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1 (6) 『変わる勇気・それでも』

 …気を失っていた、と言って良かった。

 いや、本当に気を失ってはいないのだけれども。

 そんな現実逃避、甘えなんて、罪深きラディカには許されていないのだけれども。

 でも、ともかく、今の彼女はショックに心が潰されてしまって、外界の様子なんて、とてもキャッチできない状態にあった。


 …中央広場での失墜から目を覚ました時、ラディカは、シャトーに担がれて、中央広場から街の城門までに細々と続く、人気のない路地裏をゆっくり下っていた。


 昼はもう、夕暮れに変わっていた。

 あの事件から、少なくとも3,4時間は経っていた。

 …それまでの間、シャトーはずっと、ラディカを担いで歩いていたのか?と聞かれれば、Yes。

 現に彼女は、その反動で、息を限界まで切らし、過労で意識を朦朧とさせていた。

 しかしまぁ…、結構な距離を歩いたんだね?と聞かれれば、No。

 何故なら、たとえ、直線道の大通りではなく、入り組んだ路地裏を進もうとも、最上部の中央広場から最下部の城門前までは、徒歩50分程度の距離であったから。

 では、シャトーは、謎の2,3時間をどう過ごしていたのか?と言うと、偏に、体格差の関係上、どう担ごうとも引きずってしまうラディカの脚を、決して傷つけないように、慎重に、一歩ずつ、高価な壺を運ぶように鈍重に進んでいたからであった。

 …その配慮のおかげで、ラディカの脚は、長時間地面に擦れていたにも関わらず、土汚れと、薄皮が若干めくれる程度の被害で済んでいた(ついでにシャトーは、ラディカのアホみたいに長い銀髪も自分の肩にグルリと回して、地面に擦り、汚れないようにしていた)。

 ラディカは、心以外に傷を抱えずに済んでいた。

 本当に、大切に守られていた。

 …相変わらず、従者の心身の犠牲の上に、ではあるが。


「…!ラディカ様…!目が覚めたんですね…!」

 過労でフラフラになっていたシャトーは、一方で、ラディカの意識が戻ったことには、すぐに気がついた。

 彼女はすぐさま足を止め、身体を回して、ラディカを担ぐ姿勢から、ラディカを正面から抱き寄せる姿勢に変えた。

 そして、彼女は、目に涙をいっぱい溜めながら、ぎゅうっとラディカを抱き締めた。

 …だが、その際、未だ無気力なラディカの全体重は、まるで自分を支えようとせず、したがって、長時間の介抱で疲労し切ったシャトーの上半身に、無遠慮に載りかかった。

 シャトーは、ラディカの重みに耐え切れず、崩折れてしまい、地面に膝を強く打ち付けてしまった。

 次いで、彼女は、脚を降り畳む形で、後方にガンッと倒れてしまった。そのため、背も地面に強く打ってしまった。

 身体の節々がズキズキ、ジクジク痛んだ。絶対、青タンになった。

 …だが、シャトーは、やはり、自分の痛みなんてまるで気にしなかった。

 彼女はそれよりも、ずっと容態を心配していたラディカが、今に目覚めてくれたことへの安堵でいっぱいだった。

「ラディカ様…!良かった…!本当に良かった…!」

 シャトーは、自分に覆い被さるラディカの背に必死に両腕を回して、泣きじゃくった。

「ラディカ様…、何度呼びかけても、返事してくれなかったから…」

「ショックで心が壊れてしまって…、もう二度と、目覚めないんじゃないかって思って…」

「怖くて…、どうしようって思ってた…!」

「でも…、目覚めてくれた…!本当に、本当に良かった…!」

 それに対し、ラディカは、まだ意識が覚醒していないのか、ぼんやりとまぶたを半開きにしていた。

「げぼ…く…?」

 そうやって、虚ろに呟くくらいが、今の彼女の限界であった。

「はい…!下僕です…!貴女の下僕の、シャトーです…!」

 目覚めたどころか、小さくでも反応さえしてもらえたことが堪らなく嬉しいシャトーは、晴れやかな表情になった。そして、彼女はまた、強く、大切な人であるラディカを抱き締めた。

