転職しない理由 10
半年たつと、新事業としてフランスの製薬会社との取引も始まり、生化学事業部は一気に大黒字部門へと変貌を遂げた。
許認可手続きは本当に細かく、マニュー国の既存製薬会社と提携もしなければならなくて、既得権益とは厄介なものだとマギーは思った。どうりで以前のレイチェルは売上貢献に消極的だったわけだ。紡績部門がもうかっている時代は、彼女は決して生化学事業に焦点を当てられないように逃げ回っていたのだ。下手をすると、既得権のあるライバル他社から、何らかの作為的な工作をされる可能性があったのだ。
しかし今は、ジョーンズ家の肝いり。
しかも、ケネスは造船本社の名前を出し、既存製薬会社の経営陣の同意を取り付け、ロイヤルティを多少払う形で納めた。ここは、『人たらし』のケネスの独壇場である。
ネイトはやっぱりな、と自嘲しつつ、静観した。実際、兄貴のやっていることは造船本社にも、グループ全体にも、そしてもちろん生化学事業部にも利益をもたらす。異論はない。
異論はない、のだが。
……やっぱり苦い思いがこみ上げるのは、何故だろう。
社長室でメールを眺めていると、レイチェルから内線が入った。
「たそがれてる?」
彼女は本当に、ずけずけとものを言う。デリカシーというものがないのか……
ないな。
「多少ね」
「とりあえずジョーンズ家にはお礼申し上げますわ……。でないと多分言いがかりで訴訟になるかも知れなかったもの」
「俺も兄貴もその点は考えていたから大丈夫だよ。フランスの方も多少買い叩いたが、他社と契約していたらもっと売値は下がっていただろうし、喧嘩する方が負けさ」
「じゃあね……生化学事業部をもう少しひいきしてよ」
「どういう意味だよ」
「マギーを食事に誘うとか、さ」
「そ……」
思わず、ネイトは絶句する。そ、それはやってみた、しかし、マギーはいつも『忙しい』からと日程が決められないのだ。ということは……
「嫌われているか、警戒されているか、そんな相手は誘えないだろ、レイチェル」
レイチェルの大笑いが聞こえた。
「あなたねー、それ本気で言ってるの?だから半年も進展ないのよ!」
それは……。
「進展はあるさ、レイチェル。君のご希望通り、マギーは造船本社と事業部の橋渡しを無事に果たしただろう。そのおかげで、兄貴の後押しも目立たず、君の名前も大きく出ない」
レイチェルの声は1オクターブ低くなった。
「本気で言ってるの?私だって、あなたの彼女を見る眼に気づいてるわよ。知らないのはマギーだけでしょうに。大体、造船本社が出てこなくたって、ネイト自身他の製薬会社と相談できたでしょう?元々あの業界で働いてたじゃない」
「そんな事は……」
「マギーに活躍の場を与えたんでしょう。自分は黒子に徹して。彼女だって気づいてると思うわ、上手くいきすぎてる、って」
「しかし彼女は仕事の関係でしか俺を見てないんだよ!」
「それはあなたがきっぱり言わないからよ!見ていれば分かる、あなた達、何やってるのよ」




