38.生き延びた朝に その1
その焼け焦げた死体は、いまだに《偽神》の体を成していた。流石に《オーバード》といったところか。アーサーは脆くなったその《偽神》の器に、容赦なく鉄杖を振り下ろして止めを刺す。《偽神》として、尋常の人とは異なる命脈すら失い、モノと化したそれを自らのインベントリへ封じたあと、彼は同行者に声を掛けた。
「お待たせしました。完了です」
「はい。それじゃ進みましょうか」
たった今、人一人の命が失われたことに、タリアも最早動揺しない。アーサーの言葉に頷くと、万が一に備えての警戒を解いて彼の先を歩き始める。
小柄な少女に先頭を任せ、巨体を誇る龍人がその後に続く。傍から見ると情けないありさまではあるが、それが理に適っている以上、タリアもアーサーも殊更気にすることはない。二人は共にそのあたりの感性が鈍いと言うべきか、何の滞りもなく現状のオーダーは定まった。
「アーサーさんとご一緒した他の追撃要員さんは、ここまで届いていなかったみたいですね」
「アヘッドの仲間は精鋭でした。私が斃した先程の一人は、上手い具合に油断してくれていましたから、幸運にもその隙を衝けたワケです」
なるほどと頷く気配を見せるタリアの後姿を眺めながら、アーサーは冷静さを装いつつも焦りのようなものを感じていた。たった今、タリアに語った言葉の意味するところが重い。それなりにPvPプレイヤー相手に抗せると思っていた自分が、アヘッドに瞬殺された時のことが思い出される。
相対するに十分なつもりでアヘッドの仲間を捕捉する都度に隊を割ったが、その判断は果たして正しかったものか。今更になってその結果を知るのがアーサーには恐ろしい。
沈黙が落ちる。言葉を交わすのは岐路に差し掛かった時くらいで、二人はしばらくの間、黙々と通路を辿る。
先にそれに気づいたのはタリアだった。ヒト族のタリアより優れた知覚力を持つ龍人のアーサーだったが、警戒を怠っていなかった彼女と比べ、考え込んでいた分だけ察知が遅れてしまった。
「何か来ます――」
タリアの押し殺した声にようやく身構える。アーサーの聴覚に届いたのは、金属製の鎧が立てる物音で――
気づいた時には、タリアが目の前で抱きすくめられていた。小柄な彼女をすっぽりと懐に仕舞いこむようにした、黒衣の剣聖の姿にアーサーも目を瞠る。
「――無事で良かった」
ナヴィガトリアのその声は、アーサーにはひどく心細げに感じられた。
◇ ◇ ◇
バーテニクスとラプター、ニノグたちは、救出した女性らを伴いクロネが率いる小隊との合流を急いだ。しかしその当初、彼らの避難行は大変な困難を伴うものとなっていた。
最後まで人質にされていた女性たち二人は、いずれも酷い恐慌状態に陥っていてラプターやニノグはそのフォローにえらく手こずる羽目になっていたのだ。
その事態が好転したのは、女性たちの身を案じて単独行動中だったキトンとの遭遇を得てからのことである。
識別票代わりだった黄色の布で、互いの素性を確認するまでもなかった。犠牲者だった二人の女性は、姿を見せたキトンによって幾分か正気を取り戻すことができたのである。
女性たちは極限状態とも言える監禁生活の中、酷薄と言っていい態度を取りつつも自分たちに良くしてくれたキトンの行動に、感謝の気持ちと共に幾ばくかの慰めも得ていたのである。僧侶たるキトンの魔法とその存在に助けられ、女性たちは目に見えて回復した。
互いの自己紹介もそこそこに避難を再開したラプターたち五人と一匹は、以降は何らトラブルに見舞われることもなく、待ちわびたクロネたちとの無事な合流を果たしたのだった。
「キーちゃん!」
「クーちゃん!」
