4.廃鉱の死闘 その2
タリアが近づくとふわりと甘い花の様な香りが漂った。その場違いさが、バハムートを僅かに動揺させる。
それはミルクで割られた紅茶の残り香にすぎなかった。
しかしその匂いは、散々血腥さに塗れてきたバハムートにとり穏やかさや温もりといった、しばし感じることができなかった暖かなものたちを想起させて彼を慰めた。
束の間、惨劇に打ちのめされてきた精神が安らぎを得る。
しかしそんなものは儚い幻だと、彼の安寧を嘲笑うかのようにあの忌まわしい嘶きが辺りに響いた。バハムートは無意識にその身を強張らせる。
タリアはカッコに向けていた労わりの表情を戦いに臨むそれに変えると、真っ直ぐにバハムートを見つめてくる。愛らしい造作の中にあって、その水色の瞳だけはひどく透徹として怒りを顕わにしていた。
「バハムートさん、敵は《ダークライダー》ですか?」
バハムートはその問いにジャックとクララが立ち塞がる方へ振り返りつつ、彼らにも届けとばかりにはっきりと答える。
「はい、ヤツが一体のみです。もう〈雷陣剣〉を繰り出してくるくらいに削ってありますが」
タリアは一つ頷くと心地よく響く旋律を口ずさんだ。バハムートは彼女の魔法によって自分の傷が癒されていくのを感じる。
「ここはわたしたちに任せて、バハムートさんたちはいま少し退がっていて下さい」
エルフの男女が、バハムートとカッコの脇をすれ違いざまに頷いてくれる。
「巡回の骸骨兵は倒しましたが『こっち』でモンスターの再出現がどうなっているか、まだハッキリとはわかっていません。後方警戒だけお願いします。回復が必要になったら大声で呼んで下さい」
タリアの明瞭な指示に二人は頷く。
「ではお気をつけて」
タリアは白い衣装を翻すと、鉄靴の靴音も高く仲間たちの方へ歩いて行く。
その小さな後姿が、なぜか誰にも増して頼もしく見える。
「――勝てる」
カッコはバハムートが漏らした言葉に、はっきりと生気が戻っているのを感じて相棒の横顔を見上げた。
「『タリア嬢がいるパーティーはどんな困難にも勝利する』!」
その爬虫類然とした顔に歓喜の笑みを浮かべて、盲目的な言葉を吐くバハムートをついまじまじと見つめてしまう。
(アレが噂の『タリアたん』か。確かに可愛らしいし仕事もできそうだけど――)
カッコは頼りにならなくなった相棒に残念なモノを見る眼差しで一瞥をくれると自分だけでも後方警戒に努めようと気を取り直した。
やがてタリアたちが難敵に立ち向かう喧騒が響いてくる。彼らは互いに声を掛け合うことで同士討ちや誤爆を回避していた。なるほど、なし崩しに戦闘を継続させられたあげく、同士討ちで死人まで出した自分たちとでは事情が異なっている。この異常な状況下にあって対策を講じ、上手く対応する時間を与えられていたのかしれない。
時折交わされる彼らの声を背にしつつ、その中で一際徹るタリアの声にカッコは去り際の彼女の表情を思い出す。
(――だけどアレは、どう見ても『タリアたん』なんて玉じゃないわよ)
リアルで目の当たりにした《ダークライダー》の迫力は恐ろしいの一言に尽きた。しかしなおタリアの心は怒りに塗りつくされ、その闘志は揺るがない。
保護した二人の痛ましい姿が思い出されるたびに目の前の《ダークライダー》、引いてはクソッタレな女神に対する怒りが湧き上がってくる。
タリアたちやあの二人は、ただのネトゲプレイヤーでしかなかった。それが今、ここでこうして命のやりとりを強いられている。
まだ事情を訊いていなかったが、あの二人が自分たちだけで《ダークライダー》に挑んだとは思えない。何らかの事情で他の仲間とはぐれたと考えるのが妥当だ。バハムートの鎧に残った流血の痕やエルフの女性の酷いあり様を見れば、その事情がロクでもないことだと容易に想像できる。
タリアは『命のやり取り』という言葉の意味をなお甘く見ていた事を悟った。今この瞬間にも、見知った誰かがその為に命の危険に曝されているかもしれない。
(こんなのは、週末の夜を楽しく遊んでいただけの人たちが負う様なことじゃない――)
タリアはこの理不尽さの中で、気の良い友人たちを失うつもりは毛頭なかった。なんとしてもみんなで生き延びるんだと強敵を見据える。目の前の敵が剣を振り上げる。タリアは冷静に〈障壁〉の詠唱を済ませると大声で叫んだ。
「ジャックに〈障壁〉! クララ退避!」
標的に接近しているクララが致命的な攻撃の予兆に気づけなかった場合を案じて指示を飛ばす。「あンがとにゃ!」と、元気良く飛び退く彼女の姿に、意識の端で安堵しながらなお声を張り上げる。
「ジャックに〈再生〉!」
やがて目の前に発生した〈冥王雷陣剣〉という超常現象は壮絶の一言でも言い尽くせなかった。『世界の敵』という言葉の意味を全身を侵す怖気と共に実感する。
空間がその身を裂かれ紫電という悲鳴を上げる中、ヌラリとした光沢を放つ異形の巨剣が幾つも姿を現わす。空間の傷口から生み出されては地面を穿つ巨剣が円陣を成して《ダークライダー》の姿を覆いつくした。異界の巨剣は辺りに凄まじい破壊の暴風を撒き散らす。
――しかし、その猛威に倒れた仲間はいない。
ジャックの〈威圧〉から始まるコンビネーションが反撃の口火を切る。
クララが愛用の大剣を引っ提げて、雄叫びと共に《ダークライダー》の背後を襲う。
「〈氷爆〉カウント5!」
