僕と彼女と、それからタバコ
大学生とは、ある意味で幼稚な性質を持つ年頃であるに違いない。
持論などと、格好の良いことを言うつもりではないが、僕にとってそれは確信に近い。
外見を気にして、流行りを追ってみたり、奇抜なファッションに身を包んでみたり。
――あるいは、タバコを吸うだとか。
もっとも、大抵の中学生が想像の中のみでそれを行って、悦に浸るのに対して、大学生には財力も資格もある。ただ、それだけの違いなのだ
つまるところ、学生などという人種は、どこまで行っても馬鹿なのである。
とは言え、例外がないわけでもない。
事に僕のような、あらゆる事に無頓着な人間は、それらのことにまったくと言っていいほど興味がない。
服は、昨今アパレル業界で覇権を握る低価格ブランドのありがちな衣類を着まわし、バリエーションはゼロ。煙草も酒も、当然のことではあるが、未成年故に一切嗜まない。
学生は、学業にのみ精進すればよい。そういう考えを地で行く、くそ真面目な人間であった。
そんな、まったく面白みのない人間であるところの僕は、今、友人の部屋で死の淵に直面していた。本当に生命活動が停止するわけではない。肉体的な死ではなく、社会的な死とでもいうべきか。
畳と卓袱台、それにちょっとした本棚程度しかない殺風景な六畳間に、三人の男が黙々と何かの作業に耽っているのだ。その様子は、外目には異様であち。
しかも、皆一様に目を猛禽か何かの如くギラギラと光らせながら、しかも周囲はオドロオドロしささえ醸し出す隈がしっかりと浮き出ている。すなわち、徹夜三日目という劣悪な状況の賜物だ。
斯様な苦境にも、理由はあった。兼ねてから、僕らはある実験に取り組んでいたのだ。それは大学の講義の一環なのだが、実験結果をまとめて近日中に提出せよ、というお達しが下ったのである。
中々に偏屈な教授で、書籍の文献のみを使用せよだとか、ワープロは認めぬだとか、ともかく制限が多いのだ。その上で、実地で行う実験が気の遠くなる作業の連続。さらに器具のトラブルによって、僕たちのレポート作成はすさまじい困難を背負わされる羽目になった。
と、それが、今の状況である。
卓袱台には三枚のレポート用紙、それに実験データと分厚い文献の山が何組か、まるで山脈のように据えられ、ともすれば、ジオラマの浮島かと見紛う様相を呈していた。
そして、三人の間に言葉はない。各々、黙々とペンを動かし、まだ見えない課題提出と言う頂を登っている。当然、その雰囲気も陰鬱なものだ。しかも密閉された空間で空気は淀み、息苦しさは増す一方である。
勉強熱心な僕とて、今の状況は心を殺し、ただひたすら分析と手を動かすだけの機械となることで、この場を凌ごうとしているようなものだ。
苦痛でも、これをやり遂げなければ、学生としての立場が死ぬという緊迫感があった。
が、それにも限界というものがあろう。地獄のようなこの部屋に腰を据えること三時間。最初に緊張の糸が切れたのは、友人の広瀬であった。
卓上のコーヒーに手をつけようとして、そちらに目を向けようとしなかったのが災いした。手が滑り、カップは持ち上げられることなく、無残にもその場で転がった。そして、内容物は卓上に広がり、黒々とした液体は彼のレポート用紙を――
「あああああああああ!」
広瀬の怒号が木霊する。大地を揺るがさんばかり響く魂の叫びで窓ガラスが揺れ、本棚の上に置かれたコケシはぐらりぐらりと揺れ、最後は倒れ地に伏した。
言いようのない沈黙が走る。これまでは、三人がそれぞれけん制するように暴走するのを防いでいた。極めて微妙なバランスのもとに保たれた平衡だ。崩壊するのは、本当に一瞬だった。
「もういやだもういやだもういやだもういやだもういやだ……」
うつむき加減でブツブツと唱える友人の邑井。焦点の合わない憔悴しきった眼は、もはや気が触れているのではないかとさえ思える。
この部屋でもっとも正気であるのは、僕であるらしかった。それ故に、いさめなければならないのも僕であるわけだが。
だが、彼らに僕の言葉が通ずるには、もはや手遅れだと言わざるをえなかった。極限状況である。人間の三大欲求、食欲、性欲、睡眠欲の内、二つ――いや、ある意味三つか?――を奪われた以上、正常な理性が働くはずもないのだ。
