11.隠者と灰色の龍―承前―
シュークリームをすっかり口の中に納めたナヴィガトリアは、空いた手で目元を拭った。げっ歯類の小動物のごとく頬を膨らませて咀嚼を続ける彼に、タリアは唖然と問い質す。
「なんで泣いてるの?」
タリアのその問いに、思わぬところから答えが返る。
「なんでって、この味で不意打ちされたらちょっと泣けるよ」
クロネの鼻声に思わず振り向く。目元と鼻先を赤くした彼女の瞳も、確かに潤んでいる。
「――そうなの?」
探るようにナヴィガトリアを見ればこくこくと頷き返す。彼は手の中にミルクティーの容器を呼び出すと、栓を開けて呷った。口の中のものを片付けて一息つく。
「……コレとかサンドイッチは、こっちに来てからずっと口にしてたから何とも感じてこなかったけど」
そう言って手を伸ばしてくるナヴィガトリアに、タリアはシュークリームを渡してやる。「ありがとう」と言って受け取った後、彼はしみじみとその何の変哲もない洋菓子を眺める。
「シュークリームなんて向こうでも随分と食べてなかったこと、思い出した」
ナヴィガトリアはそう言うと男らしく大口を開けてかぶりつく。
「わたしはバームクーヘン好きだったなぁ。同じくしばらく食べてなかったけど……」
気弱げに微笑むクロネはさまになった慎ましさでシュークリームをついばむと、小さくため息を吐く。
「……あーゆーのって、こっちでもあるかしら」
『あー、郷愁をそそる味だったってことね』
バーテニクスは二人の様子に存外詩的な理解を示すと、ナヴィガトリアに倣うようにしてシュークリームにかじりついた。勢いが良すぎたのかシュークリームの底部分が破れて中身のクリームがいくらかこぼれ出すが、事態を予想していたタリアがそっと手のひらでそれを受けとめる。
『凄い甘い! 果物のそれとも違う濃厚なこの甘さ!』
三人の頭の中に、ドラゴンの喜色に溢れた《交感》が飛び込んできた。
「美味しい?」
今や必死の体でシュークリームをかじるバーテニクスを脇から微笑ましそうに眺めつつ、敢えて訊ねるクロネ。チビドラゴンからは美味しいを繰り返す《交感》がうるさいほど発せられ続ける。
何かの拍子に加減を忘れた手指の鉤爪がシュー皮をクリティカルに貫いた。カスタードクリームが勢い良く溢れ、バーテニクスの鼻面にかかる。物言わぬ獲物からの思わぬ反撃に、彼は目を白黒させる。
「ぷ。無様」
まだ目を赤くしたナヴィガトリアが、小馬鹿にしたようにわざとらしく噴き出してみせた。
『涙目のキミが言う?』
「涙は心の汗だから」
『それって何の理由にもなってないよね!?』
一人と一匹のやりとりに、傍から眺めていたクロネが「隠者さまって、意外と面白いな」と、どこか救われたような面持ちで笑みをこぼす。
シュークリームを食べ終わったバーテニクスは、長い舌を伸ばすと鼻先のクリームを器用に舐め取る。視界をさえぎるモノを自らの胃袋に納めた彼は、タリアの手のひらに残ったクリームにも目敏く気づいてそれを舐め始めた。
タリアはその不意打ちに内心驚いたが、小娘のように声を上げることにはなんとか堪える。そのくすぐったい感触も子供の時分に犬猫に手ずから餌を与えたときの感触に似ていて、ドラゴンもこのサイズなら愛玩動物感覚かと少しばかり可笑しく思った。
『タリア。僕ももう一つシュークリーム貰えないかな』
再び首を反らしてこちらを窺うドラゴンに、どうぞと言ってシュークリームを渡してやる。
「クロネさんもおかわり要りますか?」
「甘いものは別腹♪ って女の子っぽく言ってみたいんだけどムリ。これ以上は美味しくいただけません。ありがたいけど遠慮しとく」
クロネは両手で持ったティーカップであごを温めるようにしながら苦笑する。「デスヨネー」と笑いながら、タリアは手のかかる膝上の珍客に目を配る。彼女の心配を余所に、バーテニクスは器用に二つ目のシュークリームを攻略していた。
