32.公都の長い夜 その11
『転移系の魔法が軒並み使えなくなってる!』
古い仲間の魔導師が血相を変えて伝えてくれた言葉に対して、自分が下した判断は間違っていなかったと、戦匠の男は視線の先の光景に唾を飲み込んでいた。
今や愛用の銀甲冑を脱ぎ、少々心許なくなる革鎧をまとった彼が身を隠して見守る市街側ボリアDへの出入り口は、先ほどまでとは打って変わって物々しい雰囲気に包まれている。
彼らが脱出を果たすまでは、消極的あるいは受け身的といった様子だった警備陣も、今現在はピリピリとした緊張感を漂わせていた。
それもそのはずだ。つい今しがた、戦匠に囮として利用された《偽神》たちの強襲が出入り口の近くであったばかりである。
公都ボリアに張り巡らされている地下下水網。その一角にひっそりと開いたダンジョンへの出入り口に配された兵力の規模は、戦匠の心胆を寒からしめる。
自分たちが敵に回した、国家という存在の地力に対する恐怖。と同時に、そのあぎとより何とか逃れ得たという安堵感も、戦匠の胸には去来していた。
しばらく様子を窺ったのち、透明化ポーションにより警戒網の目を盗んですり抜けた自分たちの存在が気づかれていないこと、追手が掛かる気配がないことを確信した戦匠は、そばにひかえたごくわずかな仲間に頷いてみせる。
彼らは下水道の暗がりの中に身を潜ませて、慎重にその場よりの離脱を試みた。
地下でそのような動きがあるとも知らず、ボリアの繁華街は夜半を大きく過ぎたにも拘わらず賑わっていた。戦匠たちは『木を隠すには森の中』という有名すぎる諺に従い荒くれ者たちが集うような酒場を見繕って転がり込む。
粗末なテーブルを囲んだ一行は、注文を済ませると各々人心地ついた。少々頼りない木製の椅子にもたれた戦匠はやれやれとばかりに一息つくと、改めて仲間たちを見渡した。
戦匠を含めても五人ばかりの小勢。その顔は、ほとんどが暗く重苦しい表情を同様に浮かべている。
「転移妨害か。国ってそんなことも出来るんだね」
ボソリと小さく呟いた、小柄な猫獣人少女の言葉に仲間たちはぎくりとその身を強張らせた。この店に落ち着くまでの間に耳にした、酔っ払いが街頭でぼやいていた言葉を少女は吟味するかのように繰り返す。
パーティーの魔導師であり、仲間たちにダンジョン脱出を決意させる情報をもたらした少女は、上の空のように酒場の天井につるされた灯火を見つめている。
「ボリアDに篭ったやつらを、文字通り封殺するつもりなんだろうな」
魔導師の少女の様子を不安げに窺っていた長身のエルフ青年は、陰気な声でこぼしたあと、ため息とともに瞑目する。
「それだけのことをしたからねぇ」
ノームの少年がテーブルに突っ伏しながら他人事のように答えると、エルフの青年は苦々しそうに口元を歪めた。
そんな、著しく精彩を欠いた仲間たちの様子に、戦匠もまたため息を吐く。
「それで、これからどうするんだ?」
ただ一人タフな雰囲気を残して、誰となく尋ねるヒト族の巨漢に、戦匠は肩をすくめてみせる。
「ノープランだ。ただまぁ、西には戻れないから、残るは東だろうな」
「今ごろ西の方は、《オーブ》のやつらが根回ししてガッチガチだろうしねぇ」
戦匠の投げやりな方針表明に、突っ伏したままのノーム少年は賛成とばかりに小さく手を挙げる。
《オーブ》――《紅剣騎士団》は《Decisive War World》の日本向けサーバーにおいて大手と称されるプレイヤーギルドの一つだった。
ハイレベルプレイヤーで賑わう《王都》において彼らをまとめ上げ、自分たち好戦的なPvPプレイヤーを排斥してのけたそのPvPギルドと盟主の姿を思い出し、戦匠はもはややり場のない苛立ちを募らせる。認めたくないことではあるが、それは少々の悔恨をも内包していた。
この世界へと転移させられたあの狂乱の中で、ゲームの時の常に倣って彼らに反発したのは実に幼稚な選択だったと、今なら理解できる。
異世界へと誘われ、未知という恐怖に暴走しかけた《偽神》という強大な力は《オーブ》の盟主が唱えたように、厳正且つ冷静に御されるべきだったのだ。
「とりあえずいつものように、アイルトンに任せるよ」
そんな名指しの呟きが、いつのまにか考え込んでいた戦匠の耳朶を打った。唐突なその言葉に、わずかにたじろぎつつ声の主に視線をやる。変わらず天井の灯りをぼうっと見つめる猫耳少女が、彼に視線の一つも寄越さずに言葉を重ねる。
「ただ、ごめん。こんなことワタシが言ったら鼻で嗤われるかもしれないけど、しばらく血なまぐさいのは勘弁かな」