僕の言葉を遮るように、邑井が卓袱台を平手で叩く。瞳孔の開ききった瞳を上下左右させながら、彼は蟷螂のような細い長身を立ち上がらせた。
「我々は何者だ我々はより一般的な知へと高まってゆく知の形態を演繹する試みである欲望は外的対象へと向かう対象を否定することによって自己を否定するということの繰り返しである……」
もはや自分でも何を口走っているのか分からないのだろう。ただただ、天から降りてきた神的な存在が、彼に何かを告げさせているような、すなわち極限の錯乱状態。
「応ともさ!」
邑井の何に共感を得たのであろうか。先ほどから、奇声を発しながら、さながら死後痙攣の如くそこらをのた打ち回っていた広瀬が、右の握り拳を高らかに突きあげた。
「今の俺たちに必要なものは!」
「自由!」
二人の目がカッと見開かれる。その瞳の奥には、間違った方向に向かう熱い青春の炎がめらめらと燃え盛って……あくまで間違っているのだが。
二人はお互いを見、強く頷いた。なんということだろう。彼らは理性を失わずにいたのだ。そして、今進むべき道を共にしようとしている。
邑井は、固く握りしめられていた広瀬の手を取った。広瀬を力強く引き揚げ、彼らは一様にある一方を見た。ベランダである。
僕は二人の演劇のようなふるまいをぼんやりと見つめるのみである。その内、僕までもこの寸劇に飲まれるのではないかと言った感覚である。
が、それ以上に、彼らは沸いていた。
中国映画もあわやの躍動感で、二人は狭い部屋を疾駆した。そして、そのままベランダを乗り越え――
落ちた。
あまりに現実味がない様子であった。しばし何が起こったか理解が追い付かず、その場で呆然とベランダを眺めるしかなかった。いくらか経ってから、やっと事の重大さに気がついたとき、僕は慌てふためいてベランダに駆け寄り、階下を除き見たが、二人の姿は影も形もなかった。真下の植え込みがクッションとなって助かったと思いたいが、しかしあの発狂の仕方は……
僕は疲労感と混乱に苛まれながら、振り返り、この部屋の全容を視界に入れた。
散々たる有様である。もしくは、凄惨と言ってもいい。課題の山と飛び散る茶色い液体。転倒するこけし。たった六畳の空間に展開される、この世の地獄だった。
これでは、ため息も洩らしたくなる。実際、数えきれない程の陰鬱な吐息が、すでに僕の口中から吐き出されていた。
本当ならば、今すぐにもここを飛び出したい衝動はあるのだ。それをしないのは、自分の身分をわきまえているつもりだからである。
しかし許されるのなら、今日という日くらいは楽しく過ごしたかったと、今更ながらに思うのである。その権利くらいは、僕も持っていて良いのではないかと、そう思うのだ。
傍らに掛けられたカレンダーを見る。商店街でもらったらしい、某電気店と広告の入ったシンプルなカレンダーは、十月を示し、今日はその中にある何の変哲もない日の一つである。休日でもなければ祝日でもないのだ。
が、それはカレンダー上でのことである。世間一般のことである。個人的には、ここに丸の一つもあっていいはずだった。
誕生日、おめでとう、か。僕は誰にでもなく呟いた。
僕は今日、二十歳になった。今日は、そういう日なのだ。
邑井と広瀬にはこのことを伝えてはいなかった。いや、ひょっとすると伝えたことはあったのかも知れないが、少なくとも、彼らはそれを覚えている素振りは微塵も見せなかったし、僕も、そのような話題を今日は振っていない。僕の誕生日は今日だ、などと自分からアピールすることは、僕のポリシーに反するのだ。
孤独な誕生日を迎えるのは、これが二度目である。大学入学を機に独り暮らしを始めたこともあって、去年の今日も、僕は同じように独りの部屋で寂しく自分の生誕を祝ったものだった。その時に、自分で自分に誕生日ケーキを買う侘しさを思い知ったのである。
今年もそうなるのかと薄々予想はしていたが、まさかこれほど苦境を味わっているとは思いもしなかった。前年度比三倍のみじめさと言っても過言ではない。