 ただ、呆然としているラディカの反応は、やはり、そんなシャトーの心労や愛情を気にも留めずに、朦朧と周りを見回すだけであった。


 …ラディカはとにかく、現状を上手く認識できていなくて、認識したかった。

 しなきゃいいのに。


 …見えたもの。聞こえたもの。感じたもの。

 日が落ち、薄暗い路地裏。自分たち以外の気配はない。二人ぼっち。

 自分。ぐずぐず泣いている下僕に覆いかぶさる体勢。掛け布団になったみたい。

「(下僕…。かわいそうに…、なんで泣いてるんだろう…?)」

 四肢が、無造作に地面にくたばっている。それ故、肌から地面がジトッと嫌な湿り気を持っていることが伝わり、分かる。

「(きもい…)」

 顔を上げた先、家屋の更に奥に城壁がそびえ立っている。

 …ここからもう少し歩けば、アメリーの出口に辿り着くのだろうと簡単に予想できる。

「(夕方…に、街の出口に向かってるってことは、これから馬車に乗るってこと…?)」

「(もう、シテに向けて出発するのかな…?)」

「(でも、馬車が手配できないって、下僕は言ってた…)」

「(あれ…?)」

 ふと、思考の外から、声が聞こえた。

「ラディカ様…、さっきはごめんなさい…。たくさん辛い思いをさせて…、それなのに、ラディカ様のためだとか言って、守ってあげられなくて…。本当にごめんなさい…」

 嗚咽を含み、気を落とす、哀しい声色。

 でも、すごく優しい声。落ち着く声。自分をいつも気遣ってくれるシスターの、大好きな声。

 …下僕、小さい体でぎゅっとしてくれる。

 小さい、恵体の私からすれば、本当に小さい身の丈のくせに。

 でも、下僕の優しさは凄く大きくて、冷めた私の全身にもくまなく行き渡る。

「(あったかい…。きもちいい…)」

 ほわんとする。ぬくもり。

 下僕の口が開く。私は見つめる。

「ラディカ様…?もう、アメリーに居ても、身が引き裂かれて、辛くて、辛くて、しょうがないでしょう…?」

「だから、ね?お家に帰りましょう…?」

「お家に帰って、ゆっくりしましょう…?ご飯食べて、お風呂入って、本を読んで、心を落ち着かせて、そんな毎日を、何日も過ごして…」

「それで…、今日の傷が癒えたら、それからは、二人で、誰にも邪魔されずに、のんびり、穏やかに、静かに暮らしましょう…?」

「(お家…)」

「(やっぱり、シテに帰るんだ…)」

 目覚めたラディカの脳は、未だ、先の記憶を、ショックを整理し切れていない。

「…っても、今の私、相変わらず貧乏だから、ラディカ様の生活を潤せる程の、豪華な料理も、欲しいお洋服も、何も用意できませんけど…」

「…でも、ラディカ様のためなら、私、頑張って働きます…!アメリーには、もう行けなくなるから、代わりに、リーン王りょ…、いや…、ッ、ツロンで…!いっぱい働いて…、お金を稼いで…」

「…それでも、私ぽっちの稼ぎでは、多分、ラディカ様に、フラン家での生活のような豪華さは、提供できませんけど…」

「でも…、絶対に苦労はさせません…!」

「(…?貧乏…?私に、フラン家での生活は出来ない…?)」

「(どういうこと…?)」

「(私は…フラン家の長女なのに…?)」

「(あれ…?)」

 ラディカの脳内で、記憶の整理が順調に完了していく。

 ショックが、彼方から還ってくる。

「貧乏生活とは…、もう、おさらばです…!じゃがいもじゃなくて、お肉にグレービーソースをかけられるようにします…!欲しい本だって、服だって、たくさん買えるようにします…!旅だって…!」

「旅だって…」

「…旅は、また、いつの日か、落ち着いた時に行きましょう…?シテに…、いや、シテだけじゃない…、ラティアだって、ジャーだって、…新大陸にだって旅に行きましょう…?」

