42.ボリアにて その2
視界の片すみ、肩口に掛かるようにして揺れる自分の髪。それが違和感となってタリアはいまだに慣れることができない。今日何度目かもわからないその意識のつまずきに、彼女の可愛らしい眉根が小さく寄せられる。
アヘッドとの戦いでタリアの腰まで届いた栗色の髪は台無しになってしまった。タリアというキャラクターにとってその長い髪は、自慢というかトレードマーク然としたところもあったので藤崎としても残念なことではある。しかし目の前のことにかまけて、その件についてはどうしてもおざなりとなっていた。
ダンジョン内での処置として、適当な長さで切り揃えただけという体でそのまま雑務に奔走していたところ、流石に見かねたというカラグ公子に捕まってタリアは理髪師の前へと連行される。ボリアDを脱出し、その後の諸々が一段落した昨日の夕刻のことであった。
理髪師役を引き受けてくれたその女性は、公妃の侍女が本分とのことだった。カラグとは随分気安い関係のように見え、話を聞いてみれば公子とは乳姉弟にあたるらしく、さもありなんとタリアは納得したものだった。
気立ての良さが垣間見える彼女はタリアの惨状に大いに同情してくれた上、カラグ公子にちょっとした苦言を口にしつつも手早く仕事を済ませてくれたのだった。
「――では、賊の遺留品は全て当公国が接収するものと致します」
公国の官吏の発言に、タリアの意識は話し合いの場へと立ち戻った。気がそれたのはほんの寸刻。切った髪のわずかな違和感を努めて無視して、タリアは傍から見るとぎこちない仕草で肩に掛かるそれを背に払う。
PKの遺した雑多な武器や装具に、公国は一定の価値を認めてくれたようだ。どうやら今回の騒動は、PKK側の懐が痛まなくて済むかたちで無事決着するらしいと安堵する。無論、それを顔に出したりはしないが。
PK殲滅の事後処理は存外にスムーズに運んでおり、この場の話し合いもその一環である。そこには《偽神》に肩入れしてくれるバーテニクスと、その意を汲んだ《龍神姫》アグリーズの口添えが大きく作用している。
PK殲滅後、ボリアDの郊外側出入り口より《始まりの丘》へと移動した一行を待ち受けていたのは、公国軍の重囲陣と銀色の巨龍だった。
銀色の龍――アグリーズは今回の転移妨害を重く受け止め、何事が起きたのか確認するためボリアへと飛来していたのである。
一度人の姿になったアグリーズは公国軍から事情を聞くと、そのまま陣に加わり手助けすると申し出たらしい。今この会議の場にも臨席しており、カラグ公子の隣に美姫然とした姿を並べている。アグリーズには幾分含むところがあるようだと、既にタリアはカラグの口から聞き及んでいた。
「それでは次の議題を――」
進行を務める官吏の言葉を、控えめなノックが遮った。
「入れ」
議長であるホーケン公子の声に、会議室の重厚な扉がわずかに開かれ、一人の兵卒が入室する。城内でのお仕着せが板についた身奇麗なその兵卒は、背筋をきっちり伸ばした姿勢と当たり障りのない声量でその報告を口にする。
「バーテニクス様がお戻りになられました」
会議室に小さくしわぶきがこぼれる中、タリアは物怖じせず挙手してみせる。
「ホーケン様、少々席を外すことをお許しいただけますか」
断られないことを承知しつつ、かたちばかりの伺いを立てるタリアに、ホーケン公子は鷹揚に頷き返した。当初からの予定通りである。自分を追いかける他の《偽神》たちの気遣わしげな視線に目配せで返しつつ、タリアは席を立つ。
「ご案内致します」
兵卒の言葉に感謝を返すと、タリアは彼に従って会議室を後にする。ライルネス公国、その首都ボリアに建てられた主城は広大で、兵卒の彼の先導がなければタリアは目的の場所に辿り着くこともおぼつかない――ということになっている。
正直なところ《偽神》の超人的な記憶力のおかげで、主城で一度足を運んだ場所なら、タリアは迷わず辿り着くことが出来るのだが。
「ご到着された方々には、第一兵団本部棟にてお待ちいただいております」
「はい」
タリアは兵卒の言葉に頷く。昨日の雑務で立ち寄ったこともあり、件の建物の所在には明るいのだが、余計なことは口に出さず彼に従う。
長い廊下を歩き、幾つもの角を曲がってようやく屋外へ。石畳で舗装された小径をしばらく辿った先に、目的の本部棟はあった。その一室に案内されてみれば、少し前に別れた友人たちと、そうでもない友人たちの顔が並んでいた。
「みなさん、お久しぶりです。チョコさん、アインさん、昨日の今日で随分と慌ただしくなってごめんなさい。クロネさん、お迎えありがとうございました」
笑顔で挨拶したタリアだったが、ラエルガスから訪れた仲間たちの反応は劇的と言えた。
「師匠、その髪!?」
アインの剣幕にタリアは困ってしまい、半端な笑みで返さざるを得ない。
「ちょっとイメチェンを図ってみました。似合いませんか?」
場を和ますつもりでくるりと一回り、軽やかなターンを披露してみせる。
「悪くないにゃ。そう言えばリアたん、前から髪の毛をなんとかしなきゃみたいに言ってたにゃ」
「可愛いのは可愛いけど、ちゃんと言ったほうがいいんじゃない?」
ほにゃりと萌えたように目を細めるクララに苦笑しつつ、事情を知るクロネがわりと真面目な声でうながす。
髪を短くした自分に対し、意外に大きな反応を示した仲間たち。そこには心配してくれる気配が見て取れる。