互いの名を呼び合った獣人族の少女が二人、歓声を上げながら抱き合う。ウサミミの少女とネコミミの少女は、笑み崩れた顔で互いに相手の無事を喜ぶと、何度も「良かった」を繰り返した。目を潤ませたキトンに、さすがのクロネも混ぜっ返したりはできず、その愛らしい容姿相応の素直な笑みを浮かばせる。
「アーサー先生は何度もPKたちの話に出てきてたから無事なのは知ってたんだけど、クーちゃんも無事で良かったぁ~」
「他のみんなも無事だよ! みんなみんな、無事だよぉ~」
キトンが訊ねてくる仲間たち一人一人の安否に、クロネはきちんと答えていく。そしてこの陰鬱な難事を乗り越えれば、仲間たち皆に会えるとキトンに言い聞かせる。キトンの相棒であるアルビオンのことには、今は敢えて触れない。あの狼人族の戦匠が健在であったなら、キトンが虜囚の辱めを受けることはあり得なかったであろうから。
クロネはバーテニクスと合流する間にも、《交感》がつながるやいなや彼から状況を伝えられていた。現在、PK本拠の制圧はおおよそのところ達成されている。キーネと交戦中のタリアにはアーサーが応援に向かい、ナヴィガトリアもそれに続いているらしい。
タリアならば、応援が駆けつけるまでキーネの相手も務まるだろうと踏んでいるクロネだったが、全く不安を覚えないかと問われればさすがにそんなことはない。キトンの無事を喜びつつも、その内心穏やかではなかった。だから今はもう、悲しい話は後回しにしたいというのがクロネの正直なところで、そこにバーテニクスの《交感》が響いた。
【朗報だ。ナヴィがタリア、アーサーと無事合流。キーネと、それからアヘッドって敵はタリアが斃したって。それで、あっちはあっちで討伐隊本隊の方へ戻るそうだよ。アーサーからの指示でこっちはこのまま《大部屋》に待機。郊外側の戦況が判明するまでは、不測の事態に備えてくれだって】
バーテニクスのこの報せに、《偽神》たちから歓声が上がった。バーテニクスの『声』が届かず、突如喜びだした《偽神》たちを訝しむニノグに、すっかり相棒然としたラプターが笑顔で肩を叩く。
「はぐれた小隊長が、無事に敵を斃したって報告がありました。敵の本拠も本隊が制圧。あとは郊外側の状況確認が終わるまでの辛抱です」
キトンもクロネから離れると、自分の言葉を待つようにどこか恐々とした視線を送って寄越す女性たちに頷いてみせた。
「わたしたちをさらった悪党たちは、わたしの仲間や公国兵のみなさんの尽力で退治されました。もうしばらくの辛抱です」
女性たちの間からも歓声が上がった。彼女らはキトンの傍に集まると、口々に感謝の言葉を口にする。キトンの顔が、泣き笑いに歪む。
「あなたたちには、ずいぶんな無理強いをしてしまいました。ごめんなさい」
助命のためとはいえ、監禁時に男たちの相手をさせるなどの無体を働いたことを涙声で謝るキトンに、彼女らははっきりと首を振る。
「慰み者にされたのは、僧侶様も同じじゃないですか。それでも挫けずにいてくれたあなた様のおかげで、わたしたちはこうして生きています」
互いにいたわり合う女性たちの姿を、救出のために働いた小隊の誰もが満足そうに見守った。喜ぶ女性たちの姿に、自分たちは間違っていなかったという感触を得ながらも、しかし当面の危機が去りつつある今、《偽神》たちの胸には対峙することを棚上げしていた苦い思いが、次第に蘇り始めていたのだった。
◇ ◇ ◇
キーネにアヘッド、今回の戦いにおける最大の脅威が排除されたという報せはPKKの本隊を沸かせた。しかし今までに例のない最期を遂げたアヘッドに、皆が一抹の不安を禁じ得ない。
幸いにもアヘッドのギルドは壊滅が確認されている。悪目立ちすることこの上なかった彼らギルドの全容が詳らかだったのは不幸中の幸いと言えるだろう。
