第二章〔2〕 /…風の主
長い回廊を進む。
ミラは神殿に踏み込んだ瞬間から腕に奇妙な違和感を感じていた。何だろう?
「ミラルファ様?具合でも?」
心配そうな声でミラは我に返る。
「失礼しました、主にお会いするのは初めてなので、緊張しているようです」
ミラがそう言うと、ヴィオリーは分かります、と頷いた。
「…主はどのような方でしょうか?」
「とてもお優しい方ですから、緊張しなくて大丈夫ですよ」
ミラは微笑む。
「ありがとうございます」
「ミラルファ様はナウジャ様のご命令でいらしたのでしょう?」
「ナウジャ様をご存知で?」
少しだけ、とヴィオリーは頷いた。
「主から教えて頂いた事があります」
「そうですか…主が…」
「主は物知りですから、色々な話をして下さいます。セレディン国のナウジャ様はとても立派な方だと伺っています」
はい、とミラは頷いた。
「ヴィオリーは巫女だそうですが、普段どのような事を?」
「私はただ、主の側にいて、主の声を聞いて、必要なら皆に伝えるだけです。ミラルファ様のように、主に会いたいと言う方を主の元へ案内する事もあります」
「なるほど」
ならばこの子は、主以外とはほとんど顔を会わせない事になる。
ミラはリオルに寄りかかった時のヴィオリーを思い出した。
ふと
「リオルは、何故国を出たのでしょうか…」
ヴィオリーは寂しそうに笑った。
「兄さんの場合は、主がそう仰ったんです。私は、主が誰かと直接話をする時は席を外すので詳しい話を聞いていませんが」
「鳥人が国を出るのは、覚悟がいるとお聞きしましたが、国を出た鳥人は皆、主の命令で?」
これから様々な危険に遭うから覚悟を決める。
そう言う事だろうか。
「それは…」
ヴィオリーは視線を逸らした。
「これは私事ですが、教えて頂けませんか。私はその話を聞いてから、リオルといる以上、知っておかなければと思っていたのです」
「…鳥人に、下界の空気は毒なんです」
ミラは目を丸くした。
「そんな…」
「毒と言っても、病気になると言うような目に見えた症状はあまりないです。でも、空の国から出て下界に行く事は確実に寿命を縮めます。中には安全で退屈な空の国での暮らしに飽きて、自分から出て行く人もいます。どちらが正しいか、私には分かりませんが…」
ミラの胸は痛んだ。
角を曲がると、そこには白い石で出来た重そうな両開きの扉があった。
ヴィオリーが扉の前で跪くと扉が内側に開いた。
廊下が続いているようだが、中は真っ暗だ。
ヴィオリーとミラが扉をくぐると扉はひとりでに閉まった。
何も見えない。両腕の違和感が強くなった気がした。
「ミラルファ様、こちらです」
ヴィオリーの声が間近でした。声のした方へ進んでしばらくすると、また話しかけてきた。
「ミラルファ様、ここに満ちている声が聞こえますか?」
「…いいえ、何も」
「私には聞こえます」
「何と言っているのですか?」
返答は無い。
「ヴィオリー?」
いつの間にかヴィオリーとはぐれてしまったのだろうか…
「お姉さん、これをあげる」
後ろから声がした。
振り向くと小さい男の子が無表情で立っていて、機械的に拳を突き出してきた。
男の子の頭上にはいつの間にかランプのような光があって、かすかに明るい。
「君は?」
素直に手を出すのがためらわれたので問いかけてみた。
「…」
無言でじっとミラを見つめたまま。
何となく不気味だ。
その時、声が聞こえた。
ミラは男の子を視野の端に入れながら耳をすました。
『もう行けない』
かすかに女の子の泣き声が聞こえた。
次に大人の男の声。
『大丈夫だ、立て、一緒に逃げよう』
今度は大人の女の声。
『いい、家族は助かる』
『血はついていたか?胴体の一部は?傷は無かったのか?』
少し間が開いた。
今度は別の、太い男の声。
『よせ!やめろやめろやめろ!』
「駄目よ!駄目!!」
突然、甲高い声が割って入った。
「あっちへ行け!去れ!!」
ヴィオリーがミラの服を掴んだようだった。
「ヴィオリー?」
「ミラルファ様、あの人達を信じてはいけません!」
「あの人達?」
視線を戻すと明かりは無く、誰もいなかった。
「!いない…」
ミラは、ヴィオリーが震えているのに気づいた。
