幕間5:黄金に萌える麦の仔
今日は少し、過去の未来の話をしよう。
古森を抜けた先にある、竜の背の如く険しい山々。その山の守り人である、ひとりの少女のお話。これはかつての夢の足跡。決して語られるはずのなかった泡沫の記憶だ。
なにもかもが輝いて見えた黄金時代、彼女たちはその輝かしさとは裏腹に絶望に身を落としていた。
ボクは新調したライアーに手を掛け、カナリアのような音を爪弾く。弦を弾く細い指を艶めかしく一本一本踊らせる。キミたちは黄金の水を掲げ、月を讃えるだろう。
樽に腰を掛けているボクは微笑んだ。
さぁ、新しい旧世界の幕開けだ。
◆
黄金の夕日が寂しさを湛えるように、茜色の服を羽織って寒さを紛らわせようとする季節。
小麦とバターの焼ける香ばしい香りが風に乗って懐かしい記憶を舞い上がらせる。
物思いに耽っていると、バケットを両手に抱え、白い三角巾を頭に巻いてエプロンを付けている女の子が見えた。その子は私の元まで、トテトテとかわいらしい足音を立てながら走ってきた。
「お姉ちゃん! 焼き立てだよ! どうぞ!」
「ありがとう。じゃあこれ、お金ね。あとこれはおまけよ」
「お母さんにお礼を伝えてくれる?」
そういって、私はキレイな宝石を握らせる。
女の子は素直に頷いて、お礼を言っていい匂いを届けるそのお店へ戻っていった。
名前もないような小さな村。
その日、買い物の帰りに商人たちの馬車を駐める小屋の近くで小さなイヌの仔を見た。灰色の美しい毛並みに、イチイの実のように真っ赤な目をしていた。その仔の毛は夕日を受けて、金色に靡く麦畑のように輝いて見えた。
その仔は哀しそうな泣き声を上げて、弱々しい足取りで私の元までくると倒れてしまった。
オオカミの仔だった。体中に麦の穂を付けて乱れていた。どこを探してもこの仔の親オオカミは見つからなかった。村にはオオカミは近づかないし、迷い込んだのだろうと思う。そうして迷子になって死んでしまうのは自然の摂理なのかもしれない。
けれど、どうしてだろう。
私はその仔を洞窟まで連れて帰っていた。眼の前に消え掛かる命があって、私はその命を救う手段がある。それだというのに見て見ぬふりをしてしまうことなんてできなかったの。
洞窟に駆け足で帰って、まずはご飯を作った。
温かいミルクをスプーンで掬って、オオカミの仔の口へ運ぶ。お腹がいっぱいになったのを見てから、私はその仔を湯浴みしてあげた。水気を充分に飛ばしてから、魔法で仕上げをして柔らかな布で包む。
◆
翌日にはその仔は元気になって、山の花畑を駆け回るようになっていた。他の森の愛しい隣人さんたちと追いかけっこをして遊んでいた。
私はその様子を遠くから眺めていた。
次の日も、次の日も。そのまた次の日も。
いつからか私たちは寝食を共にして、山の花畑でも一緒になって遊ぶようになっていた。
一緒に遊んでくれる森の愛しい隣人さんたちに訊いてみても、この仔を知っている仔はいなかった。オオカミの群れの子たちも首を振って受け入れてくれなかった。
いつからか、その仔はだんだんと元気がなくなっていってしまった。私の力ではどうすることもできなかった。風邪でも、病気でもない。寿命なんてもってのほか。
身体が透明になっていくように消えていくように、その仔の存在が薄くなっていた。
そこで初めて、私は気が付いた。
『あぁ、この仔は私と同じなのね』と。
オオカミの仔は精霊だった。その身体の源たる概念がないところでは生きられない。やがてその身体は消えてなくなってしまう。妖精と違うところは、精霊は同じ個体が元いた場所に還ること。けれど、この仔は見る限り精霊として生まれたばかりだ。そんな仔が自身の身体の霧散、消滅に耐えられるかはわからない。そのまま世界に溶けていなくなってしまうかもしれない。
この仔はあと数時間もすれば消えていなくなってしまうだろう。
黄金に萌える山々を見て、わたしはその仔を抱き上げた。
「ねぇ、あなた……私と家族になってみる?」
その仔は弱々しい笑顔で、けれど確かに頷いてくれた。
「あなたにも名前を付けてあげなくちゃね。女の子よね。なにがいいかな……」
黄金に萌える麦のような仔。あなたの笑顔はきっと周りのヒトたちに幸せを運ぶような、ステキな笑顔なのでしょう。風のように野を駆け、その輝く毛を揺らしてちょうだい。
だからそうね。あなたのお名前は――。
『麦の乳母』




