第七話 未完了
祖父の声だった。
受話器を置いても、その響きが耳に残っていた。
記録室へ来るな。
昨夜は、
帰れ。
今日は、
来るな。
矛盾していた。
来いと言っているのか。
来るなと言っているのか。
榊は机の上の勤務引継書を見る。
白い紙。
変わらない書式。
変わったのは一箇所だけだった。
交代対象。
祖父の名前の下。
自分の名前。
並んでいる。
まるでまだ終わっていないみたいに。
榊は紙を裏返した。
裏面。
何もない。
光に透かす。
その時だった。
文字が浮いた。
薄い。
鉛筆みたいな線。
誰かが強く消した跡。
読めない。
机のライトを近づける。
少しだけ見える。
一行。
記録者は記録されない
榊は息を止めた。
その下。
さらに一行。
例外あり
そこで文字は途切れていた。
⸻
午前一時。
巡回。
いつもと同じ。
だが集中できない。
廊下。
会議室。
非常階段。
全部見慣れている。
なのに、どこか違う。
誰かに見られている気がした。
監視カメラの映像を確認する。
二十七階。
異常なし。
ロビー。
異常なし。
地下。
異常なし。
再生を止める。
戻す。
地下三階。
設備搬入口。
誰もいない。
そのはずだった。
榊は画面を拡大した。
奥。
シャッターの前。
人が立っている。
老人。
制服。
警備員。
祖父だった。
映像時刻。
現在。
リアルタイム。
榊は立ち上がった。
走る。
エレベーター。
地下三階。
到着。
降りる。
設備搬入口。
静か。
誰もいない。
シャッター。
壁。
照明。
終わり。
まただ。
映像にだけいる。
振り返る。
誰もいない。
監視室へ戻ろうとした時。
足が止まる。
壁。
古いプレート。
普段見ない位置。
埃を払う。
文字。
かすれている。
読める。
第二監視室
榊は触れた。
冷たい金属。
その瞬間。
頭の奥で何かが鳴った。
記憶じゃない。
映像だった。
知らない景色。
古い警備室。
灰色の机。
ブラウン管。
煙草の匂い。
そして祖父。
若い。
今の榊より少し上くらい。
誰かと話している。
相手は見えない。
祖父が言う。
「俺で終わると思ったんだ」
返事。
聞こえない。
祖父。
「息子には見えなかった」
沈黙。
「だから安心した」
また聞こえない。
祖父は笑う。
苦しそうだった。
「孫まで来るとはな」
映像が途切れる。
⸻
榊は壁にもたれた。
息が荒い。
何だった。
幻覚か。
妄想か。
だが。
胸の中で一つだけ分かったことがあった。
祖父は引き継ぎたくなかった。
少なくとも最初は。
だから父には知らせなかった。
だからノートに書かなかった。
だから、
まだ来るな
だった。
⸻
午前二時十四分。
警備室へ戻る。
机。
封筒。
増えていた。
昨日までは一通。
今日は二通。
新しい封筒。
宛名。
榊悠人。
開ける。
中。
写真。
古い。
白黒。
昭和四十年代。
西新宿。
再開発前。
住宅地。
道。
電柱。
小さな家。
裏に文字。
祖父の筆跡。
ここが角筈二丁目十三番地
さらに下。
別の字。
知らない筆跡。
解体予定
榊は写真を裏返した。
その瞬間。
裏面の端に気づく。
日付。
未来だった。
令和九年六月三日。
一年後。
その下。
赤い印。
記録完了
そして最後に。
名前。
榊 悠人