「きっと、ワクワクすることにいっぱい出会えて、小説みたいな冒険が出来ますよ…?」

「(…え?)」

「(旅…、今してるじゃん…)」

「(…シテには、今から行くんじゃないの…?)」

「(…行かないの…?)」

「(やっぱり、馬車がないから行けないの…?)」

「(…それとも)」

「(…行っても意味がないの?)」

「(…なんで?)」

「(私が、フラン家の長女じゃないから…?)」

「(え…?)」

 ラディカの記憶が、正される。

 ぼんやりとした視界から、段々と霧が払われる。

 ショックが鮮明に見え始める。

「(私はもう…、ラディカじゃない…?)」

 現実が、酷く、倒れてしまいそうな現実が、碧の眼に写し出されていく。

 そして、シャトーから、決定的な言葉が下される。

「でも…、今日はもう、疲れちゃったから、お家に帰りましょう…?」

「お家に…、“小教会”に…一緒に帰りましょう…?」

 言葉が、下される。

「…!!」

 瞬間、ラディカの目は完全に見開いた。

 彼女は、息を呑んで、身体を起き上がらせて、馬乗りの姿勢になって、震える声でシャトーに尋ねた。

「小教会に…帰る…?」

「…?そう…ですけど…?」

「帰るの…?私は…、シテじゃなくて…、小教会に…?」

「“お母様と、私の墓がある”、あの場所に…?」

「…」

 質問の含意を理解したシャトーは、沈黙した。だが、次の瞬間には、何の誤魔化しもせずに、重々しく口を開こうとした。

 …咄嗟、顔を引き攣らせたラディカは、シャトーの頬を思い切り平手打ちした。

 シャトーは、打たれた頬を押えて放心した。口を朧げに開いて、無言で加害者の目を見つめた。

 しかし、当のラディカはシャトーに全く向き合わず、フラフラと立ち上がったかと思えば、ゆらゆらと、今にも消えてしまいそうな小火のような足取りを始めた。

 途中、ラディカは何もないところでズテッと転んだ。しかし、彼女は黙々と起き上がって、暗い影を堪能しながら歩んだ。

 …彼女は、そのまま、どこかに去ってしまいそうな様子だった。

 …しかし、自失した精神では、おぼつかない足取りでは、少しの距離を進むことすら不可能だった。

 弱い彼女は、シャトーの元を数メートル離れた地点で、力尽き、傍の壁に寄りかかり、へたり込んでしまった。

 そして、彼女は、自分の限界に頭を抱え、空き箱に入れられたダンゴムシのように、みじめにうずくまった。


 今に、自分が無力で、何も持たないことを自覚してしまったラディカは、惨たらしく、自我を引き裂かれつつあった。


 …その様子を見ていたシャトーは、頬の痛みを押し殺した後、自分の身体に鞭打って立ち上がった。

 彼女は、自分のちっぽけな疲労や、痛みなんかよりも、今のラディカの方がよっぽど痛々しくて、見てられなかった。

 だから、彼女は、自分のことを差し置こうとして、そして、無理にでも活動的であろうとした。

 …しかし、今までの心労と苦労を考えると、今に、彼女が恐ろしく無理をしていて、僅かな力を何とか振り絞って、ラディカに寄り添おうとしていることは、確かであった。


 ラディカ以上に、シャトーは、ゆっくり休むべきだった。

 もしかすると、彼女はどこか、解決を急いでいたのかもしれない。


 …シャトーは静かにラディカの元に寄った。

 そして、今に矮小になってしまったラディカを見つめて、心を更に痛めた。

 …ただ、その構図は、奇しくも“ラディカを見下すシャトー”であった。

 …野良とはいえ、シスターとして努めていて、副業だけれども稼ぎがあるシャトーと、死んで、もはや何の権利も義務も、役割も存在価値も持たない下民以下のラディカ。

 …二人の関係は、ここに来て、ようやく正常なものに正された。

「…どっかいってよ」

 持たざる者のラディカが、僻むようにポツリと訴えた。

「そんな拗ねたこと言わないでください」

 与える側のシャトーは、当然のようにラディカの隣に座った。その際、彼女は、ラディカの傍に垂れる長い銀髪を、地面から掬い上げ、自分の膝の上に置いた。

 そして、シャトーは、地面に付いたせいで汚れてしまったラディカの銀髪を、惜しそうに撫でながら、言った。

「…お湯なら、物質創造に頼らなくても無限に創れますから、やろうと思えば、小教会の側に大浴場だって造れるんですよ?」

「実は、あの白湯だって私の魔力製だから、飲み放題〜、なんて…」

 少しの沈黙、後。

「…返してよ」

 ラディカは腕を伸ばし、シャトーから自分の髪を奪い取った。そして、手に掴んだそれを、投げやりに地面に放り、再度うずくまる体勢に戻った。

「…せっかくの綺麗な髪、汚れてもいいんですか?」

 シャトーは寂しそうに尋ねた。

「…そんなものに、もう意味なんて無いのよ」

 ラディカは自暴自棄に答えた。

 その答えに、シャトーは首を横に振った。

「…自慢の髪、なんでしょう?」

「無下にしたら、可哀相ですよ…」

 シャトーはそう言いながら、自分の短い横髪をストンと撫で下ろした。

 …一昨日に切ってしまって、もう無くなってしまった、自慢だった長髪を惜しんだ。

 ラディカは、横目で彼女を一瞥した後、呟いた。

「恨んでるんでしょ…」

「結局、貴方の髪は、ラディカでも何でもない奴に切り落されたワケですもんね…」

「はっ…」

 乾いた嗤い。

「…っていうか、貴方、なんであんな命令を聞いたのよ。私がラディカじゃないって、初めっから分かってたくせに…」

「というか、そもそも、なに?貴方…。何もかも分かっていながら、それでも、ずっと、私に付き従って…」

「今も…、隣に座って…」

「もしかして、私を馬鹿にしてるの…?」

「馬鹿に…してるんでしょ…?どうせ…」

「こんな私なんて…」

「こんな…、何もない私なんて…、嫌いに決まってるものね…!」

 ラディカは、自己嫌悪の小声を、段々と裂くような絶叫に変えた。

 そして、彼女は、発狂しながら、両手で髪を掴んで、千切れるような勢いでグシャグシャに掻き乱した。

 その後、彼女は、見るに堪えない姿になって、更に塞ぎ込んだ。

「もう、いいからどっか行ってよ…」

 …痛ましく、そう訴えるラディカに、シャトーはどう接するべきか固まった。

 …嘘でも何でもついて、温かい手を差し伸べるべきか、言われた通り、一旦落ち着くまで距離を置くか、色々と考えた。

 …どうすることが、“ラディカに寄り添う”ことになるのか、自分なりに考えた。


 …そこに、お義父さんという怨恨は介入していなかった。

 彼女は、彼女自身の想い一つで、ラディカに真剣に取り組んでいた。

 それこそ、彼女の成長。


 …シャトーは沈黙の後、答えを出した。

 言った。

「…恨んでますよ。ラディカ様のこと」

「私の髪、何年もかけて、ようやくあそこまで伸ばしたんですから…」

「…切り落とす時は、嫌で、嫌で、なんでこんなことをしなくちゃいけないのか分からなくて、涙が零れて、しょうがなかったです」

 彼女の答え。

 それは、嘘偽り無く本音を話すことであった。

 …その効果は、間もなく発揮された。

 シャトーの告白を耳にしたラディカは、ピクリと反応し、強張った。

 大切に思っていた彼女に、恨まれている。

 ずっと尽くしてくれていた彼女が、内心では自分を嫌っている。

 その、至極当然な事実を改めて突き付けられたラディカは、息も絶え絶えになるほどの恐怖に襲われて、身体をガタガタ震わせ始めた。

 シャトーは、そんなラディカの様子に余裕で気づいていた。

 だが、構わず、告白を続けた。

「…さっきも話しましたけど、私が、ラディカ様の命令を聞くのは、『ラディカ様のことは、絶対にラディカ様として見ろ』と、そう、大切な人から教え込まれたからです」

「…決して、私の意思じゃありません」

「…だから、私の眼には、最初から、ラディカ様が“ラディカ様”には見えませんでした。…特に私は、ラディカ様のご遺体を管理していましたから。私にとって、ラディカ様は死体の方が印象強くて、復活した貴女ですら、今でも、何をどう見ようと、自分のことを悪女ラディカだと信じ込む、元気なゾンビにしか見えません」

「お前は別に、悪女ラディカじゃないだろって、ずっと、思ってました」

「…だから、そんな貴女が、どうしてそんなに偉ぶれるんだろうって、不思議でたまりませんでした。本当はちっとも偉くないのに、一丁前に高飛車になって、命令をボンボンと下してきて、それが歯痒くて…」

「…それで、『貴女は処刑されて死んだ、亡霊みたいなもんだよ』って、何度も教えてあげたんですけど…。貴女ってば、私の話を、ちっとも理解しなかったじゃないですか。私、腹の底で確信しましたよ。あぁ、この人多分、馬鹿なんだろうな、本当に頭が悪い人なんだろうな、って…」

 歯ぎしりの音が、シャトーの耳に聞こえた。

 それでも、彼女は口を止めなかった。

「…ハッキリ言って、馬鹿で、愚かで、高飛車な貴女に付き従うのは、凄く嫌ですよ。今でも、嫌です」

「“ラディカ様”なんて、大嫌いです」

「当たり前じゃないですか。考えてもみてくださいよ。いつだって、自分の立場も弁えずに、所構わず問題を起こして、少しのことですぐ癇癪起こして、私に暴力を振るって、それなのに、悪いことをしても何も反省しない。そんな人のこと、どうやったら好きになれると思います?」