アヘッドを除いた彼のギルド員は、全員が死体を回収されたことによりその死亡が確定されている。このため、件の事態にアヘッドの仲間が関与している可能性は甚だ低いと判断された。
アーサーが臨時に呼集した、アヘッドのギルド員を殲滅するための討伐隊は、タリアの援護へと通路を辿っていたナヴィガトリアより連絡を受け、アーサーたちに先んじて帰隊を果たしていた。
しかし精強を誇ったそのPKたちを滅ぼすにあたり、やはり若干名の犠牲者も出ている。生き汚い彼らはまさに強敵だったと言えよう。それはアーサーの中に、苦いしこりとなって残された。慰めるように肩に触れた、ジェシカの手のひらすらがアーサーには重く感じられる。
「アヘッドの件は、今のところは下手に考えたところでしょうがないよ。それより先に、できることから片付けましょう?」
カラグとジェシカを中心にして、部隊の再編成が進められた。討ち漏らしたかもしれないPKの探索や、PK本隊への攻撃時には無視された放置遺体の精査のためである。
とりあえずといった体でこの場に集った《偽神》と公国兵の混成部隊だけで隊の編成を行っていたところに、郊外側出入口方面での戦闘がこちらの勝利で以って終息したとの報告がもたらされる。《偽神》たちは再度沸いた。
これを受け、さらわれていた女性たちを保護しているクロネの小隊には、バーテニクスを通じて郊外側に展開した隊と合流するように指示が下された。
「ジェシカ殿、済まないがこの場をお任せして構わないだろうか? さらわれていた女性たちと話がしたい」
「殿下がそうお望みなら。女性たちも殿下のお顔が拝見できたなら、更なる安堵を得られましょう」
カラグの要請に、ジェシカはためらわずに応じた。犠牲者の女性たちに口止めしたいであろう公子の狙いが分からないでもなかったし、それは自分たち《偽神》にとっても都合が良い。
「ですが兵士の方々にはこのまま協力をお願いしたいので、殿下の護衛にはこちらから人を付けさせてもらっても?」
「それで構わない」
二人の会話に、傍らのタリアが手を挙げる。
「でしたらわたしがその任を務めます。自分の小隊のことも気になりますから」
何かを言おうとしたナヴィガトリアを制しつつ、タリアは目線でジェシカを促した。それに応え、ジェシカは頷く。
「それでは護衛はタリアに任せましょう。よろしく頼みます。殿下、どうかお気をつけて」
カラグはそれに軽く返礼したあと、ラエルガス監視団の兵たちに後事を託すために一度席を外した。背を向けたカラグの耳に、身内向けなタリアたちの声が届く。
「――わかるけど、ナヴィはまだこっちに残ってて。大丈夫、もうそんなに無茶する必要もないだろうし」
「タリア姉の言う通り。ナヴィさんにはもうちょっとこっちで通信役してもらえると助かるなぁ」
女性二人がかりの説得に苦戦しているだろう黒衣の剣豪を気の毒に思いつつ、カラグはこっそり肩をすくめた。
思いがけずタリアと二人きりになったカラグは地下遺構を進む道すがら、改めて傍らの少女を観察した。今回の激戦前と比べてその装束には激しい傷み具合が見てとれ、美しかった栗色の髪も中途半端に絶たれて無惨を晒しているが、タリア自身は至ってピンピンしている。
徹夜明けで絶好調とは言い難い自分と条件は同じ、むしろ単独で難敵を破るなどという活躍をした分、タリアの方が疲労の度合いも大きいだろうにそれをおくびにも出さないところに感心させられる。いや、感心などと言っては足りまい。自分ははっきりと、この少女に敬意を抱いているとカラグは自らを分析する。
「何でしょう?」
気配を察したものか、タリアが振り向いた。カラグはそれに、悪びれもせず答える。