野郎時代は髪を切ろうが挨拶ついでにコメントされるくらいで心配などされたことはなかったのだが、なるほどクロネの言うことももっともだ。
藤崎だった頃のことを思い出してみれば、自分だって友人の女性が大胆に髪を切るようなことがあれば、何ごとかと声を掛けたものである。
「そうですね。気づいていた問題を先送りにしてたおかげで、ものの見事にPK戦で失敗しちゃいまして」
肩先に掛かる自分の髪をもて遊びつつ、タリアは神妙な表情で告げる。
「難敵との戦いで髪の毛を掴まれて酷い目にあいました。窮地から逃れるために自分でぶった斬ったんですけど、おかげでこの長さでまとめることになっちゃって」
タリアの告白に、その時のことを想像したものか仲間たちの幾人かは「うへぇ」みたいな表情を浮かべる。
「でもこの髪型もわりと気に入ってるんですよ。まだ慣れない感じもないことはないんですけど」
「タリアさん!」
えらい気迫で近寄ってきたかと思うと、自分の両腕を掴むように抱いたサーラにタリアは目を瞠った。
「タリアさんがPKの強い人を倒したってクロネさんから聞きました。そうしないとだめだった状況も聞きましたし、タリアさんが凄い人だってことはもう十分承知してるんですけど、ですけど!」
真剣なサーラの、そのエメラルドの瞳に宿った怒気に気圧されるとともに、彼女の繊細な指先が、こうも強い力を発揮するのかとタリアはわずかに驚かされる。
「だからって一人で無茶しないでください。他の人のことを大事に考えるのは大切なことだと思います。でも、それで自分のことをないがしろにしたんじゃ片手落ちじゃないですか!」
この時のサーラはサンミレーの宿での、あの夜を思い出していた。
タリアだって身体を休める必要があったろうに、それでも自分のことは置いておいて、カッコの様子を心配して備えていてくれたあの時。この人は言ったのだ。
【『タリア』っていうのはそういう女の子なんだよ】
それが彼《、》の定義したタリアという回復系キャラクターの在り方。ロールプレイなのか行動規範なのかは知らないが、以来折りにつけサーラは考えるのだ。ならば、タリア自身が窮した時、彼女が恃みとするのはなんだろうかと。
そんなことがあったら、自分が手を差し伸べたいという想いはサーラにもある。きっと他の仲間たちだってそうだろうと、想像するに難くない。
けれどこちらが差し伸べた手を、タリアが取ってくれるさまが想像できない。笑顔で、だけどもこちらの手なんかスルーして、先に行ってしまうタリアを幻視してしまう。
ゲーム時代でもこっちの世界でも、タリアが集団行動をないがしろにするような場面など目にしたことはない。むしろ逆に、それを維持するように心を砕くのがタリアという人だ。今回のPKの強敵と単独で相対することとなった件も、不運な巡り合わせだったと見るのが妥当だとすら思う。
それでも、この世界に存在するようになってからの、タリアの滅私とさえ言える振る舞いにサーラは怖くなるのだ。
「タリアさんは自分では平気なつもりかもしれないけど、わたしは怖い――」
驚いたような表情のタリアと、固唾を飲んで見つめ合ったのはどのくらいだったろうか。穏やかな吐息が漏れる音がサーラの耳朶を打つ。タリアの見開かれていた空色の瞳が柔らかく細められて、優しく弧を描いたそれは彼女が笑んだのだとサーラに伝えてくれた。自分が身勝手に抱いた恐怖を、わずかに拭うようなタリアの笑顔。
「そうですね、サーラさんの言うとおりです。わたしはちょっと安易すぎたかもしれません」
サーラの目の前で、タリアは緩やかに頭を振る。
「いえ、かもじゃなですね。安易でした、自分の命のことだっていうのに」
「反省です」と多少おどけたように胸元に両手を当てて、でも神妙に目を伏せるタリアの仕草に、サーラは張り詰めていたものがようやく解かれる思いがした。そして生意気を言ってみせたことが急に恥ずかしくなってくる。
「ごめんなさい、再会した途端に言いがかりめいたこと――」
存外強く握りしめることとなったタリアの腕を放し、サーラは俯くようにして三角帽子を目深に被り直した。
(ありがたいな)
そんなサーラの仕草を可愛く感じるとともに、彼女が勇気を奮って自分へと向けてくれた言葉に、タリアは素直にそう思う。
自分の軽率さをサーラが怖いと感じたのは至極正しい。タリアは気をつけているつもりで、でもそれは全然足りていなかったと言える。
自分ひとりだけで難題に対処しようなんて、短絡的な選択は思考の放棄だ。他でもない、自分の命が掛かっていたというのに。
先のボリアDでの戦いはゲームではなかった。だけど、あの時一人でキーネやアローヘッドに対峙しようとした自分は、それをリアルに理解していたと言えるだろうか。ゲーム時代のノリで、安請け合いが過ぎたのではないだろうか。
サーラが言いたいのは、今回の話だけではないのだろう。自分が気持ち良くあれやこれやと背負い込んでいた姿に、この子は危ういものを感じていたに違いない。
このとても真っ当な女の子の心根が、歪んだり磨り減ったりしないよう、今迎えている局面は無事乗り越えなければならない。
恐縮したようにとんがり帽子のつばの影から上目遣いでこちらを覗くエルフの少女のはにかんだ表情を目にしながら、タリアは強く誓った。