虎は語る~山月記第三段~
※この小説は二次創作です。苦手な方はお気を付け下さい。
今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走りだした。無我夢中で駆けて行くうちにいつしか道は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。何か体じゅうに力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えていった。
気がつくと手先や肘のあたりに毛を生じているらしいかった。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映してみると、すでに虎となっていた。自分は初め目を信じなかった。次に、これは夢にちがいないと考えた。夢の中で「これは夢だぞ。」と知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。そしてそれを懼れた。まったく、どんなことでも起こりえるのだと思うて、深く懼れた。しかし、なぜこんなことになったのだろう。分らない。まったく何事も我々には分らない。理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからず生きていくのが、我々生き物の「さだめ」だ。自分はすぐに死を思うた。しかし、その時、目の前を一匹のうさぎが駆けすぎるのを見たとたんに、自分の中の「人間」が目を覚ました時、自分の口はうさぎの血にまみれ、あたりにはうさぎの毛が散らばっていた。これが虎としての最初の体験であった。
それ以来今までにどんな所業をし続けていたか、それはとうてい語るに忍びない。ただ、一日のうちに必ず数時間は、人間の心が還ってくる。そういう時には、かつての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも耐え得るし、経書(儒教の経典)その人間の心で、虎としての己の残酷な行いのあとを見、己の運命を振り返る時が、もっとも情けなく、恐ろしく、憤ろしい。しかし、その人間に還る数時間も、日を経るに従って次第に短くなっていく。今までは、どうして虎などになったのかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気がついてみたら「俺」はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。いま少したてば、俺の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに俺は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い回り、今日のように道で君と出会っても故人と認めることなく、君を裂き食ろうて何の悔いも感じないだろう。
いったい、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを覚えているが、しだいに忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?いや、そんなことはどうでもいい。俺の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、そのほうが俺は「しあわせ」になれるだろう。だのに俺の中の人間は、そのことを、この上なく恐ろしく感じているのだ。ああ、まったく、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう!俺が人間だった記憶のなくなることを。この気持ちは誰にもわからない。俺と同じ身の上になった者でなければ。ところで、そうだ。俺がすっかり人間でなくなってしまう前に一つ頼んでおきたいことがある。