11.詐欺師キース・グレイヴ
――愛しているよ、リズ。
――リズもお父さまが大好き。
リズは自然に笑みをこぼし、絵に手を伸ばす。
あのときの。
あのとき、父が描いてくれたエリザベス・ランカの肖像がここに――。
「ありが――」
「ちょっと、ちょっと! 待ってよぉ、リズ!」
だが、甘ったるい声と同時に、リズの髪が解けて背中に広がる。
ギョッと目を剥くと、髪飾りに化けていたメイが羽をはばたかせていた。
「メイ!」
リズは急いでメイを叱咤し、捕まえようと手を伸ばす。だが、メイは軽やかに羽を動かして避けてしまう。
妖精は訝しげな表情でキースを凝視し、絵の前に飛んでいく。そして、小さな指先で絵の表面をスッとすくい、ついた油絵具を舐めた。
「メイ、なにしてる!」
やっとのことでメイを捕まえて、リズは声を荒げる。
メイは口の中でラピスラズリの顔料入りの絵具を溶かして、顔を歪めた。
「やっぱりぃ! リズ、この絵具、変だわ。昔、舐めさせてもらった絵具と違う味がする! それに、鮮度がよすぎるの。偽物よ!」
絵具の味がわかるのはお前だけだとか、絵具に鮮度もクソもあるかとか、言いたいことはいろいろある。
だが、メイが鉱物の味を間違えるはずがないことも、リズは知っていた。彼女の鉱物に対する執着は異常だ。金が一番好きとは言うが、宝石だって平気で食べる。
「まさか……」
リズは半信半疑で絵の端に指を立てる。
厚塗りされた油絵具。
表面は乾燥しており、指先に抵抗を感じた。しかし、力を入れると絵具がグニャリと変形する。
「乾ききってない」
この絵が描かれたのはリズが親元を離れる直前、十一年前のことだ。
いくら、油絵具が完全に乾くのには十年や二十年の時間がかかると言っても、指で簡単に変形するほど柔らかいはずがない。描かれて間もない証拠だ。
リズは涼しい顔で笑っているキースに強い視線を向けた。
キースは少しも悪びれる様子もなく、愉しげに唇を綻ばせている。
まるで、ゲームかなにかを愉しんでいるような顔だ。
「リズって呼ばれているんですね」
「関係ないこと言ってないで、こっちの疑問に答えてもらおうか」
もしかすると、絵を鮮やかに魅せるために補色しているのかもしれない。けれども、それにしては元の絵に忠実すぎる。
上から描き足せば、自ずと筆の癖が出てしまうものだ。この絵は、父の癖までなにもかも完璧に再現されていると思った。
偽物だとすれば、この絵は何なのだ。
元の絵は、絵具を剥がさなければ現れない。
それなのに、キースはどうやって元の絵を知ったのだろう。
「面倒な妖精ですね」
黙っていたキースが笑ってつぶやいた。
彼は立ち上がると、絵の横に並び立つ。
「確かに、この絵は偽物です。僕が描いた」
「な……ッ」
案外アッサリと認められ、リズは逆に閉口してしまうが、次の瞬間には怒りが頭を駆け巡り、キースの胸倉をつかんでいた。
勢いよく背中を壁に叩きつけられ、キースは少しばかり痛そうに顔を歪める。
しかし、飄々とした態度は改まらない。
「偽物……だと……? でも、この絵は間違いなく……」
「元の絵には傷ひとつつけていません。あなたは元に戻せと言いましたが」
キースは視線をリズから部屋の隅に移す。
メイが布の掛けられたもう一枚の絵の方へ飛ぶ。
「リズぅ、こっちが本物の『微笑』よ! でも……」
布を剥ぐと、そこには修繕前の『微笑』があった。
知らない女性が微笑む、知らない誰かの『微笑』だ。
「修繕作業が、どれだけ負担のかかることか知っていますか? その絵が辿った運命を否定することだと思いませんか? 特に君の場合は、上の絵を剥がして、下の絵を元に戻せと言っている。自分がなにを言っているか、わかっていますか?」
絵は描きかえられていた。
元の絵がどんな想いで描かれたのかを知らない人間に意見される覚えはない。
これはリズの絵だ。
父がリズのために描いてくれた、たった一枚の絵。無駄に美化されて全く似ていない王室向けの肖像画ではなく、忠実にリズそのものを描いてくれた。
リズが愛された証拠だった。
今では、たった一つになってしまった、愛情の証明――。
それを否定するように、絵の中の知らない女性はリズを見て笑っていた。
「絵をどこで見たのか知らないが、知ったような口を聞くな……」
「少なくとも、君よりも僕はこの絵が見えていますよ」
「お前が、この絵のなにを知っている!」
「それは、こちらのセリフだ」
キースは不敵に笑うと、右眼を覆っていた眼帯を外した。
リズの噛みつくような視線を、左右で色の違う眼差しが受けとめる。
「そこの妖精さんなら、わかるんじゃありませんか?」
意味のわからないことを。
リズはキースの意図することがわからず、力任せに相手のシャツをつかむ。
しかし、リズの横で羽を動かしていたメイが驚いたように黒鋼の瞳を瞬かせた。
「……妖精琥珀?」
キースの右眼を見て、メイがつぶやいた。
