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10.エリザベス・ランカの『微笑』

 

 

 

 ――ねえ。お父さま、まだぁ?


 もう何時間も椅子の上でじっとすることを要求されて、幼い少女は唇を尖らせた。

 彼女を注意深く観察していた瞳が、柔らかな色彩を含んだ。

 自分と同じストロベリーブロンドの前髪の下で笑う父の顔が、リズはとても好きだった。とりわけ、絵を描いているときの表情はすこぶる優しくて、生き生きとしている。

 そんな父の顔を見ていると、何時間待たされても平気になってくるので不思議だ。ときどき、自分は父の魔法にかかっているのではないかと思える。


 ――私も少し疲れたから、お茶でも用意してもらおうか。

 ――うん!


 流石に疲れた様子のリズを見兼ねて、父が笑う。

 リズは元気よく頷き、立派な椅子からピョコンと飛び降りた。


 何気なく父の脇に駆け寄り、キャンバスを覗きこむ。

 そこに描かれていたのは、少女のデッサンだった。

 黒い線画だけでも伝わる優しい雰囲気と愛らしさが心地よくて、リズは吸い込まれるように見惚れてしまう。

 軽く結い上げた髪を穏やかに撫でる手が温かい。この絵を描いたのと同じ手で触れられていることが、リズには嬉しくて堪らなかった。


 リズは大好きな父に抱きつく。

 油絵具独特の香りをまとった父は優しくて大きくて、なによりも愛おしい。

 絵具の香りを嗅ぐだけで父を思い出すことが出来る。大好きな香りだった。

 早くに母を亡くしたリズにとって、父はたった一人の親だ。


 ――愛しているよ、リズ。私の可愛いエリザベス。

 ――リズも大好き、お父さま。


 絵を描くときと同じ柔らかな眼差しがリズを見据える。

 リズは自分が愛されていることを実感し、そして、自分を描いたこの絵は、父の愛そのものであるとも感じ取った。


 たった五年間。

 物心ついたばかりの幼い日々は美しく、光に満ちている。

 それは夢や幻ではないかと錯覚するほど甘く輝き、今でも忘れることは出来ない。

 まるで、絵画のように繊細であり、大胆。写実的であり、抽象的。印象的であり、淡く幻想的。そんな記憶は、いつまでも消えなかった。


 だから、悔しかった。

 いや、許せなかった。

 そんな父との思い出を彩る肖像が、描きかえられていたことが――。




 この屋敷の前に立つのは、二度目だ。

 馬車を降り、リズはまっすぐ扉に歩み寄る。

 手には、先日入れ替えた『舞踏』を抱えていた。

 キースは元の絵は好きにすればいいと言ったが、これは彼に返すべきだ。そう思い、リズは絵に額をつけて布にくるんでいた。

 それを丁寧に抱えつつ、呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばす。


「やあ、盗賊のお姫さま」


 玄関前の呼び鈴に触れようとした瞬間、頭上から声がかかる。

 見上げると、二階からキースが顔を出して覗きこんでいた。

 少し子供じみた悪戯っぽい笑みを浮かべるキースを見て、リズはわずかに二の足を踏む。だが、すぐに表情を改めた。


「怪盗って呼べ」

「これは失礼。お姫さま」


 通行人は見当たらない。

 リズはわざわざ訂正してやると、そのまま玄関の扉を押し開けた。

 どうせ、来客を予想して準備もしてあるのだろう。案の定、扉の向こうでは使用人が頭を下げており、「旦那さまの元へご案内します」と言った。


 新興貴族にしては飾り気がなくて趣味のいい屋敷の廊下を、リズは何気なく観察する。

 やはり、ない。

 アトリエに入ったときに思っていたが、ここにはキースの絵が一枚も飾っていないのだ。自らが画家をしているというのに、少し不自然な気もする。

 まるで、見たくないものを隠すかのように。


 入れ替えた絵をキースに返すのは、少しだけ躊躇われた。

 彼は自分の絵を見たくないのではないか。そのために、入れ替えの依頼をしたのではないか。だとすれば、リズが絵を持ってきたのはお節介なのかもしれない。

 けれども、そう感じながらも、リズはこの絵はキースに返すべきだと思ったのも確かだ。

 バートン家の屋敷を出るときには、既に決めていた。


「ねぇえ、リズ?」


 耳元で甘い声がする。

 驚いて振り返るが、予想した妖精の姿を見つけることは出来なかった。

 だが、ふと思い当り、ストロベリーブロンドをまとめている髪飾りに触れる。


「きゃん。そんなに強くつかんじゃヤダぁ」


 ついてくるなと言っても、メイは隙を見てリズについてくる。

 貴族の屋敷へ行くときは、尚更。こっそりと部屋を物色して、食べられそうな品を拝借するのが目的だろう。

