弊社取締役社長 剣崎怜央の秘密
――あなたのこと、何ひとつ知らなかったみたい。
『弊社取締役社長 剣崎怜央の秘密』/未来屋 環
「……え?」
鏡の前で私は絶句した。
緩やかにウェーブのかかった黒髪、すっと通った鼻筋、鋭い光を携えた切れ長の目――そこに映っていたのは、ほぼ毎日顔を合わせる我が社のトップ。
「何で私――剣崎社長になってるの?」
混乱する頭の中、必死に昨夜の記憶を手繰り寄せる。
***
昨日は来週に迫った新製品のプレスリリースに向け、剣崎社長への資料説明を行っていた。
しかし、我々経営企画室が作った資料に対して、彼は最後まで首を縦に振らなかった。
「こんな製品の表面的な話だけではなく、もっと入れるべき内容があるでしょう。製造部長に話を聞きましたか?」
剣崎社長は古参メーカーの我が社としては異例の40代という若さで社長まで昇り詰めたひとだ。
仕事はキレキレだが物腰は丁寧で、その甘いマスクも相まって社内でも人気がある。
――ただ、それは遠くから見ていればの話で。
私たちのような近い立場のスタッフからすると、頭の回転が異常に速く細かいミスにも必ず気付き、すべてに妥協を許さないスタンスはなかなかに大変なものがあった。
現に、うちの室長も打合せの度に回答に窮している。
「あ、あの、今回のリリースはマーケティング室に確認しながら作成しておりまして……」
「マーケティング室?」
――あ、これだめなやつだ。
すかさず私は会話に割って入った。
「製造部長にも事前にご確認頂いています。ですが、改めて追記内容がないかという観点でお伺いしてみますので、社長が気になったポイントについて教えて頂けますか?」
すると、剣崎社長は淀みないスピードで要点を伝えてくる。
室長の苛立った視線を背中に感じながら、私は慌ててメモを取った。
社長室を出たあと、室長が「盾野さんの方で対応お願いしていい?」と投げやりに言ってくる。
どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
そのまま席に戻り次第製造部長にメールを送り、社長から指示のあった内容を調べ、できるところまで資料を直して終電で帰った。
***
――からの、今朝。
確かに違和感はあった。
ベッドはどう考えても私が使っているものより上質だし、部屋は随分と広い。
しかし夢心地の私は気付かなかったのだ。
あくびをしつつ洗面所の方に向かい、蛇口をひねって顔を洗ったところで――冒頭に戻る。
驚きに目を見開いたまま固まっていると、可愛らしい声が鼓膜を震わせた。
「レオ、おはよー!」
――レオ?
そういえば剣崎社長の名前、怜央だったっけ。
初めて知った時、なんだか漫画のキャラクターにでもいそうな名前だなぁと感じたことを思い出す。
あれ、ていうか社長、誰かと住んでる?
確かシングルだったと思うけど。
この声は確実に女子――
「――って、えぇっ!!?」
私は思わず鏡に映った『それ』に驚きの声を上げる。
「何、レオ朝からどうしたの? シャル、びっくりしちゃう」
そう、その可愛らしい声を紡ぎ出したのは、手のひらサイズでふよふよと浮かぶ女の子。
きらきら光る金髪をなびかせ、銀色に光るショートドレスを身に纏う、それこそ妖精のような――
「――ん? あなた、レオじゃない。誰?」
――そのシャルと名乗った彼女は怪訝そうに私の顔を覗き込んだ。
「……つまり、マオが起きたらもうレオの身体になっていた。そういうこと?」
シャルがガムシロップを舐めながら問い返す。
私は私で慌ててコーヒーを飲みつつ頷いた。
なにしろ、今の私は盾野真緒ではなく剣崎社長――遅刻をすることなど決して許されない。
「――で、シャル。教えてほしいんだけど、剣崎社長は何者なの? あなたの存在といい、どう考えても普通の人間じゃないよね」
「……絶対他の人間に言わない?」
「言わないよ。少なくとも今は私が剣崎社長なんだし、事情を知らないとちゃんと振る舞えないかも知れないから教えて」
うーん、と考える仕種をしつつ、それもそうだと思い至ったらしい。
シャルは意を決したように口を開いた。
「あのね――レオは違う世界からこの世界に転生してきたの」
「……は?」
シャルの話によると、剣崎社長は他の世界で王国騎士団長を務めていたらしい。
しかし或る日戦死してしまったため、女神の力でこちらの世界に転生し、現在に至るという。
