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1 (5) 『悪女ラディカは死んだ』

「…は?」

「いや…、は?」

「…は?」

「だから、あの“銀髪女”なら暴行の罪で衛兵に引き渡したよ」

 翌早朝。車馬賃を稼ぐべく小教会から持ってきた陶器類を売り捌き、更には倉庫整理のアルバイトを一晩中して帰ってきたヘトヘトのシャトーは、昨晩の出来事として、そんなことを安宿の女将から伝えられた。

「腹が減ったって凄んできたもんだから、サービス外だけど芋を蒸してやったんだ。それなのに、あの女ときたら『私にこんなものを食わすのか』って出してやった芋を投げつけてきてね。…当然怒鳴ったさ。せっかく用意してやったのに何すんだい!ってね。そしたらあの女、急に私に殴りかかってきて、大暴れを始めやがったんだ」

「あのクソ馬鹿女、その体の通りに馬鹿力で暴れやがるもんだから、主人と二人でも押さえつけられなくてね。もう、衛兵を呼んで、連れて行ってもらうことにしたんだよ」

 カウンターに肘をつき、軽く腫れた頬を手で押さえる女将は完全に立腹していた。

 女将は、ある意味で事態の元凶であるシャトーを睨んで言った。

「…なんだいあのアバズレは。よくもあんなのをウチに入れてくれたね。キチガイが、何度も何度も『私はラディカだぞ』なんて妄言を店先にも聞こえるくらい煩く叫んでくれて、おかげでますます客足が途絶えるじゃないか」

 女将に続いて、カウンター奥にいた女将の主人が、事態に顔面蒼白となるシャトーに追撃をした。

「だから異端のシスターなんて間違っても客に取るなって言ったんだ!どんだけ金がなくても世の中には扮別ってのがあるって何度も言っただろ!バカなキチガイ女はお前もだよ!」

「なにさ!誰でも良いから少しでも客を取ろうって言い出したのはアンタだったろうに!」

 夫婦は、ラディカが暴れたせいで壁にいくつも穴が空き、花瓶や燭台などの陶器が割れ、多少の血が床に染みてしまったボロボロの安宿で喧嘩を始めた。

 それを目の当たりにするシャトーは、自分のせいでこうなったんだと酷い自責の念に押し潰された。下手にラディカを一人にしてしまった自分の愚かさに、身を引き裂かれるほどの悔恨の念を抱いた。

 …ただ、そんな後悔をするならば、シャトーは今すぐにでも、ラディカを留置場まで迎えに行かなければならなかった。これ以上、ラディカが誰かに迷惑かけないように。彼女の身元引受人に成らねばならなかった。

 シャトーは虚ろになりながら、カウンターの上にそっと1.5フランを置いて立ち去ろうとした。しかし、カウンターを背にしようとした彼女は、寸で女将に肩を掴まれた。

「宿泊代は約束通り1.5フランでいいけどね。迷惑代と弁償代も払いな。軽く見積もって150フラン、きっちり払うまで返さないよ」

「ひゃっ…150フラン…!?」

 シャトーは、賠償は払うべきだと当然思った。が、額に絶句した。…実際のところ、150フランでも非常に甘く見積もった額で、破格だった。しかし、シャトーの手持ちは、元々持っていた31フランと6スーに、陶器買値の7フランと、手伝いの駄賃の3フランを合わせて、41フランと6スーしかなかった。彼女は、そんな破格すらどうしようもないほどに困窮していた。

「あっ…!あっあ…、あの…!すいません…!その…」

 シャトーは、罪悪感と、罪悪をどうすることも出来ない絶望で潰れてしまいそうになりながらも、せめてもの思いで手持ちの全てをカウンターの上に出した。そして彼女は、もうすぐ泣いてしまいそうな目をして、女将に必死に訴えた。