妖精琥珀――妖精は寿命を迎えると、美しい宝石や装飾品の中に自分の亡骸を隠す。妖精たちが人間の貴族のそばにいたがるのは、自分の亡骸をおさめる美しい宝石を求めるからでもある。
妖精琥珀は、妖精本来の力ほどではないが、不思議な力を持つものもあるらしい。
そういうものは高値で取引されるが、滅多に出てこない、半ば伝説めいた品だ。特に、妖精が激減している現代ではあり得ない存在に近い。
「その眼が、妖精琥珀だとでも?」
「呑み込みが良いですね」
半信半疑で問うと、キースが灰と金の瞳を艶やかに細めて笑った。
まるで、天使の皮を被った悪魔の微笑だ。
眼を妖精琥珀にすることなど、あり得るのだろうか。
妖精が妖精琥珀を作るのは、自分の命を永遠に残すためだ。人間の身体など、死ねば朽ちてしまう。そんなものを選ぶ意味がわからなかった。
「僕には絵画の過去が見えます。その絵がどんな風に描かれたのか。なにがどの順序で描かれ、どんな色をしていたのか、一筆一筆の軌道すらも。知識と合わせれば、その製作工程も容易にわかる。上からどんな絵が上塗りされていようが、原形を留めないほど劣化して破損していようが、ね。そして、僕にはどんな絵も正確に写す腕もある」
だから、キースには本来描かれていたリズの肖像画を見ることが出来たのだ。
そして、その精巧な贋作を作った。
そこまで説明されれば、キースの正体も察しがつく。
修繕と偽って絵画を預かり、完璧な贋作を作る贋作画家。
完全修繕とは名ばかりの詐欺師だ。
贋作を持ち主に渡して多額の報酬を得る。
「ついでに、君に入れ替えてもらった絵……あれも嘘。両方とも、エイムズが描いた絵ですよ」
騙された。
本物の『微笑』を侮辱された上に、臭い嘘話に騙されて、ノコノコと仕事までしてしまった。
怒りを剥き出しにしたリズに、キースは「騙される君が悪い」と言いたげな視線を向けていた。
「怒った顔も可愛らしいですね、リズ」
「気安く呼ぶな、詐欺師」
「口を開かなければ、お姫さまみたいなのに残念だ」
「余計なお世話だ」
「安心してください。君の正体は公言しない。これ以上、なにかを頼むつもりもありません。ありがとうございました。『微笑』はお返ししますので、お引き取りください」
「……約束が違う」
「絵画を侮辱する依頼は受けられないからね」
ロビンの正体を明かせば、キースの詐欺行為も露見する。
しかし、王権に歯向かう盗人と絵画詐欺師、どちらの罪が重いだろう。リズの身柄を引き渡せば、彼の罪など王権の力を使って揉み消すことも可能かもしれない。
リズの劣勢は明らかだ。
ここでなにをしても、キースの口を封じない限りは無駄だった。
「覚えてろ」
屈辱と怒りを包み隠して吐き捨てる。
リズはキースのシャツをつかんだまま、間近で射抜くような視線を向ける。
それでも、キースは余裕の表情だ。遊びかなにかだとしか思っていない。そんな表情だった。それが余計に腹立たしくて、悔しくて、リズは奥歯をギリギリと噛む。
それどころか、
「こんなに可愛い怪盗さんを忘れたら、勿体ないですよ」
言い置いて、息巻くリズの前に顔を寄せる。リズは予想外の行動に驚き、回避が遅れてしまった。
吐息がわずかに触れ合う。
そして、無防備になっていた唇が、塞がれる。
「――――!?」
唇で塞がれた唇から流れ込む熱がリズの身体を蝕んで自由を奪っていく。
ほんの短い間、少しも身体が動かせなくなってしまう。まるで、魔法か催眠術にかかったようだ。
キースと対峙していると、いつもそうだ。不思議な空気に絡め取られて、動けなくなってしまう。左右で色の違う瞳から、視線を逸らせなくなってしまうのだ。
かすかにくすぐる油絵具の香りが、思考をおかしくしてしまいそうになる。この香りのせいだろうか? 父と同じ香りをまとっているから?
どうすればいい。どうなっているのか。自分でもわからずに思考が停止していた。
「口は悪くても、唇は甘いんですね」
あいさつ代わりとも言える、触れるだけの軽い口づけを終えて、キースが不敵に笑う。
まるで、全てを見透かしているかのような視線が怖い。
父のように優しい愛情があるわけでも、セドリックのように明確な愛を表現するわけでも、シャーロックのように自分を押しつけるわけでもない。
ただの興味本位。特に意味はない。
そう言われているような気がした。口づけには、なんの意味もない。
ただ、そこにリズがいたから、そうしてみた。いや、その表情さえ、嘘なのか本当なのかわからない。
見れば見るほど、キースのことがわからない。
リズは怒りと羞恥に顔を染め、キースの胸倉を突き放す。
次の瞬間には、力いっぱいの平手打ちをキースの左頬にお見舞いしていた。
派手な音が鳴り響き、衝撃でよろめいたキースが壁に手をつく。
「後悔させてやる!」
こんなことしか言えない自分が情けない。
そんな感情を押し殺すかのように、リズはキースに背を向け、そのまま早足で屋敷をあとにした。
知らない女性の描かれた『微笑』を掴む腕が、やけに重かった。




