第二章〔7〕 /…灰から出て来た少女
リオルは一瞬、遠くの噴火の音を、大砲と間違えた。
噴火はいつ何時でもありえる。
噴火があると、噴火した山の上空が赤く怒る、と伝えられている。
真赤な夕焼けが、その証拠だと。
噴火は周囲に異常気象をもたらし、熱い灰が上空何千キロも噴き上がる。
リオルが音を聞いてから数日後、曇り続けていた空から、灰が降り始めた。
「ぐっ」
リオルの目に白や灰、黒い砂っぽいものがたちまち満ちて、涙と共に滴る。
「リオル!?くっ…来たな…」
一瞬がくっとリオルの体が揺れ、それが灰のせいだとすぐさま理解し、彼女は自らも涙を流しながらリオルにしっかり捕まると囁く。
「リオル、一旦地上に下りましょう」
灰に恐怖をそれほど抱かなかったのは、マスクをしていたのと、夕焼けが見えないほど噴火地点から遠く、また、灰が通過した後の雲が、毒灰色に染まっていなかったからだった。
「噴火したら、有毒な火山灰が降り積もると聞いている。この灰に毒は無いようだが…」
「えぇ。噴火したと思われる場所を、あなたが遠ざけて飛んでくれたから」
「上昇して、灰を抜けた方がよくないか?目を閉じながらでも、上昇するだけなら」
「リオル、大丈夫よ」
ミラは優しく言った。
「灰を抜けるまで上昇したあげく、完全に落ちるまで飛び続けていたら、さすがの貴方でも体力をひどく削ってしまって、今後に支障をきたすかもしれないわ。毒灰じゃないのだし、地上で洞窟を見つけるか、テントを張って、灰が落ちきるまでやり過ごしましょう。視野が限られてしまうけれど、灰が薄くなるまでゴーグルをする必要があるわね。つける前に、目も洗わないと。涙でほとんど流れるとは言え、灰が目を曇らせたり、潰してしまう事もあるわ」
寝ながら飛べるとは言え、人間と荷物を背負っているのだ。
今までも適当な場所を見つけては地上に下りて休み、眠る時もあった。
「わかった…済まない」
ミラは二、三回リオルの羽毛を撫で、ありがとう、と頷いた。
リオルはゆっくりと、慎重に地上へと舞い降りる。
火山灰が降り積もる。
数日経過するうちに、空を隠している灰は、確実に薄くなっていた。
とても小さくなった水袋を見て、水の補給が必要だ、とミラは判断した。
旅人が水を得たいと思った場合、たいていは清水をもたらしてくれる植物、キプアバナの種を使う。
この種は水の主が司るサンガパワ地方が原産で、清らかな水辺にならどこにでもある、蒼翠色のガラス細工のような小さい雑草だった。
この雑草に根は無く、どんなに乾燥した土の上でも、まくとすぐに芽吹いて、自らが流す水で造った花が咲いている間、小さい噴水のようにたっぷりと水を流す。
二人は、周囲を漂う灰がようやく薄くなった頃合いを見計らって、リオルの勘を頼りに、少しずつ歩いて移動を始めた。
灰が相変わらず景色をぼかしており、特に見るようなものはない。
不意に、ミラの足が止まった。
「ガラスや陶器の破片が幾つかあるわ。この辺り、村があったんじゃないかしら」
彼女の目は、上を睨むように見上げていたリオルに向けられた。
リオルは苦々しく言った。
「あぁ…だが恐らくダメだ、この辺りに人の声は聞こえて来ない」
かけらだけで、特にめぼしい物も無い。
不意にリオルは、小走りで直進を始めた。
「何かあったの?」
ミラは軽く剣に手をかけた。
「このままこの方向に真っ直ぐ行くと、じきに村が見えて来るが、焼き払われているのがかすかに見える」
少しして、ミラは
「あぁ、見えて来た」
その村は焼け焦げ、灰に染まった小さい村だった。
「確かにひどいな…」
「ん?」
「どうしたの?」
ミラは首を傾けながら、リオルの言葉を待った。
「子どもの声がした。近い」
「どんな?」
「ひどく小さい声だ、女の子かもしれない」
「あなたの耳なら大丈夫だと思うけど、魔物の誘惑の声ではない?」
まだこの村が廃墟と決まった訳では無いが、生物の魂…特に人の魂を好んで喰らう魔物は、人の魂の残滓が残る廃墟を積極的に住み処にする。
そして人を誘う際、幼い子どもの声を真似る事が多いのだ。
「違う」
リオルはきっぱりと否定した。
「なら、探してみよう」
「こっちだ」
リオルは焼け焦げ、崩れかけた家を指し示した。
「あぁ、確かに声がするね」
リオルが、崩れた家の瓦礫の隙間に俯せで倒れている男を発見し、ミラもそれを視認した。
彼女が剣で切り開き、リオルが用心深くどける。