冷蔵庫の空虚な駆動音が響き続ける中、僕はそのみじめさを一塊の吐息にして、一気に吐き出した。が、当然さしたる変化は、ない。
と、不意にドアが開く音がした。立てつけの悪い入口のドアである。金属の擦れ合うのを不快に感じながらも、僕は奴らが帰ってきたのかとそちらを見た。あの様子では、二人とも怪我の一つもしていようが、相当にエンドルフィンかアドレナリンのようなものが脳内に湧きあがっていただろうから、多少正気になって戻ってきたのかと思ったのだ。
帰ってきたのなら、一刻も早く作業に戻らせなければいけない。そういう風な思いを込めて、僕は、気は済んだかい?、と尋ねた。
「へ、何が?」
返ってきた言葉は、僕の想定したものとは異なっていた。のみならず、その声も、想定外であった。
ドアの向こうから、こちらを覗き見るように人の影が現れる。茶髪のセミロングは邑井でも広瀬でもないし、何より、その声は男性のそれではなかった。
「や。レポート、はかどってる?」
右手をヒラヒラと振りながら、先輩はひょっこり顔を出した。
***
一つ上の学年にあたる先輩は、僕や、あの二人をよく気にかけてくれる人だ。
名義貸しに入会させられた和風生活研究会――正体は単なる飲みサークルであった――なるサークルで知り合って、以来、どういうわけか親しくなったという経緯があった。
彼女は妙に僕たちに好意的で、よく勉強を教わったり、アルバイトの紹介をしてもらったりと、何かと面倒を見てもらう機会が多かった。断っておくが、先輩は女性である。理系キャンパスなので基本的に女性が少ないということもあるだろうが、男性の集まりのなか自然に馴染めるような性格で、早い話がサバサバした姉御肌と言った印象だ。
ともかく、僕はそんな先輩がここに来る事を全く把握していなかったので、しばし戸惑った。高校時代から女性経験が皆無に等しい僕に、女性とのコミュニケーション能力は期待できるはずもない。まして件の二人も今は失踪中だ。僕は、先輩の目を見て会話するのにも苦心した。
聞けば、大学のラウンジで僕たちが課題について嘆いているところたまたま見かけて、助け舟を出そうと訪れたのだとか。アポなしで、と言う所が、いかにも先輩らしい。彼女はそういう人だ。
もっとも、部屋の惨状、それとただ独りポツンと佇む僕を見て、大方の状況は把握したらしかった。「気晴らしに、散歩でも行こうか」とは、彼女の弁である。
夜の道は、思った以上に明るかった。ほぼ真上に満月が昇っており、その月明かりのおかげで、柔らかい光が浮き上がらせるように町並みを照らしている。
僕と先輩は、二人で川沿いの並木道を歩いていた。水の流れる音がすぐそこで聞こえる。川面に月の光が反射して、キラキラときらめき、それが夜でも外を明るくするのを手伝っているのではないかとさえ思えた。
「鍵、締めなくてよかったの?」
いいんですよ、と僕は言った。どうせ盗られるものもなく、それに家主の邑井は夜の(現実)逃避行の真っ最中であるから、鍵も彼が持っている筈である。僕にはどうしようもできない。
「意外だなぁ。君がそういう人だったとは」
真面目がウリの僕としては甚だ心外な台詞であったが、そこは苦笑を返すにとどめた。何かハイセンスな返答を試みて、失敗したのは秘密だ。
先輩は、僕のことなどお構いなしであるかのように、速い歩調で歩いて行った。それを、僕が二、三歩遅れて追従する形だ。なので、僕は彼女の後姿を観察する機会を、ひそかに得たわけである。
先輩は小柄である。僕と比較しても、多分、身長は一六〇センチもない。その割には、背中の大きく見える錯覚に駆られるのは、彼女の姿勢の良さからだろう。そういう彼女に、黒いブルゾンとデニムジーンズはよく似合っていた。流行りを追わないところも、服装の趣味が男っぽいところも、いかにも彼女らしい。とは言え、若干派手と思われる茶髪は彼女を女らしく見せるに相違なく、綺麗に切りそろえられていたし、何よりも分かりやすい下半身のシルエットが、どこか艶めかしく、先輩が女であることを主張しているようだった。
実際、僕の視線は何度もそちらに行って、そのたびに自己嫌悪を感じた。