「今はこれだけしか持っていなくて…。あの…、お金は後日…ちゃんと、全額返しますので…!だから…!その…!だから…!」

 もうすぐ泣きそう、というか、もう泣いてしまったシャトーは、ぐずぐずと両手で溢れる涙を拭いながら、女将と主人に何度も頭を下げた。被害者の二人は、安宿の惨状よりもボロボロな修道服を着て泣きじゃくる、あまりにも哀れなシスターを見つめた後、互い、ばつが悪そうな顔を見合わせた。

 女将は諦めのため息をついた。

「もういい。41フランは容赦なくもらうけど、それ以外はもういいよ」

 シャトーはふるふると首を横に振った。

「だから、もういいんだってば。真面目は美徳だけど、人の善意には遠慮なく甘えておくもんだよ。分かったらサッサとキ…、大事なツレを拾いに行きな」

 そう言って、女将はシャトーの肩を小突いた。

 いたたまれないシャトーは、女将と主人に何度も頭を下げながら、出口に向かった。出口をくぐり、扉を閉めたあとも、彼女は安宿に向かって数度頭を下げた。彼女は女将らの情けが申し訳なくて、不甲斐ない自分が恥ずかしくてしょうがなかった。

 しかし、シャトーはずっと頭を下げ続けるわけにはいかなかった。彼女は泣きじゃくるのを何とか止め、鼻水をズズッとすすった後、荷車を引っ張って、丘のてっぺん、留置場に向けて駆け出した。


……

「…あぁ、あの“銀髪美人”ならココの地下牢にいるな。あまりにも怪力で暴れまわるもんだから、殴って気絶させて入れたんだ」

 バラルダ公の邸宅もある中央広場の前。教会裁判所の地下にある留置場の入口である、付属詰所に辿り着いたシャトーは、詰所の管理役の衛兵からラディカの存在を確かに聞いた。

「なんだ?アレはお前のツレなのか?…まぁ、釈放は構わないが、被疑者には裁判に必ず出廷する旨の念書を、お前には被疑者が念書を破った場合に連帯責任者として代わりに罰を受ける旨の念書を書いてもらうぞ」

「はい…、それでお願いします…。本当にご迷惑をおかけしました…」

 シャトーは、のそのそと棚から説明書類と念書を出す衛兵に、ラディカの保護者として何度も何度も頭を下げた。

「あ…、裁判に出頭する旨の念書は代筆でいいですか…?」

「なんでだよ」

「多分、書いてくれないと思うから…」

 衛兵は、まぁ、特別にいいよと、代筆を許した。

 その後、シャトーは憂鬱な表情で黙々と説明書類に目を通し、念書に必要事項を書き込み始めた。

 その様子を眺めながら、衛兵は尋ねた。

「…ところでアレ、何者なんだ?自分のことを『悪女ラディカだ!』って頑なに言い放ってやがるんだが、ひょっとして精神病者か?」

「…!」

 茫然自失としていたシャトーは、無意識に、代筆している念書の署名欄にラディカの名を書こうとしていたことに気がついて、手を止めた。

「えぇ…そうかもしれません…」

 彼女は代わりに、今思いついた適当な偽名を書いた。…疲れていた彼女は、どうせ、ラディカは裁判に絶対出席しないだろうから、代わりに罪を受けようと自暴自棄になっていた。

「…事情は知らんが散々だな、お前。前までは背教者の親父さんに振り回されて、今は気狂いのおもりか」

 留置場に務めて長い衛兵は、何年も前から、シャトーが彼女の義父に連れられて、中央広場で頓珍漢な陰謀論と背教の布教を手伝わされていた様子を見てきていた。だから彼は、小さくて健気なシャトーを襲う止めどない不憫に対し、後見人的な面持ちで憐憫していた。

