第7話 『壁に耳あり障子に目あり』
「……ちょっと、早く起きたかな」
ふと目が覚めた俺は、ベッドから上半身を起こす。
窓の外はほんのりと白んでおり、明け方が近い事が窺える。
喉の渇きを覚えた俺は、傍にあった水さしに手を伸ばした。
「ん、空っぽか」
木のコップに注がれたのは、僅か二滴。
明け方ならば、ノワールさんが起きているかもしれない。
俺は代わりをもらうべく、水さしを手に部屋を出た。
「――、――」
「――」
何かを話し合う二人の声が聞こえたのは、廊下の曲がり角前だ。
一人はフェリア。
そしてもう一人はミィアだった。
「だから私が何とかするって……」
「ありがとうミィア。でももうずっと前から決まっている事なのよ」
こんな時間に、ミィアは何の用なのだろう。
彼女の声には焦燥が含まれており、ただごとではない事が分かった。
それに対して、フェリアの声は穏やかだ。
「他の誰にも務まらない……これはいわば、私の運命よ」
「だからって何もせずに受け入れるのはおかしいわ! 今、王都に使いを出してるの。フェリアのために私だって――」
「それだけは止めてっ!」
静かだった廊下に、フェリアの声が反響する。
彼女の怒鳴り声を初めて聞いた俺は、その場から一歩も動けなくなってしまった。
「もう、お父様みたいに、私の大切な人が傷つくのは見たくないの」
「でも……」
廊下の角から顔だけ出して覗いてみると、フェリアはミィアを抱きしめていた。
フェリアは後ろ姿で表情までは見えなかったが、ミィアの方は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「いいのよ、ミィア。それにね……私、前よりもずっと怖くないの。それはきっとハルトと出会ったからよ」
「あいつが……?」
「ハルトは私の事を、一人の女の子として接してくれるの。一緒にいると楽しいの。必死に生きようと頑張ってるハルトの姿を見てると、とっても励まされるの。後ろばかり向いていた自分を、変えられるの」
ミィアの銀髪を撫でながら語るフェリアの声は、これまでで一番優しかった。
それはまるで、小さな子供に言い聞かせるかのような声音だ。
「だからハルトが笑っていられるように、したいの」
二人は抱き合ったまま、沈黙してしまう。
静寂の中で、やがてミィアは幼馴染から体を離した。
「フェリアの考えは分かったわ……でも、私は諦めない」
「昔からミィアは頑固ね」
「その通りよ。そして、すっごく諦めが悪いんだから!」
ミィアは唇を引き絞ってから、踵を返した。
階段を下って行くその背中が屋敷の外に出るまで見届けてから、フェリアは自室へと戻っていく。
「何だったんだ……一体」
実績解除『壁に耳あり障子に目あり』
解除条件:人の話を盗み聞きする。
解除ボーナス:スキル《隠密Ⅰ》の習得。
その場に残された俺は、聞いてしまった少女たちのやり取りを思い返す。
分かったのは、フェリアが何かを抱えているという事だ。
そしてそれを良しとしないミィアが、何とか彼女の力になろうとしている。だが肝心のフェリアはそれを望んでいない。
その理由は――俺、戈木晴人だという。
「俺が、彼女の何かを変えた……?」
考えてみても、さっぱり分からない。
この世界に来てから、俺はまだ何もしていない筈だ。
それとも……しなかったから――本当は特別なフェリアを特別扱いしなかったから――
「ハルト様」
考え込んでいた俺に話しかけたのは、ノワールさんだった。
彼女はいつもと同じメイド服姿だったが、その表情は心なしか強張っている。
「何かを……お聞きになりましたか?」
聞いたと言えば、その通りだ。
けれど何一つ理解は出来なかったから、俺は彼女に改めて問う。
何が起きているのか。あるいは、何が起ころうとしているのか。
「ノワールさん……フェリアは、何を隠してるんですか?」
しかし全てを知る筈の彼女は、答えの代わりに深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。その件について、フェリア様からは何も話すなとのご命令ですので」
「でも……っ!」
「……ご理解下さい」
頭を上げたノワールさんの目には、強い意志が宿っていた。
彼女にとっての主はフェリアだから、客人の俺がそれを覆す事は出来ない。
でも。
「ノワールさん……」
一回限り、メイドに何でも命令出来る。
俺は実績解除のボーナスで、そういう特典を手に入れた。「話せ」と命じれば、彼女は簡単に口を開くだろう。
「……分かりました。自分で、本人から聞きます」
けれどそれは――何かが、違うような気がした。
だから俺は一礼してから、水さしを手に水汲み場へと向かう。
「ただ一つ言える事があるのなら……」
背後で囁く、ノワールさんの声。
そこには幾ばくかの安堵と、そして諦観が込められているような気がした。
「あなたがこの屋敷にいて……フェリア様の傍におられて、良かったという事です」