昨日まで公国の兵や敵対する《偽神》との戦いに熱心だった魔導師の、今はどこか倦んだ声に、再び小さな手が挙がり同意を示す。
「リアルPvPはこりごりだよ、勝っても負けても喪う物が大きすぎる。真面目に心を入れ替えて、フツーに冒険者稼業で生きていこう。ヌルゲー万歳」
テーブルに突っ伏して表情を隠したままの少年の声も、茶化すような言葉と裏腹に酷く疲れたような色を帯びている。
「まだ何とかなるかもしれないな。俺たちの人相書きを取られるようなタイミングもなかったし」
巨漢の言葉に、戦匠は仲間を見渡した。
「この中で、拉致られてた女の子とヤったやつはいなかったよな?」
口々に返ってくる「レイプとか無理ゲー」などといった言葉に戦匠は頷く。ならば自分たちが今回の騒動に関与した痕跡は、ごくわずかとみなしてもいいだろう。例外は公国軍相手に派手に立ち回った戦匠の悪目立ちしすぎる銀甲冑だが、業物として名高いレアアイテムも、インベントリの奥深く封印すればまるっきり問題にはならない。
「なら俺たちに手配が掛かるリスクも小さいだろう。とりあえず東の方で大人しくやるか」
仲間たちからの賛意を得て、戦匠は丁度テーブルに届けられた杯へと手を伸ばす。
「では俺たちに生きながらえるチャンスをくれた有象無象に感謝と哀悼の意を込めて」
自分たちが囮として利用し、供犠の如く捧げたPK仲間たちを形ばかり悼む戦匠の言葉には、皮肉と自嘲が込められていた。密やかに捧げられた乾杯の音頭に、戦匠と同じく逃げ果せた仲間たちが、ひっそりと唱和する。その声に耳を傾けつつ、最悪『大陸』まで逃げればいいかと、戦匠はとりとめもないことをぼんやりと考えていた。
とにかく今は、現実問題として先のことに想像力を働かせるのが、酷く怖くて億劫なことに感じられる。
このとき喉に流し込んだ得体のしれないアルコールの味を、その後彼はついぞ思い出すことができなかった。
◇ ◇ ◇
風の鳴る音が連続し、追跡に気をとられていた隠密をキーネの双剣が襲う。
油断していた。逃走を続けるキーネを追っているうちに、ハイスカウトは知らず反撃の可能性を失念し、警戒を怠って彼女が消えた通路の角を無造作に曲がってしまった。
キーネを追撃する仲間たちを、その高度な身体能力で以ってリードしていたハイスカウトの青年は、自分の愚かさがもたらした取り返しのつかない失敗に覚悟する。
死に至る、引き伸ばされた瞬間に在って、敵を討たんとするキーネの酷く冷静な眼差しと目が合う。この嘲りの色一つない表情こそが、PvP巧者で知られる彼女の真の貌なのか――
「〈障壁〉!」
魔法の発動句が響き、キーネの刃より刹那に先んじて不可視の防壁がハイスカウトを守った。それでも剣匠の振るった連撃は、魔剣の力と彼女自身の技量によって恐るべき威力を発揮し、ハイスカウトの、レベル100越え上級職に相応なクオリティを誇る装具で覆われた身体に深手を刻みつける。
キーネの剛剣を浴びた腕と足は、〈障壁〉の働きによって辛うじて胴体と泣き別れにならず済んだ。ハイスカウトは息が止まるような激痛を堪えると余力で後退を試みる。
そこへ、背後からハイスカウトの身体に触れる者があった。彼の身体を脇へと庇うように御しながら、癒しの力を流し込んできたその誰かは、ハイスカウトと位置を入れ替えるようにして前へと躍り出る。
ハイスカウトは理解が追いつかないまま、流れるような動作で自分の前に立った小さな小隊長の背中を呆然と見つめた。その首筋にしがみついたチビドラゴンの尻尾が、こちらを励ますようにユーモラスな動きで揺れる。
「〈加速〉!?」
キーネの声にタリアは言葉で以って応えず、蒼い剣閃を抜き放った。左腰に吊った鞘から迸った剣筋が、キーネの追撃の一手を弾き、殴りつけるように繰り出されたカイトシールドが二手目の太刀筋の軌道を強引に逸らす。
その動作から息つく間もなく、旋風と化した回し蹴りがキーネの胸元へと繰り出される。思いがけず両の剣撃を迎え討たれたことにより、体勢を乱した狼人剣匠はデッドウエイトと化した両手の得物を思い切り良く宙空に投げ捨てた。瞬時に構え直した両腕でタリアの蹴撃をブロック。オーバード前衛職が備えた膂力で以って踏みとどまる。
巌に蹴りつけたが如き衝撃と反作用に、今度はタリアの姿勢が乱れた。肉食獣を想起させる獰猛な呼気を吐き出して、再び魔剣を召喚したキーネの剣舞がその隙を襲う。
防御された反動に逆らわず、勢いに任せた側方宙返りでタリアは初段の剣撃を回避。続く二撃目を着地と共に長剣で受ける。