「それにしてもインベントリ保持の食べ物ってナマモノでも腐らないみたい?」
何気ないクロネの問いにタリアとナヴィガトリアが揃って頷く。
「食べ物の他に、ボルトさんがゲーム時代に釣った魚も、ついこのあいだ調べてもらったらまだ新鮮だって言ってました」
「山奥で十日ほど戦って暮らしてたけどサンドイッチもミルクティーも全然傷んだ感じしなかった」
「ファンタジー万歳過ぎる」
クロネは二人の話に曖昧な笑みを浮かべたが、ふと何かを思い出したように表情を輝かせる。
「ナヴィガトリアさん。差し支えなければまた話を訊かせてもらえるかな。《剣聖》って職業がスッゴイ気になるんだけど」
目は赤いまま再び無表情に戻ったナヴィガトリアに、クロネは質問を再開した。彼はバーテニクスに向けていた視線をクロネへ移すと、こっくりと頷く。
「とりあえず《剣匠》でレベル150になったら《剣聖》に変わった。職性能は色々とスゴイ」
「150! 日本でも《レベル150越え》って誕生してたんだねぇ」
あっさり言ってのけるナヴィガトリアに、クロネはため息をこぼすように言葉を吐くしかない。《超越者》と、その海外サーバー起源の俗称で呼ばれる最上位キャラクターは海外でも数人しか存在していないハズだ。
ランキング上に在って詳細情報を非公開に設定していたナヴィガトリアを無かったものとして、国内サーバー最強を名乗っていた目立ちたがり屋なトップ連中もレベル140そこそこと、いまだ150には届いていなかった。目の前の青年の、そのデタラメっぷりが偲ばれる。
「どんなところで狩ってたらそんなに育つのかな?」
むぅと唸るクロネに、ナヴィガトリアはその目にわずかばかり面白がるような色を浮かべる。
「蓄財と自己顕示欲を満たすための労力をバッサリ切り捨てればどこででも」
「うわ、どっちも大好きだ」
MMORPGの面白さの何割かを切り捨てろと笑う《隠者》に、クロネががっくりと肩を落とす。
「私は戦ってキャラクターを育てること――んや、強くすることが大好きだから」
言外に他はどうでも良いと示して、ナヴィガトリアは外していた手甲をはめ直す。
「ところでナヴィ。どうしてまたエルクーンに?」
バーテニクスがシュークリームを食べ終えるのを見届けたタリアが、会話が途切れたタイミングを見計らって訊ねた。ナヴィガトリアの視線がタリアに注がれる。
「前に作ってもらった食料が切れたんでまた作ってもらおうかと。あの夜タリアの現在地が《東廃鉱》だったからここで張ってた。大正解」
「なるほど」
タリアはバーテニクスの小さな頭を何となく撫でていた手を休める。
「こっちに来てからちょっと料理してみたんだけど、前みたいに百個とか千個の食べ物を用意するにはすごい時間かかるよ。急がない?」
タリアの言葉にナヴィガトリアはこっくりと頷いた。
三人と一匹は昼下がりのエルクーンの街角を歩いていた。洗練されたお仕着せをまとった二人一組の衛兵が随所に配置され、治安の高さも窺える。
ゴトゴトと石畳を転がる車輪の音も軽やかな辻馬車が行き交う通りは、ゲーム時には気に留めなかった歩道と車道を嫌でも意識させられる。
よく整備された街路が通り、高い石造りの建物も多いエルクーンの町並みはサンミレーやラエルガスと比べ随分と都会といった趣きがあった。
一行の向かう先は少しばかり遠いところにある。移動に辻馬車を使用することも考えたが、バーテニクスの存在とタリアが街を見たがったせいもあって結局こうして歩いている。《偽神》の健脚に掛かれば街歩きなど大して煩わしくもない。
「ゲーム時代は〈加速〉とか使って横着もしましたけど、ここでやるのは問題ありますよね」
タリアが唸るとクロネが笑って答える。
「止めないよー、他人のフリするけど」
