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思わぬ誘惑に気を取られ、油断していた。
頬の辺りに感じる女の掌の気配が急速に大きくなり、口から中途半端にグゥと唸り声が漏れ出る。
その気配に敵意は感じないとはいえ、またしても拘束されるのか、それとも。
首を捻ってその手を回避するも、先手を取られた上に先回りして動く女の手が首筋に触れた。
やはり喉元、急所を狙ってきたか。
敵意が微塵も無い事に若干の違和感を感じつつも、戦闘開始のリスクを含んだ上で、今度は本当の唸り声を発しながら牙を剥く。
が、それでも柔らかく首筋に当てられる手は離れない。
そう来るなら仕方ない。
「…アナタ、綺麗な眼をしてるわね。本当に綺麗。空みたいに青い眼ね」
その瞬間、今まで発せられる事が無かった女の気配が、掌を通じて首筋にゆっくりと伝わって来た。
哀しみに似た、それでいて僅かに温もりを含む気配。
未だかつて感じた事のない感触がジワリと首から広がっていく。
自然と唸り声が細くなり、再び目線を上げると小さい頃に感じた優しさを秘めた女の瞳。
暫くの間、脳内で危険を伝える本能と、久しく感じていなかった気配が生み出す穏やかな感情がせめぎ合いを繰り広げていた。
その結果、ゆっくりと掌から身体を離すという、中途半端な行動を起こす羽目になる。
「いきなり触ったから怒るのも当然ね。安心して飲みなさい」
そう言うと女は立ち上がり、離れていく。
何かを失うような、その離れていく感覚が、かつて同じくこの青い眼を警戒して離れていく仲間と重なった。
水飲み場の水面に映った自分の眼が、仲間の色と違う事に気が付いた時の事を思い出す。
ただ頭を下げて覗き込んだ、目の前に置かれた容器に入った白い液体は何も写してはいなかった。
女との距離が十分に離れている事を確認すると、その液体に鼻を近付けて異物の臭いがしないか最終確認を行う。
ただそれに要した時間は、驚く程に短い。
舌で容器に満たされた乳の表面を叩き、その衝撃で盛り上がった部分を瞬時に掬い取る。
口に中に広がる甘い乳の味と鼻から抜ける脂肪の香りが、より一層の食欲を刺激し、舌の動きを加速させた。
空腹を十分に満たす訳ではないが、それでも胃にそれを流し込む度に、全身に暖かみとエネルギーが行き渡る感覚を覚える。
リズムカルに舌が動き、乳を喉に流し込む音が内側から鼓膜を震わせ、胃の付近から得られる充実感が欲望を満たしていった。
そして暫くの間、警戒しながらとは名ばかりの勢いで乳を飲んでいると、常に立てている耳が外から徐々に大きくなっていく重低音を捉える。
それもかなりの速度でこちらに向かっているようだ。
「あら、もう帰ってきちゃったのね。この子のご飯を買ってきてって連絡しようと思ったのだけど」
その音に気が付いたのか、音の方向を向く女の言葉の最後を掻き消すかのように、その爆音がピンポイントでこちらに向かって迫ってきた。
流石に乳を貪っている状況ではなく、口の端から白い乳の雫を落としながら態勢を低くして周囲を見回す。
ブオゥーンッと同胞の雄叫びに似た音程で、余韻を残しながら床下から爆音が突き抜けてきた。
床や周囲の空気が小刻みに震え、その発信源が真下で停止する。