サーラが落ち着いた声で爆撃のカウントダウンを開始する。
「合わせて痛いの撃つからクララちゃん避けてね?」
ボルトの不敵な宣言が皆の耳朶を打つ。
タリアはジャックに回復魔法を飛ばしつつ、頼もしい仲間たちが仕上げに掛かるのを見守った。
ジャックの手のひらで小山を作っている輝石を眺めてバハムートは首を傾げた。
「いきなり僕たちの物だって言われても。なんなんだコレ?」
「《ダークライダー》のドロップアイテムと言ったところだ。触れればわかるんだがな、この世界で現金化できる。相棒のお嬢さんと分けるといい」
「こっちは後始末をしただけだしな」と呟くジャックに、半ば押し付けられたソレを受け取る。なるほど、バハムートも《外念体》がなんなのかを若干の不快さと共に正しく理解した。
「さて。一先ずケリが着いたところで事情を訊きたいんだがここも安全じゃない。落ち着かないが歩きながら説明してくれるか?」
労わる様な眼差しを向けてくるジャックに応え、バハムートとカッコは自分たちを見舞った惨事について語った。
一行は坑道を歩きながらパーティーでの取り決めをバハムートらに説明し、二人を隊伍に組み込んだ。先頭には引き続きジャックと、索敵能力を自ら売り込んだカッコがつく。二段目にタリアとクララのペア、三段目にサーラとボルトのペアが続き、殿はバハムートが務めることになった。
ボス部屋までの途中でミントの遺留品が発見された。無残に踏み躙られたソレはもはや遺体と呼べるほどには原型を留めていなかった。タリアが咄嗟に唱えた〈健やかなる心〉の魔法の効果が無ければ、全員がその身を捩って嘔吐することになっていたかもしれない。そんな魔法による鎮静効果を得ても、一行は涙を堪えることができなかった。
バハムートとカッコもミントとはさほど親しいという間柄でもなかった。タリアはできればミントと親しい人物に渡そうと、せめてものよすがとして彼女の遺髪を回収する。一行は彼女に黙祷を捧げると沈黙の内に先を急いだ。
カッコの偵察によりボス出現エリアには二騎の《ダークライダー》の復帰が確認された。それら以外に動く姿が認められなかったという彼女の報告に、ジャックはエリア内へは立ち入らない決断を下した。カッコとバハムートも反対しなかった。
ジャックの想定通り、エレベーターのある吹き抜けのフロアまでに複数回の交戦があった。幸い《ダークライダー》は坑道自体には配置されておらず、その遭遇を回避することが可能であった。一行は坑道に立ち塞がる骸骨戦士のみを排除して危なげなく進んだ。
しかしそれら交戦の機会を経て、モンスターの知覚能力がゲーム時代のそれと比べて格段に高くなっている事実が判明した。いや、プレイヤー並みになったと言うべきか。単純に彼我の距離さえ取ればこちらを感知しないなどという極めてゲーム的なプレイヤーの優位は失われていた。
安易に近づけばそれはたちまちモンスターの知るところとなり、彼らは猛然と襲い掛かってきた。索敵の重要度は高まり、カッコは自分の負う責任のシビアさに神経をすり減らすこととなった。
駆け寄ってきたカッコが大きく息をつくのを迎えて、タリアは彼女の額に浮いた大粒の汗を拭ってやった。カッコは息を整えながら礼を言い、待ち受けていた仲間たちに偵察結果を報告する。
「いつも通り、坑道の出口には《馬野郎》の一隊がうろついてる。すぐ気づかれる距離には他のモンスターは居ないけど、テラスでそのまま戦ったら気づかれそうな距離には何体か居る」
ほぼ予想通りの状況だったが、やはりモンスターの知覚能力の向上が不安要素になった。
「坑道内に誘い込むしかないか」
ジャックは難しい表情で坑道内を見渡す。
どういった歴史的背景を持つものか、アルタイゼン廃鉱の坑道はかなり広い。幅八メートル、高さも四、五メールは優にある。だがそれも《ダークライダー》単独で相手取るなら十分な広さだが、横隊で先行してくるであろう配下の骸骨戦士四体の相手を考えると少々心許ない。
ゲーム時代はそのモンスターたちの戦術がこちらの有利に働いたが、いざ今回のような状況に置かれると手堅いと言わざるを得ない。タリアの台詞ではないがまさにハードモードだ。
骸骨戦士たちを排除している間に、後方の強敵がどういった手を繰り出してくるかも気になる。仲間たちにそれらの懸念を説明するが、誰も良策など講じ様がない。
結局カッコに遊兵として待機してもらい、突発的な自体に備える以外は正面からの戦闘を覚悟することになった。
だが、この世界の現実として存在する《ダークライダー》の攻め手は、その覚悟を軽く凌駕していた。
ジャックのクロスボウが《ダークライダー》の兜を叩いた。ジャックはそれを見届けると、仲間の待機する坑道奥へと退く。
カッコが見つめるその先で《ダークライダー》はいつもの通り長剣を標的へと突き出し、配下の骸骨戦士をけしかけた。骸骨戦士たちが横隊を組んで勢い良く走り寄ってくる。カッコを除いたパーティーの前衛陣が応戦の構えを取るその間に、《ダークライダー》は長剣をジャグリングの様に放ると順手から逆手に持ち替えた。その様は一種ユーモラスですらあったがカッコは総毛立つまま叫んでいた。
「ジャック!」
思わず発した警告は間に合わない。《ダークライダー》が槍投げの要領で投擲した剣はさっきのお返しとばかりにジャックの額を捉えていた。