沈黙を破る 8
マギーは重役秘書の経験もあるので、そこそこ高級店での会食もしたことがあったが、全てビジネスで、仕事上の事であった。
それが……。
家まで送るから、と運転手付きの車へ拉致され、そのまま「家に帰りたくないから」と今時ティーンでも言わないような青臭いセリフを吐いた上司の無言の圧力に負け、フレンチのステーキ屋へ連れ込まれ、今、極上の和牛サーロインをマギーは食している。勿論、支払う気はない。
「俺はずっと兄貴の言う通りにしてきた。何でも『はい』と答えてさ」
「……はい」
ネイトはハンバーグ。レアで頼み、ムール貝を別にオーダーして海と陸の晩餐である。マギーも少し貰ったが、非常にジューシーで潮の香りがバターと合い、流石高級店という一皿だった。
でも、貧乏人はサーロインがごちそうなのである。
「だから嫌な気がしたんだ……。造船に入れって言われたとき、断ろうとした。そしたら当時付き合ってた彼女から先手打たれて『別れましょう』と言われて……」
「何故ですか?」
「恐くなったって言われた。家格が違い過ぎるんだってさ。俺にしてみれば、最初から分かってて付き合ってるんだ、今更そんなの理由にならないと思う。でも彼女は戻って来なかった」
「結婚となると、現実問題ですからね」
「ああ、恋愛と結婚は別ってやつだろ?チープだな。それに彼女は俺の家が怖くなったんじゃなくって、本当は兄貴を恐れたんだと思う。弟の俺が言うのもなんだけど、兄貴は人たらしでさ、いつも誰かしらに囲まれているんだ。兄貴は、彼女の実家に販売提携を持ち掛けたそうだ」
「いい話に聞こえますが」
チャーコールの香りが残るミディアムレアの肉を味わっていながら、マギーは形式的に相槌を打つ。これも秘書のスキルである。
「彼女の実家は老舗の薬局で、一応いくつか支店もある。兄貴としては純粋に商売を大きくしたかったのかも知れないけど、ご両親とご祖父母は断った。あの人たちは大きな成功より、地元への地道な貢献を選ぶ家族なんだ。だけど兄貴は理解できなくて、これも交渉の一つなんだと考えて、もっと大きな金額と提携案をだしたんだってさ」
「……しつこいんですね」
「だろ?先方は流石に気を悪くしたみたいだよ。ただこの話も、別れてから彼女に聞いたんで、俺は知らなかった。ともかく、彼女はそれから結婚について真剣に考え始めたんだってさ」
「結婚すれば、親戚になりますからね」
「で、彼女は実家を選択した。俺が婿に入ろうが関係ない、兄貴は出しゃばってくるだろう、って。それが別れ話の内容なんだから、嫌になってくるよな」
俺は家を捨てる気だったのに、彼女は家を捨てられなかった。つまらん。
「で、婚約者だが、幼馴染と逃げた」
「複雑ですね」
「正式にはまだ婚約もしてなかったし、お見合いのような顔合わせから始まったから、仕方ないがね」
お坊ちゃまはどんよりしながらも、テーブルマナーのお手本通りにハンバーグを口に入れる。きっと、付け合わせの野菜も優雅に食べるであろう。『一般人』との触れ込みの『元カノ』も、ある程度のお嬢様であったのだろうな、と思う。でなきゃ、こんな人と付き合えないもの。
「ユミは俺の為には家を捨てられたが、その男の為には家でなく俺を捨てることが出来た、ってわけだ」
ここは、その通りですね、と言っていいものか…悪いものか…いや、よくないだろう。
「それは考えすぎですよ、ネイト。こんなの縁ですよ、縁!」
自分で言っていてその言葉のあまりの白々しさにくじけそうになるが、このステーキ代分は働かなければならないので自分を叱咤激励する。
「誰が何と言おうと、縁ってあるんですよ!だから、これは比較しても意味がないです」
白々しい。




