鏡の君
翌日。私は朝から公民館の図書室にいた。本当は昨日思ったよりも調べものが進んだので家で一日ゆっくりしようと思っていたのだが、あまりの居辛さに逃げ出してきたと言ってもいい。
父は所謂普通のサラリーマンなのだが業種の関係で変則的に休みを取っている為時折平日に休みが入る事がある。そういう時は皆で買い物に出掛けたり、ランチを食べに行ったりしていたのだが最近はあまりそういう事が無かった。どこかに行きたい、と言えば連れて行ってくれるのだけれどあまり楽しそうでなかったり、疲れた、と零される事もあって次第に自分から強請る事が無くなった。
最初は父を嗜めていた母も、段々と言葉少なになり今では母と私で出掛けるばかりとなる。
今朝も居間の扉を開けるとふたりが居たので父が休みの日だと分かった。
「おはよう、お父さん、お母さん。」
「おはよう帆ノ花。」
「───おはよう。」
ひりつくような雰囲気にふたりの機嫌が悪いのだと思いながらテーブルにつく。いつもだったら今日の予定は?という言葉とともに出される朝食のプレートも無言で私の前に置かれた。
「あ、ありがとうお母さん。・・・あのね、今日は公民館に行って宿題やるから夕方まで帰らないよ。」
「そう。じゃあお昼ご飯は何か買うの?」
「うん。こまつやのおばちゃんのとこでパン食べようと思ってる。」
「それじゃあこれで買いなさいね。」
淡々とテーブルに置かれた五百円玉を手に取ると、急いで身支度を整えお気に入りのワンピースに袖を通して家を出た。
いつもの場所で最初は本当に宿題をやろうと思ったのだが、どうしても脳裏にふたりの表情が甦ってしまい集中できず今日は好きな本を読む事にした。物語を追いかけるのも好きなのだけれど、あまり考え事をしたくない時は図鑑を見るのが好きだった。色取り取りの紙面をゆっくりとめくりながらその生き物を実際自分が見たらどんなだろうか、とかこの生き物が居る国に行けたらどんなだろうかと空想する。時折大きな翼の背に乗って空を駆けたり、深い深い青の中に身を委ねてみたり。何も考えずに唯々空想に耽るのはとても楽しかった。
「んー・・・」
窓から差し込む西日に、時間を忘れていた事に気付く。見開で大きな虹が載ったページを閉じると、大きく伸びをして首を左右に解せばコキコキと音がした。ずっと同じ姿勢だったからか、体が固まってしまっていたようだ。
肩を回して体を解していると、ガタ、と直ぐ傍から音がした。自分以外にはこの部屋には居ないし、誰かが入ってきたと言うことも無い。ネズミか何かが置いてある物を引っ掛けたのだろうか。もしくは何かが古くなって崩れたのだろうか。どちらにしても何かが損なわれているのであれば加藤さんに報告した方が良いだろうと思い、私は確認しようと腰を上げた。
音がした場所は、部屋の入り口から左手の壁の方だった。入り口側の本棚から音がしたのであれば隙間に何か入り込んだのだろうと思えたのだが、壁の方は色々な物が積まれて物置のようになっていた。恐らく廃棄予定であろう本が机の上と同じように積み上がっているのは勿論なのだが、壊れた椅子や割れた板、錆びたバケツに折れ掛かったモップなどが無造作に寄せられている。
「・・・へぇ。これ、鏡なのね。」
今まで気付かなかったのだが、壁には大きな姿見が掛けられていたようだ。一応保護しようと思ったのか、日に焼けた布が掛けられている。しかしその布も辛うじて引っ掛かっているような有様で虫食いだらけのそれは保護するには役に立っていないように見受けられた。布が破れ落ちたのか、隅の方は向き出しになっていて、何十年も前の日付と共に誰かの名前と、最後に贈の文字。恐らく寄贈されたものであろうと見当を付ける。そっとその文字をなぞると埃をかぶった鏡に映った自分の指が向こうから押し返してくるようだった。
何故この場所に鏡が置かれているのか。本来別の場所にあったものが、この場所へ移動してきたのだろうか。そんなことを考えながらぼんやりと映った自分の指を見ていた、その時。
「え?!───っきゃぁ?!」
一瞬、鏡が真っ暗になって次の瞬間、そこには私の指が映っていなかった。
驚き思わず立ち上がると、その拍子に積み上げられていた諸々に足を取られひっくり返ってしまう。がしゃん、ガラガラ、どしゃん、と続けて起こった音に積み上がったそれらを崩してしまったのだと理解した。
「あててて・・・」
強かに背中と頭を打ち付けて、くらくらしながらも顔を起こすと膝小僧の向こう側に見覚えの無い景色が広がっている事に気がついた。
積み上げられた物を崩してしまった時に鏡に掛けられた布を取り去ってしまったのだろう、鏡があったであろうその場所には。
「え、ぇぇぇぇ・・・・・・?」
───金髪の男の子が居たのだった。
さっきまで鏡のあった場所。
本来であればその場所に映るのは倒れた私と崩れた諸々と後ろの本棚と・・・とにかく、この部屋が映るはずだった。
だけど、今そこに映っているのはそのどれでもなくて。
