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第1話:目覚めよ渋谷の王


渋谷スクランブル交差点──。 それは魔王レグナが支配したどの領土よりも奇妙に混雑した場所だった。 無数の人間が意思なきアリの群れのように淀みなく流れる。

その様は彼が築き上げた厳格な階級社会と全く異なる。 誰もが同じ薄い布切れを纏い同じ無表情で同じ方向へ急ぐ。

「なんだこれ」

声が掠れた。 視界に映る異様な光景。

上空には煌めく巨大な四角い板がいくつも浮かぶ。 「ビジョン」と脳内が囁いた。 板からは理解不能な文字や色鮮やかな“絵”が流れる。

巨大な女が笑い小さな猫が踊り鮮やかな色の飲料が泡立つ。 そのどれもが彼の常識を遥かに逸脱していた。 その下には鉄とガラスの巨大な建造物が林立しどれも空へ異常に伸びる。

まるで天空に届かんとする魔塔のようだ。 それらは魔力ではなく未知の技術で構築されている。 何より俺を取り囲む人間の数。あまりにも多すぎる。

誰もが自身の目の前を過ぎ去る者に一切興味を示さない。 夥しい数の存在が彼らにとっては当たり前であるかのように。 奇妙な秩序がそこにはあった。

俺の知る世界とはあまりにもかけ離れていた。

脳裏に過ったのは血と炎絶望に染まった配下の断末魔そして聖女の放った純白の光。 「グアアアアァァァァァ!」 全身に走る激しい痛み意識が遠のく。

あの時俺の城は崩れ肉体は聖なる光に貫かれた。 魂ごと焼き尽くされ存在そのものが消滅したはずだった。 死んだはずだった。

だが俺はここにいる。呼吸をし思考し奇妙な世界を認識している。 俺の意識は確かに存在する。

手にあるのは──。

(なんだこれ……?)

手のひらを広げると見慣れない布。 青と白を基調とした妙な素材でできた布切れだ。 指で触れるとひどく薄く頼りない。

温かく肌触りが良い。 俺の体はこの奇妙な布で覆われている。 服、と脳内が囁く。

足元には硬くて薄い見慣れない履物。 靴と自動変換された。どこから来た知識だ? 今まで身につけていたはずの禍々しい漆黒の魔王の装束はどこにもない。

代わりに肌に馴染まない布が俺の全身を拘束しているかのようだ。 まるで着せられた赤子だ。 動きを制限するものではない。むしろ身軽ささえ感じる。

混乱が思考を支配する。 俺はあの世界で魔王レグナとして君臨し全土を恐怖で震え上がらせた絶対的な存在だった。 俺の命令一つで大気が震え大地が裂け百万の軍勢が跪いた。

だが今はどうだ? 華奢な体はあまりに貧弱すぎる。 まるで孵化したばかりの雛鳥だ。

拳を握りしめてもかつての魔力を漲らせた重厚な感覚は皆無。 皮膚一枚隔てて骨を感じるほどだ。 何よりも己の魔力が全く感じられない。

脈打つように溢れていたはずの圧倒的な力がどこにもない。 体の中から空虚な感覚が広がる。 まるで魔力という生命の源を抜き取られたかのようだ。

その時背後から鈍い衝撃があった。

「おい邪魔だよお兄さん!」 「なんだぼーっとしてんのか?早く動けよ」

聞き慣れない言語。なぜか意味が理解できる。 まるで生まれてこの方言葉を話してきたかのように。 転生による影響か。

俺はこの「交差点」と呼ばれる場所で人々の流れを止めていたらしい。 彼らの顔には苛立ちと僅かな嫌悪感が浮かぶ。 殺意はない。ただ邪魔だという不純な感情だ。

魔王であった頃ならこのような無礼は即座に死を意味した。 愚かなる人間どもが魔王たる己の進路を遮るとは。 だが今の俺に彼らを罰する術はない。

いやそれどころか状況で声を荒げれば自分が不利になることさえ理解できた。 本能的に世界での「弱者」の立場を悟る。

(ここはどこだ?)

