2.現状把握
タリアは大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺胞を満たす。
咥えていたはずの煙草の感触がない。無意識に口元へ寄せた指先は、厚手な革製の手袋に覆われていた。唇にザラリとした感触と革の匂い。
周囲を見渡せば、そこは慣れ親しんだ七畳半の自室ではなかった。壁や天井は剥き出しの岩肌。ともすれば肌寒く感じるこの薄暗い空間が、安穏として暖かだった自分の部屋であるわけがない。何より、タリアの目の前には四人の仲間たちの姿がある。
しかしある意味では慣れた場所とも言えた。周囲の様子には見憶えがある。ついさっきまで楽しく遊んでいたゲームの舞台。モンスターひしめく危険なダンジョン――アルタイゼン廃鉱の第七層。
悪夢としか言いようのない現状にタリアは目眩を覚える。それは他の仲間たちとて同じだったのだろう。サーラとボルトが地面に腰を落とした。
『世界の盾とならんことを』
あのメッセージが表示されたあと、タリアは世界が降って来るさまを幻視した。藤崎英臣の見ていたモノを、タリアが見ていたモノが押し潰し、取って代わる。
その世界が変化するわずかな時間に、アレはタリアの前に姿を現わした。
アルテミエル――アレがその名を持つ者だと言うことはわかった。わからされた。
女神(アレは確かに女の姿をしていた)がこの世界の神だということも理解できた。
自分が何故この世界へと連れてこられたのか――何のことはない、かの世界ではゲームの導入として語られた物語が、この世界では現実だった。
この世界はもう長いあいだ《外なる世界》からの攻撃に曝されている。その攻撃は小波のようなものだったが、真綿で首を絞めるが如く、徐々にこの世界を蝕んでいた。
我が子たるこの世界を守る為、アルテミエルはある一つの手段をとる。
この世界の盾とするべく《別の世界》から戦う力を奪い取ると。
この世界に敵対する《外なる世界》とはまた異なる《別の世界》――藤崎英臣が在った世界。アルテミエルの言葉を借りれば、そこは既に神が去った世界。
かくしてアルテミエルは、守り手たる神の無いその無防備な世界から《Decisive War World》にログインしていた70万余の人々の存在を奪い去った。
アルテミエルは告げる。世界と世界の《境界》を渡り、この世界の存在へと変容したあなた方は《偽神》となった。
この世界にあって異能を顕現し、命を喪わない限り倒れることの許されない異形となったと。
帰還の術はない。かの世界には、さらわれた70万の人々を救うべき神は既に無い。そしてこの世界にてタリアという存在を形作る糧として、藤崎英臣という存在は消費し尽くされていた。
「夢じゃないんですよね」
かすれがちなサーラの声がタリアの耳朶を打つ。かつて液晶ディスプレイのゲーム画面を見ながら想像したとおり、可愛らしい声だなと場違いに呑気な感想が脳裏をよぎる。
「とりあえず私たちは運が良い方だろう。周りに話せる仲間が居て目の前にモンスターもいない」
ジャックが皆を元気づけるように張りのある声を上げる。しかし折角の彼の呼びかけに誰も応えられない。タリアは彼の気遣いをありがたく感じつつ、それを手助けできないかと考えを巡らす。
不意に閃くものがあった。それには先ずこの『異世界』と言う『現実』に放り出されてのち、『ゲーム』上で自分たちキャラクターが所持していたアイテムの類がどういった扱いになっているか確かめなければならない。
タリアは先ほどから肩にリアルな重さを主張する背嚢を下ろした。途中鬱陶しくのびた髪の毛を巻き込んでしまいちょっぴり涙目になる。これも後で何とかしなければならない。
タリアは背嚢を見る。常識的に考えればこの大きさの中にゲームでは何の疑問もなく放り込んでいた品々がきちんと納められているはずがない。しかし半ば確信的に背嚢の口を開くと手を差し込む。その瞬間、タリアは背嚢の使い方を唐突に理解した。
それは非現実的でまさに異能と呼べる現象だった。脳裏に背嚢のインベントリフレームがゲーム時のそれと同じ様に浮かび、タリアは目的のアイテムをクリックする様を想起する。果たして背嚢から抜いたその手は目的の品を掴んでいた。