「……だからさ、あれは初期設定のアルゴリズムが重要なのよ」
あらぬ方向へと思考が働いているうちに、先輩の課題解説が始まっていた。聞き逃していた部分は一体何だったのだろう。しかし、聞き返す気分になれず、僕はええ、とか、ああ、とかうやむやな返事をした。聞き返してもよかったが、それで自分が不誠実なやつだと思われるのが、なんとなく嫌だったのだ。
あるいは、僕のそんな態度が感づかれたのかも知れない。先輩は、そのあと二言三言喋って、後は全部言い終わらないうちに、ぱったりと黙り込んでしまった。
しまった、と思っても、僕は彼女に対するセリフに事欠いて、もどかしく口を閉ざしたまま。ただ、川のせせらぎに、この空気を任せるしかなかった。
「君ってさ、らしくないよね」
唐突に口を開いたのは先輩だった。
本当に唐突だった。突拍子が無さすぎて、何のことだか理解もできない。
くるりと振り返って、先輩は僕を見た。僕はと言えば、先ほどまで彼女の尻に向いていた視線をとっさに戻した。
「大学生らしくない、よね」
突然の大学生否定宣言であった。僕は思わず、今回ばかりは、は?と聞き返してしまったものだった。
「なんて言うのかな、俗っぽくない? うん、チャラチャラしてない、とか」
ああ、と納得する。
それは、そうだ。僕がそういう風に望んでいる部分があるのだから。それに、そうなりたくはないとさえ思っている。
嫌いなんですよ、馬鹿っぽいのは、と、僕は多少口を尖らせて言った。
「馬鹿っぽいとは?」
先輩はいたずらっ子の笑うような表情で尋ねるものだから、僕は例の持論を懇切丁寧に説明した。多少の嫌悪を含んだ、周りの学生たちの様子などを織り交ぜながら、自分がいかに、そのような勉学の意欲がない人間たちを軽蔑しているかを語ったのだ。
幾らか熱く喋ってしまったからか、彼女も先ほどの顔から、少しばかり真剣みを帯びた表情で、僕を見ていた。
ひとしきり僕が語り終わる。先輩は、唇をへの字に歪ませ、少しだけ物思いに耽っているらしかった。そして、一言。
「前時代的」
僕は苦笑した。確かにそうかもしれない。意欲と志の高い学生。あるいは、ランクの高い大学ならば常識なのだろう。が、僕が通うのは所謂Fランクと称される大学なので、その括りには入らない。結局、彼女の言うらしくないとは、変人だ、と言っているようなものだ。
学生運動に精を出すような?と、僕が冗談半分にそんな事を言うと、先輩は声を出して笑った。
「そういう表現が、既に前時代的なのだよ」
名探偵でも気取っているような語調で、彼女が言った。確かに、と、また苦笑して納得してしまう僕。親父臭いとも、言うのかも。
僕はそれが何故かおかしくて、ついつい吹き出してしまった。
そうやって、僕と先輩は二人揃って笑った。
しばらくして、やっとえもいわれぬ面白さから解放された頃、先輩がうっすら眼尻に浮かんだ涙を拭って、僕に言った。
「ま、それは冗談にしてもさ、君は損してると思うね、私」
先輩が言うと、それは妙に違和感のある言葉に思えてならかった。彼女はこちら側の、つまりは糞真面目な人類なのだという認識が僕にはあった。だから、そういう発言は意外だ。
「大学生よ、馬鹿であれ! ……これ、私の持論」
本当に正反対であった。彼女は自信たっぷりに宣言するものだから、僕は面食らって、思わず言葉を失ったものである。
「なんでもしてみるもんだよ。お酒とか、奇抜なファッションもね」
その割には、先輩は結構地味ですよね。と、僕は返す。
「そりゃ、君が以前の私を知らないからだよ」
私だってちょっと前まではすごかったよ。と、先輩は昔を懐かしむような遠い目で空を仰いだ。にわかには信じられない話だが、ひょっとしたら、という部分がないわけでもなく――和風文化研究会には先輩の持論を地で展開していく人々が多々いた。というよりも、過半数がそうであった――、僕は、先輩が……、と思わず呟いた。
彼女が今風の派手な服に身を包んでいる姿を想像してみる。どう考えても不自然な金髪だとか、お水の人と間違えられてもおかしくない、けばけばしい服だとか、後は戦車の装甲おも凌駕するような厚みを誇る化粧も。しかし、それらのどれも彼女には似合いそうにない。むしろ、彼女らしさを失っているようで、僕なら断固反対するだろう。