 決して、「お屋敷の中に閉じ込められて、アタシ寂しいの……」なんてしおらしいことは言わない。言ったとしても、視線で食べられそうな「お菓子」を探している。


 市井にいるときは慎ましく砂鉄を求めて地面を舐めていたのに、バートン家に引き取られてからは、この有様だ。

 リズに目をつけて近づいてきたのも、「王女さまなら、いっぱいお菓子をくれそうだから」という理由だ。町にいる頃に我慢していたのが奇跡のようだ。

 まったく、油断も隙もない。

 リズは舌打ちをして、髪飾りから手を離した。


「ここ、舐められそうな壁があんまりないわねぇ。つまんない」


 リズの気も知らず、メイは髪飾りの姿のまま嘆息する。

 こっちとしては、勝手に出歩かれるよりはいい。外出先の屋敷で装飾に使われる金や銀がなくなっていれば、リズに疑いや迷惑がかかると、何故気づかないのだろうか。

 そうしている間に、キースが待つ部屋へと案内される。


「今日あたり、来るんじゃないかと思っていましたよ。新聞で知りましたが、大活躍だったようですね」

「うるさい」


 入室した瞬間、気持ちのよさそうなソファに腰掛け、足を組んだままキースが出迎えた。傍らには、布のかけられた絵画が一枚用意してある。きっと、依頼した絵だろう。

 リズは今すぐに布を払って中を見たい衝動に駆られながらも、キースを睨んだ。キースはその視線を余裕の笑みで受け止める。


「約束通り、絵は入れ替えてやったぞ」


 リズは荒っぽく言って、キースの前に絵を突き出す。

 キースは片方を眼帯で隠された眼を細めると、優雅な動作で絵を受け取った。

 その仕草一つひとつが流れるように滑らかで、不思議な魅力と、妖艶な色香がある。並みの女なら騙されて赤面してしまいそうだが、リズは誰にでも良い顔をする「厭らしい奴」だと思うことにした。


「届けてくれたんですか?」

「あたしが持ってても意味ないからな。ロビンは絵なんて、ほとんど盗まない」

「処分してくれても良かったのに」


 美術品は売れば足がつくし、屋敷に置いておくのも面倒だ。ロビンの盗みの多くは貴族が隠し持っている金塊などを盗み、それらを溶かして金貨を鋳造している。

 美術品を盗むのは、不条理に奪い取られた品を持ち主に返したり、貴族が行う悪事を暴いたりする場合に限られていた。

 ランカの『微笑』が特別だっただけだ。

 絵を持ち運ぶのは、それなりに負担がかかるし、劣化の原因にもなる。


「ありがとう」


 キースは絵を受け取ると、中身も見ずに脇に置く。

 やはり、見たくないのだろうか。そんな思いが過るが、リズは飽くまでも淡々と進めることにした。

 これ以上、この男と関わる必要もない。


「お望みの絵は、そこにあります」


 キースは傍らの絵をリズに示した。


「元通りなんだろうな?」

「ええ、君の希望通りに」


 布を取れば、あの絵がある――そう思うと、跳ね上がる心拍数を抑えることが出来なかった。

 思い出を彩る、あの絵。

 ずっと、見たくて仕方がなかった絵に、やっと会えるのだ。

 胸の中に燻っていた想いと記憶が、一気にわきあがって止まらない。


 リズは恐る恐る手を伸ばし、絵にかけられた布をつかみとる。

 早く。早く、見たい。気持ちばかり焦るが、伸ばされた手は、生まれたばかりの赤子に触れるように震えて、不器用だった。


「…………ああ」


 現れた絵を見て、リズは思わず声をこぼす。

 胸の奥から熱いものがこみあげ、溢れ出しそうになる。衝動的に触れたくなる気持ちを抑えて、ただただ立ち尽くした。


 その絵は、確かにエドワード・ランカの『微笑』――幼いリズを描いた肖像画だった。


 暗い背景の中央に浮かび上がった明るく柔らかな笑顔。丸くて瑞々しい肌を描くタッチがとても優しくて、見る者に温もりを与えてくれる。

 ストロベリーブロンドを留めるのは、そのときお気に入りだった花のリボン飾りだ。

 蒼く美しいラピスラズリの色彩を有したリボンまで、鮮やかに再現されていた。間違いなく、ランカ特有の蒼で、俗に言う「ランカブルー」だ。

 少しも劣化していない、鮮やかな姿がそこにある。


 間違いなく、ランカの『微笑』だ。

 愛娘エリザベス・ランカを描いた『微笑』。


 上に別の絵が描いてあったとは思えないくらい美しい状態である。とても、修繕後の絵だとは思えない。

 ずっと、この絵が見たかった。


 ――愛しているよ、リズ。

 ――リズもお父さまが大好き。


 リズは自然に笑みをこぼし、絵に手を伸ばす。

 

 

 

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