鼻を近づけてみるとバニラエッセンスの甘い香りと小麦由来の生地が焼けた馴染みの匂いがしてホっとする。これならば傷んでなさそうだ。
いつの間にか仲間たちがこちらを注目している。努めて笑顔を作りタリアは仲間たちを見渡す。
「皆さん、ちょっと甘いものでも食べて落ち着きませんか?」
この世界で初めて耳にした自分の声は以前とは似ても似つかない甘い響きを持っていてタリアは内心大いに動揺した。
現在地は廃鉱第七層にあってモンスターの出現ポイントからも遠い。もともと休憩するために移動してきた場所だ。タリアは仲間たちにシュークリームを手渡していく。
サーラとボルトは呆然といった体でシュークリームを受け取り、クララはぎこちないながらも笑みを返してくれた。ジャックははっきりありがとうと口にしてそれを受け取る。
今回の探索前、手慰みの調理スキル上げで大量生産したシュークリーム。ゲームでは倉庫塞ぎになるため浪費してしまおうと持ち出していた物だった。
配り終わったあと、一応毒味もした方がいいかなと思いつく。ならばと覚悟してかじりつくと口中に濃厚な甘さが広がった。その食感と味覚が嫌というほど現実感を突きつけてくるが同時にクリームの甘さが不安感を多少和らげてくれる。こちらをうかがう仲間たちに口の中のものを飲み込んで見せた。
「普通にシュークリームみたいです」
「リアたんは大胆だにゃー」
思わずといった体で噴き出したクララがシュークリームにかじりつく。「美味しい」と繰り返しながらパクつく彼女のシュークリームはみるみるうちに小さくなった。ジャックも自慢のヒゲにクリームが付くのも構わずかぶりついている。
「甘みが疲労にダイレクトに効くなぁ」
ダンディな戦士がシュークリームを頬張るという絵面にタリアが噴き出した。ジャックさんオッサン臭いというクララの突っ込みは実際おっさんだからなという迎撃にあえなく撃墜される。
一つため息をついたボルトはみんなと一緒でよかったと弱々しいながらも笑みを浮かべ、シュークリームを口にした。思わずといった感じで「美味しい」と目を瞠る。
美味しいよねーと笑いながらクララがタリアに手を伸ばしてくる。どうやらおかわりを要求しているらしい。
「在庫が千個ほどあるのでどんどん食べてください」
背嚢から新たにシュークリームを取り出しクララに渡す。作りすぎ! と目を剥くクララを調理スキル上げっていうのはそういうモノなんですと軽くあしらう。
「ホントに美味しいです」
か細い声でサーラが呟いた。タリアは彼女の横にしゃがみ込むと笑顔を向ける。
「気に入ってくれたなら良かった」
これまでの付き合いと現状のサーラの動揺ぶりから、彼女がこの面子において一番堪えているだろうとタリアは踏んでいた。俯いたサーラの顔を覗き込むようにして目線を合わせる。
「サーラさんも良かったらおかわりどうぞ」
「さっきの休憩タイム。実はお菓子を取りに行こうと思ったんです」
タリアの声をさえぎる様にサーラが強い調子で声を上げる。タリアは黙ってサーラの言葉を待つことにした。
「でも夜だし、やっぱりやめようって思って。お茶で我慢しようって思って」
食べかけのシュークリームを見つめるサーラの瞳が潤む。
「そしたら」
サーラの声に震えが混じり、それは彼女の肩まで伝播した。
「そしたらこんな事になっちゃって。あの時席を外してたらってずっと考えてて。もしかしたら助かったんじゃないかって!」
不意に縋りついてきたサーラを、タリアはしっかりと抱き止めた。自分にその身を押し付けて泣き崩れるサーラに相槌を打ちながら、いたわる気持ちをこめて抱きしめる。
かつてぐずる幼い妹をあやした時のことが脳裏をよぎった。その記憶は疼きをもった傷となり、そこからどうしようもなく喪失感が湧き出てくる。タリアもまた抱きしめたサーラの存在感を頼りにしてその疼きを耐えしのんだ。
