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菅丞相雷火伝

作者: 高島啓市監修小林摩也

菅原道真、言わずと知れた学問の神様である。しかしこの人が京の都にて雷火を落としたことを知る人は多くないことだろう。

宇多天皇、皇太子の敦仁親王(醍醐天皇)に譲位する際に著名な「寛平遺戒」を遺している。このことは皇家を藤原氏の専横から守るために菅原道真を重用するよう訓戒したものだった。藤原基経の阿衡の紛議の反省からやむにやまれぬ思いがあってのことと思われる。

当時の左大臣藤原時平は即位した醍醐天皇に讒言し、道真を右大臣から太宰権帥へと左遷させることに成功していた。次の関白職を道真に奪われかねないとみた時平の軽挙だった。

延喜の治を導いた時平の政治手腕を疑うものはなかったが、この場合相手が悪過ぎたのだ。

太宰府にて老境をさらした道真は程なく死去した。そして都には不穏な影がまとわりはじめた。政敵とも言えた時平は横死しその後も内裏を落雷が襲う。

皇子たちも次々薨れるなか、遂に醍醐天皇自らもそのショックにより崩御してしまう。

これを何と見るべきか、自分ごときに判断はできかねるが。

後年、一条天皇は道真に正一位太政大臣を追贈、道真は菅丞相と呼称されることとなる。

一般的には菅公といえば分かりやすいだろう。昔の菅公学生服で有名なアレである。

さて、菅公は太宰府にて天満宮を造営され自ら祭神となる。これが天満宮の総本山となった。

京には北野天満宮が造営されたが室町時代に衰退してしまう。この復興に尽力したのが豊臣秀頼であった。徳川家康の奸略による秀頼包囲網の一貫だったが。

しかしこれで菅公も面目が保てたのであろう。

さて、件の落雷の一件これは北野天神縁起絵巻に詳しい。おどろおどろしい鬼の姿で菅公の呪詛を受けた宮廷公達の騒乱の模様が伝えられている。

菅公の血脈血統は千年の長きに渡り伝えられ家宗に誇りを持っていようが、こうした内裏への大打撃を与える程の怒りと哀しみを知る子孫は少ないのではないか。

醍醐天皇は父である宇多上皇より早く崩御した。ちなみにこの宇多上皇は出家して最初の法皇となられた。寛平法皇とも呼称されることとなる。

宇多法皇は初の院号も名乗り内裏を離れたあとは、歌会も頻繁に催し晩年は静かなものだったのではないか。

菅公の怨恨は見通していたのかはわからないが。

このように菅公を重用した宇多法皇は元源氏として臣籍降下を受けていたものを時の最高実力者藤原基経の義妹の猶子であったために再び皇族に戻り皇位についた史上稀なる存在であった。

一方藤原時平を重用した醍醐天皇は自らの皇太子、皇太孫を失い自分の命脈をも絶たれたのである。

政治改革を推し進めた道真公は亡くなってしまったが、学問の神様として扱われたのは彼が文章博士であったためだ。これを家職として継承していたのである。

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