「なれませんよ。無理です。絶対に無理です。そんな人と付き合うなんて、正直、知人ですらゴメンだって、心底思いますよ」

「…そんな人である貴女と共にいることは、私にとって、明確に苦痛です。罰ゲームですよ、こんなの」

 シャトーの、大好きな下僕の腹の底からの本音が、ラディカの心をグサグサ突き刺さる。

 突き刺さる程に、ラディカは荒々しく呼吸し、ムシャクシャして、髪の毛を更にグシャグシャ掻き乱した。

 顔にひっかき傷を作り、唸り声を漏らし、ただでさえ痛ましかったラディカは、もっとメタクソになった。


 それでも、シャトーは口を開き、本音を言う。

 ラディカを、もっとメタクソにする。


 …ここで、勘違いしないでほしいのだが、シャトーは別に、鬼ではない。

 彼女は、今なお、様々な事情を理知的に解せる、人の気持ちに非常に敏感に反応する善人であった。

 だから彼女は、只今のラディカの心痛を、一寸違わず理解し、自分のことのように共感していた。

 彼女自身、こんなことを言うのは、辛くて、苦しくて、ラディカと同じように、泣いてしまいそうだった。

 しかし、シャトーは辛さも苦しみも抑え、涙腺を締め、話を続けた。

 溜め込んでいた本音を、全てぶつけ続けた。


 ラディカと、本当の意味で、分かり合えるようになるために。

 明日の自分を、そしてラディカを、笑顔でいられるようにするために。


「…こんなにも嫌いな貴女に、私は、それでも、お仕えしなければならない義務があります」

「ただ、それは、大好きなお義父さんが私に託した意志でしかありません…」

「私が望んで受け入れた義務じゃないから…、本当は、嫌でしょうがないものだったから…」

「…正直、生き地獄だなって思ってました」

「…でも」


 だからこそ、この本音も言う。 


「…今の私は、どっちかっていうと、自分の意思で貴女の隣にいるんです」


 …ラディカの震えがピタッと止まった。

 唐突な優しい言葉。

 なんで?

 嫌いじゃなかったの?

 彼女は、訳が分からないという顔をして、シャトーの方を向いた。


 対して、シャトーはラディカの方を向かなかった。

 まだ、全部、話せてないから。

 素直な、裸の気持ちで、向き合う準備が整っていないから。


 …そうは言ってもラディカのことが気になるシャトーは、髪の毛をボサボサにして、切り傷と、涙と、鼻水で顔をグチャグチャにする彼女をチラッだけ見た後、話を続けた。

「…多分、ご自身ではお気づきになられてないと思いますけど、実は、貴女には、誰にも負けない、凄く良いところがあるんですよ?」

「権力とか、美貌とか、そういうのじゃなくて…」

「…貴女は、屈託のない笑顔が可愛いんです」

「楽しそうに小説を読む時、好きなものを嬉しそうに話してる時、ホッと温まってる時、ゴロゴロとくつろいでいる時、気持ちいい風を全身で受けてる時…、あと、笑顔ではないけど、寂しくて、ワンワン泣きじゃくってる時…」

「貴女は、誰よりも無垢で、無邪気で、可愛いんです」

 ラディカは、唖然とした。

「なによ、それ…」

「…やっぱり、気づいてなかったんですね?」

「全く…、もったいないですねぇ?」

 シャトーは一瞥ではなく、ラディカを横目で見つめながらクスクス笑った。

「本当の貴女は凄く可愛いんですよ?それこそ、悪女なんか目じゃないくらい…」

「…そういう素敵な貴女に、私は魅了されちゃったんです」

「あどけなく笑ったり、いたいけに泣いたりする、天真爛漫な貴女となら一緒に居たい。ずっと隣に仕えて、喜びも、悲しみも、全部共有したい」

「そう、本心で想うからこそ、私は貴女のことが大好きで、自分のことよりも、気にかけてるんです」

「…決して、馬鹿にしたり、嗤ったりするためではありません」

「私は、ラディカ様のことが大好きなんですよ」

 シャトーは、ラディカから目線を外した後、ふぅとため息をついた。

 ただ、そのため息は、今までのような、ラディカに辟易したり、面倒にうんざりしたりしたから出たものではなく、ラディカに誠心誠意寄り添えた、自分の全てを伝えきれたが故の、満足のため息であった。

