1.エドワード・ランカの『微笑』
全29話、完結原稿あり。
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まんまる月夜に響くのは軽快な足音と、煌めきの金貨が弾ける音色。
金貨を屋根の上で奏でながら、影は進む。
目元をマスクで隠した顔は、少年のようにも、少女のようにも見える。
鮮やかな青いマントをひるがえし、羽根つき帽子を揺らして疾走する影――人々は王国の伝説になぞらえて、「怪盗ロビン」と呼んでいた。
ロビンは立派な邸宅の屋根に向けて、軽やかな跳躍を見せる。華奢な身体が宙を舞い、丈夫な革のブーツが音を立てた。
吹きつける南風が黒い帽子を撫でると、三つ編みにされたストロベリーブロンドがこぼれる。
月光の下でアルヴィオン王都リンディンは蒼い闇に。丘の上では豪奢な王宮が寒々とした光を跳ね返し。
「ねぇ、ロビンぅ。このお屋敷、とぉっっても甘くて良い匂いがするわ。きっと、お菓子がたくさんあるわよぉ?」
傍らから、妙に甘ったるい声が響く。
ロビンが少しだけ視線をやると、掌大ほどの小さな妖精が羽をせわしなく動かして飛んでいた。妖精は黒鋼色の瞳を輝かせながら、ロビンの周囲をクルクル飛んで回る。
ロビンは少し煩わしく思いながら妖精を視線で追い、ため息をついた。
「ダメだ、メイ。今回は金が目的じゃない」
「えええぇえぇえぇ? ちょっとくらいイイじゃないのよぉ。アタシ、お菓子がないと死んじゃうわぁ!」
つれない返事をされ、メイと呼ばれた妖精は不満を露わにする。
「お菓子お菓子ってなぁ……金や銀をクッキーや飴の感覚でいつもポリポリされたら、こっちだって困るんだよ」
「あらぁ、いつもは鉄で我慢してるじゃない?」
「鉄クズだってタダじゃないんだけどな」
「まさか、ロビンはアタシにその辺の石や砂を食べろって言うの?」
「その方が経済的なんだけど」
「ありえなーい!」
メイはプイッと口を尖らせると、小さな鉄の欠片を取り出す。彼女はそれを、なんのためらいもなく宙に投げると、行儀悪く口で受け止めた。
ガキガキという音を立てて噛み砕く。
鉄クズを食べるという、一風変わった光景だが、ロビンには見慣れたものだった。
「今日は絵だけ盗む。金塊まで持って走るのは、無理だ」
「大丈夫よぉ。ロビン、力持ちだしぃ」
「絵が傷むんだよ。あとで褒美をやるから、とっとと頼む」
「本当? じゃあ、がんばっちゃおうっと。三枚ね!」
愛くるしい笑顔を振りまくメイに、ロビンは少しばかり悩ましげに眉を寄せる。
「食いすぎ。一枚だ」
「ケチ」
「……二枚」
「仕方ないわねぇ」
交渉成立したところで、メイはクルリと羽をはばたかせる。
すると、彼女の身体が白銀の輝きを帯び、そのまま溶解した金属のようにドロリと溶け、――三秒もしないうちに細長く伸び、長い鎖へと変身してしまう。
拷問具「鋼鉄の処女」から生まれた鋼鉄の妖精。それがメイだ。
彼女は自分の姿をあらゆる鉄製具に変質させることが出来る。鋼鉄の妖精なのに、どうして、貴金属や宝石類が好物なのかは、ロビンが知るところではない。
ロビンは鎖になったメイをしっかりと固定し、邸宅の壁を伝って下りる。
宮殿と見紛うほど巨大な邸宅は、アルヴィオン王国有数の大貴族エルフォード公爵家のものだ。邸宅の中には、メイが喜ぶ金銀財宝や絢爛豪華な調度品、値打ちのある美術品などが山ほどあるだろう。
しかし、ロビンが今宵狙うのは、たった一枚の絵画だ。
「よっ、と」
あらかじめ仕入れた情報通りに、北側に位置する窓を覗き込む。
三階の高さにも臆することなく、ロビンは身軽な動作で窓を蹴破った。