「大丈夫か?お前。ちょっと痩せたんじゃないか?ちゃんとメシ食べてるか?」

「…ありがとうございます。…ですが、お義父さんの手伝いは、したいからしていたんです。…憐れまないでください」

「どうかな。お前、昔は熱弁する親父さんの隣で、いつも恥ずかしそうに俯いてたじゃねぇか」

「…それは、私が蒙昧だっただけです」

「真面目だな、お前。でも、報われない真面目さだ」

「…過度な実直は苦だぜ?突っ走れても、曲がれずに、壁にぶつかるしかないからな」

「…」

 シャトーは、この話は終わりにしてくれと言わんばかりに、書き終えた念書を衛兵に突き出した。

 受け取った衛兵は念書に書き漏れが無いかを適当に確認した後、担当者の欄に雑なサインをし、説明書類と合わせて纏めた。その後、彼はよっこいしょと立ち上がり、手続きが終わるまでしばらく待っているようシャトーに伝えた。


……

 正午前。

 ようやく再会できた地下牢のラディカは、文字通り鉄格子にかじりついていた。罪への反省なんて微塵もせず、なんとかしてココから抜け出してやろうと懸命になっていた。

「あっ…!」

「下僕…!やっと来たのね!?遅すぎるわよ!この役立たずが!!」

 ラディカは、シャトーを見るなり唾を巻き散らしてそう言った。

「ねぇ!分かる!?私、なんだか知らないけど、殴られて、閉じ込められちゃったの!!おかしい、おかしい目にあってますの!!」

「だから、さぁ!早く私を助けて!ココから出して!貴方の魔術で、隣のダボを叩きのめして、牢の鍵を奪うのよ!!」

 隣のダボとして指を差された衛兵は、シャトーの方を向いて、「な?おかしい奴だろ?」と、ラディカのことをせせら笑ってみせた。

 一方、シャトーは、衛兵による主人への煽りになんて構わずに、一心にラディカを見つめていた。

 そして、歯軋りの後に小さく言葉を零した。

「…貴女って人は、どうして…!」


 …今の今まで、ラディカのことが心配でしょうがなかった彼女は、反省の欠片もなく呑気に傲慢しているラディカを見て、沸々と至極真っ当な怒りを湧かしていた。


「…衛兵さん」

 シャトーは、静かに言った。

「…少し、この方と変な会話をしますけど、聞かなかったことにしてもらえますか?」

「んぉ?…あぁ、いいよ」

「ありがとうございます…」

 …そして、シャトーは改めてラディカを見つめ、大きなため息をついた後、ポツポツと怒りを落とし始めた。

「…ラディカ様」

「?なに?」

「大人しくしていてくださいって、言いましたよね?」

「…あ?何よいきなり?何の話よ?」

「昨日の話です。私が車馬賃を稼ぎに出ている間、宿泊部屋で大人しく本でも読んでいてくださいって、言いましたよね?あんまり他人に対して、私にするような接し方をしちゃダメですよって、念押しましたよね?」

「はぁ…?は?」

「…ラディカ様が、公開処刑の事実を飲み込めないことは、配慮します。ラディカ様は復活されたばかりだから、未だ動揺していて、頭が上手く回らないのでしょう…」

「だから、ラディカ様は“ラディカ様”で構いません。そこを無理に否定することは、もうしません」

「…ですが、『大人しくしていてください』なんて、子供でも分かる言いつけですよね?ラディカ様が何者かなんて、関係ありませんよね?貴女はもう大人なんだから、こんな簡単なこと、説明しなくても分かるに決まってますよね?」