 シャトーは、満面の笑みを浮かべた。

「私のことが大好き…、って」

 気持ちが昂るラディカは、うずくまっていた四肢を解き、隣に座るシャトーの方に身体を向けた。

「私に付き従うのは…嫌…なのに…?」

「…勘違いしないでください。私は、あくまで、”悪女ラディカ”な貴女が嫌いなんです」

「フラン家の長女の、偉そうな貴女が嫌いなんです」

「…悪女で、…フラン家の長女な私が嫌い…」

 シャトーへの気持ちが段々と強まるラディカの手が、無意識に彼女の頬に触れた。

 …先程に平手打ちした彼女の頬に、そっと触れた。

「悪女じゃない…、フラン家の長女じゃない…、ただの私が大好きなの…?」

「私は、悪女で、フラン家の長女じゃないと、存在意義が無いのに…?」

「空っぽで、何の価値も無いのに…?」

 ラディカは、シャトーに自分の方に振り向いてほしくて、彼女の頬をむにゅっと押した。

 ただし、それは無理やりに押すのではなく、赤子の指が母に甘えるように、柔らかであった。

「…くすぐったいですよ」

 シャトーは、自分の頬をむにむにと押すラディカの手を軽く制した後、身体ごと、ゆっくりとラディカの方に振り向いた。

「…別に、命令されなくとも、私はちゃんと貴女を見てますよ」

 シャトーは、ラディカに正面から向き合って、目を合わせてそう言った。

「見て…くれるの…?」

「こんな私を…?」

「えぇ。そんなラディカ様が、本当に大好きですよ」

「…ふふっ」

 シャトーは、頬を緩めずにはいられなかった。

 だって、正面に見えるラディカは、飼い主の機嫌を伺う犬みたいにオロオロしていて、愛おしかったから。

「…犬役は、私の方ですよ?」

「…?どういうこと…?」

「ふふふっ…、さぁ、どういうことでしょう?」

「…?」

 言葉の意味が分からず、不思議そうな顔で小首を傾げるラディカは、何よりも可愛かった。

 シャトーの内に、希望が募り始めた。

「ラディカ様」

 シャトーは、改めてラディカの目を見た。

 真剣な眼差しで、しかし優しい眼差しで、ラディカの心の奥を見据えた。

「ありのままのラディカ様でいてください」

「貴女は、既に亡くなられたんですから。もう、しがらみも何もなくて、自由なんですから」

「悪女でなくても、もう、良いのですから」

 シャトーは、ラディカの両手を取って伝えた。

 見下さず、見上げもせず、同じ目線で伝えた。

「本当にいいの…?」

「私は、ラディカじゃなくて…」

「フラン家の長女じゃなくて…」

「悪女じゃなくてもいいの…?」

 ラディカは自分の両手を包む、シャトーの両手の、一途な温もりが恥ずかしくて、もじもじしていた。

 しかし、碧の目は、確かに前方に見える希望に向かっていた。

 そんなラディカの素直な様子が、シャトーの心を更に捉えた。

 希望が、更に募った。

「いいんですよ」

「バラルダ公も仰ってたでしょう?悪女ラディカは死んだんです。今ココにいるのは、ただの女の子のラディカ様なんです」

「悪女は、復活しなかったんです。ただ、素っ裸のラディカ様だけが復活したんです」

「その証拠に、貴女は、ヨレたチュニックを着ているんです」

「堕ちた権威は、これから先、大したことのない生活しか送れないんです」

「…けど、貴女には私がいます。貴女は一人じゃありません」

「だから、どうか、勇気を持ってください」

「特別な存在じゃなくても、平々凡々でもいいんだって、そう、信じてください」

「心のままに、自分に、正直になってください」

 そして、シャトーは微笑んで伝えた。

「だから、ラディカ様」

「家に帰りましょう?」

「輝きはないかもしれないけど、きっと幸せでいっぱいな、小教会に」

「私たち、二人の家に」

 シャトーの愛に、ラディカは惹き込まれた。

 気づけば、ラディカはポロポロと涙をこぼしていた。

 しかし、それは、先程のような、現実を憎むドス黒の涙ではなく、自分が解放された事実から来る、透明で、甘い涙であった。

 ラディカの身体は、動いた。

 シャトーに前のめりになって、抱きつくためであった。


 彼女の愛に、応えるためであった。


 ラディカは膝立ちのまま、震える腕を、シャトーの背に回した。

 一瞬、自分がこんなにも情けない、甘ったるいことをして、本当に良いのか不安になって、シャトーの顔を確認した。

 だが、シャトーは変わらず、優しく微笑んでいた。全てを受け入れてくれていた。

 何より、ここは本当に、二人きりだった。

 誰の邪魔も、入らない。

 だから、ラディカは、安心して、シャトーに身体を預けようとした。

 目一杯にシャトーの愛に飛び込もうとした。


 …だが、次の瞬間、ぐぅ〜っと可愛らしい胃の音が、二人の間に割って入った。


 二人は、揃ってポカンとした。


「…あっ」

「ラディカ様…、復活してからずっと、何も食べてなかったから…」

 シャトーは、この状況でお腹を鳴らせるラディカの呑気さが、可笑しくてしょうがなくなった。

 彼女は、あははははと、口元を抑えて、いや、抑え切れずに、はしたなく大開きになった口を見せて、笑い泣いた。

「ふふっ!ははははは!はぁー、もう!」

「ラディカ様ー?こういうセンチメンタルな時は、お腹を鳴らしちゃダメなんですよー?」

 シャトーは、おずおずと後ずさって照れるラディカを見て、また堪え切れずにクスクスと笑った。

 その後、彼女は足を正座に直して、背負っていたナップサックを下ろして、ゴソゴソと中をまさぐった。


 幸せな時間が流れている。

 シャトーは完全にそう確信していた。


 ようやくラディカと分かり合えて、“主人と従者”ではなく、単なる二人としての、幸せに向けた一歩を歩み始められたと確信していた。


 希望を、確信していた。


「ラディカ様、はいこれ」

 シャトーは、包み紙に包まれた一つを取り出した。

 サンドイッチ。

 シャトーが包み紙を開けると、それは、手の平より少し大きいくらいのバケットに、キュウリとレタス、ポテトサラダが挟まっただけの、ハムも卵もない、端役ばかりの素朴なサンドイッチであった。

 シャトーは、膝立ちのラディカに、正座の姿勢のまま、腕を伸ばしてサンドイッチを手渡した。

 つまるところ、下から上に、橋渡すように手渡した。

「野菜は、奮発しました。ポテサラは、ひまわり油、マスタード、ビネガー、それから、オリジナルのソースを良い感じに和えて作った、サンドイッチ専用ポテサラです」

「自慢じゃないですけど、めちゃ美味しいですよ。きっと、ラディカ様のお口にも合いますよ」

 シャトーは、ニコッと微笑んだ。

 ラディカは、改めてシャトーお手製のサンドイッチを、物珍しそうに見つめた。

 …サンドイッチは食べたことある。

 しかし、見目からして、匂いからして、フランの禁裏で提供されていたものとは程遠い。

 あまりにも質素なもの。

 あまりにも輝きのないもの。

 防腐の変性魔術を施されていたから、パンや野菜は今も新鮮だけど、ナップサックに入れっぱなしだったから、形がべにょっと潰れている。

 ポテサラが少しはみ出している。

 ぶきっちょ。

 だからこそ、シャトーの想いがいっぱい詰まってることが、よく分かる。

「(美味しそう…)」

 はしたなく、たらっとよだれが垂れる。

「(…食べて、良いんだよね)」

 サンドイッチに釘付けになる。

「(私はもう、ラディカじゃないんだから…)」

「(ただの、女の子なんだから…)」

 ゆっくりと、小さく、口を開く。

「(私はもう、あの世界から逃げ出しても良いんだよね…)」


 悪女じゃなくて、良いんだよね…?

 幸せになっても、良いんだよね…?