「私の場合は、もう吹っ切れちゃったからね。というよりも、飽きちゃった、かな」
そういうものなのだろうか。僕はしばし考えた。趣味のようなものなのかもしれないという結論だった。
「飽きるのも含めて楽しむの。今のうちだよ、自由が効くのって。私だって、来年は就職活動で忙しいだろうし」
言って、苦笑する先輩である。本当に嫌なのだろう。笑いながらも、眉間のしわは深いし、唇の端も少しばかりひきつっていた。
僕は、彼女のそんな様子を見ながら、やはり同じような苦笑いを浮かべた。けれど、彼女のそういう言動や、仕草に違和感を感じてもいた。何故だろう、どこか言葉を選んでいるようにも思えて、まるで慎重に物事を扱うような。というよりも、今一核心に触れようとしない会話。彼女の本当に言いたいことは、きっとこんなことじゃない。確かではないけれど、きっとそう。
僕は何をか言葉を返すことはしなかった。しかし、恐らくはそういう気持ちが彼女に伝わってしまったのではないかと思う。先輩は、先ほどの微笑から、ほんの少し溜息に似た吐息を吐いた後、ほんの少しうつむいた。
「まぁ、そのさ。結局、私が言いたかったのは……えーっと、だめだな。なんて言えばいいんだろう」
そういって頭をかく先輩。たぶん、丁寧にセットしたであろう髪型が、少しだけ崩れた。
いいですよ、と僕は言った。何か気を使ってるんだったら、そんな気がねはいらないです、と。きっと、僕が何か彼女の気に障るような事をしたのではないかと、僕は勝手に自分で思い込んだのだ。空気の読めない性分であるのは、割合自分でも承知していた。こう言う性格だから、何かと人と接する際に不自由が生じることがままあるのだ。だから、今回もそれが原因なのだと。
すると、先輩がかぶりを振った。
「違う、そんなんじゃないよ。そうだな……うん、私にはね、なんだか君が疲れてるように見えたから」
幾分困ったような口調だった。
それは、例の課題のせいですよ。と、僕は言った。けれど、また先輩は顔を左右に振る。
「それも違うと思うな。君は、ああいうことは一人でも絶対やり遂げる。で、それは当たり前だと思ってる。そういう子だよ、君は。多分、疲れて見えたのはね、もっと本質的なところが原因。そんな気がする」
不意に、夜の冷たい風が僕の顔を撫でた。或いは、僕の心に吹いた風かもしれない。そういう錯覚を覚えさせるような風。閉め切られた僕の部屋の窓を、先輩が開けた、そんな感じ。
ああ、と納得した。彼女は知っているのだ、僕が誕生日であることを。もっとも、僕は誕生日であることを誰かに教えたことはない。
彼女は、僕が誕生日を一人で過ごすことに落ち込んでいる、というのを、感覚的に感じ取ったのだと思う。僕は、敵わないな、と思う一方で、自分がそういう素振りをみせていたことに、多少自己嫌悪した。何か、自分を構ってほしいと振舞っていたようで。
すると、先輩は僕の無言で彼女を見つめ続ける態度に何か思ったのか、ごめんと謝った。
「見当違いだったかな。さっき部屋にいた君が、随分寂しそうに見えたから」
間違いじゃない。僕は苦笑ではない方の笑みを、自然と浮かべた。それは、先輩への謝意をこめてである。彼女が謝る必要は万に一つもないのだ。それどころか、彼女は僕の鬱屈としたものをすでに拭ってくれている。
誕生日だったんですよ。と、僕は言った。今日は、僕の誕生日だったんです。
彼女は、それを聞き、少しだけ黙り込んだ。目を丸くさせていた。
「こまったな。そうか、誕生日か……とりあえず、おめでとう」
先輩は僕のほうにまっすぐ向いて、深々と一礼した。
つられて、僕も一礼。大仰に二人して腰を折っている様子は、どれだけ滑稽なのだろう。想像すると、どこか笑えた。
ひとしきり、他人行儀で妙な挨拶を交わした後、先輩は困ったように、身体を揺らした。
「どうしよう……うん、あまりプレゼントできたものではないのだけど」
そう言って、先輩はおもむろにブルゾンのポケットに手を突っ込んだ。弄るようにとり出したのは、手の平大の小箱。それは、タバコだった。
