1-6
階下から響く爆音に女は特に警戒する様子もなく、いつの間にか手に取っていた容器を口に運んでいた。
その爆音も暫くした後、余韻も感じさせずに消え、細かく震えていたこの空間の空気も落ち着きを取り戻す。
「ちょっと散らかしちゃったけど、いっか。あ、荷物も車から出さないとねぇ」
ふうと小さく息を吐きながら、女が背を向けているソファーにゆっくり、深く腰を下ろす。
バタンという音が聞こえ、足音が徐々に近づいて来た。
女がその存在に気を回していないという事は、突然の侵入者でもなく、予定調和であったらしい。
それでもこちらの身体は自然と強張り、緊張で僅かに乾き始めた口周りを静かに湿った舌が通り過る。
視線が扉に集中していると、そこから1人の男が姿を現した。
「ただいまー。いきなり雨が降ってくるんだもんな。昨日洗車したのに何でいつもこうなるんだろ」
座って何かを飲んでいる女とは対照的に、分厚い布を全身に纏う薄茶色の毛の男。
まれに人間が日差しが強い晴天に身に付けている物がその男の目線の向きを遮り、その下の瞳も伺い知ることが出来なかった。
「うわ、ちょっと姐さん!いい加減そんな格好でウロつくなよ!服着て服!」
どうやら女の防御について、異議があるらしく天を仰ぎながら言葉の語尾を強める。
「別にいいじゃないのよぉ、減るもんじゃないし。こうやって思い切り開放感を味わうのは、心の健康にとってもいいのよ」
「少しはこっちの心の健康の事も考えて欲しいんだけど…」
大きく溜息をついて、今度は床を見る様に項垂れる男。
「彼女作る前に、しっかり成熟したオンナの魅力を目に焼き付けるのも、男の努めよん」
「何言ってんだか…俺の務めは、姐さんをさっさと嫁に出すことだよ。って、うお!犬ぅ!?」
男の顔に付いている虹の様な煌めきを反射する板でその視線を感じる事は出来ないが、間違いなくこちらの存在を認識していた。
立ち上がってその男を正面から見据え、その動きを一切に見逃すまいと意識を集中させる。
「ちょっと、何で犬がここにいてマッタリくつろいでんのさ。まさか拾ってきたの?姐さんが?」
そんな事を言いながら男がこちらに向かって歩いてくるが、この人間も何か危害を加える様な印象は感じられなかった。
「まさかぁ。ガレージに迷い込んだのか、ずぶ濡れで寝てたのよ。それであたしが帰って来たのに驚いて逃げようとして怪我したみたい」
遥か上からこちらを見下ろされる気分は決して良いものでは無く、頭上から降り注ぐ威圧感に反応して、喉の奥から唸り声が漏れる。
男はそんなこちらの経過も意に介してないのか、目の前でまたしてもしゃがみ込んだ。
「ふーん、…シェパード?いや、雑種かもしれないけどシェパードの血がかなり濃く入ってるかもね」
「あら、意外に詳しいのね」
「まぁ俺、結構動物好きだし。よく見ると目がうっすら赤見がかってる。ぱっと見、光の反射かと思ったけど面白い目だわ。突然変異かな」
「そうなのよ。綺麗な色してるわよねぇ。見方を変えればかなり目付きが悪くも見えるけど。あぁ、あまり触ろうとしない方がいいわよ。うっかり噛み付かれましたとかやめてよね」
「そりゃ警戒はするだろうさ。でもそこまで気が立ってるわけじゃないし、大丈夫だよ」
この男には僅かに覗いているはずのこの牙と、小さく響く唸り声が認識出来ないのだろうか。
それとも負けないという自信が何処かにあるのか。
通常なら多少の恐怖や戸惑いが伝わってくるものだが、女と同じく全く感じない。
いやむしろ先程の女の時より大きな、隠そうともしていない好奇心や冒険心などの類の雰囲気が伝わって来る。
「んー…そうだな…」
相変わらず視線の向きはわからないが、こちらの身体を見ているのだろう。
何を考えているのか、まるで見えてこない。これもまた意識の奥に恐怖の種を蒔いていく。
そんな事も関係無く、男も小さく唸っていた。
対抗心の表れだろうか。
「よし、お前の名前は『多雨』だ!はは、我ながらいい名前じゃん!さっきいきなり降って来やがった雨ってイメージって感じだな」
おもむろに立ち上がりながら、叫ぶ男。
その顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。
「はぁ!?ちょっと待ってよ。名前を気前良く付けちゃってるけど、何?この犬ここで飼うつもりなの!?」
その口調の音程から察するに、どうも女にとっては男の発した言葉は満足出来る物ではないようだ。