 そして、サンドイッチが口の中に入ろうとする。


『…本当に?』


 その時、ふと、ラディカの目に、サンドイッチを頬張ろうとしている自分を、嬉しそうに見つめるシャトーが映った。

 …自分を見上げている彼女を目にした。

 …同時に、自分が彼女を見下している状態にあることに気がついた。

 他者を、見下す。

 “ラディカ”として、当然な、いつもの光景。

 …しかし、手の内には、明らかに、“下民の食べ物”が握られている。

 “ラディカ”として、唾棄すべき不細工が握られている。

「…!!」

 ラディカの顔が、途端に歪んだ。

 彼女の変化に反応したシャトーが、どうしたの?と、心配した。

 シャトーが心配した。

 シャトーが。

 そう、シャトー。

 シャトーに、“お義父さん”という行動原理があったように


 ラディカには、“お母様”という行動原理があった。


 自分の力では、死ぬ直前までどうすることも出来なかった、呪いのような束縛があった。


 毒。


……

(何度も、何度も、耳元で囁き続けられた言葉。死んだ後でも、頭の中にガンガン響く言葉。つまり、私を狂わせるノイズ)


『ラディカ。貴女はフラン家の末裔、この世で最も尊い、神に選ばれし一族の長女なの。貴女は、このフラン家の次代当主になるの。あのゴミなんかがじゃないわ。貴女こそが、生まれながらにして頂点に立たなきゃいけない存在なの』


『貴女は、ラディカなの。貴女という存在は、ラディカとして、フラン家の長女として、そして、何よりも、悪女として、永遠に生き続けるの。墓石にだって、きっと、そう刻まれるわ?貴女は、どれだけ嫌がろうとラディカで、私の娘なの。高貴な高貴な私の、次に高貴な娘。私が死んでも、貴女は生きて、悪女で、ラディカなの』


『泣いて嫌がって、首を横に振っても無駄よ?貴女はどうしても、全てを見下しなくちゃいけないの。全部の愛を踏みにじって、自分のエゴのままに、思うがままに生きていかなくちゃいけないの。私のように、私を肯定するように、貴女はいなくちゃいけないの。私のために、貴女のために。貴女は永遠に、永遠に悪女でなくちゃいけないの』


『そうじゃなきゃ…、貴女なんて愛さないわよ?』




(…回想)


 …そういや、お母様の墓石が本物かどうか探る時に、私はふと、隣りにあった、私のモノらしい墓石も確認した。


「…、」

「(へぇ…)」


 まぁ、おかしなことは書いてなかったよ。


『ファンド女皇の愛娘、フラン家の長女、ラディカ・ソロリス・セヴァディオス・フラン』


『悪女は死せず、此処に在る』


 そういう、当たり前の理不尽が、書いてあったよ。


 やっぱり、これに逆らっちゃダメなのかなぁ。

 というより、どうせ、逆らえないんだろうなぁ。


(なんで私って、こんなにも愚かなの)

……


 …ゾクゾクした。

 今に、光の射す方へ進む私に対し、『何をやってるの?』と、冷たい一言が飛んできた気がした。

 私が、私じゃなくても愛してくれると言う、下僕の温かさが、急激に、恐ろしい熱に感じられた。


 悪女という、欠けてはならないアイデンティティを焼き尽くす熱。


 ダメ。

 これに触れてはダメ。

 

 束縛から逃げて、自由になっちゃダメ

 苦しみから解放されちゃダメ


 お母様から、逃げちゃダメ


 …だからこそ、“これ”を持ってちゃダメだと、私はそう、思ってしまった。


 …気づけば、ラディカはサンドイッチをシャトーの足元に投げつけていた。

 サンドイッチは、叩きつけられた。

 バケットが外れ、中身が飛び散り、見るも無惨になった。

 更にそれは、次第に、地面の湿り気に侵食されて、食べ物から、ゴミに変わった。

 蟻がたかるに相応しい、廃棄物に変わった。 

 もう、食べられない、そこには踏みにじられた想いしかない、悲しいものになった。

「なん…」

「で…?」

 シャトーは、ラディカが久々の食事に喉を詰まらせても大丈夫なように、水筒を構えている最中であった。

 どこまでも、ラディカのことを気遣っている最中であった。

 それなのに、ラディカは、立ち上がって、そんなシャトーに、優しい彼女に、目を見開き、息を荒くしながら叫んだ。

「ふっ…ふざけないでくださる…!?こんな、こんな…、下民の残飯みたいなものなんて…、私の口に合うわけがありませんわ…!!」

「私はラディカ…!死ぬわけないわ…!だって、ラディカなのよ…!?悪女の、ラディカなの…!」

「そんなことも分からなかったの…!?馬鹿な下僕ね…!?次こそは、それをちゃんと弁えて、跪いて、私に相応しい食事を用意しなさいよ…!この役立たず…!役立たずのゴミ…!無様なサンドイッチと同じくらいの、ゴミの下僕…!!」