仲間たちを眺めつつ、やはりタリア嬢は平気そうだなとジャックは気分が幾分か楽になるのを感じた。タリアは見かけこそ十代前半の少女だがいつもと変わらない落ち着き様と機転を利かせた仲間への気配りを見せている。この事実が彼女のプレイヤー自身は相応の社会経験を持ち社交性もある『大人』であることをうかがわせた。
自分一人で年若い仲間たちを率いるなどという困難な事態は避けられそうだとジャックは内心胸を撫で下ろす。
ボルトは先にサーラが折れたことによって何とか踏み止まれたといった印象だった。今も固唾を飲んでサーラとタリアを見つめていてその様子には余裕が感じられない。ジャックは『とある想像』からボルトの頼りない態度もある程度諦めていた。
平時はふてぶてしいクララもさすがに騒ぐような気力はないらしい。それでも二個目のシュークリームを平らげたあたり頼もしいとも言える。今は無闇に取り乱さないだけでも上等だ。
さて自分といえばどうだろうと、ジャックは己の精神状態を鑑みる。年長者の責任めいたものが自分を律しているのか、この場で取り乱すといった醜態だけは晒さないでいられるようだ。無論、元の世界の事を考えれば暗澹たる思いに押しつぶされそうになるが現状ではどうしようもないと割り切ることもできる、幸か不幸か。
それにしてもタリアだ。この状況では実にありがたい。意味のないifではあるが彼女がこの場にいなかったなら泣き出したサーラをもてあますことになったことは間違いない。タリアという寄る辺が無かったなら、恐慌に駆られたサーラがさらに悪い方向へと暴走していた可能性もあった。
特定の仲間とつるまず、適宜パーティーを組んで冒険を行うフリーのプレイヤー間においてタリアの評価は高い。また今では固定パーティー(決まった仲間と常に行動を共にするプレイ形態をこう呼ぶ)を組むようになったプレイヤーの中でもタリアを評価する者は多かった。支援職プレイヤーとしての腕もさることながら集団内における調停者としての優れた働きが人気の要因だ。
知る人ぞ知る名プレイヤー。
タリアはプレイヤー同士の衝突を軟着陸させるすべに長けている。いさかいがエスカレートしないよう、他人のことにも気を配りつつ対話に臨む姿勢のおかげだろうとジャックは常々考えている。
タリア以上にゲームの腕が立つ、あるいは高レベルを誇る支援職プレイヤーは他にもあまた存在するが、ともすれば我の強さが浮き彫りになる。回復を担う彼らは自分たちがパーティーにおいて要となることに強烈な自負を持っているからだ。
現状に立ってみれば笑うしかない『ゲーム上での極限状態』においてその自負はプラスに働かない場面が多かった。
タリアはその自負を少なくとも他者を不快にするようなカタチで露わにすることがない。それでいて他者への働きかけには積極性を見せ、対話を諦めて切り捨てるケースが少なかった。『タリア嬢がいるパーティーはどんな困難にも勝利する』と言われる所以だ。
ジャックがそんな物思いに耽っているうちに、サーラもひとまず落ち着いたようだった。泣いちゃってすみませんと、なんとか笑みを浮かべた彼女に成り行きを見守っていた者たちは安堵した。
『Decisive War World』に《喫茶セット》なるアイテムがあったことをサーラはこのとき初めて知った。タリアが背嚢から取り出した、薬缶と携行用ランプをまじまじと見つめる。思えば自分は、このようなお遊びアイテムにも、いつの間にか目もくれなくなっていた。
「本当はお茶っ葉のアイテムと飲料水、ティーポットも使うのですが」
タリアはそう前置きし、続いて陶製の小振りな瓶を幾つか取り出した。
「どうやらこれが《ミルクティー》の、こっちでの姿みたいですね」
タリアは小気味良い音を立ててコルク栓のようなものを抜くと可愛らしい鼻先を瓶の縁に近づけてから中身を薬缶へと空ける。
「〈焚き火〉スキルとかってどうなるんだろう」
タリアがランプに火を点し、辺りに固形燃料が燃える匂いが漂い出すとボルトがその火を見つめながら呟いた。ジャックが眉をしかめて唸る。
「スキルがこの世界において実際どう働くか確かめないで動くのは早計だろうな。女神とやらが『戦力』として我々をこの世界に引きずり込んだ以上、使えないということはないだろうが」