蓋を開け、手慣れた仕草でそれを振ると、紙巻きのタバコが一本だけ、せり上がって来るように飛び出した。彼女はそれを、僕へと差し出す。バツの悪そうな、しかし、綺麗な笑顔で。
僕は戸惑った。プレゼントがタバコであったこと。それも唐突に。そして、その主は誰あろう先輩、つまり女性である。
「先輩、吸うんですね」
プレゼントであるということより先に、僕はそのことを問うた。なんと言うのか、タバコを吸う女性と初めて触れ合ったのだ。それが先輩であるということに素直に驚いていた。反面、いや、彼女ならやはり、という納得の部分もあり、僕の語調はいくらか肯定を促すような感じだった。
「何? 不良っぽい?」
いや、先輩も大学生なんだなって。と、僕はいささか戸惑いがちに言った。大学生は馬鹿である。僕の持論だ。そして、ある意味では先輩の持論だ。
先輩はしばしキョトンとした風な目で僕を見た。しかし、不意に吹き出したかと思うと、声をあげて笑う。
「ん、そうだね。確かにそうだ。私、大学生だよ」
言って、今さっき僕に差し出していたタバコを自分の口に持っていき、彼女の整った薄めの唇に咥えこんだ。もう一度ポケットに手を突っ込んで、とり出した百円ライター。
カチン、という小気味良い音と共に、ライターには穏やかな明かりがともり、彼女はゆっくりとした仕草でタバコに火をつけた。その様子は、彼女が恒常的にタバコを吸っているのだと連想させるものだった。
中指と人差し指でタバコをつまむと、口元から煙がすっと伸びる。
それが風に乗って僕の鼻腔へと入り込む。特有の渋い煙ったさ。それは、ついさっき彼女から香ったあの匂いの一部だと、僕は知った。
「二十歳でしょ? 初めての……最後かもしれないけど、初体験ってことで、さ」
うっすら赤い光がゆらゆらと揺れる。
僕は多少戸惑った。今まで、成人したとしてもタバコなど吸うとは思わなかったし、吸う気もさらさらなかった。けれど、先輩のプレゼントであるということ、先輩の匂い、それに、ふと訪れた好奇心、いずれも僕の気持ちを揺り動かすに足るものだった。
再び先輩が僕にタバコを差し出す。
躊躇いがちに、しかし、確実に右手を伸ばしていた。小箱の中の、残り半分くらいになったタバコの内の一本を、摘み取った。
先輩がふふんと鼻を鳴らした。
「ようこそ、大学生の世界へ」
彼女の言葉に苦笑しながら、僕はタバコを口元へと近付ける。火を付ける前のタバコは、ほんの少し甘い匂いが漂った。
初体験、どこか生々しい語感にときめきなど抱いて、僕はタバコを咥えた。
先輩から火を貰おうと、彼女の持つライターに顔を近づける。と――
「ん……」
瞬間、心臓がびくりととび跳ねた。何が起こったか分からないくらい、体中の血管に血潮が駆け巡る。
先輩の顔が、僕の視線の間近にあった。吐息の伝わるほどの距離は、ちょうどタバコ二本分。彼女差し出した火は、ライターではなかった。浮かび上がるような薄明るい煙草の火が、僕の咥えこむタバコの先端に触れている。
気が動転したのだ。呼吸困難に陥ったように、思い切り息を吸いこんだのがまずかった。瞬時に点火されたタバコの煙が、僕の肺に一斉に押し寄せた。
あまりの息苦しさと、それ以上の大混乱にせき込んだ僕。傍らで、先輩が声を出して笑っていた。
「おもしろいなぁ、君は」
ふざけないでくださいよ、と僕は口に手をやった。口やら鼻から、痛いくらいに白い煙が濛々とあふれ出てくる。
悪戯と言うにはあまりに大胆な行為が、今行われたのだ。夜でよかったとつくづく思う。顔は真っ赤なはずである。元から直視できない先輩を、視界に入れることすらできなくなってしまった。
笑いをこらえながら、ごめんごめんと冗談半分に謝る先輩。彼女は落ち着かせるように自分のタバコをふかした。そして、小指の爪ほど出来上がった灰の塊を、軽く弾いてアスファルトの地面に落とした。
「ゆっくりと吸うの。で、肺にちょっとずつ流し込む感じ」