「…あぁ、貴方、もしかして私に説教してるの?」

「…説教、しています」

「クソが。まだ自分の立場が分かってないの?」

「…!それは、ラディカ様の方でしょう!?」

 シャトーはつい、語気を荒げた。だが、ラディカは怯むこと無く自信満々に言い放った。

「私はラディカよ。ラディカという立場よ。それ以外に何を理解する必要があるの?」

「…ッ!だから…!」

「…その立場は、もう私にしか通用しないってことを、私はずっと言っていて…!だから…、他人に迷惑かけるなって、そう言って…!」

「うるさいわねぇ…!?それで、貴方はどっちなの!?ここから私を出すの!?出さないの!?」

「…ッ!」

「貴方は私の下僕なんでしょ!?今更違うなんて言わないわよね!?」

「ねぇ!?そうでしょ!?そうなんでしょ!?だったらさっさと行動で忠義を示しなさいよ!!」

「…」

 …ご主人様であるラディカに、切羽詰まった目でそう言われてしまったら、下僕のシャトーはもう、何も責められなかった。


 …打ち止めであった。しがらみに囚われる彼女の権能では、これが限界であった。

 彼女は、下唇と共に悔しさを噛み殺すしかなかった。


「…今の会話を聞かなかったことにすれば良いのか?」

 …話が終わったことを感知した衛兵は、酷い顔をするシャトーを心配して、眉をひそませながら尋ねた。

 シャトーは黙って頷いた。衛兵は了解したら、彼女の肩を叩くだけして、頼まれた通り、彼女を憐れみはしなかった。

 彼はただ、気まずい事態に対し、ちょっとしたフォローの言葉を呟くだけだった。

「…しっかし、すげぇ“美人”なのは確かなんだよな。悪女ラディカも美人って聞くし、気狂いでも、そこは一致してんだよな」

「そうですね…」

 尤も、彼のどうでも良い茶化しなんか、失意のシャトーにとってはどうでもよく、故に、彼の言葉は、彼女の右耳から左耳にかけて抜け…


「…え?」

 …なかった。その発言は、地味ながらシャトーにとっては異常事態であった。


「美人…に見えてるんですか…!?」

 シャトーは、驚きを隠し切れないという顔で衛兵に尋ねた。

「?あぁ、まぁ、悔しいけどこの気狂い、どっからどう見ても、銀髪碧眼のド美人だな」

「…なんで?」

 シャトーは本気で首をひねった。


 …というのも、アメリーに入る前に彼女がラディカにかけた幻影魔術は、効果に期限のない、非常に強力かつ高度なもので、殆どの魔術師や魔道具では見抜くことも打ち消すことも不可能なものであり、したがって、たかが衛兵が看破するなど、決して考えられないシロモノだった。シャトー自身、その自信があった。

「(…それなのに、ラディカ様が“ラディカ様”に見えている?…ということは、魔術的効果の打ち消しが発生してる?祝福は、魔術を超える力であるはずなのに…?いや、でも、この現象はどう見ても…)」


 シャトーはつい、考え込んだ。

 ラディカに宿る力の正体を知る上で、この上なく重大な思案を巡らせた。

 …が、10秒もしない内に、ラディカが「何をボサッとしてるのよ!!私を待たせるなんて許さないわよ!!このボケ!!」という甲高い叫び声を上げたため、耳をつんざかれた彼女は、熟考を止めざるを得なかった。


 あーあ。


「…それで?結局、牢は開けても良いのか?それとも、もう少し閉じ込めて反省させとくか?」

 衛兵は、不憫なシャトーを横目に、牢の鍵を手の中で転がしながら問うた。

「あ…」

「…いえ、…家に連れ帰ることにしますから、このまま開けてください…」


 …人前に曝すと、あまりにも簡単に深刻なトラブルを起こすと分かった以上、ラディカをアメリーに置いておく訳には行かなかった。

 色んな街を巡ることになる、シテまでの旅をするなんて、もっての外だった。


 だから、シャトーはもう、小教会に帰ろうと思った。

 …旅を、終わりにしようと諦めた。

 それもまた、彼女は悔しくてしょうがなかった。


 (そもそもお金も無かったわけだし、そんな状況で楽しい旅をしようって考えること自体、おこがましかったんだよな。うん)