それなら、と薬缶を火に架け終えたタリアが左手の手袋を外して長剣を抜き放つ。鞘と刃が擦れる物々しい金属音に怖気を感じつつサーラは彼女を見守る。タリアは長剣の刃に薬指を押し当てるとそっと引いた。
彼女の押し殺した吐息に一同が息を飲む。タリアはお構いなしといった風に自分の薬指を眺めつつ、しばらく思案したあと不思議な旋律を口ずさんだ。
「スキルは使おうと思えばすんなり使えるみたいです。魔法の呪文がすらすら頭に浮かびました。動作がともなうスキルは身体が憶えてそうな気がします」
タリアはこともなげに一筋の血を垂らした薬指を示してみせる。次に上着の裾で血をぬぐうと再び薬指を掲げてみせた。ついさっきまで血を流していたほっそりとした指先には、傷一つ残っていない。
「〈ヒール〉でしっかり治りました。痛みもありません」
固唾を飲んでいた一同が盛大にため息を漏らした。
「だからリアたん大胆すぎるにゃ」
クララが呆れた様に肩を落とす。
「ともあれ回復魔法が使えるとわかったのは有難い。元の現実より遥かに戦闘でのリスクは減る」
ジャックの言葉にタリアが頷く。
「幸運にもわたしたちは余裕ある状況でこちらに連れて来られました。できるだけ現状を確認してから行動に移しましょう」
タリアの言葉を受け、サーラはただ座しているのではなく自分が憶えた魔法スキルの暗唱を試してみることにした。タリアが言ったように魔法の呪文が淀みなく脳裏に再生される。サーラはそれに確かな手応えを覚え、次第にその思考に没頭していった。
しばらくして温められたミルクティーの芳香がサーラを現実へと引き戻した。ハッとして顔を上げると対面に座るタリアと目が合う。
タリアはにっこり笑うと銅製のカップに乳褐色の茶を注ぎ、熱いから気をつけて下さいという言葉を添えてサーラへ渡してくれた。礼を言ってこちらに向けられたカップの取っ手を掴む。
カップに息を吹き吹きタリアが他の仲間にもお茶を配る様子を眺めていると、何気ない風のタリアが実に相手のことを考えてカップを渡していることに気づいた。
タリアは渡す相手が不意な熱に火傷しないように、自分はカップの縁を掴んで相手が自然と取っ手を掴める様に配慮している。こんな状況なのにそんなところにまで気の配れるタリアの余裕が羨ましくもあり頼もしくもあった。
しかしいつまでも甘えてはいられないとサーラは奮起する。仲間たちが頼もしいからといってこの異常事態の中をぐずってばかりではいられない。これから起こるかもしれないモンスターとの戦いにおいて、自分は決定力の一翼を担わなければならないのだ。
ささやかなティータイムのあと、タリアが背嚢の使い方を説明すると仲間たちはそれぞれ自分の所持品の確認を始めた。同じ作業をしながら、しかしクララの意識は別のことにも向いていた。
(三次元になってもリアたん萌え)
バカじゃないのと自分でも思わないではないが萌えるものはしょうがないのである。異世界転生なんて厨二展開がなんだ、わたしの萌え魂はそんなことで揺らがないのだと熱くコブシを握りしめる。あくまで脳内でだが。
などと強がってみるものの、いい加減挫けそうになるのも本音でありサーラの様にタリアに泣きつきたくなる衝動を抑えるのに苦労した。しかしそんなのは自分のキャラじゃないとも自覚している。
それにしてもタリアのお姉さんっぷりには驚かされる。前から世話好きなのは知ってるしキャラの見た目通りなロリであろうハズがないとも思っていたがその『優しいお姉さん』属性には目を瞠るモノがある。
(さすが『オレの嫁』四期連続第一位なだけあるにゃ。王者の風格にゃ)
バカな同好の士と水面下で行ったミスコンもどきを思い出しつつタリアを盗み見ると不意に目が合う。いきなりで驚いたが内心のバツの悪さを面に出さないようにして目を逸らした。
いや別に見てたのをごまかさなくてもよかったかとモヤモヤした気分で荷物の検分を再開するとタリアから声が掛かった。
「クララさん」
顔を上げるとなにか丸めた布を抱えたタリアがいつの間にか目の前にいた。
「さっき〈耐寒〉の魔法は使いましたがその格好だと擦り傷が増えるかもしれません。上着になるような物の手持ちはありました?」