右も左も見当もつかない。 頭痛と共に断片的な情報が流れ込む。 【東京】【渋谷】【令和】。

暗号のような単語の羅列。 だが場所がかつて俺が支配していた魔王城のあった世界ではないことは確実だった。 あの世界の空は常に魔力で澱み大地は血の匂いを纏っていた。

ここは妙な人工的な匂いがする。 排気ガスと甘ったるい菓子のような匂い。 耳に届くのは電子音と妙な調子の「音楽」と呼ばれるもの。全てが異質だった。

ふと視界の隅に映るものがあった。 巨大なガラスの壁に俺の姿が映し出されている。 そこにいたのは威厳に満ちた漆黒の甲冑を纏った魔王の姿ではなかった。

代わりにそこに立っていたのは……。

黒い学ランに身を包んだ痩せた少年。 どこにでもいるようなごく普通の日本の……高校生の姿。 髪は黒くやや長め。

顔つきは幼いがかつての俺を思わせる冷たい瞳が虚空を見つめる。 瞳の奥で微かな魔力の残り香が揺れる。 まるで燃え尽きた炭の残り火のように。それは微かだが確かに俺の深層に存在する証拠だった。

「これ……俺なのか?」

呆然と呟く。 信じられない。 信じたくない。

ガラスに映る少年の顔は確かに俺の顔だった。 過去のまだ魔王として覚醒する前の若き日の自分を思わせる不完全な姿。 これが俺の新たな肉体だとでもいうのか?

俺は魔王レグナは死にそして……世界に転生したというのか?

人々の喧騒が耳鳴りのように響く。 頭上からは意味不明な電子音が流れ視界の端を無数の「車」と呼ばれる鉄の塊が通り過ぎる。 どれもこれも理解不能だ。まるで別の次元に迷い込んだようだ。

未知の世界で俺は一体何をすればいい? 魔力も力も忠実な配下も強固な城も何もかも失った。 あまりにも脆弱な「人間」の姿で。一瞬絶望感が胸をよぎる。あの圧倒的な力を失った屈辱。

その瞬間俺の脳裏にかつての記憶が稲妻のように駆け抜けた。 あの光景──。 聖女の放った聖なる光に包まれながらも俺は確かに感じ取っていた。

世界とは異なるが確かに繋がっていたかすかな"脈動"を。 それは俺の魔力とは異なるが似通った性質を持つ「何か」の気配。 深淵の奥底でうごめく根源的な力。

消滅寸前の意識で俺は深くその「脈動」を辿った。 まるで溺れる者が藁を掴むように。 死の淵からの生への執着魔王としての強烈な意志だった。

(……見つけた)

失われたはずの魔力が僅かに震える。 体の奥底でかすかに共鳴する感覚。 世界はただの「人間」の世界ではないらしい。

俺の存在が世界に与える影響。 体で俺は何を成すのか。

混乱の渦中俺の胸にかつての魔王としての矜持が蘇る。 例え姿が変わろうとも力は失われようとも支配への渇望は消えない。 俺は魔王レグナだ。

異質な「東京」という場所で俺は再び頂点を目指す。 あるいは世界をかつての魔界のように支配と混沌で染め上げてやるのも悪くない。 いや今はまだ時ではない。

まずは世界の仕組みを理解しなくてはならない。 あの空に浮かぶ「板」の正体も人々が耳に当てている「小さな四角い物体」の用途も理解不能だ。 俺の知る魔導器とはあまりに異なる。

奇妙な布と「高校生」という役職が意味するものも。

俺は再び歩き出す。 無数の人々が流れる渋谷の交差点で一人の少年が新たな「王」としての第一歩を踏み出した。 その視線の先には未知なるものが無限に広がっていた。

その時一つの看板が目に留まる。 「都立桜並木高等学校」 俺の視線がそこに縫い付けられる。

まさかこれか……。

その時一人の女が俺の肩を叩いた。 振り返るとそこにいたのは見慣れない顔の女だった。 年齢は二十代半ばか。

奇妙な形の服を纏い髪は鮮やかな茶色に染まっている。 「黒須レグナ君ね?迎えに来たわよ」 女は人懐っこい笑みを浮かべている。

その声には妙な響きがあった。 まるで何かを隠しているかのような。 俺の名前をなぜ女が知っている?