タリアたちは《ゲート広場》近辺の宿場街でこちらの仲間たちが逗留している宿屋を訪ねてみたが、彼らは案の定留守にしていた。女将さんと顔馴染みになっていたクロネが仲間たちの事情を尋ねたところ逗留は継続しており、暗くなる頃には戻ってくるのではないかとの話だった。
そこでタリアたちは別の用事を済ませることにした。タリアとクロネは空き室があるか確認した上で宿を取る。然程遅くなるつもりはなかったが、万が一行き違いになっても構わないよう女将さんに言付けを頼んだ上で一行は再び街へと繰り出した。
かつての土地勘に従い幾つもの通りを行き、角を曲がる。行き交う人種もさまざまでエルフやドワーフは無論のこと、龍人や獣人の姿も然程珍しくはなかった。
「はー、すっかり様変わりしてますね」
目的の場所に辿り着いたタリアの口から漏れた言葉に、呆れたようにクロネが肩を竦める。
「だーかーらー、そう言ったじゃない」
「一応自分の目で確かめたかったので」
タリアは悪戯っぽく笑って見せると辺りを見回す。かつては《職人広場》と呼ばれた一角は色とりどりな天幕がひしめき合う青空市場と化して賑わっていた。
「常識的に考えて、誰でも使える公共の調理設備や機織り設備、鍛冶設備がずらりと並んだ場所なんてあるワケないんだよねー」
ゲーム時代は雨に降られようが真夏の日差しを浴びようが野晒しにされたメンテナンスフリーの生産設備が並んでいた《職人広場》。タリア同様に生産関連のスキルを修めたキャラクターたちの『仕事場』だったそこは、もはや影も形もなくなっていた。
「《生産持ち》の人たちはどうしてるか、聞き及んでますか?」
タリアが訊ねると、クロネは考え込むように眉を寄せる。
「飲食店の店舗借りたり工房を譲り受けたって話は耳にした、かな?」
自信がなさそうな彼女の言葉に、タリアはなるほどと頷いた。
「まぁ《Decisive War World》は生産特化職なんてないしね。そこまで力の入った人は何人もいない。エルクーンの職人さんらでもスッパリ諦めた人の方が多いよ」
クロネは致し方なしといった体で小首を傾げる。
「なんとか宿屋の厨房を借りられないか掛け合ってみますか」
そう踏ん切りをつけるようにして、タリアは背後で守るように立つナヴィガトリアに振り返る。
「ということでしばらくナヴィも私たちと同じ宿屋に移ってもらうから」
了解とばかりに頷く彼に、タリアは満足そうに頷き返す。
「それじゃ移るのは明日くらいからで。厨房が借りられることになったら材料買出しとか諸々コキ使うから覚悟もよろしく」
おどけたタリアが黒い甲冑の胸甲を軽くノックして見せると、さしもの剣聖もごく微量ながら眉をしかめた。
「さて。あっさり用事が済んだワケだけど、市場でも冷やかす? わたしもあの中には足を踏み入れたことないんだ」
『なかなかイイ匂いがしてくるよ。ぜひ行ってみよう』
露店市場を指差すクロネに鼻をひくつかせたバーテニクスが賛成する。
「キミはほんと食い気ばっかりだね」
うりうりとばかりに鼻面を突いてくるクロネの指を、ナヴィガトリアの肩に乗ったチビドラゴンが煩わしそうかわす。
『ヒトの食べ物って昔からずっと興味あったんだよね。満足に話が通じなくて、今までなかなか機会がなかったんだけど』
バーテニクスの思わぬ告白に、タリアが不思議そうに問う。
「話が通じない? 《交感》があるのに?」
『《交感》が通じるのは世界をそれと認識できてる者の間だけなんだよ』
バーテニクスの言葉はシニカルな色を帯びる。
『この世に満ちたヒトらは世界がどうのだなんて考えもしないのさ。日々の暮らしを営むだけで十分満たされてる。少なくとも今のヒトの世はそういう時代』
灰色の賢獣の青い瞳にわずかながら浮かぶ寂寞の色にタリアはしばし息を止める。じっと見詰め合うが、先に視線を逸らしたのは灰色のドラゴンの方だった。