんでしたか?」


 主催であり邸の主であるドハーティ侯爵がリズに会話を振る。

 リズは得意の猫を被って笑顔を貼りつけた。だが、どうにも笑顔が揮わない。どうしても、無理をしているように見えてしまった。


「お気遣い、ありがとうございます。枕が変わると、寝つけなくなってしまって……」

「おお、それは良くない。言ってくだされば、納得いくものに変えさせましたのに」

「お気遣いありがとうございます。侯爵に甘えてワガママを言うわけにはいきませんから」


 適当に誤魔化すと、何故か隣でセドリックが身を乗り出してくる。


「そうならそうと、パパに早く言っておくれよ、リズ! いつものように甘えてくれたら、腕枕をしてあげたのに!」

「なんと! エリザベスが腕枕をご所望だったとは。何故、このシャーロック・アボーンズに申しつけてくださらなかったのです!」


 ついでに、便乗したシャーロックまで立ち上がる。

 もうこいつら絞め殺してもいいよね?

 リズは唇の端をヒクつかせながら、「自分こそがエリザベスの頭に合う腕をしている」とか言って上着を脱ぎ捨てる面倒くさい馬鹿二人にため息をついた。


「どうしました?」


 ムキになって腕相撲をはじめた馬鹿伯爵と馬鹿子爵を横に、キースが涼しげに笑う。彼は片方しか見えない灰色の瞳でリズを観察していた。

 その表情があいかわらず妖しげな色艶を持っており、見つめた者をドキリとさせてしまう。だが、リズは「厭らしい表情」と片づけることにした。


「泣いていましたか?」


 今更になって、リズは自分の眼が赤く腫れていたことを思い出す。傍目に見ても察することは容易だろう。

 リズは唇を気丈に結び、キースを睨む。

 彼は何事もなかったかのように、朝食を口に運んでいた。


「余計なお世話ですわ、グレイヴ男爵」

「随分と嫌われてしまいましたね。どのように機嫌をとるのがよろしいでしょう?」

「結構です」


 互いに笑みで牽制し合い、当たり障りなく受け答えする。

 その裏側で胸の奥をチクリと刺す痛み。キースの言葉によって、胸の傷が疼くのがわかった。


 ――『微笑』を描きかえたのは、ランカ自身です。


 あんな言葉なんて、信用出来ないのに。


「リズ、ほら見て! パパの方がお肌スベスベで滑らかで気持ちいいよ!」

「なにを。このシャーロック・アボーンズこそが至高! さあ、エリザベス。遠慮なくこの腕に飛び込んできてくれたまえ!」

「いやぁん。シャーロックさま、素敵ですわ! ああっ、いっそのこと、その腕でフロルを抱いてくださいましっ! それだけで、フロルは……フロルは……は、ぁッ♪」

「……お二人とも、朝食の席で見苦しいですわよ」


 捲りあげたシャツの袖から鍛え上げられた上腕を披露するセドリックとシャーロック(加えて、それを煽って昇天する妖精フロル)に、どう突っ込んでいいのかわからなかった。

 他の客もいる席なのに、アルヴィオン紳士として恥ずかしくないのか、こいつらは。


 それにしても……現役で市警騎士団長を任されているシャーロックはともかく、セドリックは普段、身体を動かしているわけでもないのに、それなりに良い体格をしている。リズに殴られても、ギリギリのところで上手く受け身を取っている。