「何か、声が聞こえませんでしたか?」
ヴィオリーは弱々しく答えた。
「はい…」
そうですか、とミラは呟いた。
「あの人達とは?」
「分かりません、分からないんです。随分前から度々現れて、幻覚や幻聴で皆を惑わすようになりました」
「まさか、ここは主の神殿なのに…魔物ですか」
「いいえ、魔物とは違うようです。それでいて私達とも違う存在なんです」
「危険なのでは?」
「そうです、非常に危険なんです。主は皆に気付かない振りをするようにとおっしゃいました。出来ないなら強く拒絶せよと」
ヴィオリーがそっと手を握って来た。
「もうすぐです」
小さい手が温かい。
手を引かれるがままに進むと、出口が見えた。
出てみて驚いた、広大な円を描く穴へ続いていた。
底を覗くと、雲が見える。穴の中には光りが満ちていた。
こんな場所があったとは。
雲の一部は水が沸くように穴へ入り込んでいた。
ヴィオリーがひざまずく。
ミラが頭を深く垂れたまま待っていると、突然、声がした。
「ヴィオリー。ご苦労だった、下がってなさい」
厳かで、静かな声だった。その声はミラの心に響いた。
ミラは俯いたまま、緊張の余り身動きが出来なかった。
「名は?」
ミラは弾かれたように顔を上げた。
風の主は6枚の白い翼を持ち、緑の鬣を生やした巨大な蛇だった。
その姿は時折透けて、光を通して煌めいている。
何て美しいのだろうと思った。
巨大な翼から小さく光るものが無数に舞っていた。
それはこの世界に吹く全ての風の源である主の羽やその欠片だった。
「ミラルファと申します」
主は大きく深い紫紺の目でミラを見つめた。鋭い視力を持つと言われる目。
ミラは額の使者の証を見せ、事情を説明した。
すると主が命令するような声で尋ねた。
「腕の包帯は何だ」
ミラは片方の包帯を取って紋様を見せた。
「人目につくので巻いておりました」
主はかすかに目を細めたようだった。
「分かった、もうよい」
ミラは包帯を巻き直す。
「一体何が起こっているのでしょうか」
主は何も言わなかった。
一瞬遠くを見て、やがてゆっくりと言った。
「至る所で争いを呼び、魔物を増やしては我らの気を乱し力を弱め、この世界を乗っ取ろうとしている者達がいる」
「それは何者ですか!」
ミラが荒々しく尋ねた。
「異世界の者だ」
と、主は言った。
「異世界の者?」
「この世界に「存在」している者には必ず影が出来る。だが、彼等には無い」
「では、その影無き者を見つけて倒せばよいのですね?」
「いいや、違う。彼等に手を出してはならぬ」
主は天を見上げた。
「彼等が、影が無い状態でこの世界に存在出来るのは僅かな間だけのようなのだ。多くは消えたが、僅かに影を持つのに成功した者達がいる。我らが差し向けた追っ手や、独自に気付いて魔手を逃れようとした者、あるいは向かっていった者を殺し、その影を奪ってしまったのじゃ。お前が彼等に手を出せば間違いなく殺されるだろう。彼等は奪った影を自らの力に変える。争いを呼ぶ理由はそれもある」
ミラは今更のように恐怖を感じた。
「かろうじて難を逃れた者の話では、彼等からは禍々しい何かを感じるそうじゃ。また彼等は姿を変えたり、幻覚や幻聴で他者を惑わせたりと不思議な術を使う。防ぐのは難しい」
主は苦々しそうに言った。
「どうすれば彼等を追い払えますか」
主は再びミラを見つめた。
「お前が旅を続ければ、答えは自然に出るだろう」
「はい!」
主の目は、満足そうな光を宿していた。
「お前と志を同じくする者たちが行動を始めている。リオルは役に立つはずじゃ。彼等に気をつけなさい…彼等がいる所には争いと死がついて回る。誰かが死に、その死体に影が無ければ近くに彼等がいる。近付けぬように、近付かぬように、気づいている事を気付かれぬように。それでも気づかれたらなるべく遠くへ逃げなさい」
主は天を見上げた。
「次は火の者を訪ねるがよい。元気でいなさい…」
次の瞬間には、主は姿を消していた。外はもう夜だった。
ミラは月の光に導かれるように神殿から出た。
「ミラ」
リオルが近づいて来た。
「ナウジャ様のおっしゃる通り、確かに悪い事が起きつつある」
「そうか…」
ミラは溜息をつき、リオルに風の主から聞いた事を話した。