中へ入ると、そこはコレクションルームになっている。大きな部屋には様々な絵画がかけられており、棚には色とりどりの器や壺も並べられていた。
光で絵が傷む恐れもあるというのに、ご丁寧に窓の広い部屋に飾るなんて……ロビンは蒐集主であるエルフォード公爵に内心で文句を言いながら、部屋の中を一瞥する。
だが、探している絵の姿は見つからなかった。
「あのクソオヤジ。情報間違ってんじゃねぇのか? どこにもないじゃないか」
今でも鮮明に思い出せる、あの絵。
忘れるはずもない絵を探して、ロビンは何度も視線を巡らせた。
しかし、目の前の部屋のどこにも見当たらない。ロビンは若干の焦りを感じながら、一枚一枚覗き込んで確かめる。
「ちょっとぉ、ロビン。こっち来て。これじゃない?」
部屋の反対側を見ていたメイが声を上げる。ロビンは弾かれるようにその場を離れ、メイのそばに駆け寄った。
メイが指差したのは肖像画だった。
青いドレスを着た女性が優しげに微笑んでいる。暗い場所でも、肌の艶やかさや表情の柔らかさが見て取れ、シンプルだが印象的な一枚だ。
「違う……」
この絵ではない。
探している絵は、もっと――。
ロビンがつぶやくと、メイは羽をパタパタと動かしながら首を横に振る。
「だって、エドワード・ランカの『微笑』って書いてあるわ。サインも似てるし、顔料に含まれる鉱物の匂いもそっくりよ。ラピスラズリの良い香り。んぅ~舐めたいわぁ」
メイの主張を聞いて、ロビンは思わず目を凝らした。
コレクションの横には、確かに「エドワード・ランカ」の名前と、タイトル『微笑』が書かれている。絵の端にあるサインも、見覚えのあるものだ。
画家が同じタイトルで違う絵を何枚も描くことはよくある。これは、エドワード・ランカが描いた別の『微笑』なのだろうか。
だが……この肖像はおかしい。
微妙にデッサンが狂っているし、絵具が厚塗りされすぎている。
ランカがこんな絵を描くはずがない。
「――まさか」
ロビンは喰らいつくように飛びつき、絵画を壁から外した。
刹那。
コレクションルームの扉が開かれる。振り返ると、不審な物音に気づいた見回りの使用人が悲鳴を上げていた。
人を呼ばれてしまう。ロビンは考える暇もなく、『微笑』を抱えた。メイも慌てて宙返りし、窓の外へ出る。
「誰か! 盗賊です。出ました、盗賊ロビンです!」
「盗賊じゃなくて、怪盗って呼べ!」
使用人の叫びに対して律義に文句を言いながら、ロビンは窓枠に足をかける。その頃にはメイが細い鉄の棒に変身し、通りを挟んだ向かい側の屋根に橋を渡していた。
ロビンは細い鉄棒の上を危なげなく走り、そのまま向こう側の屋根に飛び乗る。人口密集地であるリンディン市では、アパートメントが連なるように建っており、逃げやすい。
下側の道では、どこから聞きつけたのか、見回りのリンディン市警騎士たちが既に集まりかけていた。
よほど、ロビンを捕まえたいらしい。あいかわらず、来るのだけは早かった。
近年の市警騎士団は無能なボンクラ貴族の集まりと揶揄されているが、やる気だけは認めてやろう。
「グッド・イーブニング、盗賊君。今日こそ、観念したまえ! この私、シャーロック・アボーンズが来たからには、今宵は逃げられぬものと思っていただきたい!」
屋根の上に佇み、ロビンを待ち受ける人影。
ご丁寧に薔薇の花を持ってポーズを決めている馬鹿、じゃなくて、青年の姿を見て、ロビンは疲労の色を浮かべた。
「また性懲りもなく……今はお前と遊んでる暇なんてないんだよ。あと、怪盗って呼べって言ってんだろ!」
純白の市警騎士団服に身を包んだ金髪碧眼の馬鹿、じゃなくて、シャーロック・アボーンズ子爵に、ロビンは容赦なく言い放つ。