「黒須レグナ」という名前は俺の知る魔王レグナの名とは微妙に異なる。 これは偽名か? 転生において与えられた新たな名か?

疑問は女の次の言葉で呆気なく打ち消された。

「あなたが今日からこの学校に転入する黒須レグナ君でしょ?さ早く行きましょう。入学式始まっちゃうわ」

入学式? 転入? 学校?

耳慣れない単語が羅列される。 脳はそれらを瞬時に理解した。 まるで最初から知識を持っていたかのように。混乱は深まる。

情報が洪水のように流れ込み俺の思考を撹乱する。 女は一体何者だ? なぜ俺はここにいる?

「高校生」という役割は俺に何を強いるのか。

脳裏にあの聖女の顔が浮かぶ。 まさか転生は彼女の最後の呪いか? 俺を脆弱な器に閉じ込め無力な「人間」として生きろとでもいうのか?

ふざけるな。 俺が人間として生きるなど。 そんな屈辱耐えられない。

状況で抵抗するのは愚策だ。 まずは世界の情報を集めなければならない。 女の言葉に従うのが今は得策だと判断した。

魔王として培った合理的な判断力が己の感情を抑え込む。

「……分かった」

俺は短く答えた。 女は俺の返事に満足したようににこりと笑う。 笑顔は偽りかあるいは本物か。

まだ判断できない。 だが彼女の瞳の奥にわずかな打算のような光を見た気がした。

俺は女の後を追って歩き出す。 渋谷の喧騒が遠ざかっていく。 新たな場所へ新たな役割へ俺は強制的に誘われている。

魔王として君臨した記憶が脳裏を去来する。 あの力。あの支配。あの恐怖。 全てを失った今俺に残されたのは新しい「体」と魔王としての記憶だけだ。

記憶がある限り俺の存在は揺らがない。

(だが必ず……)

心の中で誓う。 必ず世界の全てを解き明かし再び俺の居場所を築いてやる。 奇妙な「高校」とやらの存在が俺にとっての新たな戦場となるならば。

俺はそこで再び頂点に立つ。 たとえそれが人間としてであるとしても。 魔王の矜持は肉体の器が変わろうと決して潰えることはない。

道すがら女が俺にいくつかの質問を投げかけてくる。 「黒須君出身はどこなの?あんまり訛りがないから東京出身かしら?」 「ええと……出身は……」

俺は言葉に詰まる。どう答えるべきか全く分からなかった。 前世のことは話せるはずもない。 世界での「出身」という概念が理解できない。

「あ無理に答えなくてもいいわよ!転校生って色々大変よね」 女はそう言って優しく微笑む。 笑顔がなぜか俺の心をざわつかせた。

かつて聖女もあのような偽りの笑みを浮かべていた。 あの聖女の笑顔は常に俺を欺き罠に陥れようとしていた。 女も俺を欺こうとしているのか?

警戒心を強めながら俺は歩き続ける。 目に入るもの全てが俺の理解を超えている。 人々は小さな四角い板に視線を落とし指を滑らせる。

「スマートフォン」と脳が勝手に変換する。 彼らは板を通して外界と繋がっているのか? 頭上を金属製の鳥のようなものが飛んでいく。

「飛行機」だと脳が語る。 俺の知る魔術や魔導兵器とは全く異なる原理で動いているように見える。 その飛行速度は驚異的だ。

道路には「車」と呼ばれる鉄の箱が猛スピードで往来する。 運転席に魔力の気配はない。 どうやって動いている?

世界に俺の知らない法則があるならば。 その法則を俺は解き明かさねばならない。 その法則を俺の力に変えるのだ。

未知への探求心は魔王としての飽くなき知識欲に繋がる。

やがてたどり着いたのは渋谷の喧騒から少し離れた場所にある大きな建物だった。 入り口には先ほど見たものと同じ「都立桜並木高等学校」と書かれた看板。 ここが俺の「高校」という場所らしい。

中に入るとさらに多くの「高校生」たちがいた。 皆俺と同じような「学ラン」や色違いの「制服」を身につけている。 彼らの顔はどこか浮ついていて俺がかつて支配した魔族の兵士たちのような鋭い殺気は一切感じられない。

