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読んでも読まなくてもどっちでもいい

世の中からこぼれ落ちて

作者: 阿部千代

 明け方。夜を働く妻がそろそろ帰ってくる時間だ。だいぶ酔っているだろうから、ぼくはしじみの味噌汁を作る。

 オルニチン。ケーブルテレビのプロ野球中継の合間のコマーシャルを信じるなら、二日酔いにはオルニチンらしいのだ。オルニチンと言えばしじみらしいのだ。

 砂抜きを済ませたしじみをざるにあける。昆布が鍋のなかで泳いでいる。ことこと聞こえてくる。昆布を引き上げる。うすく色のついた鍋の中にしじみを入れる。むかし観たアニメ映画のワンシーンでセイウチに食べられそうなカキの子どもたちのことを思い出す。

 鍋の中が白く濁ってゆく。灰汁をおたまですくっては、シンクに捨てる。火にかけた鍋を見張っているのが料理の中で一番好きな瞬間だ。集中するでもなく、忘れ去るでもなく。とりとめのないことを考えながら、鍋の状態を気にかけながら。そろそろかな、独り言をつぶやき味噌を溶く。いいにおい。すっかり味噌汁になりやがって。

 少し小皿にとって、味を見る。子どものころは嫌いだった。食卓に貝の味噌汁がのぼると、頼むから素直な味噌汁にしてくれよ、と思ったものだ。今は、うまいと感じる。


 妻は帰ってこない。時計は七時を示している。足音やスクーターのマフラー音で世の中が動き出しているのを感じる。遅くなる時は連絡が欲しいと何度伝えても、妻はそれを守ったためしがなかった。

 しじみの味噌汁を冷蔵庫に入れる。何でもない日に唐突に花束をあげるような感覚で用意したロマンチックなしじみの味噌汁だったけど、ぼくのあては外れたようだ。もはや、帰ってきたとしても妻は泥酔状態だろう。

 なんとなくつけたテレビではいつもと同じようなニュースを、アナウンサーが訥々と読み上げる。昨日は有名な脚本家を含め、198人が確定したようだ。その中にぼくの知人はいるだろうか。いたとして、ぼくはそれを知るだろうか。人付き合いを断ってから、ずいぶんと経った。もしかしたら、ぼくも確定したと思われているかもしれない。それはそれで、結構な話だ。


 正午を過ぎた。いくらなんでも遅い。ついにその時がきてしまったのだろうか。いや、彼女のことだから。同僚の女の子の家で寝ているか、まだ飲み続けているか、そんなところだろう。

 電話をしてみる。彼女の携帯は充電が切れているようだった。よくあることだ。前にもあった。前は帰ってきた。今回は? 帰ってくる。はず。

 ぼくは外に出てみる。知る限りの彼女の店関係の人の家を回るつもりだった。訪ねるつもりはなかった。停めてある自転車を見ればわかる。

 外は暑かった。とてつもない暑さだ。腕に巻いたタイメックスを見ると13時を過ぎている。

 去年のクリスマスに妻が腕時計をプレゼントしてくれると言った。ぼくがタイメックスを選ぶと、彼女は遠慮しないで、と不満げな顔をして言った。確かにぼくは遠慮をしていた。本当はハミルトンのベンチュラが欲しかった。遠いむかしの憧れ。エルヴィスがしていたやつ。ただ、その時のぼくはハミルトンに合う服を持っていなかった。今も持っていない。二十代のころは服をいっぱい持っていた。全部、人にあげてしまった。

 あまりの暑さに自販機でポカリスウェットを買った。やっぱりポカリスウェットは缶が一番うまい。ペットボトルとは比較にならない。鋭いうまさだ。一気に飲み干す。自販機の横のゴミ箱がいっぱいだったので、脇に置いておいた。ぶうんと音をたててオオスズメバチが飛んできた。ぼくは大袈裟に後ずさって、逃げた。


 みさきちゃん、レイラちゃんの家には妻はいないようだった。あとぼくが知っているのはゆめちゃんの家だけだ。ゆめちゃんのマンションの場所はぼんやりとしか覚えていない。ぼくが滅多によりつかない方にある。

 靴下を履いてくればよかった。足は汗まみれで、これではスニーカーが臭くなってしまう。リーボックのスニーカー。復刻モデルとかなんとか。これも妻に買ってもらった。原宿のばかでかいスニーカー屋だった。ぼくの履いている靴が全てボロボロになってしまったので、その時は3足も買ってもらった。リーボックが二足とナイキが一足。ぼくはリーボックが好きだ。妻はナイキが好きだった。妻の履いているエアハラチライトはぼくが選んだ。とても綺麗なスニーカーだった。妻にすごく似合っていた。中学生のころの憧れのスニーカーだった。あのころ欲しくてたまらなかったスニーカーを妻が履いているのは、なんだか不思議な感じだ。


 駅の向こうに出る。こっちに来たのは久しぶりだ。最近は外に出ると言ったらスーパーに行くか、妻と近所に飲みにゆくぐらいのものだった。妻と店で飲むのは楽しい時間だった。普段はあまり喋らないぼくが目に見えて饒舌になった。自分でも滑稽なほどだった。妻はそんなぼくを見て、いつも笑っていた。


