まわるまわるぐるぐると
走る。
走って、走って、
心臓が全身にフル稼働で血液を送るけれど胸が苦しくて、肺が大きく動いて酸素を送ろうとするのだけどそれすら足りないのか喉がヒューヒュー鳴る。後から後から涙が出てくるのだけれど、拭うのももどかしく図書室に駆け込んだ。そのままいつもの場所へ行って、机に突っ伏す。
「───も、やだ。」
(お父さんとお母さん、離婚する事になったの。)
(帆ノ花はお母さんと一緒に暮らす事になったからね。)
頭の中で、さっき話した両親の言葉がぐるぐると巡っている。
座って最初に言われたのは、離婚に至る全ての理由をきちんと話す、という事だった。私はまだ小学生だけれど、知らないまま漠然と過ごすことは良くないから、全ての経緯を話して、私がいつか大人になったら、その時の価値観できちんと判断しなさい。との事だった。
離婚に至る最初の切っ掛けは、お父さんの家族サービスが殆ど無くなったことだそうだ。休みの日も以前は皆で出掛けていたけれど、それを嫌がったり詰まらなさそうにしていた事が、お母さんには我慢ならなかったらしい。何度か諫めても相手にされず、普段の会話も煩わしそうにされる事で愛されていないのではと思うようになり、その内愛情が冷めていったそうで。それからお母さんは知人の紹介で通い始めたお茶の教室で出会った男の人の事が好きになったそうだ。その人は穏やかでお母さんの話を嫌がらず聞いてくれ、そういう所を好きになったのだと。
それに対するお父さんは、家族サービスが疎かになった頃は会社で非常に重要な仕事を任されて、上司と部下の板挟みでストレスが酷かった事。体調を崩してお休みしたこともあったけれど、お母さんが全くお父さんの心配をせずに唯責められたことがとてもショックだったらしい。態度が変わった事に、何か理由があるやもと考えてもらえなかったことが辛かったそうだ。それから暫くして、お母さんが浮気しているかも、と疑って探偵を雇って調べさせた所、体の関係は無いものの別の人に心が行っているのなら、自分と結婚している意味は無い、と話し合いをする事にしたそうだ。
私の親権をお母さんが持つことについては、お母さんが親権を希望した事もあるけれど、私がこれから女の子として難しい時期を迎えるにあたって仕事をしながらきちんと向き合う自信がお父さんに無く、お母さんのした事に許せないという気持ちはあるものの、お母さんは私を愛しているしきちんと育ててくれるだろう、という判断をしたから。養育費はきちんと払うから生活には困らない事。月に一度、お父さんと会えるし私が望めばそれ以上も会える事が伝えられた。
お母さんは、泣いていた。ごめんなさい。良い妻で居られなかったとお父さんに謝っていた。お父さんも目が真っ赤だった。ごめんなさい。お前を不安にさせてしまった。お前と帆ノ花を守れなくてごめんなさいと頭を下げた。
───そして、私は。
「──────っ、ふ、ううう・・・・・・」
悲しい。悲しい。・・・だけど、ほんの少しだけの安堵。
ふたりがピリピリした雰囲気で居る所に居るのが辛かった。お母さんがお父さんを悪く言ったり、お父さんがお母さんを冷たい目で見たりするのが嫌だった。辛かった。
ふたりがどんどん離れていくのが分かるのに、なにも出来ない、なにもしない自分が死ぬほど嫌いだった。それでも何も出来なかった。何も行動しなかった。
もうそんな嫌悪感に苛まれることが無くなるのだ、とほんの少しだけの安堵が胸の中に生まれた時。私はそんな自分こそ嫌悪した。私は何て自己中心的で自己愛の強い人間なのだろうか。お父さんの苦しみも、お母さんの悲しみも、私の比では無いだろうに、私は自分の汚いところを見ずに済むことに喜んでいる。そして、もし引っ越すことになるのならあの学校の煩わしさからも解放される。そんな事を考えた。
お父さんも、お母さんも、大好き。
だけど、ふたりの間に生まれた私は大嫌い。
「ふ、うぁぁ、うぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・!!」
ぐちゃぐちゃの気持ちを全部はき出すみたいに、泣いた。
□◆□
泣いて、泣いて。
漸く涙が落ち着いた頃、私はやっとここが何処で、何をしに来たかを思い出した。
時計を見ると十六時四十五分。もう、あと十五分ほどしか時間が無い。慌てて腕で涙を拭いながら顔を上げた。
(───うぉぉ?!)