「いや、思いがけずタリア殿と二人きりになれたものでね。かねてから訊ねたいと思っていたことがあったのだが、いざこうなると何から訊ねてみようかと考えあぐねてしまって――」
そんな言い訳を口に上らせてるうちに、カラグの胸にふと稚気が湧き起こる。
「そのうちに見惚れてしまっていたよ」
自分の美貌に自覚的であるカラグは、それを活用する術も多少は弁えている。傍らの少女へ品良く抑えた程度の笑みを向けてみるが、今回の敵手はやはり手強かった。情動過多な令嬢がた、あるいは純朴な市井の娘たちとも違い、彼の艶技に舞い上がることもなければたじろぐこともなく、おまけになんら慌てる素振りも見せない。少女から、屈託ない笑顔がこぼれる。
「今のわたしに、見惚れるところなんてございましたか?」
わずかばかりもタリアの動揺を誘えなかったことに、しかしそれはそれでカラグは満足する。その反応は翻ってみればタリアの特殊性を示す、ささやかではあるが一端に他ならない。
此度の戦いで、小さな勝利を得たことに気を良くしたカラグはさらに踏み込んでみる。
「ああ、あるとも。夜を徹しての奮闘のあと、いまだに活力旺盛なタリア殿の姿には同じ武人として見惚れずにはいられないな。さすが《雷鎚》様が認めるだけのことはある」
ごくわずかに唖然としたタリアの不用心な表情に、カラグは心のうちで快哉を上げた。ラエルガス迷宮からの帰り道、相手を見定め損ねたタリアとの舌戦で大敗を喫した分の、いくらかは挽回できた気分になる。そしてタリアのその、歳相応とも見える可愛らしい様子にカラグは可笑しみを禁じ得ない。つい笑いがこぼれてしまう。
「公子様って、意外に人が悪いんですね」
困ったような表情を取り繕った直後に、タリアも吹き出した。
「ずいぶんな台詞ですよ。女の子相手に、体力馬鹿っぷりに見惚れただなんて」
「そんな風には言ってないだろう? 元気があってよろしい、くらいに受け止めて欲しいな」
「そんな素敵なお顔で、真面目ぶって冗談を口になさるなんて卑怯です」
徹夜明けの二人の、一体どこの琴線に触れたものか。それでも一応は息を凝らしつつ、タリアとカラグはしばらく互いに笑い崩れた。
一しきり笑ったあと、タリアはいまだ笑みを上らせたまま、涙目で息を整えつつカラグを窺う。
「それで、本当のところはどうなさったんですか?」
「いや、私は最初から本当のところしか口にしていないよ」
冗談めかしたが、訊ねることに悩んだのも事実なら、タリアに見惚れたという話も嘘ではない。ただしそれは、容色がどうのという卑近な話ではなく、毅然として責務を果たそうとするタリアの佇まい、あるいは神性と言い換えても大袈裟ではない、彼女のまとった気配に対してだった。年端もいかぬ少女が、どうしたらこのように在れるのか。
カラグの真剣な心持ちが伝わったものか、タリアの笑みがまた少し困ったように色を変える。「公子ってひょっとしてロリコンなのか?」という呟きが聞こえた気もするが、カラグにはその、タリアの照れ隠しじみた戯れ言の意味がわからない。
多少居心地の悪くなった空気を払拭するように、タリアが声を上げる。
「公子がそうおっしゃるなら、お褒めに与った活力の一端を体験していただきましょうか。ちょっと時間も過ごしてしまいましたし」
タリアの唇から、何かの魔法が紡がれる。それが自分自身にも降りかかるのを、カラグは武芸者として備えるに至った魔法的な感覚によって捉えた。
「強化系の魔法、〈加速〉を掛け続けます。郊外側まで休みなく走って遅れを取り戻しますよ?」
悪戯っぽく笑んだタリアに思わず頷いてしまったことを、カラグはほんの数瞬後に後悔させられた。