両者の攻防を目の当たりにして見当識を取り戻したハイスカウトは、回復魔法の常識外れな治癒力に疼く手足の違和感を無視。タリアが退いた分を埋め合わせるように、ダガーの刺突をキーネへと繰り出した。しかしこの攻撃も、狼人剣匠は難なく迎撃してのける。
罠に掛かった獲物を速攻で仕留めるという、キーネの当初の目論見は外れた。それでもなお、近づいてくる残りの敵の靴音はわずかに遠い。キーネはまだ自分が圧倒できると即断、反撃へと転じる。
MMORPGの対人戦において、回復職と攻撃職という組み合わせのペアを相手取ったとき、まずは回復職を殲滅するのが定石である。ましてや相手は片やオーバードの密偵系、片やそれ未満の僧侶系。どちらを先に無力化するべきかは明らかだった。キーネは自身の経験も鑑みてその定石に従う。
ハイスカウトに対しタリアを盾にするように移動、彼の追撃を封じつつ双剣の連続攻撃をタリアへと集中する。
巧みなキーネの位置取りに、援護もままならないハイスカウトが焦りを募らせる中、目まぐるしい打ち合いがその様相を変じた。先の布石から、タリアの幾度目かのシールド防御を誘ったキーネの、ガード崩しスキルが放たれる。
この世界での何度かの戦いにおいて、その現実での効果を十分に確認した自身の得意技を、絶大なる自信で以ってキーネは繰り出す。
――剣匠双剣スキル〈重斬波〉。
尋常ならざる《偽神》の、異能の一端とも言える戦闘スキル。その常軌を逸した力で以って発揮される剛の剣筋が、一瞬に凝縮されて次々と敵の防御を穿ち、こじ開け、避けることも許さずその場に縫い止めるという力技。
防御した相手の隙を強引に作り出し、次の一手へと繋げる補助的な技というのが対戦ゲームにおける所謂『ガード崩し技』の在り方だ。しかし、剣匠の固有スキルの一つである〈重斬波〉は、現実においては必殺技として十分機能を果たす圧殺の剣だった。
色男戦士の仲間である、魔導師と猟兵の二人を斃した際にも用いた勝利への布石は、しかし眼前の敵手の恐るべき技によって無力化される。
ガード崩し、あるいはガード不能技の類も万能ではない。対戦ゲームにおいては攻撃を能動的にいなす、俗に『当て身』技と呼ばれる種類のスキルには対処されてしまうように設定されていることも多い。
しかしそれを成功させるには、相手の出してくる技とそのタイミングを適確に読み切るセンスや、実際に反応してみせるテクニックが必要となることもまた珍しくない。対戦での実戦投入となると、確実に成功させるには上級者と呼ばれる高みにあることが要求される。
そして《Decisive War World》にも、『当て身』に類するスキルは幾つか存在していた。
今キーネの〈重斬波〉による無尽の如き打ち込みをピンポイントに盾で弾き、逸らしてみせるタリアの妙技こそ〈強襲防御〉。
ゲーム時代、その極めてシビアな操作性と盾スキルにおいて奥義級という習得レベルから、ごく一部の『変態』や捻くれ者以外からは実用性絶無と断じられたこのマイナースキルもまた、その一つであった。
驚愕に見開かれたキーネの瞳は、視界いっぱいに広がったカイトシールドに敵手の姿を見失う。〈強襲防御〉により逸らされ続けた両の剣を、戻すこともできない詰みの状態。
先ほどのように剣を捨て、両手によるガードもままならいないほど、〈重斬波〉を返された隙は大きかった。
キーネは自分が〈重斬波〉による打ち込みを、逆に誘われたのだと悟る。
わずかな思考のあいだに視界は暗く塗りつぶされ、強烈な衝撃がキーネの意識を惑乱させる。激しい打撃音と、頭部を襲う痛みは遅れて知覚した。
グルリと上向いた視線が血の糸を引いて飛び散る白い何かを捉える。口中に溢れる鉄錆びじみた味が、否が応にもソレの正体を伝えてくる。
――アレは、〈盾強打〉の強烈な打撃で叩き折られた自分の歯だ。
咄嗟に身体を丸めた姿勢がとれたのは上出来だったろう。次の瞬間には、ボリアDの滑らかとは言い難いゴツゴツとした通路壁面に、背中から叩きつけられる。
キーネが鎧う防具もまた、高レベルキャラクターに相応しい優れた品だったが、鋼の殻を抜けてくる衝撃を殺しきることは出来なかった。息を詰まらせるキーネには、しかし呼吸困難に喘ぐ暇も許されない。
吹きつけてくる戦意を捉え得たのは、この世界に在って剣匠という素性を持つ故か。キーネはかろうじて、小柄な敵手が振り下ろしてきた剣撃を受け止める。
しかしその胸中には、戦う相手に抱く恐怖が重苦しく広がっていく。キーネはこの初めての感覚に、自分の闘志が蝕まれるのを強く感じた。
そんな動揺に曝されたキーネのことなどお構いなしに、白の装束を翻らせた少女が迫る。その姿は、凶々しさを象っているかのようにキーネの網膜に灼きついた。