言われてみれば『こちら』に来た当初の肌寒さは感じなくなっていた。クララは露出度の高い自分の姿を思い出し『荷物』の中を探しまくる。
「今回は他に着るもの持って来てないにゃ」
ため息混じりに返事を返すと、でしたらこれをどうぞとタリアはその丸めた布を渡して寄越した。広げてみるとざっくりとした厚手のコートだった。
「ゲームでもゆったりしたデザインでしたから多分クララさんでも羽織れるかと思うんですけど」
「ありがと。それにしてもリアたんてどこかの猫型ロボット?」
嬉しさをごまかすように冗談で返す。タリアはドラ焼はわりと好物ですよと言って笑った。
各々の荷物が問題なさそうだと確認したあと戦闘スキルを試してみることになった。タリアは長剣を鞘から抜き放ち構えてみる。予想したとおり剣も盾も実際に持つのは初めてであるにも関わらず実に良く馴染んだ。剣の振り方、盾の扱い方も身体が憶えているという感触に感嘆する。
長剣のコンビネーションを試した後そのまま〈強打〉。思い通りに技が再現される。その後は思いつく限りの戦闘スキルをなぞってみて剣を納めた。一応この世界でも剣を振ることができそうだと安堵する。
タリアや仲間たちが一通りの『復習』を終えるとジャックが新たな問題を提示した。《Decisive War World》は他の大多数のMMOがそうであったように三人称視点で俯瞰気味に戦闘状況を把握できた。このためプレイヤーキャラクターの背後や相対する敵の後方も死角になることが少ない。
しかし現状では神の視点とも言える俯瞰的な状況把握が行えない。自分の背面は当たり前のように死角であり、立ちはだかる敵の背後もまた窺い知るのが困難だ。
FPS(一人称視点射撃ゲーム)もたしなむジャックはこの点を案じた。《Decisive War World》は一人称視点でのプレイも可能だったが視野が狭まることによる遊びにくさは実際に試してみたことのあるタリアも理解するところだ。
そこでパーティーは模擬戦を行うことにした。模擬戦と言っても魔法や武器で実戦さながらに打ち合うわけではない。相対する敵との距離感の掴み方や視線の配り方、退避の仕方などを交替でモンスター役を立てて確認する。ゲーム時代は無駄に感じた休憩場所のだだっ広い死にスペースがこの時ばかりは有難かった。
さらに自分たちの攻撃スキルが損害を与える範囲の確認も行った。岩壁に向かって攻撃を行い、ヒットしなくなるまで立ち位置を変えたり着弾点を下げたりと地味な反復作業で検証する。
これだけのことでも実際の戦闘の難しさがまざまざと想像させられ、不安が皆の精神に重く圧し掛かった。改めて状況の困難さが思い知らされる。そんな雰囲気の中、タリアが申し訳なさそうに切り出した。
「あの、わたしも確認したいことがあります」
仲間たちがウンザリといった表情を浮かべる。
「さっきの攻撃範囲の検証で思いついたんですが――」
タリアはプレイヤー間でダメージを与えられるかどうかの確認すべきだと提案した。
《Decisive War World》においてプレイヤーキャラクター間では同士討ちが起こらない仕様になっていた。このためその点においては味方の存在を気にする必要は無く、ある意味イージーに戦闘することができた。
しかしタリアはこれらプレイヤーへの保護措置がこの異世界で期待できるとは思えなかった。先ほど何気なく試した薬指への自傷行為の件もある。
「ゲームでは同士討ちの要素はありませんでしたがここが異世界で現実だと言うなら味方同士で攻撃も当たるでしょうし普通に傷も負うはずです。そうなるとお互いの攻撃範囲にも気を配らないと大惨事です」
ゲームにおいてもプレイヤーがプレイヤーにダメージを与えることは例外的には可能だった。所謂PvP(Player vs Player)においてのみ実現されていたのだがここにもプレイヤーへの保護措置が取られていた。
プレイヤー対プレイヤーで対戦ゲームを行う場合は双方の同意の上で対人戦モードへ切り替えを必要としており自分の意志に反して対人戦に巻き込まれることはなかった。その辺のことも踏まえ、タリアはもう一つの不安要素を説明する。