「はぁ…、は…!はは…!さぁ…!自分の罪を理解したら…、謝罪しなさい…!!とりあえず全裸にでもなって…土下座して…、誠意を示しなさい…!!」

「はは…!ははは…!は…!は…」

「あ…」


 …ラディカの空元気は、シャトーが何も言わずに俯くと同時に止まった。


 笑顔が失せ、欠片ほどの温かさもなくなったシャトー。

 その有り様。


 …次の瞬間、ラディカは、とてつもない焦燥に襲われた。

 後悔の嵐に巻き込まれて、息を荒くした。


 そんなラディカに対し、弱るラディカに対し、シャトーは、一切見向きしなかった。

 彼女はただ、静かに、ゴミになったサンドイッチを摘み、少し見つめた。

 見つめた。

 そして、おもむろに「こんな残飯でも、今の貴女には贅沢な食事でしたよ」と吐き捨てた。

 ゴミを地面に戻した。

 手に持っていたラディカの分の水筒を、側の壁に、ブン投げた。

 鉄と壁がぶつかる音が、うるさく鳴り響いた。

 蓋が空いていたので、中のレモン水が全部、辺りに飛び散った。

 シャトーとラディカにも、一部がかかった。

 それでも、シャトーは俯いていた。


 …ラディカは、そんなシャトーが、今にどんな顔をしているのか、見たかった。

 だって、シャトーの頭上を見下すラディカでは、彼女の顔なんて、見えなくて、分からなかったから。

 ただ、俯いていることしか分からなかったから。


 …悪女の時は、それで良かった。

 他人の表情なんて、自分の不快に繋がらなければ、何でも、どうでも良かった。


 だが、我に返った今は違う。

 今は、衝動的に悪女をしてしまった自分に対し、後悔が止まらないのだ。


 シャトーの顔が見たい。

 彼女の怒り、悲しみを、この目で痛感したい。

 そして、謝りたい。


 …だが、ラディカは、彼女の顔を覗けなかった。

 頭を下げるなんて、もっと無理だった。


 だって、悪女から変わる勇気なんて、あるわけが無かったから。


 だから、シャトーに怯えて、震えるしかなかった。

 ラディカは本当に、何も出来ない人間に成り下がっていた。


 …シャトーは、ぬらっと立ち上がり、修道服についた地面の汚れを、無造作にパンパンと払った。

 その後、彼女は、黙々と召喚魔術を唱えた。

 天位の召喚魔術。

 詠唱後、空気の揺らめきと共に、頭が蛇の尻尾で、羽根つきの腕が4本付いていて、足が象のような、背丈5mくらいの巨大な怪物が、ラディカの背後に現れた。

游赫(りゅうかく)、その方を連れて、先に家に帰っててください」

 それだけを怪物に命令した後、シャトーはラディカの元から立ち去り始めた。

 一歩、二歩、三歩、もっと、もっと。

 早足に、路地裏の闇に、消えていく。

「…あ」

「げぼく…」

「まって…」

「なんで…」

「まって…、まって…、まって…!」

 ラディカは、シャトーの方に手を伸ばした。

 呼び止めようとした。

 だが、その直後、シャトーの命令に従う怪物が、剛腕で紳士的にラディカを抱き上げた。

 そのせいで、二人の距離は、更に遠のいた。

「なに…?いやっ…!はなして…!」

 ラディカは、怪物に必死に抵抗した。

 そのおかげで、ラディカのことを優しく抱かえていた怪物の腕は簡単に解かれて、彼女は怪物の腕と腹の間をスルリと抜けることが出来た。

 ドテッと地面に落っこちたラディカは、すぐに立ち上がって、シャトーの方に駆け出した。

 その際にできた膝や肘の打撲も、手の平の擦り傷も、何も気にせずに、背後で、命令遵守をしたい怪物が重々しく手を伸ばしても、彼女は、当然振り切って、無我夢中でシャトーを追った。


 ラディカは、家に帰りたいのではなく、養護されたいのではなく、シャトーから離れたくなかったのだから。


 一人になりたくなかったのだから。


 ラディカは、正面にシャトーを捉えた後、ホッとした。

 呼び止めようと、また、声をかけた。

 だが、シャトーはやはり、追いかけてきたラディカのことなんて、見向きすらしなかった。声をかけられても、まるで無視した。

 だから、ラディカは縮こまってしまい、トボトボと後ろを歩くしか、出来なくなった。

 怒っているであろう、シャトーの背を追って、テコテコと足を動かすラディカ。

 その様子は、駄々を捏ねたけど無視されたから、寂しくなってお母さんを追う子供と例えるに相応し過ぎた。


「…なんで付いてくるんですか」 

 シャトーは、どこまでも追いかけてくるラディカに、ぞんざいに尋ねた。

「だって…、貴方がそっちに行くから…」

 ラディカは、置いてかないでと小さく手を伸ばしながら答えた。

 しかし、シャトーはその手を払って、スタスタと路地裏を進んだ。

「私は働きに出るんです。ここで働けなくなる前に、今のうちに稼げるだけ稼ぐんです。“ラディカ様”が付いてきたって、意味ないですよ」

「働く…?稼ぐ…?なっ、なんで…?一緒に、家に帰るんじゃなかったの…?」

「二人で、一緒に、ご飯食べて、お風呂入って、本を読んで、ゆっくりするんじゃなかったの…?」

「それなのに、なんで、私一人だけを家に帰すの…?ねぇ…?ねぇってば…」

 ラディカの弱々しい問いかけに、どうしても善人なシャトーは耐え切れなくなって立ち止まった。

 シャトーは、肩を震わせながら、陰鬱な怒りを込めて言った。

「働かなきゃ、一文無しなんですよ…!!」

 シャトーは『貴女のせいで』とは言わなかった。

 それは、彼女に残る最後の優しさだった。

 しかし、彼女の怒りは、迸った。

「…私はじゃがいもだけでも大丈夫でも、貴女はそれじゃ嫌なんでしょう…!?もっと、自分に相応しいモノじゃなきゃ嫌だって言うんでしょう!?この期に及んで!ここまで来てもフラン家の長女で、悪女だから!!」

