オモイ∞アイ
仕事を終えて会社の玄関を出ると、ふわふわと雪が舞い踊りアスファルトを白で覆いはじめていた。
「柊一さんが亡くなって、もう一年か……」
雪の結晶を手袋越しにつかむ。風にあおられた吐息が、かけていた眼鏡を曇らせる。マフラーと厚手のコートを着ていても、身体が強張るくらいの寒さだ。
「香也子! 今、帰り?」
「うん。柚子も今日は早いんだね」
背後から肩をポンと軽く叩かれ、振り返ると会社の同期で親友の柚子が白い歯を見せてニカッと笑う。
「金曜日に残業なんてしたくないからね」
「あはは。たしかに! じゃ、駅まで一緒に帰らない?」
駅に向かうまでの夜道、ほんの十五分ほどの距離を、二人で並んで歩きだす。会社が大通りに面しているので街灯もあるし、車の行き交う光で明るい。
「いいけど、結婚間近の彼氏と土日は過ごすって言ってなかった?」
「その予定だったんだけどね。ちょっと色々あってさ……」
「まさかと思うけど、またDVにあってるなんて言わないよね?」
「ない! ない!」
「ならどうしたのよ?」
柚子は、口が硬く信頼できる。私が夫の柊一からDVを受けていた事も知っている。だから隠し事をする必要がない。
「柊一さんの、一周忌が過ぎた頃からかな? 視線を感じるの。今は柚子がいてくれるから大丈夫そうだけど、最近は足音まで聞こえるのよね」
「警察には?」
「一応、行ったわ。見廻りを強化するって……」
「よし! 分かった今日は金曜日。あたしが香也子の家に泊まるよ!」
「ありがとう柚子」
私の手を柚子が握って歩きだす。電車に乗っている間も心配なようで、柚子は手を握ったままでいてくれる。三つ目の駅で降りて、自宅の近くのスーパーで鍋の材料を買い込んでから帰った。
柚子を怖がらせたくなくて言わなかったけど、実は視線は室内にいても消えることはない。
鍋の材料を切っていても、柚子と食事をしていても、一緒にベッドに入っても、じっとりと粘着くような張りつくような視線はやっぱり消えない。
次の日の昼間は二人で映画のDVDをレンタルしてきて、ピザを食べながら観て楽しんだ。けど私は心から楽しむことが出来ない。
なぜなら視線が、ますます強くなるばかりだからだ。
「あ! そろそろ帰るね。もし何かあったら電話して!」
夕方、柚子は慌ただしく帰る準備をする。一人になりたくなくて私も荷造りをする。適当に旅行鞄に着替えを詰めこんで、玄関に向かう柚子の後を追った。
「待って、私も出かけるわ」
「どした?」
「やっぱり怖くって、だから実家に行こうと思うの。駅まで一緒に行っていい?」
「そっか。それがいいかもね。駅までついててあげる」
不安が柚子に伝わったようで、にっこり微笑んで私の手を握ってくれた。そして玄関をしっかり施錠してから駅に向かい歩きだす。本当は彼氏の家に行くことも考えた。けど得体の知れない視線に悩まされているだなんて、言っても信じてもらえない気がしたのだ。
「柚子ありがとう」
「気をつけてね。また月曜日に会社で会おう!」
駅前に着くと手を振って別れた。柚子は心配そうに何度も私の方を振り返っては歩くを繰り返していたけど、やがて人混みの中へ消えていった。
新幹線に乗ってからスマホを開いて、両親に『今から実家に帰る』とメッセージを送った。突然の帰省にも関わらず、すぐに『気をつけて帰っておいで』と返事がかえってきた。
視線は消えないどころか、じわじわと足音と共に近づいてくる。
「新幹線は人も多い。だから、大丈夫……大丈夫……」
座席に身を縮ませ、カタカタ震える指先でスマホを握りしめる。寒さからくる震えじゃないから、コートもマフラーも手袋も意味をなさない。
異変は加速する。
なんだか頭が重くて音が聞こえづらく、車内アナウンスの声も遠い気がする。
『……。か……ヤ……子……』
空耳だろうか? 聞き覚えのある声で”何か”が耳元で囁く。