まず最初に目が行ったのは、テレビでしか見たことの無いような金色の髪だった。癖毛なのか、短髪だけどあちこちに跳ねていて、眉より上で切り揃えられた前髪も一房ずつ色んな方向に跳ねている。目鼻立ちははっきりと、彫りが深く眉頭から鼻筋にかけての窪みなどは自分とは全く違う生き物のように感じた。唇は厚ぼったく顔の輪郭もがっしりとしたもので。けれど一番印象的なのはその大きな目だろう。ぱっちりとした二重まぶたでクラスの女の子が雑誌を見てはしゃいでいるアイドル達よりも大きいのでは無いかと思う。金色のまつげに彩られたそれは正しく青い宝石のようだと思った。夏の透き通るような高い青空に深海をはめ込んだような瞳。人形のような絶妙の配置に色濃く散ったそばかすが愛嬌を感じさせる。生まれつきなのか焼けたのか分からないけれど、褐色の肌だけが夏休みに外に出て焼けてしまった自分の肌と似通って、それだけが親近感を抱かせた。
がっしりとした体格にすらりと伸びた手足。その男の子はこちらをじっと見て居るみたいで思わず私も見返してしまった。
昔の映画か何かのポスターをずっとここに張りっぱなしにしていたのだろうか。それにしては綺麗に残っているようだけれど。───そこで私は漸く、これが大変おかしな事だと気がついた。
『贈』の文字。近付いた私。なぞる指。指は、向こう側に映っていた。だから私は、姿見だと思ったのだと。
座り込んだまま、それ以上考えてはいけない気がして鏡だと私が思っていた物をまじまじと見つめていると。鏡の中の男の子が、ふい、と顔を背けた。それから、パクパクと口を動かして片手で口元を覆う。
───動いた。うそでしょう。
そのまま動けずに居ると、向こうを向いていた男の子がこちらをちらりと見て、それからまた慌てたみたいに顔を背けた。こちらを指さしたままで。何かをこちらに伝えようとしているのだろうかと思い至ったところで男の子の顔が最初よりも赤くなっていることに気がついた。もしかしてこちらも見えているんだろうか。そう思い至り、男の子の指の先をたどると。
「・・・ぁ。あああ!!」
あまりの恥ずかしさにかっと体が熱くなるのを感じながら私は膝を閉じ、起き上がった。今日の私はお気に入りのワンピースを着用している。数日前に母と買い物に行った際、夏物セールで半額になっていたものだったのだけれど紺色の地に真っ白の向日葵の柄が可愛くて、母もとても似合うと言ってくれ買ってくれた物だ。ふんわりと広がった膝丈の裾もお気に入りで。そして、私は倒れたままで顔を上げて男の子を見上げていた訳で。───つまり。
(ずっと足広げてあっち向いてたのね私───!!!)
今日のパンツは何色だったろうか。確か黄緑色のレースの付いたのだったから変では無いだろう。大パニックの私と変に冷静な私が頭の中でせめぎ合って、正直もう土に埋まりたい。深めに頭から埋まりたかった。
床の上に座り込んだまま顔を上げられなくて暫し。漸く恥ずかしさの嵐が過ぎ去ってのろのろと顔を上げる。
やっぱり男の子は変わらずそこに居た。しかもしゃがんでこちらを心配そうに見ていた。もう映画のポスターとか、そういう現実逃避は通用しない。今、私の知る限りの常識で通常起こらないことが起きている。と認めなければならなかった。
「───あの、こんにちは・・・」
男の子がしゃがんでこちらを覗き込んでいたので、立ち上がって鏡に近寄ってみた。驚いたのか男の子はたたらを踏んだ。勢いが殺せなかったのかそのまま数歩後ろに後ずさる。男の子があんまりにも驚いた顔で下がっていったものだから、さっきまでの動揺が嘘みたいに落ち着いてきてしまった。立ち上がると私の方が頭一個以上小さくてやっぱり外国の男の子は大きいんだなあと感心する。先ほど挨拶をしたのだけれど、声は届いているのだろうか。分からなかったからとりあえず頭を軽く下げて一礼した。
顔を上げると、男の子はきょとんとした顔でこちらを見ている。それから考え込むような仕草をした後、胸に手を添えて腰から深く一礼される。顔を上げると、はくはくと口を動かしていた。
「やっぱり、声は聞こえていないのね。」
すっかり警戒心が解けてしまったのは、恐らく鏡の向こうが大人の男性では無くて私と同じ位か少し年上の少年だったからだろう。私の口が動くのをじっと見ていた男の子も、声が聞こえないと分かったのか鏡の近くまでやってきてコンコンと叩く仕草をしてみせた。勿論叩く音は聞こえない。それからまた口が動く。私も同じように鏡にノックするみたいに叩いて、口を開いた。
「はじめまして。あなたはどこの人なの?」
それから、耳に手を当てて耳を澄ます仕草をしてからばってんを胸の前で作り、首をかしげてみせる。これで、聞こえてる?って聞きたいつもりなんだけど伝わるだろうか。ばってんのまま男の子の顔を見ていると、ぐっと表情を固めた後、急に口をはくはく動かしはじめた。
やっぱり聞こえない。私はばってんを改めて作ると男の子をじっと見つめた。
それから男の子と私の奇妙な交流が始まったのだった。