 ぼくがこうしている間に妻は家に帰り、連絡が入るかもしれないので、携帯の画面をひっきりなしに見ていた。中年の男とすれ違いざまに舌打ちをされた。放っておけばいいのに、ぼくは振り返った。男も振り返ってぼくを見ていた。放っておけばいいのに、ぼくは、

「なにかようですか?」

 放っておけばいいのにと思いながらも、ぼくはしっかりと挑発の響きを言葉の端々に出していた。

「————かよ!」

 男が何か言った。たぶん、危ないじゃないかよと言ったんだろう。(携帯見ながら歩くなんて)危ないじゃないかよ、そう伝えたいんだろう。

「危ねえじゃねえかよ!」

 今度は聞き取れた。はっきりと聞き取れたが、

「いや全然聞こえないです」

 よせばいいのに、放っておけばいいのに、挑発をまた、した。

 どうしてこんなことをするのか自分でもわからなかった。どうしてぼくは、いつもこんなことをするんだ。何度疑問に思っても、本当にわからない。

 男がこっちに向かってきた。

「携帯みながら歩いてんじゃねえよ、ぶつかりそうになったじゃねえかって言ってんだよこのやろう」

 男は目を見開いていた。だいぶ怒っているようだった。背はぼくより低かったが、鍛えているらしく上半身の筋肉はそれなりについていた。だが、殴り合いになってもぼくの方が強いと思った。男は笑ってしまうほど冷静さを欠いているように見える。ぼくが全く怖じ気づいていないのに、戸惑っているようだった。

「それくらいでそんなに怒ってるんですか。実際にはぶつかってないでしょ」

「だから! ぶつかりそうになったっつってんだよ、ボケ」

 ボケと言われて、ぼくもカチンときた。ぼくはボケかもしれないけれど、この男にはそんなことを言われたくなかった。放っておけばいいのに、ぼくは少し残酷な気持ちになった。

「ぶつかりそうになったって、あなた。そんなのお互い様じゃないですか。ぼくは携帯をみていたけど、あなたを認識していましたよ。で、ぼくはあなたを避けたはずです。ぼくからすれば、あなたがわざとぶつかりにきたように見えましたけど」

 嘘は言ってない。たぶん、男は最初からぼくに怒るつもりだったんだろう。マナーとかルールとかそういうものを持ち出して。ぼくにわざとぶつかって、筋肉で脅して、謝るぼくを見てストレスを解消しようとしたんだろう。

「お前、何言ってんだ、逆ギレかお前!」

「逆じゃないですよ。あなたさっきから失礼ですね。なんで初対面のあなたにボケとかお前とか言われなきゃいけないんですか。大体、そこまで怒ることですか。あなたどれだけ余裕ないんですか」

 ぼくはもう飽きていた。この男は弱かった。ここまで弱いのにどうして他人につっかかってこれるのか、不思議なくらいだった。男は鼻毛が出ていた。

 よせばよかった。放っておけばよかった。他人が悪意を少しでもぶつけてくると、ぼくはどうしてもそれに反応してしまう。こういうところがぼくの悪いところだった。こんな男よりも妻だ。

「お前がガンつけてきたんだろうが!」

「いやあなたが舌打ちしたから、なんだろうと思って振り返っただけですよ」

「舌打ちなんてしてねえよ!」

 嘘だ。ぼくが振り返った時にはこっちを睨んでいたくせして、どうしてそんなことが言えるのか。

「ああ、そうですか。それじゃぼくの聞き間違いですね」

 ぼくはそう言って、男を置いて歩きだした。嫌な気持ちだった。男も余裕がなかったが、ぼくも同じくらい余裕がなかった。男ははっきり言って最低なやつだったが、それに構うぼくも最低だった。妻はまだ消えたと決まったわけではない。確定したわけではない。ぼくは今にも泣きそうだった。


 夕方。当然のように妻は見つからなかったし、帰ってきてもいなかった。世界中で人が消えるようになってから、ずいぶんになる。前触れもなく消えてゆくのだ。朝のニュースで198人と言っていた確定者の数は夕方になると246人に増えていた。なんだか最近、確定者の数がどんどん増えている気がする。妻もその中の一人になるのかも、と思うと怖かった。

 ぼくは妻を失いたくない。妻が消えてしまったら、ぼくはどうすればいいのかわからない。

 しじみの味噌汁。妻の喜んだ顔が見たかった。こんながらにもないことをやってしまったから、妻は消えてしまうのかもしれない。ぼくは涙を流した。最後の会話すら思い出せなかった。不安で仕方がない。お願いだから帰ってきて、ぼくは言葉に出していた。腹も減っていた。

「あっ」

 突然思いついた。そうか、そうか、ぼくも消えればいいんだ。なんで思いつかなかったんだろう。そうだ、そうだ。今ならどこに行けばいいのかわかる気がした。部屋のドアを開けると、隣の部屋の奥さんが通り過ぎていった。虚ろな目をしていた。ああ、なんだ、ぼくと一緒だ。みんな一緒なんだ。ぼくは安心して、彼女の後についてゆこう。妻もきっと、そこにいるはずだった。 

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