シャルも社長に付き従う形でそちらの世界からやってきて、彼が生まれた時から傍でサポートをしているそうだ。
それにしても異世界転生……そういう小説や漫画が流行っていると聞いたことはあるが、実際に起こるなんて。
――いや、それこそ私が剣崎社長になるなんていう摩訶不思議な事態が起こり得るならば、そんなことがあったっておかしくない。
「とにかくシャルは女神さまの力で元に戻せないか働きかけてみるから、マオは今日一日レオになりきって。マオのことだから大丈夫だと思うけど、バレないよう気を付けてね」
「うん、わかった……って、シャル?」
「何?」
「シャルはなんで私のことを信頼してくれるの? すごく嬉しいんだけど――でも、どうして?」
すると、シャルは明らかにしまった、という顔をした。
一体どうしたのだろう。
「ま、まぁいいじゃん。とにかく頼んだよ、じゃっ!」
それだけ言い残してシャルは姿を消した。
仕方ない、公用車が迎えに来るまであと20分。
私は残りのトーストを口に放り込み、皿をシンクへと持って行った。
――そして私は今、公用車の中でため息を吐いている。
今日は終日工場に出張の予定だ。
しかし、工場までの移動時間中もリモート会議が詰め込まれている。
先程ようやく3つ目の会議を終えた。
――剣崎社長、忙し過ぎやしないか。
会議中の発言については気を揉んだが、意外と知っている内容が多く、大事には至らなかった。
こういう時、経営層に近い部門で良かったと思う。
まぁ、こんな事態は二度と起きてほしくないけれど。
工場に着いたところで車を降りると、製造部長が笑顔で出迎えてくれた。
「剣崎社長おつかれさまです。お忙しいところお越し頂き、ありがとうございました」
「とんでもない、こちらこそありがとうございます。それでは、早速」
剣崎社長の姿をした私は作業着を羽織り、製造部長に続いて建屋内へと入っていく。
――そこでの体験は、私にとって驚くべきことだった。
「社長、新しい機械を入れてもらってありがとうございます。お蔭さまで作業時間がだいぶ短くなりました」
「社長、総務に弁当業者の件働きかけてくれたんですね。来月から業者が変わって、今より種類が増えて安くなるみたいで嬉しくて……」
「社長、この間はごちそうさまでした! あの日入れてもらったボトル、皆で大切に飲んでます」
現場の従業員たちが、皆私――剣崎社長の姿を見ると声をかけてくる。
それは、以前の社長たちでは考えられない光景だった。
そもそも社長が工場に毎月通っていることも、今朝シャルに聞いて初めて知った。
笑顔で対応しながら一通り現場を回っていると、隣で製造部長が言う。
「来週出るリリース、製造部門の人間は皆楽しみにしていますよ。今回の新製品は開発部門とも協力しながら創り上げた自信作ですからね。開発側が製造効率を第一に考えるなんて、これまでありませんでしたから」
――そうなんだ。
私たちが作った資料には、特にそういう情報はなかった。
そんな一抹の驚きを胸に秘めながら、私は「そうですね」と頷く。
「それもこれも、社長が我々現場の声を吸い上げて社内展開してくださったお蔭です。本当にありがとうございました」
製造部長は笑顔でそう言った。
私の知らない剣崎社長の一面――もしかしたらそれは、元騎士団長であることの経験が活きているのかも知れない。
現場と深い信頼関係を築き上げることは誰にでもできる芸当ではない。
「……リリース、楽しみにしていてください」
静かにそうとだけ返す。
元の身体に戻れたら、昨日作った資料を見直そう。
密かに決意する私に「そういえば」と製造部長が付け加えた。
「社長から昨日お電話頂いた件ですが、盾野さんから昨夜依頼がきていたので使えそうな資料はすべて彼女に送ってあります。ご承知おきください」
「マオ、おかえり! 大丈夫だった?」
製造部のメンバーとの懇親会を終え、剣崎社長の自宅に着いたのは22時を過ぎた頃だった。
玄関に入るとシャルが飛んでくる。
「うん、多分バレてないと思う」
私は上着を脱ぎながらそう答えた。
シャルがほっとしたように笑う。
「よかったー、こっちも大丈夫そうだよ。女神さまがなんとかしてくれるって! 明日の朝には元に戻ってると思う」
「本当? 助かった……」
今日はなんとかバレずに済んだが、さすがにこの生活を続けるのは厳しい。