実家の最寄り駅まで着くと、しばらく見ない間に髪の毛が白く薄くなってしまった頭の父が、軽トラで迎えに来ていた。
父は私が帰ってきたのが嬉しいようで、皺くちゃの顔をさらにしわしわにして微笑みながら何かを言っている。
けど、私の耳は”何か”に塞がれたように、何も聞こえなくなっていた。
久しぶりの実家。心から安心出来る場所のはず。
なのに……。
耳の次は、目を”何か”に塞がられ霞み始め、世界がぼんやりしたものに変化していく。
遅めの夕食を両親と食べていても、風呂に入っていても、もう何をしていても、すぐそばに気配を感じる。
心配そうな両親。
“何か”に口を塞がられ、もう声も出ない。
歯が恐怖でガチガチと音を立て続ける。
18歳まで過ごした懐かしい自分の部屋。ベッドで布団を頭までかぶって潜りこんで外界を遮断しても”何か”が私に絡みつく。
こんな時でもトイレには行きたくなってしまう。いや、こんな時だから余計に行きたくなるのかもしれない。
ベッドからヨロヨロと立ち上がり真っ暗な視界の中、手探りでトイレに向かい用を足して、洗面所に行って顔を洗い顔を上げると、全身が凍りついたように動かなくなる。
洗面所の鏡に映る自分の、すぐ後ろにドス黒いモヤが揺らめく。
見えなくなったはずの目に、ソレだけは、はっきりと映る。
“何か”だったのは徐々に夫、柊一のカタチヘと変貌をとげていく。
聞こえなくなったはずの耳に、直接届く柊一の息づかい。
『オマエはオレだけをカンジていればイイ』
うつろな目をした柊一は人間とは思えない力で抱きしめ、そして口づけをしてきた。逃げようと、もがけばもがくほどキスも更に深くなる。
まるで魂までも絡めとり吸い尽くすかのように……。
と、その時、必死に忘れようと努力した記憶が、雪崩のように鮮明に蘇る。
夫の柊一は束縛が半端なかった。
結婚前はそんな事はなかったが、結婚後に柊一は会社を辞めてまで私に付きまとうようになった。
朝は一緒に会社まで来るし帰りも会社の前で待ち伏せ、昼休憩も会社の外で柊一と待ち合わせ、柊一の作った弁当を食べる。
いつでも柊一が、近くにいてくれるのが愛されてると実感できて最初は嬉しかった。
仕事中は一時間おきにメッセージ、買い物中や家事の最中は三十分おきにメッセージ、友人と会うと言った時なんかは十分おきにメッセージ、返事は一分以内にしなくてはいけない。
次第に鬱陶しく感じて「やめてほしい」と頼んだ瞬間、体が吹っ飛ぶほどの力で殴られた。
その後は、ますます束縛が強くなった。忙しくて返信を出来なかった時などは、会社や友人宅にまで押しかけてくるありさまだった。
そんな事の繰り返しが十五年続いた、ある日。
友人とクリスマスを楽しんでいて、うっかりメッセージの返信を忘れた。たった一分、返信が遅れただけなのに、柊一は友人宅に怒鳴り込んで私の髪の毛を鷲掴み引きづり自宅に連れ帰ろうとしたのだ。
引きずられながら涙で霞む目に、赤い屋根が見えてきた。可愛くて住むことを二人で決めた、二人だけの幸せの城だったはずのモノ。
今は地獄への入り口に見えてしまった。
この時、ついに私の痩せ細った心の糸はプツリと切れた。
自宅前の、歩道橋の階段を降りかけたとき、柊一の背中をポンッと押した。髪の毛をつかまれたままの私も当然、柊一と一緒に転がり落ちた。
夫からのDVに苦しんでいた私の事は周囲の人々は知っていたので、夫から逃げる時に誤って歩道橋から転落したのだろう、と噂が広がった。警察の判断も同様だったそうだ。
私は奇跡的に助かったが、柊一は帰らぬ人になった。
『オマエはオレだけミテイロ』
脳内に直接、響く声。
柊一の”愛”が、私を縛る。
侵食される。
『いままでもコレからもアイしてル。もうニガサナイ』
目を閉じる。
魂が心が、絡み合って、混じり合って、溶けだす…………。
私は、柊一さんの、一部に、なっていく……。