鏡の向こう。いつもにこにこと私を見ていた、少年が。
───もの凄く、怒った顔でへばりついているのは何故だろう。
「あ、えっと、その。・・・ごめん。ちょっと寝てた。」
伝わらないのは分かっているけれど、居心地が悪かったので言い訳しながら立ち上がる。もう涙は出てきそうな気配は無いから大丈夫だろう。
本を持ってきて、少しでも。と思ったのだが、鏡の中で少年はゆっくり、噛み締めるみたいに首を振った。海のようなその綺麗な瞳は私をじっと見つめていて、その目元を指で二回叩き、少年の胸の辺りを指で差して、それから両手を胸の辺りまで上げてゆっくりと少年の方へ曲げる。ゆるめて、曲げて。ぎゅっと眉根を寄せて繰り返すその動作に、工事現場の誘導動作に似てるなぁ、なんて思いながら、おいで。って事なんだろうか。と私はおずおずと鏡に近寄った。
鏡の前に立つと、少年と言いつつも彼の方が少し背が高い。私の目線はちょうど少年の鼻くらいだった。
体格も分かっていたけれど全然違う。すると、少年が両手を鏡に付けた。ガラス窓に付けたように、少年と鏡が触れている部分が色を変えた。なんとなく、その手に自分の両手を重ねた。
「あ、やっぱり大きいな・・・。」
ひとまわり以上少年の手の方が大きくて、それにごつごつ骨張っているのはやっぱり男の子なのだからだろうかと思う。
すごいね、と言おうと思って顔を上げると、直ぐ目の前に少年の顔があり、いつの間にか少年が屈んで顔を近づけていた。
心臓が跳ねる。
「っ、あ、の。何?」
少年は、私に何かを言い聞かせるみたいにゆっくりと、何かを喋りだした。
何を喋っているのか当然聞こえないし、分からない。それでも何を言っているのか知りたかった。
そんなに泣きそうな顔で、私に伝えたい事って?
「何言ってるのか、ぜんぜんわかんないよ・・・。」
結局、鏡が消えるまで少年は私に何かを伝えようとしていた。
鏡から少年の姿が消えて。
新学期になって。
───改装後の図書室に、あの鏡は無かった。
□◆□
それから十七年。私は二十九歳を過ぎて、後半年で三十歳になる。
「───早く!先生を呼んで!」
「頑張って!手術は成功したんだから!」
ぼんやりした視界の中、せわしなく動く白衣の天使達。
頭はガンガン、視界はグルグル。全身は鉛のように重たくて、呼吸が出来ない。
───あーだめだ。死ぬわ。コレ。
結局あれから私は少年に会うことは出来なかった。
鏡が無くなってしまったことも理由ではあるのだけれど、中学進学を機に私と母は母の実家を頼って引っ越したからだ。
引っ越して暫くして、あの日見せられなかった青いペンダントを鞄の底から見つけた時。止めどなく溢れてきた涙に、私は彼に恋していたのだと自覚した。
ずっと、ずっと幻みたいな少年の事が忘れられなくて、付き合った人も居たし、お見合いだってしたけれど結局長く続かなかった。 誰かが自分のパーソナルスペースに入ろうとすると、あの日の少年を思い出すのだ。泣きそうな顔で、私に何かを伝えようとしてくれた、あの顔を。
三十になったら魔法が使えるようになるんじゃね?!と友達と茶化しながら迎えた二十九。どうも体調が悪くて受診した病院で癌を宣告された。若いうちは早急に手術を受けないと進行が早いから、と言われて会社に無理言って手術して。
成功しました。と医者に言われて泣いて喜んだ、二日後の深夜の事だった。
そういうことも可能性として無いことでは無い、でも本当に極希にですから、と笑った医者の顔がちらつく。ドンピシャじゃねえかと生きて帰ったら思い切り頬を張りたい。でももうそんな気力も体力も生命力もなさそうだ。
状態が急変したってお母さんに連絡してくれているだろうけれど、私お母さんが来るまでもつかしら?なんか持たなさそうな気がする。
沢山の人の声が反響する中、私はぐるぐると真っ暗闇に落ちていったのだった。
「エヴァンジェリナ様、おめでとうございます!可愛らしい男の子ですよ!」
──────あれ?