彼が支えて作った穴に、ミラが体を滑り込ませる。
「あの男の側から聞こえて来る。ほら、男の身体が時折動いているように見えるが、息があるのは女の子で間違い無い」
ミラは男の遺体に手を伸ばし、彼に触れる。
「確かにだめね、もう彼の息は無い」
男の逞しい身体、特に背中にはひどい火傷を負っていた。
「ママ…ママ!」
ミラが男の身体と腕をどけると、男に庇われていなかった左半身に火傷を負い、弱々しく動いている小さい少女が現れた。
「パパが怪我してるから助けてあげて!」
少女の髪は、根元は黒で先になるにつれて薄紅色をしている。
艶を無くし、焦げて長さが不均等だった。
少女は蜜柑色の虚ろな目で、ミラをママと呼ぶ。
その合間に、熱い、痛いとしきりに繰り返す。
恐らく、恐怖と睡眠不足と脱水症状でせん妄状態なのだろう。
実際には無いものが、あるように見えているのだ。
ミラは苦笑しながら、パパとどっちがここから速く外に出られるか競争よ、と少女を抱き抱えると苦心しながら外へ出た。
「ラギフパパ…はやーい…」
少女はリオルを見て、力の無い笑みを浮かべた。
「彼は恐らく父親だ。この子をかばったんだ…」
村を焼いた火は、噴火ではない。ミラとリオルはある共通の考えを浮かべた。
突然、少女の高い声が響いた。
「ラギフパパ!リノデママ!綺麗な水よ!あそこにたくさん水があるの!」
叫んだ少女を、ミラは無視した。
もちろん、少女が指差す方に水などない。
「母親はいないな…変だな、来る途中に見た遺体は、全て男達と老人、幼い子どもだった。女は連れ去られたか」
「おそらく」
と、リオルは頷いた。
「リオル、他に声はしないわね?」
「しない。それより、肉の匂いや死を嗅ぎ付けて、様々なモノが近づいている気配がする。早くここを離れた方がいい」
「出来れば、彼だけでも埋めてやりたいのだけどね…」
「諦めろ、早く乗れ」
「ちょっと待って。父親が嵌めているの、スニスイ石の指輪だわ」
ルカナダ泉でとれる八星石の一つで、愛しい者を映し出すとされ、宝石と同等かそれ以上の値で取引される。
「ラギフと名前も彫ってある…この子が生き延びられれば、父親の形見としてあげよう。もしかしたらこれを頼りに、この子の母親を探せる時が来るかもしれない」
ひどい火傷を負った少女の消費は激しい。
少女はやたらと水を欲しがった。
飲ませないと死んでしまう。
少女は混乱しつつも、火傷している自分の皮膚を見ておかしくなりそうだった。
火傷した箇所に茶葉、ムルスチャの液を塗るといいので、ミラは薬袋から取り出して、液を塗布した。
他にもミラは、紐と簡単な装飾品を使い、指輪を可愛らしい首飾りにしてかけてやった。
ある日少女の腕に、奇妙な感覚が走った。
見ると、何かが蠢いていた。
ウジだ。
少女の腕に、ウジが湧いていた。
「パパ!ママ!とって…イヤ!とってええええ」
少女が弱々しく泣く。腕を掻きむしろうとしたので腕を押さえた。
「これはむごい…」
生命力の乏しい体は、干からびた土のようになっていた。
誰かが死んでいく様を見るのは辛い。
しかも、こんなに幼いなんて…。
(背中と足は痛みを感じにくい。ヒトの感覚は、意識次第でどうにでもなるものだ)
敬愛していた師の声が聞こえた気がした。
ミラは、少女が次の町までもたないだろうと判断しかけていた。
だが、ぎりぎりまで希望は捨てない。
「落ち着くのよ。意識を、目を、傷に向けちゃダメよ。自分の中に向けてちょうだい。そう…痛みはある?」
ううん、と少女は微かに頷く。
「ううん、ない、変な感じ、だけ」
「そう、その調子」
言いながら、少女の腕をはい回るウジを、辛抱強く燻し出しては引き抜き、一匹残らず潰して捨ててやった。
「上は、灰とガスのせいでまだ見えないな。まだ落ちきってないのか」
独りごちながら、リオルは見事なバランス感覚で、ほぼ垂直の岩肌を、窪みを頼りに登って行く。
「うまいわね」
「苦しくなったら止まるから言え。背負われている方も、楽じゃないのは分かっているからな」
「パパ…大変でしょう?どうして、あたし達に下りろって言わないの?」
「一度この背に誰かを乗せると決めたら、自分から下ろしたいとは言わない」
これは、鳥人も、獣人も一緒だった。
「パパえらーい…」
リオルは立ち止まって上を見た。
少女が助かる一縷の望みは、まずガスと灰が切れ、飛べるようになること。
その時、頂上にたどり着いた。
三人の眼下には、深い火口が形成されていた。