1章 存在固定
職務を半ば放棄していた耳に飛び込んでくる轟音。
全身に緊張が走り、本能が無理矢理に彼岸の彼方より意識を呼び覚ました。
溢れんばかりの光で真っ白に染まる視界。
状況を把握するのに、僅かだが判断や理解のタイムラグが生じるが、過去の経験や記憶がそれをカバーする。
排気音を撒き散らし、タイヤを軋ませながら乗り込んで来た車の影。
ただ自慢の瞬発力で立ち上がって走り出そうにも、目が眩んでいてはその恩恵も半減するのは明らかだった。
辛うじて視界が戻ったのも束の間、更に追い討ちをかけるように、モーター音と金属が軋む音が響き、事もあろうに入り口が徐々に狭まっているのが見える。
どんなに優秀な脚力でも、閉じ込められてしまえば威力を発揮出来ない。
ここは多少、危険を冒してでも逃げなければと、意識が朦朧としている箇所を置き去りにして覚醒し、ほぼ反射に近い反応速度で体温で温まった地面を蹴り上げ猛然と走り出す。
しかし数歩跳躍した所で、まだ完全に戻り切っていない視界に散りばめられる火花。
そしてほんの僅かなタイムラグと経て頭に響く、鈍く重い衝撃と衝突音。
身体に降り注ぎ、全身を打ち続ける大小様々な物体が身体にはのし掛かり、積み上がっていく。
危険な賭けは、一瞬の内に敗色が濃厚になり、衝撃で揺れ動く意識と視界の先で口を開けていた出口が塞がっていった。
それでも、必死に抜け出そうともがく。
もう無理だと意識が諦めても、本能がそれを許してくれる訳もなく、虚しく空転する力。
急速に低下していく確率に、もがく力も薄れていく。
倒れた身体の横に赤い車が停まり、視界が遮られ、そして出口が閉まり切ると同時に目の前に広がるはずだった外の景色も遮られた。
ガチャリという音を立て、目の前にそびえ立つ赤い壁の扉が開き、日本の細い脚が飛び出す。
そして周囲の視界が明るくなった。
先程の強烈な光の濁流では無く、周囲を完全に把握することの出来る明かりに照らされて、ようやく我が身に降りかかった災難の正体を掴む事が出来る。
この空間の壁際には様々な物体が積まれていて、そして俺の下半身の上にも金属の棒や、用途不明の物が折り重なって鎮座していた。
とくかく動けない。
物理的にも精神的にも、身体が見えない鎖に絡みとられたように。
そして次第に背筋を恐怖や困惑、様々な感情が混じり合った冷たい電流が走り始める。
コツ、よく響く足音を立てて、この体たらくを見下ろす人影。
逆光になり詳細は分からないが、花か果実の香りが僅かに蠢くこの場の空気に乗って流れて、鼻の奥をくすぐった。
「あー、もう…メチャクチャじゃないのぉ。ちゃんとガレージ閉めないからこうなるのよ。あの子が帰ってきたらお仕置きしなきゃね」
声色からして女。
そして、目の前の女よりも赤い車の後部座席から漂う、奇妙な感触。
特に慌てる事も無く、腰に手を当てて何やらまだ呟いてい女が不意にしゃがみ込んで手を伸ばしてきた。
「とりあえずこの荷物退かすから暴れないでよね。よい…っしょ…」
退かすというよりは払い退けるように、荷物を1つ1つ排除していく女。
徐々に身体にのし掛かる重みが減っていき、いけると確信した瞬間、残りの荷物を跳ね除けて勢い良く駆け出した。
「ちょっ…きゃっ!」
ガシャンという音と共に、小さく聞こえる女の悲鳴。
僅かに首を回し、視界の端にその姿を捉えたが、あまりの勢いに尻餅をついてしまっているようだ。
だがしかし、目指すべき出口は閉じられ、大地を蹴るべく次の力を溜め込む足も上手く力が入らない。
どちらにしても、自力でここを脱出する事は出来ず、ましてや先程の失態で負傷したようだ。
急激に襲いかかってくる絶望と脱力。
頭を支えていた首ですらその緊張を緩め始め、首が垂れていく。
この空間を取り巻く冷たい空気が、重くのしかかってきた様な錯覚を覚え、足からも重力に逆らう意思が抜け身体も地面に吸い寄せられていった。
「あらもう…怪我してるのに無理するからでしょ。とりあえず見てあげるから大人しくしなさいよね」
そう言いながら立ち上がると、ゆっくりと近付いてきて目の前でしゃがみ込む。
警戒心がないのか、それとも度胸があるのか。
これから先、どうなるのか。必要ならば無理をしてでも隙を見て動かなければならない。
そう思案を巡らせていると不意に首筋を撫でる女の手の感触。
思わず、ビクリと身体を震わせた。
驚いて女の顔を見上げると同時に、視線の先の桃色の唇が動く。
「一体、あなた何処から来たの?酷く汚れてるし臭うわねぇ…とりあえず事務所の中に連れて行くわよ。また散らかされたらたまらないし…わかった?ワンちゃん?」