「このシャーロック・アボーンズと遊ぶ暇がない? どの口がそんな戯言を言っているのかね? ああ、そうか。君は今この瞬間、私に捕まることが決まっているからね。確かに、遊んでいる暇などないな。そして、私も遊んでいるわけではない。さあ、今すぐに――べふぉっ」
「うるさい、ばーか」
自分に酔いしれながら御託を並べるシャーロックの頭を、ロビンは億劫もなく踏みつけて進む。
もう踏み越えてくれと言わんばかりの棒立ちであった。これこそ、まさに不可抗力。踏まれるべくして存在していたとしか思えない。
「ねえ、ロビン? あの馬鹿、いつもなにしに来るのかしらぁ?」
「知るか、馬鹿の考えることは馬鹿にしかわからんよ」
頭を踏みつけられて、そのまま落下していく紛れもない馬鹿を放置して、ロビンは屋根を走る。今宵は月が美しく、三つ編みのストロベリーブロンドが蒼い闇を吸いこんでいた。
ほどなくして、下の住居から声が上がりはじめる。
「あ、ママ。ロビンだよ!」
「あら、本当。うちの亭主よりカッコイイわ~」
「おお、ロビン。今日もがんばってんなぁ!」
「がんばって、ロビンさま!」
騒ぎを聞きつけた市民たちが家々の窓から顔を出し、ロビンに手を振る。
市警騎士たちが「危ないですから、家に戻ってください!」と注意をしているが、「うるさい、無能ども!」と悪態を返されていた。
市民の声に応える代わりに、ロビンは腰にさげた革袋をメイに投げてやる。
「食べるのは二枚だぞ、わかってんだろうな?」
「さっき約束したから、わかってるわよぉ。もうっ」
メイは革袋を受け取ると、そのまま羽をせわしくはばたかせながら、リンディンの上空へと舞い上がる。
数秒後、月夜に煌めく金の光が降り注いだ。
無数の金貨が、雨のように降る。
全て純度の高い本物の金貨だ。猫がモチーフの一風変わった紋章が刻まれた金貨を拾って、街の人々が歓声を上げた。
怪盗ロビン。人々がそう呼ぶ盗人は、「義賊」として英雄視されている。
旧王家を廃して君臨したヨースター王家の下、アルヴィオン王国の民は苦しんでいた。貧民から税を搾取し、貴族は腐敗するばかり。王宮では、国王は政治よりも贅沢と女にうつつを抜かしている。
そんな世の中で、王侯貴族ばかりを狙って盗みを繰り返すロビンの存在は、まさに英雄だと謳われている。ロビンは市民にとって、王権に対する反抗の象徴そのものであった。
「あ、メイ。コノヤロー! 二枚って言っただろうが!」
「え~? なんのことかしらぁ? ……や、やめてよぉ。やん、ロビンったら、スカートめくらないでぇ~!」
「ほら、持ってた!」
「え、えへ☆」
まんまる月夜に響くのは軽快な足音と、煌めきの金貨が弾ける音色。
その音を奏でながら、影は進む。
† † † † † † †
屋根の上を走り抜けた影は、どこへ向かうのだろうか。
青年は長い指先で、足元に落ちた金貨を拾い上げる。
愛らしい猫の紋章が刻まれた金貨は俗に「ロビン金貨」と呼ばれている。怪盗を名乗る盗人が現れるたびに、街へ撒いていくので、そう呼ばれるようになっていた。
王権はこれを回収しようと必死だったが、金貨は既に人々の間に流通している。紛れもなく本物の金で出来ているので、潰して紋章を消しても価値は変わらない。
王国が鋳造する硬貨よりも、ある意味信頼出来た。噂では、盗んだ金塊を溶かして鋳造されているらしい。
「怪盗、ねぇ……」
彼はしばらく金貨を眺めていたが、やがて、興味を失くした様子で片方を眼帯で覆われた灰色の瞳を細める。
そして、月明かりも届かぬ宵闇に蝕まれた陰を、独り歩いた。