「…お願いします」

 沈むシャトーを一瞥した後、衛兵は、「りょーかい」と返事をして牢の戸に向かった。


 …そして、牢は、遂に開いた。

 やるせなさと共に、ガチャッと開いた。

 それと同時に、ラディカが檻から飛び出した。

「…ッ!下僕!!」

 自由の身になったラディカは、どんな喜びを謳歌するよりも先に、只今に不幸せそうに俯いているシャトーをギロリと睨んだ。

 その後すぐさま、彼女は怒涛の勢いで地下の静けな石床を駆け、シャトーに迫った。

「下僕!!!」

「ラディカさ…うわッ!」

 急な接近に驚いたシャトーは「殴られる!?」と思った。だから彼女は、咄嗟に目をギュッと瞑った。身を縮こまらせて震えた。

「…ぁえ?」

 …が、痛みは、泡沫すらも訪れなかった。


 …理外にも、彼女は、柔らかさに全身を包まれていた。


「…へ?」

 目を開けてみると、そこには、両の腕で思い切りシャトーを抱き締めるラディカがいた。

「な、に…?」

 また理不尽に傷つけられる、泣きっ面に蜂だと、自分の不幸を確信していたシャトーは、拍子抜けた。

「ラディ…カ…様…?」

 その、戸惑い混じりの呼びかけに、ラディカは顔を上げた。

 その顔は涙ぐんでいて、雰囲気はまるで、ようやく帰ってきた飼い主に、寂しかったと尻尾を振る子犬のようだった。


 とても、悪女には似つかわしくない、弱くて、情けない顔だった。


 ラディカは、少しの間、そんな顔をシャトーに晒して、呆然とした。が、ふと“自分が下僕の飼い主であること”を思い出して、ハッした。

 そして、彼女は、顔をみるみる赤らめた後、“ご主人様としての自分”を取り戻すかのように、ベシベシと下僕の頭をチョップし始めた。 

「…もう!貴方ってば助けに来るのが遅過ぎますのよ!ノロマ!グズ!この!この!」

 ラディカは、下僕を罵った。殴った。

 悪女らしく、自分の激情のままに、下僕の心も身体もボコボコにしようとした。

 …だが、その勢い、強がり、無理に偉ぶる態度は、段々と失せた。

「この…!この…!もう…!」

「下僕のくせに…!駄馬のくせに…!この私を…ずっと…一人にして…!」

「なんで…!もっと早く来てくれなかったの…!」

「私は…!貴方のこと…ずっと待ってたのに…!」


「信じて…、待ってたのに…!」


 …いつの間にか、ラディカは、潤んだ目から涙をボトボト零れ落としながら、全身を震わせて、シャトーを叱っていた。


 そして、ラディカは叱ることも止めた。

 彼女はただ、崩折れて、弱り切った己で、すがるようにシャトーに抱きつくだけになった。

 大きな嗚咽を漏らして泣きじゃくるだけになった。

 だが、表情はとても安心し切っていた。


「ラディカ様…」

 …本来なら、『信じたかったのはこっちの方だ。それなのに裏切りやがって』と言い返すべきだった。

 しかし、只今に、悪女ラディカのみっともない有り様を見てしまったシャトーは、ただひたすらに、胸が締め付けられていた。

 陰鬱な気持ちは、痛ましさにかき消されていた。

 彼女は、指先でラディカの頬に触れた。

 少し、ひんやりとしていた。が、存外、まだ温かかった。

「(昨晩から今までだと、大体半日ちょっとか…)」

「(悪女なのに、普段は、何事も意に介さない風に振る舞ってるのに…)」

「(たったこれだけのことで、こんなになっちゃうんだ…)」

 彼女は、静かに思った。

「(ラディカ様って…、もしかして、凄く弱い人なのかな…)」

「(実は、いつも、無理に強がって、変に悪態をついているだけで…)」

「(本当は、弱くて脆い、少しのことで、簡単に心が砕けちゃう…)」