 リズに剣術を教えてくれたこともあったので不思議ではないが、本業は商売のような貴族だ。


「お養父さま、恥ずかしくないのですか」

「パパだって、昔はブイブイ言わせてたんだよ! 見苦しい貧相な身体はしていないだろう?」

「……紳士として恥ずかしくないのかと聞いているのです」

「見て、上腕二頭筋!」

「こっちが恥ずかしいから、しまえ――しまってくださいませ」


 イチイチ貫禄がない、困った二十八歳である。

 そんなやりとりをしている間に、キースが食事を終えて席を立ち上がる。見上げると、彼は人好きのする笑みを貼りつけて、リズの足元を指さした。


「さっき、スプーンを落としてしまったのですが、見当たりません。足元を見てくれませんか?」


 落としたスプーンは給仕の者に拾わせるのがマナーだ。

 だが、ほどなくして、足元をなにかに触れられた気がした。リズは急いでテーブルクロスを捲りあげ、中を覗きこんだ。


「んぅ~。やっぱり、銀食器(シルバー)も美味ねぇ~♪ し・あ・わ・せ☆」


 見慣れた妖精が、とろけそうな表情でスプーンを口に入れて舐めていた。

 屋敷に置いてきたはずなのに、またついてきて……リズは重いため息をつきながら、メイを引っつかんで回収したのだった。




 回収したメイを部屋の中に座らせて、リズはため息をついた。


「だぁってぇ~。二人だけでお菓子を食べようなんて、ズルイわよ」

「心配しなくても、お前の言うお菓子を食べられる人間は一人もいない」

「ふぅん?」


 メイは取り上げられたスプーンを眺めて指をくわえていており、完全に上の空だった。

 どうして、自分の周りには人の話を聞かない自分勝手な人間(と、妖精)しかいないのだろう。リズは自棄になりそうだった。頭が痛い。


「まあまあ、リズ。そう怒らなくてもいいじゃないか。メイは寂しかったんだよね? その気持ちわかるよ。パパもリズに半日会えなかったら泣いちゃうもん」

「お菓子をいっぱい置いていってくれたら、アタシは充分満足よぉ~」


 さり気なく、セドリックの言葉を否定しつつ、メイは服の中から鉄クズを取り出す。小さな口の中でバリバリと音を立てて、鋼鉄が砕かれていった。

 それに拗ねたのか、セドリックはわざとらしく鼻をすすりながら、懐から一枚金貨を取り出した。猫の紋章が入ったロビン金貨だ。

 メイはアッサリと表情を変えて、セドリックの前に飛んでいく。


「わあ。伯爵さまぁ~! だぁ~いすき!」

「ふふふ。見たか、パパの力だ」


 金の力はすごいな、と心中で訂正しつつ、リズは白々しい笑みを浮かべる。


「うふふぅ。やっぱり、伯爵さまの金貨最高。柄も可愛くて、見た目にも美味しいんですもの♪」


 メイは嬉しそうに金貨にかじりつく。彼女は金貨の柄が気に入っているらしいが、リズは少し不服に思っていたりもする。

 金貨を鋳造する当初、セドリックに要求したのは、「ランカ王家の紋章に使われる獅子」だった。だが、セドリックは「そんなの可愛くないから、猫にしちゃった☆」とか平気で言って、猫金貨にしてしまったのだ。

 そのあとに「王家と同じ紋章にしたら、正体バレちゃうよ。それはパパとしても推奨出来ないからね」と、もっともらしい理由を述べられたので、許してやることにしたのを思い出す。

 今となっては、本当にそう考えていたのか、完全なる趣味なのか非常に際どいところだが。


「なんか、このお屋敷。い~っぱい、お菓子の匂いがするから、ものすごぉくお腹空くのよねぇ」

「そりゃあ、ドハーティ侯爵と言えば、アルヴィオン有数の名門貴族だからな……まさか、勝手にいろいろ食ったりしてないだろうな?」


 先ほどの銀食器のこともある。リズはメイに疑いの目を向けた。

 侯爵は名門貴族だが、慈善事業にも幅広く手を出していて民衆の人気も厚い。ロビンが盗みに入る類の貴族ではないのだ。変な行動はしたくない。

 しかし、メイは残念そうに項垂れながら、首を横に振る。


「ううん。探したんだけど、食べてもバレそうにないお菓子は全然なかったのよぉ。大量にあった匂いはいっぱいしてるんだけど、現物がないって言うかぁ? 全部使っちゃったか、どこかに持って行っちゃったって感じ?」


 メイの言葉を聞いて、リズは首を傾げた。どういうことだ?


「装飾品の匂いじゃないのか?」

「ううん。たぶん、塊かなぁ? こういうのは食べちゃっても良いかなぁ~って匂い。一気に運び込まれて、一気に移動させた感じ?」

「あたしには違いがよくわからないんだが……」

「アタシぃ、違いのわかる妖精なのぉ」


 侯爵が資産を持っていてもおかしくはない。これだけの貴族だ。むしろ、持っていない方がおかしいだろう。


「そういえば、昨晩。リズを騙した詐欺師君が礼拝堂で、なにかを探していたよ」


 メイのことなど無視しようと思った矢先、セドリックがサラリと口を挟む。

 彼は得意げな顔で足を組み、もう一枚金貨をもらおうとするメイを指先でチョンと払い除けた。さっきは機嫌を取ろうとしたくせに、酷い伯爵さまである。


「あいつが……?」

「もしかすると、侯爵のなにかを狙っているのかもね」


 キースがなにかを探していた……もしかして、侯爵の財産目当てでなにかを企んでいるのだろうか。

 リズに絵を入れ替えさせたこととなにか関係がある?

 入れ替えたのはウィリアム・エイムズの絵だ。エイムズは侯爵とも関係を持っており、今現在、失踪中。そして、キースはなにかを企んで邸宅の中を探っていた。


 なにかある。


 本当は、もうあの詐欺師には関わらない方がいいのかもしれない。しかし、リズはどうしても許せなかった。

 キースの計画を邪魔してひと泡吹かせてやろう。

 そんなことを考えて、唇が自然と闘志の笑みを浮かべていた。

 なにやら企む養女の姿を見て、セドリックが愉しそうに足を組みなおす。

 

 

 

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