第2話:黒須レグナ、高校へ
体育館の熱気から逃れるように俺は歩いた。 案内役の女は教員らしかった。 「佐々木恵美、佐々木先生と呼んでね」
彼女の声は先ほどよりも一層人懐っこい。 警戒は解けない。 なぜ俺の世話を焼く?
「黒須君は今日から2年B組よ。クラスのみんなもきっと歓迎してくれるわ」 「歓迎……」 俺は小さく呟いた。歓迎など俺の辞書にない言葉だ。 魔王として存在した頃配下は恐怖で俺に跪き敵は絶望で命を乞うた。 「歓迎」は弱者の振る舞いだ。
廊下を歩く。 壁には奇妙な「絵」が貼られている。 様々な顔無意味な線鮮やかな色彩。 意味が分からない。
「これ、美術部の展示よ。学校は文化活動も盛んなの」 佐々木が横から解説する。 美術部?文化活動?理解不能な概念だ。
教室と呼ばれる場所へ辿り着く。 そこには数十人の人間がいた。 皆俺と同じような「制服」を身につけている。
佐々木はにこやかに言った。 「みんな新しい転入生の黒須レグナ君よ。仲良くしてあげてね」 クラスの視線が一斉に俺へ向かう。 獲物を見るような好奇の目。
彼らの視線は無害だ。だが居心地が悪い。 俺は黙っていた。 何を言えば良い? 「私は魔王レグナだ。貴様ら跪け」とでも?
笑われるだけだ。 脆弱な肉体では何も成せない。 佐々木が席を促す。 窓際の、一番後ろの席。
そこへ向かう途中何人かの生徒が俺を見て囁き合った。 「すげあのイケメン転校生だぜ」 「やばくない?顔ちっちゃ」 「マジ卍ー」
聞き慣れない言葉。しかし意味は理解できる。 俺の顔は世界では「良い」ものらしい。 かつての魔王としての顔は威厳と恐怖を纏っていた。 今はただの少年の顔。その落差に吐き気がする。
席に着く。 目の前には木でできた薄い板。 「机」と呼ばれるものだ。 その上には奇妙な道具が置かれている。 鉛筆ノートそして色とりどりの「教科書」。 全てが俺の理解を超えている。
授業が始まった。 「英語」という教科。 教師は奇妙な言語を喋り始めた。
「Hello class!」 全く理解できない。 脳が勝手に翻訳しようとするが単語の羅列は意味を成さない。 「Hello」「Thank you」「Goodbye」。 奇妙な音。
教師は「テキスト」という紙の束を指差す。 中には意味不明な文字が並んでいる。 俺は思わずため息をついた。 こんなことで俺の時間を使うのか。
俺は窓の外を見た。 そこには青い空が広がり白い雲が流れる。 あの世界では見ることのできなかった平和な空だ。 退屈だ。
教師が俺の名を呼んだ。 「黒須君!単語を読んでみて」 指されたのはテキストの文字。 俺は読めない。
「……読めない」 俺は正直に答えた。 クラスから微かな笑い声が漏れる。 教師は困った顔をした。
「あらら、黒須君、英語は苦手なのね。じゃあ、まずはアルファベットから練習しましょうか」 アルファベット?初めて聞く言葉だ。 俺は魔王だ。学ぶべきは魔術であり戦略。 こんな幼稚な知識に時間を割くなど屈辱だ。
次の授業は「数学」だった。 数字と記号の羅列。 意味は不明だが何かの法則があるらしい。 黒板に書かれた数式は古代魔術の詠唱のようだ。 俺には興味がない。理解できない。
午前の授業が終わり昼食の時間になった。 「レグナ君一緒にご飯食べようよ!」 クラスの男子生徒が声をかけてきた。
「飯……?」 「弁当だよ弁当!お前持ってきてないのか?」 弁当。やはり意味が分からない。 飢えを感じていない。肉体は満たされている。
「……必要ない」 そう答えると男子生徒は怪訝な顔をした。 「えー?食べないと力出ないって!」 力?俺にはもうかつての力はない。
「俺、吉川陽太!よろしくな、黒須!」 彼が一方的に自己紹介をした。 吉川陽太。記憶する。 彼は友好的な弱者だ。
昼休み、他の生徒たちは各々で食事を取り談笑している。 彼らの会話は無意味だ。 「昨日見たアニメがさー」「あのゲームのキャラが」「推しが尊い」 全てが理解不能な単語の羅列。
俺はただ彼らの行動を観察し続けた。 彼らは「スマートフォン」と呼ばれる板を常に手にしている。 それを眺め指を滑らせ時折笑い声を上げる。
その板が彼らの世界の全てであるかのようだ。 俺にはなぜそれがそんなに面白いのか理解できない。 彼らの脆弱な精神性を映し出す鏡だ。
ある女子生徒がスマホで奇妙な写真を撮っていた。 「見て見て!これ、盛れた!」 盛れた?意味不明だ。 写真という概念も俺の記憶にはない。
午後も授業は続いた。 「国語」「理科」。 どれもこれも俺の知る学問とはかけ離れている。 「枕草子」「元素記号」。 俺の脳はひたすら拒否反応を示す。
世界の知識を学ぶ必要はある。 だがこの方法ではあまりに効率が悪い。 俺はかつて数日で一国の文献を読み解いた。 授業は遅すぎる。苦痛だ。
放課後。 佐々木が俺の元へ来た。 「レグナ君部活動どうする?色々な部活があるのよ」
部活動。また新たな概念だ。 「何をする?」 「そうね運動部もあるし文化部もあるわよ。サッカー部、バスケ部、吹奏楽部、茶道部とかね」
俺には必要ない。 強いて言えば魔力回復の修練所か世界法則を学ぶ研究施設だ。 「……興味ない」 俺の返答に佐々木は少し困った顔をした。
「そう?でも入った方が友達もできるし学校生活も楽しくなるわよ?」 友達。友情。 俺には理解できない概念だ。
魔王にとって必要なのは忠実な配下と有用な情報だ。 「友達」など何の益にもならない。 佐々木は諦めたようにため息をついた。
「ま無理強いはしないわ。ゆっくり考えてみてね」 そして彼女は去っていった。 俺は静かに荷物をまとめる。
帰りの時間。 校門を出るとまたあの喧騒。 渋谷の街は相変わらず理解不能な光景だ。
あのビル群の高さ。 煌めくビジョンの光。 行き交う「車」の数。
一つ一つの情報が脳を刺激する。 魔王として俺は常に外界を支配してきた。 だがここは俺が支配される側にある。
屈辱だ。 湧き上がる感情があった。 好奇心だ。
世界の技術。 世界の法則。 世界に隠されたかすかな魔力の脈動。
全てが俺の探求心を刺激する。 まだ俺は「黒須レグナ」として世界を理解しきれていない。 だが必ず。
俺は世界の全てを掌握する。 たとえ一歩ずつであっても。 脆弱な肉体で無知な状態で。
俺は魔王レグナだ。 世界でも必ず頂点へ。 夜空を見上げる。
無数の星々が瞬いている。 あの星の向こうに俺がいた世界があるのだろうか。 あるいは別の世界が広がっているのか。
俺の戦いは始まったばかりだ。 渋谷の喧騒が遠くで響く。 その音は新たな物語の序曲だ。