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個の存在を認識する。
これに名前と言うものは果たして必要なのか。
臭いや模様、声、体格。
自分の存在とは違う物を区別することによって、今まで自分という個の存在を認識して生きてきた。
繁殖期になれば、己の強さを競い合い、本能が命ずるままに身体が目的の為に機能する。
生きる為に、生きる。
それが本能に刻まれた宿命とも言えるものだった。
そこに己の意思は存在せず、本能そのものが意思といってもよいだろう。
個は群れの為、子の為、種が生き残る為の道具であり、階級、強さの差はあれど本質的に変わりはなかった。
強き者が落ちれば次の強き者が現れ、子を無くせば次の子が現れる。
ただ人間という生物は違った。
言葉を交わし、個の意思を伝え、個の存在を確立している。
そして名前と言うものを持ち、そこに自らの存在を自らで認識していた。
名前と言う者がなければ、無数の個の群れの中で、己すらも認識出来ない生物なのだ。
『己』という生き物。
そして今、この目前の男に名前を付けられ、己が『己』である事を認識させられた。
存在が固定された中で、初めて意識の中で様々な感情が顔を上げ始める。
疑問、恐怖、満足、空腹…耳から、鼻から、目から、身体から届く膨大な情報が、一度意識を介して次々と『己』に問いかけてきた。
何を思うか。何を感じたのか。何をするか。
ーお前はどうしたいのかー
その問いの返答に戸惑いを覚えていた。
生きる。
ただこの答えだけでは、そこには個の主張、個の意識が足りなかった。
今、何を思う。
「結構いい名前だろ?漢字で『多い雨』って書いて『多雨』って書くんだ。お前も気に入ったか?そうかそうか」
男の手が、迷う頭を遠慮無く撫で回す。
頭が撫で回されグルグルと視界が回る中、単純な答えに返答出来ずにいた。
「タウは牛乳だけで腹一杯になるのか?後で美味そうなドッグフードを買ってきてやろう。確かコンビニに売ってたはずだよな」
男は立ち上がって、満足気に頷いた。
「本当に飼う気なの?ちょっとは考えてから行動しないと、いつか痛い目に合うわよ」
「しっかり躾ければ、頼りになる番犬になるさ」
「どこの誰が躾るっていうのよ。それにこのワンちゃんにとって自分が飼われる事が良いと思うとは限らないわ」
そんな会話を耳にしながら、空腹感満たした物とは毛色が違う満足感が、心の中を少しづつ満たしていく。
何かが意識の中で生まれ、高揚感に似た感情が心の底で小さく揺らめいていた。
今までの経験や記憶、光景、それら全てが意識の中、本能という地面の上に『個』を証明しようと『認識』を構築していく。
次々と積み上がっていく個の認識。
それらが砦を作り、境界線が生まれ、その中には『タウ』という名前の『俺』が鎮座していた。
己は、俺だ。
それが今、証明された。