仕事は勿論だが、お手洗いに行くにも気を遣う。
「ふふふ、1日おつかれさま! 安心したからシャルもう寝るね、おやすみー」
そう言い残してシャルは姿を消した。
私も服を脱いでお風呂場へと向かう。
できる限り薄目で、それでも引き締まった身体に少しドキドキしながら全身を洗い終えた。
「……おやすみなさい」
眠る準備を終えた私はベッドに入り瞼を閉じる。
次に目に映る光景が見慣れた部屋の天井であることを願いながら。
***
「――わかりました、これでいきましょう。盾野さん、進めてください」
「ありがとうございます」
翌日の夕方、私は社長室で剣崎社長と向き合っていた。
室長は出張で不在だ。
社長との打合せというとこれまでは多少緊張感があったが、今日はなんだか穏やかな気持ちで過ごせている。
結果として、今朝目を覚ますと私は盾野真緒に戻っていた。
もしかして昨日1日は夢だったのかとも思うけれど、その記憶は私の中で色鮮やかに息衝いている。
手早く身支度を済ませて出社すると、確かに製造部長から資料が送られてきていた。
それらのエッセンスと昨日工場で聞いた話を織り交ぜ作った資料は、我ながら見違えるように良くなっている。
心なしか剣崎社長も満足げに見えた。
「――それにしても」
社長が資料から視線を外してこちらを見る。
その眼差しは穏やかな色を纏っていた。
「昨日休みを取っていたと聞きましたが、体調は大丈夫ですか」
「――えっ、あ、はい」
そう、昨日の私は家で1日過ごしたようだ。
自分の意識のないところで何かしでかしていたら、という不安は払拭された。
一方で、思いがけずかけられた優しい言葉に戸惑ってしまう。
そんな私に、社長は続けた。
「盾野さんは責任を持って仕事を完遂してくれるので、安心して任せられます。いつもありがとう」
そして彼はわずかに口角を上げる。
――あ、この笑い方。
胸の奥から想いがあふれてきて、気付けば私は「こちらこそ」と返していた。
「いつも助けてくださってありがとうございます。あなたがいるお蔭で私たちは最後まで頑張ることができるのです」
そこまで言い切ってから、私は目の前の彼を見つめ返す。
「こうしてまたお逢いすることができて、本当に光栄です――レオ団長」
――瞬間、剣崎社長の瞳が驚きの色に染まった。
今朝目を覚ますと、私の頭の中には失われていたかつての記憶がよみがえっていた。
それはきっと、ここから遥か遠くの世界、今とはまったく違う時間軸で。
私はその大きな背中を常に追いかけていた。
毎日血の滲むような努力を重ねて、ようやく私はあなたの隣に立つことができた。
それなのに、同盟国の裏切りによって王国騎士団は窮地に陥り、そしてあなたは私を守るかたちで――
「……思い出したのか、マオ副団長」
剣崎社長――いや、レオ団長がぽつりと呟く。
やはり、彼は私の存在に気付いていた。
それならばシャルのあのリアクションも理解できる。
私が無言で頷くと、がたんと音がした。
気付けばレオ団長が立ち上がり、私のことを真剣に見つめている。
「――触れてもいいか? マオ」
思わず私は吹き出してしまう。
真面目な顔で何を言い出すのか。
「そういうことはわざわざ訊かなくてもいいですよ、レオ――」
その台詞を言い終わる前に、レオが私を抱き締める。
いつ振りかわからない穏やかな熱を堪能するように、私は静かに目を閉じた。
――私だけが知っていた、剣崎社長の秘密。
今日からそれは、ふたりの共通の秘密となった。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
朝目が覚めたら……というテーマ、どんな作品にしようかなぁと考えた結果、逆異世界転生なリーマン恋物語が生まれました。
騎士団長を務めるようなひとであれば、強さは勿論のことマネジメント力もきっと半端ないんだろうなぁと思いまして……。
なお、レオはマオの存在に気付きつつ、前世を伝えることでマオが混乱しないよう配慮していました。
そんなふたりのことを歯痒く思っていたシャルですが、レオの意思を慮ってマオにふたりの関係性を伝えることはしませんでした(微妙に怪しまれていますが)
なので、レオと共に帰宅したマオの姿を見て、シャルは泣いて喜んだとか……(´ω`*)
以上、お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。