「そんな風にプレイヤー同士の殺傷が可能であると判明した場合、ゲームでは許可制として限定されていた対人戦が無制限になってしまいます」
タリアが続けて言わんとしていることを理解した仲間たちは呻いた。他のMMOのプレイ経験のないサーラだけは想像が働かないのか皆を訝しむように見渡す。
「70万人からの『ただのゲーマー』が強力な力を授かってこの世界にきてるんです。言うまでもありませんが敢えて言います。残念ながらその70万人の中に良識を持ち合わせていない人たちが『必ず』存在しています。『血の一週間』の時の事を思い出して下さい」
《Decisive War World》以前にも幾つかのネットゲームをプレイして、『血の一週間』も経験したジャックたちは、タリアの懸念に頷かざるを得ない。
「えと、つまりどういうことですか? あと『血の一週間』て?」
周囲の反応の中、ネットゲーマーの暗部に理解の及ばないサーラにはそれが今ひとつピンとこず戸惑いの表情を浮かべていた。聞き憶えのない物騒な言葉も気になる。
「サっちんは《Decisive War World》歴が一年半くらいで、他にはネトゲやったことないんだったかにゃ?」
覇気が感じられないクララの問いに、サーラは不思議そうにしながらも頷く。
「それだと『血の一週間』もプレイ時期が掠ってないし他ゲーでのプレイヤーのマナーの悪さとかも知らないかー」
クララは一つため息をつくと話を続けた。
「まずね、《ディーウォー》以外のネトゲは色々とタガが緩いって前提を理解して。そのあたりから説明するから」
いつになくまじめなクララの口調に、サーラも神妙な面持ちになる。
「タガが緩いってのは例えばプログラムや仕様の不具合、不備、運営側の管理の甘さになるんだけど。それを悪用して、ゲーム内で不正に利益を得られる機会がままあるの。運営側もそれは理解してて、そういった場合は悪用しないようにって、利用規約あたりで公知してるんだけどね。悪用するプレイヤーは絶対に出てくるのよ」
クララのその説明に、サーラは可愛らしい眉をひそめる。
「ルールで禁止されてるんですよね?」
自分の話に不思議そうな顔をするサーラに、クララは肩をすくめて見せる。
「そ、ルールで禁止されてても。他人さまとゲームで遊ぶ上での前提条件、ルールを守るってことに対して意識の低いバカが少なくないのがネトゲなの」
ボルトが苦笑混じりにクララの話を継ぐ。
「翻って言うとそういうバカは他の面でもモラルが低いんだ。ちょっとでも気に入らないことがあると相手に暴言を浴びせたりゲーム進行の妨害をしたり。あげくはゲーム外の場ででっち上げな誹謗中傷したりとかもあるね」
サーラが表情を曇らせると、ボルトは皮肉っぽい笑みを納めてため息を吐いた。
「でも気に入らないことに対してそういう馬鹿をするってのはマシな方でね。これといった理由もなしに『楽しいから』ってだけでさっき言ったハラスメント行為に及ぶどうしようもなく性質の悪い人種も存在するんだ」
「そんでサっちんが《ディーウォー》を始める前の話なんだけど。稼動後半年経ったくらいの時期に対人戦システムが無制限に導入されたことがあるのよ」
再び口を開いたクララの表情は、一層苦々しいものへと変わる。
「今時MMOで無制限なPvP、ぶっちゃけPK可能な新規ゲームって他にはなかったからね。そりゃもう酷いことになった」
「ぴーけーってなんですか?」
首を傾げるサーラにそこから?! とクララが叫ぶ。
「ピーケーってのは《Player Kill》、もしくは《Player Killer》の略。PvPが一応対人戦闘を楽しむことを理念としているのと違って、PKは単純にプレイヤーキャラを殺すことを楽しむ感じかな」
ジャックが自分の発言を吟味するように解説する。
「当時高レベルだったプレイヤーの中にもバカがいっぱいいてさ。街中でも狩り場でも自分より弱い相手を見つけてはPKして周ってたの。ご丁寧に嘲笑のエモしてみせたりしてね」
あン時は荒れたなぁと遠い目をするクララに引き攣りつつサーラは段々と理解してきた。自分がそんな目に遭っていたらゲームを続けられたか甚だ疑問だ。