「…っ!ぁ…ちが…」

 ラディカは「違う」と否定したかった。

 さっきの衝動を、どこかの誰かのせいにして、自分は悪くないと訴え、シャトーに許してもらいたかった。

 でも、そんなことは出来なかった。

 もう、自分がラディカではないことを重々に分かってるのに、それでも彼女は、悪女が惜しかった。

 自分と悪女を、切り離したくなかった。

「…離してください」

 シャトーがそう言った。

 ラディカは、無意識にシャトーの修道服を摘んでいた。

「…仕事の募集は、日が暮れた直後から始まるんです。今からだと急がなきゃ間に合わないんです」

「…それに、バラルダ公による私への警戒網が、もうすぐ張られます。その前に、働けるだけ働かなきゃいけません」

「だから、離してください」

 ラディカは首をふるふると横に振った。

 修道服を手繰り寄せて、摘むのではなく、掴むに変えた。

「…この期に及んで」

「本当に、本当に貴女は…!!」

 堪らなくなったシャトーは声を荒げた。

 彼女は、修道服を掴むラディカの手を、力任せに払って、振り返った。

「…!」

 ラディカはようやく、シャトーの顔を見ることが出来た。


 …その顔は、確かに、強い怒りや悲しみが混ざっていた。

 だが、それはあくまで、彼女の一部に過ぎなかった。


 …その顔を構成するものは、何よりも、失望であった。

 そして、奪われた希望に対する、絶望であった。


「こうやって私を追いかけるくらい、一人が嫌で、寂しいのでしたら…、どうしてさっき、サンドイッチを食べなかったんですか…!!」

「どうして…、あそこまで来て、私ではなく、悪女を選んだんですか…!!」


 夢見がち、善人、理知的、献身的、人の感情に敏感。

 そんなシャトー故に、彼女が内に膨らませる他者への期待は大きい。

 強く、希望を持ちがち。


 だからこそ、裏切られてしまえば、どん底へ簡単に真っ逆さま。


『ラディカ様と分かり合えるかもしれない』


『ラディカ様のことを、どうしようもなく大好きになれるかもしれない』


『ラディカ様と、共に笑い合えるようになるかもしれない』


 …少し、自分勝手かもしれない。

 勝手に希望を抱いて、勝手に絶望するなんて。


 しかし、シャトーはこれまでの間、ずっとラディカに我慢してきた。

 そして、尽くしてきた。

 いつか変わってくれる、促せば変わってくれると、そう信じて。


 そして、ついさっき、あと一歩のところで、苦心と努力が報われようとしたのに、彼女は裏切られたのだ。

 彼女のこれまでの全てを、サンドイッチと共に、無下にされたのだ。


 たった一つの行動。

 しかし、決定的な行動。

 それが、シャトーの心をポキリと折ってしまった。


 彼女はもう、立ち直れなかった。


「もう、貴女はずっと、“ラディカ様”のままでいればいいじゃないですか…!わがままで、自己中心的で、寄り添う人の気持ちなんて考えない…、悪女のままで…!」

「そうやって、ずっと一人で生きていけばいいじゃないですか…!!死んでも…!死んでないって言い張って…!孤独になったらいいんですよ…!!」

 シャトーは、ボロボロに涙を流しながら訴えた。

 ラディカのことなんか気にせずに、無茶苦茶になって、自分の絶望をぶつけまくった。

「…私は私で、貴女の面倒を見る責務は全うします。…“ラディカ様”の従者として、下僕として、どんなに貴女が酷い人であろうとも、それだけは、必ず全うします。それは、“ラディカ様”がどうとか関係なく、お義父さんの望むところだから…」

「…だから、それだけはちゃんとするから…、お願いですから、もう、私の傍に寄らないでください…」

「私に、無邪気な姿を見せないでください…」

「私に、変な希望を見せないでください…!」

「『ラディカ様はきっと、素敵な人だ』なんて、自分に言い聞かせて、そのために、自分の気持ちをどこまでも押し殺して、貴女に必死に寄り添おうと生きるのは…」

「辛くて…苦しくて…」

「もう…、嫌なんですよ…!」

 かすれ切った声でそう呟いた後、シャトーはただ、ぐずるだけになった。

 彼女はもう、自分の想いだけになってしまって、ラディカのことなんか何も気にかけていなかった。

 そんなシャトーを相手に、ラディカはどうすればいいか分からなかった。

 彼女には、人と対等に接した機会が殆ど無く、故に、経験値が余りにも足りなかった。

 だから、何をすれば、シャトーへの裏切りを償えるのか、そして、どうすれば、自分を再び彼女の元にいるに相応しい人間に出来るのか、検討もつかなかった。


 ここで、ラディカは、シャトーと同じように、本心を伝えれば良かった。

 それこそが、シャトー自身も選び取った、最良の接し方で、人間関係の解決法なのだから。


 何より、思慮深いシャトーなら、今に絶望の対象になったラディカが相手でも、誠心誠意謝罪され、その上で、お母様とのしがらみを包み隠さず打ち明かされたのならば、先の誤った行動について、理解を示してくれたに違いない。

 どころか、温情深い彼女なら、それをキッカケに、より深く、ラディカに同情し、ラディカへの想いを確固たるものにしてくれたに違いない。


 絆は、深まったかもしれない。


 だが、不器用なラディカは、そういう、問題の根本的な解決策について、全く思案が巡らなかった。

 先に、シャトーにされて嬉しかったことが、ラディカには、出来なかった。

 ラディカは、極めて感情的で、単調で、複雑さに心底弱い人間であった。

 だから、今の彼女の頭の中には、ただひたすらに、「ごめんなさい。許して」「寂しい」「だから、一人にしないで」という、問題の塗り薬にもならない、表層的で、やっぱり自己中心的な願望だけが渦巻いていた。


 ラディカは、…まだ幼い、人間関係を前に進めるすべを知らない彼女は、この度も、何も熟慮もなく、その願望を伝えようとした。

 シャトーに問題の解決を全て丸投げするような、彼女を困惑させるだけのわがままを、また、この期に及んで伝えようとした。


 まだ、少女のようで、ただの女の子でしかない、振る舞いをしようとした。


 …だが、その瞬間、ラディカの視線は、俯いて泣きじゃくるシャトーの方から、彼女の背後に変わった。

 シャトーもまた、自分とラディカの二人を、家屋ではない、何か別の影が覆っていることに気がついて、顔を上げた。


 直後、二人の脳天に、鈍い衝撃が響いた。


 バタリと倒れた二人の頭上には、彼女ら獲物を見下す暴漢が二人、いた。

【人物紹介】


『ラディカ』

 サンドイッチは普通に好物。


『シャトー』

 出されたものは何があっても完食する。



【説明し忘れたこと】

  …超絶ウルトラスーパーレイト情報ですけど、フラン・ガロ王国(今現在の作中舞台)では、入浴は一般的です。気候がかなり寒冷なのと、魔術のおかげでインフラの充実を待たずに済むことが理由です。同時代に糞尿の処理もマトモに出来なかった元ネタとは違うんですねぇ!

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