はたしてその助言に従っていいものか。訝しげな表情で、僕はもう一度タバコを唇で挟んだ。彼女の言うとおり、ゆっくりと、本当にゆっくりと、フィルター越しに空気を吸いこんだ。心なしか、タバコの葉の赤熱する音がチリチリと聞こえてくる気がする。口中に煙が広がる。舌先に味わったことない渋みが乗っかり、ジワリと唾液がにじみ出た、それが混ざり合って、ほんの少し辛みの味覚が生じる。
「そう、煙を肺に流し込んで」
煙は喉元を通り、肺に。神経が侵されていくような感覚が、僕の胸を支配する。煙の辿った道が、僕にははっきりと知覚出来た。
そして、肺に流し込まれた煙は、異物として僕の胸のあたりを激しく刺激する。急激に肺が膨らんでいくような感覚。が、次第にそれは親和して、全体に溶け込んでいくよう。侵されているのか、心地良さよりも、もっと別の熱さ。
「ひと思いに吐き出す」
膨張しきったかのような肺の高揚感を、僕は一気に体外へと押し出した。攪拌され、均等な白い吐息となって、煙は夜の大気に溶け込んだ。
僕の初体験の、タバコの味。
「……どう?」
先輩がにやりと笑って、尋ねた。してやったりというような表情。或いは、僕をこちら側に引きずり込んだからか、彼女のサディスティックな一面を見た気がした。
僕はそれに答えずに、もう一度、二度と、立て続けに一連の動作を繰り返した。味わうことはせず、機械的に、タバコを吸ってみた。
次第に慣れていく感覚と共に、ふと体が浮くような、軽くなった錯覚に見舞われる。反面、思考は制動をかけられたようにその速度を落としたとように思われた。例えるなら、酩酊感とでもいうのだろうか。生憎と僕は飲酒をしたことはないけれど。
気持ち悪い、かな。と、僕は多少鈍くなったらしい思考を働かせて、やっとそんな言葉を絞り出した。
彼女は、頷いた。まるで最初から分かり切っていた答えを聞いたように。そして、一言。
「大学生だね、君も」
彼女が何故そんな言葉を口にしたのか、僕には到底理解はできなかった。彼女のプレゼントがそうさせたのだとも思ったが、本当のところはどうなのか、やはり、分からない。
少なくとも、僕は吸いさしの自分のタバコを、このまま放りだすこともせず、結局最後まで肺にとりこんだ。
僕の孤独ではない誕生日、先輩に祝われ、大学生と称されたこの日、形ばかり大人となり、初めて女性からもらった誕生日プレゼントは、僕の肺にしっかりと刻み込まれたのだ。
それは、僕と先輩の傍らで、広瀬と邑井が水死体の如く川を流れていくことさえ、どうでもいいことと感じさせるくらいに、僕の心にもしっかりと刻み込まれたのだった。
***
後日談を語るとすれば、きっとあの事をおいて他にないだろう。
翌日、先輩の助力もあり、課題はギリギリのところで完成した。邑井と広瀬も、消防の協力で何とか無事だった。そして、僕たちの課題は偏屈教授に受理され、やっと事なきを得たのである。
が、生憎と僕には、その日アルバイトの予定があった。あるファストフード店での勤めであるが、まさに体力の限界に達していた僕である。多少の時間的余裕を持っていたこともあり、僕は途中立ち寄ったコンビニで、ふとタバコを買う気になったのである。
とは言え、タバコの何たるかも知らぬ僕である。レジの後ろに大量に並んだそれらを、店員の肩越しに多種多様な銘柄を覗いて、僕はその中に、比較的見知ったものを見つけた。
名札に研修中のシールを貼った店員に、僕はマルボロと告げた。すると、店員は怪訝な目で僕を見つめ、その後、釈然としない様子で頷いた。そうして差し出された紅い小箱を受け取って、僕はコンビニの前に据え付けられた灰皿の前に来た。
ぴっちりコーティングされたビニールのフィルムを爪でひっかいて剥し取り、銀紙を破いて、やっと現れた紙巻きを唇で咥える。先ほど一緒に買った百円ライターで、おっかなびっくりタバコに火を付けてみた。
チリチリと先端が燃えだし、現れた煙を肺に一気に吸い込む。そして僕は――
思い切りせき込んだ。
吸いさしのタバコは灰皿へ。まだ一本分の隙間しかない、真新しい煙草の小箱は、燃えるゴミ箱へと叩きこんだ。
あれは、人間の吸うものではないに違いない……が、先輩のタバコ、あれは何という銘柄だったのだろうか。
――今度会ったら、それを聞くことにしよう。