「そんな状態が一週間続いた。後でその一週間の出来事は『血の一週間』と言われるようになったんだ」
ボルトがそう言って締めくくり、解説が一段落ついたと見てタリアが話を再開する。
「予想通りにこの世界でPKが可能ならそういったことを好む人たちから攻撃を受ける事態が必ず起きます」
タリアは、そのような場合にも慌てず対処できるように、PKが可能かどうか事前に確認しておかなければならないとその必要性を説く。仲間たちも硬い表情で頷いた。
タリアは言いだしっぺの法則で自分がダメージを受ける側になると告げた。
「大剣とか魔法は怖いのでボルトさん、ナイフでお願いします」
冗談を混じえてボルトに笑顔を向ける。突然に指名されたボルトは青ざめながらも頷いた。腰の後ろに差した短刀をそれでも慣れた様子で引き抜く。
タリアは左腕の手甲を外して袖をめくった。その白く細い腕に仲間たちが思わず息を飲む。まさに子供といったそれは、とても荒事に向くようには見えない。
「できるだけ浅く斬るから。ゴメンね」
タリアはボルトの掠れた声に頷いた。短刀の切先が肌に触れる。やがて焼きつくような痛みが走り流石にタリアも眉をしかめた。
「ごらんの通りです。プレイヤー間の保護機能は働いてません」
タリアの真っ白な肌に赤い血が流れるさまはその事実を雄弁に物語り、見守っていた仲間たちも青ざめる。タリアは〈ヒール〉で傷を治すと用意しておいた布切れで血をぬぐった。
「エルクーンに転移できないか試したいところだったんだが。これは安易にプレイヤー密集地へ向かうのも考えものか」
ジャックは両手で顔を覆うとため息を漏らした。そのままマッサージするように目蓋を押さえる。
「鉱山の麓にプレイヤー人口的には過疎ってる町があったよね。廃鉱の低レベルクエスト受ける時に寄った」
名前は忘れたけど、とクララが自信なさそうに提案したところをサンミレーの町ですねとサーラがフォローした。
アルタイゼン廃鉱は広いレベル帯に対応したダンジョンである。しかしタリアや仲間たちくらいのレベルになるとサンミレーに用事もなく、立ち寄ることはまれで直接アルタイゼン廃鉱近傍への遠距離転移を利用する。
この遠距離転移システムはエルクーンをはじめとした基幹都市と呼ばれる街を結ぶものと基幹都市から各地の町や村、狩り場やダンジョンへ延びるものが存在している。後者は一方通行になっているため探索後に基幹都市へ戻るには仲間の魔法職プレイヤーか転移用アイテムに頼ることになる。
「とりあえず廃鉱を出てサンミレーを目指すのが妥当か。しばらくは様子を見て今後の方針を決めよう」
ジャックの言葉に一同が頷く。
「となると廃鉱を突破しなければならないワケだ。困難なのは七層突破だがゲームでは同格だった奴らと五、六戦は覚悟しないとならんな」
皆が押し黙る中、リーダー役を自認しているであろうジャックが、実際の行動に移るべきか悩んでいることを察したタリアは、自分がそのきっかけを作ることにした。
「現状で思いつく限りの用心はしました。もちろん慎重を期すことも大事ですが、実際に動いてみなければこの状況を打開することはできません」
努めて平静を装って切り出す。ジャックが自分に振り向いて目を瞠るのに頷き返し、俯き気味だった他の三人が顔を上げたのを認めるとタリアは気楽そうに笑ってみせた。
「ここまで来るときは楽勝だったモンスターを相手にするだけですよ? いつもよりちょっとハードモードで面倒くさいかもしれませんが、パパっと片付けて帰りましょ」
腰に両手を当てて踏ん反り返ってみせる。タリアの芝居じみた仕草に仲間たちは硬くなった表情を緩めた。
もちろん不安が完全に拭えたわけではない。それでも自分たちを鼓舞してくれる存在に、幾分かは勇気づけられる。表情に決意を表した仲間を見渡し、ジャックは力強く宣言する。
「よし。では行動開始と行こう」
ジャックが信頼するいつもの仲間たちは、はっきりと頷いた。
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