第九話 空室
解体対象は建物ではない。
榊は何度もその文字を読み返した。
祖父の筆跡だった。
見慣れた癖。
払い。
止め。
かすれ。
間違いなく本物だった。
問題は意味だった。
建物じゃない。
じゃあ何だ。
人間か。
記録か。
街そのものか。
答えはどこにもなかった。
⸻
その夜。
出勤。
二十三時。
警備室。
異常なし。
巡回。
異常なし。
西新宿二十七階。
いつもと変わらない。
変わらないはずだった。
エレベーターを降りた時。
榊は立ち止まった。
廊下の一番奥。
突き当たり。
テナント募集中。
そう書かれたガラス扉。
前からあった。
ずっとあった。
だが。
その先に部屋が見えた記憶はない。
中は真っ暗だった。
空室。
ただの空室。
そう思った。
だが視線を外せなかった。
⸻
巡回を終えたあと。
榊はもう一度戻った。
空室。
管理番号。
2703。
契約なし。
利用なし。
入室履歴なし。
開錠権限。
警備室保有。
異常はない。
それでも気になる。
カードをかざす。
電子音。
解錠。
扉が開く。
⸻
暗かった。
照明を点ける。
白い。
広い。
何もない。
机もない。
椅子もない。
窓だけ。
西新宿が見える。
それだけ。
榊は少し安心した。
考えすぎだ。
ただの空室。
引き返そうとする。
その時だった。
違和感。
足元。
床。
埃がある。
誰も使っていない証拠。
だが。
埃の上に足跡があった。
一つ。
二つ。
三つ。
窓まで続いている。
戻っていない。
榊は息を止めた。
窓際へ近づく。
高層階。
もちろん開かない。
転落防止。
固定。
人は出られない。
なのに。
足跡はそこで終わっていた。
⸻
窓ガラスに文字があった。
指で書かれている。
曇りでもない。
埃でもない。
見えにくい。
角度を変える。
読めた。
入居中
榊は固まった。
空室のはずだった。
契約なし。
利用なし。
誰もいない。
なのに。
入居中。
⸻
その瞬間。
背後で音がした。
椅子を引く音。
ギィ、と。
榊は振り返る。
誰もいない。
だが。
部屋の中央。
さっきまでなかった机が置かれていた。
古い。
灰色。
見覚えがある。
地下の記録室。
あの机だった。
その上にファイル。
一冊だけ。
表紙。
黒。
タイトル。
空室管理記録
榊は近づいた。
開く。
ページ。
住所。
部屋番号。
契約者名。
並んでいる。
だがどれもおかしい。
⸻
昭和四十七年
角筈二丁目十三番地
契約者
記録保留
⸻
昭和六十三年
西新宿某所
契約者
未移行
⸻
平成二十三年
削除対象
保留
⸻
令和八年
記録者
在室
⸻
榊はページをめくる。
最後。
最新。
今年の日付。
契約者欄。
空白。
備考。
赤字。
一行だけ。
解体待機中
⸻
部屋の空気が変わった。
静かだった。
だが。
誰かいる。
そんな気配がした。
窓。
机。
壁。
見えない。
でもいる。
榊はファイルを閉じた。
その時。
部屋の隅から声がした。
小さい。
男とも女とも分からない。
かすれた声。
「まだ空いてますか」
榊は動かなかった。
声。
もう一度。
「ここ」
沈黙。
「まだ空いてますか」
⸻
警備員としての反射だった。
榊は答えていた。
「誰ですか」
声。
少し笑った。
安心したように。
「よかった」
沈黙。
そして。
「まだ残ってた」
部屋の照明が消えた。
真っ暗。
一秒。
二秒。
三秒。
非常灯が点く。
机は消えていた。
ファイルもない。
空室。
元通り。
ただ。
窓ガラスの文字だけ残っていた。
入居中
その下に新しい文字。
小さく。
震えた字。
見つけてくれてありがとう