彼らは何の訓練も受けていないただの弱者に見える。 彼らが持つ「若さ」と「数」は侮れない要素だ。

女がにこやかに言った。 「さあ黒須君。今日からここがあなたの学校よ。新しい生活楽しみなさいね」

「楽しみ……だと?」

思わず口から言葉が漏れる。 何が楽しいというのだ。 理解不能な世界で見知らぬ人間に囲まれ脆弱な肉体を与えられ「学校」とやらに強制的に通わされる。

これのどこに楽しみがあるというのか。 俺は娯楽という概念を理解できない。 俺にとっての「楽しみ」とは支配であり力の拡大であり敵を屈服させることだった。

その瞬間ある感覚が俺の体の中を駆け巡った。 それはかすかなしかし確かな魔力の波動。 それは「学校」の中に複数の魔力反応が存在することを示していた。

しかもその反応は一つではない。 微弱なものから比較的強いものまで複数存在する。 まるで色とりどりの魔石がそこかしこに埋め込まれているかのようだ。

まさか世界にも魔力を持つ者がいるというのか? あるいは俺と同じように別の世界から転生してきた存在が? あるいは世界の人間が自ら魔力を覚醒させたのか?

俺の冷たい瞳が鋭く光る。 「学校」はただの「学校」ではない。 何か特別な場所だ。

魔力の波動を感じ取れるのは俺だけなのか。 それともあの女もあるいはここにいる「高校生」たちも感じ取っているのか?

謎は深まるばかりだ。 その謎こそが俺の心を掻き立てる。 魔王としての血が静かに沸騰し始めた。

俺の飽くなき探求心と支配欲が刺激される。 「学校」で俺は一体何を見つけることになるのだろう。 そして世界で俺は何者になるのだろうか。

入学式が始まる。 体育館と呼ばれる巨大な空間に無数の「高校生」たちが集められている。 体育館の天井は高く奇妙な人工光が煌々と輝く。

壇上では白髪の老人が延々と意味不明な言葉を紡ぐ。 彼の話は世界の「常識」や「価値観」を説いているようだが俺には響かない。 「……希望に満ちた未来を……」「……勉学に励み……」「……友情を育み……」

全ての言葉が俺にはただの雑音にしか聞こえない。 雑音の中にしかし微かな魔力の波動が混じっているのを俺は聞き逃さなかった。 複数の異なる魔力の波動。

まるでそれぞれが固有の性質を持っているかのようだ。 共鳴したり反発したり絡み合ったりしている。

俺は無意識のうちにその波動の発生源を探す。 視線を巡らせるといくつかの生徒に微かな魔力の輝きが見える。 その中の一人妙に落ち着いた雰囲気を纏う少女。

彼女の魔力は透き通った水のように静かだ。 もう一人周囲の視線を気にしながら常に顔色を窺う少年。 彼の魔力は変幻自在に形を変える。

何よりも強い魔力反応を示しているのは……。

壇上の老人のすぐ近くに立つ一際目を引く美貌の少女。 彼女からは他の生徒とは明らかに異なる強大な魔力の波動を感じる。 それはまるで激流のように荒々しい。

だがその波動はまるで制御しきれていないかのように不規則に揺らいでいる。 彼女の身体がその魔力に耐えきれていないかのようだ。 彼女の体がその強大な魔力によって内側から破壊されつつあるように見えた。

(何だ……あいつら)

俺は静かにそして鋭く彼らの存在を認識した。 「学校」には俺以外の「異物」がいる。 俺が世界に転生したことには何らかの意味がある。

偶然ではない。 運命の歯車が俺を中心に回り始めた。

魔王としての直感がそう告げていた。 新たな戦いの始まりだ。 脆弱な体と失われた力で俺は再び世界の頂点を目指す。

そのためにはまず「高校」という名の戦場を理解し手駒を集めなければならない。

俺の新たな物語は今「都立桜並木高等学校」で静かに幕を開けた。 かつての魔王レグナは世界で黒須レグナとして何を成すのか。 その答えはまだ誰も知らない。

だが始まりは確かに場所からだった。 俺は「学校」という名の檻の中で再び牙を研ぐ。



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