「(ただの、小さな女の子なのかな…)」

 シャトーは、必死に自分に抱きつき、しゃっくりを上げて泣く、弱々しいラディカの背を、優しく、穏やかに擦った。

「怖かった…ですか…?」

 ラディカは、シャトーの肩に顔をうずめながら、コクリ、コクリと頷いた。

「大丈夫…、もう大丈夫ですから…」

「私がいますから…、ね…?だから、泣かないで…?」

 シャトーはいたいけなラディカを精一杯に慰めた。

 それでも、ラディカはぐずぐずと鼻水を垂らして泣いていた。

 自分の身体にシャトーの体温を染み込ませようと、必死にしがみついて、甘えていた。


 …その様子が、シャトーの心をなんとも捉えた。

「(…ラディカ様、自分のせいでこうなっちゃったのに、被害者みたいにポロポロ泣いちゃって…)」

「(簡単な言いつけも聞けない点も含めて、本当に子供みたい…)」

 シャトーはつい、顔が綻んだ。

「(私以外、ラディカ様が“ラディカ様”であることを知らない…)」

「(私以外、誰もラディカ様のことを見てくれやしない…)」

「(だから、ラディカ様がすがれるのは、私しかいない…。ラディカ様は私無しでは、もう息すら出来なくなっちゃった…)」

「(あぁ…、私が居なきゃ、ラディカ様は本当にダメダメなんだな…)」

 …傷ついたラディカにとって、シャトーの存在が心の穴を埋めているように、

 …傷ついたシャトーにとって、悪女ではない、いたたまれないラディカの存在は、これ以上なく、彼女の心を満たしていた。

 このまま、二人でドロドロに溶けていけそうだった。


 …シャトーは、困ったように笑った後(しかし、どこか嬉しそうにして)、幼子をあやすような口ぶりで、ラディカに伝えた。

「ラディカ様…?もう、疲れちゃいましたよね…?」

「家に…小教会に帰りましょう…?」

「ラディカ様だって…、このまま街に居ても、誰からも無下にされて、辛いだけでしょう…?」

「だから、一緒に帰りましょう…?それで、小教会の中で、二人だけの、あの空間の中で、私にいっぱい命令してください…」

「私を、いっぱい困らせてください…」

「ね…?」

 シャトーの、とろけるように甘い問いかけに、ラディカは、顔を上げて、とろんとした表情を見せた。

 だが、彼女は再びシャトーの肩に顔をうずめた後、モゾモゾと顔を肩にこすりつけるようにして、首を横に振った。

「嫌…なの…?」

 シャトーが尋ねると、ラディカはモゾと頷いた。

「早く…シテに帰りたいの…?」

 ラディカは、モゾモゾと首を横に振った。

「アメリーでまだ何か…、やりたいことがあるの…?」

 ラディカは、モゾと頷いた。

「もう…」

「さっきから、何度も言ってるじゃないですか…」

「ラディカ様は、私以外を困らせちゃダメなんですよ…?」


 ぐずるラディカと、包み込むシャトー。

 二人だけの、歪んだ時間。

 幸福。


 …しかし、実際のところ、この空間は、別に、二人だけのものではなかった。


 まさか、忘れたわけはあるまい?

 衛兵のことを。


 彼は、二人の蜜を、傍らで見ていた。

 つまり、15歳150cmのちびっ子シスターと、それに甘えるように抱きついて、モゾモゾと拗ねた3歳児みたいな受け答えをする、19歳188cmの、自称ラディカの気狂い美人のやり取りを、間違いなく見ていた。

 事情を何も知らず、全く歪まず、その光景を見ていた。


 今という時間は、二人からすれば、幸せな時間。

 だが、衛兵から、赤の他人からすれば、どこをどう見ても奇っ怪な珍事の勃発。


 だから、衛兵は思わず口にしてしまった。

 黙っていようとした、失礼なことを、我慢していたけども。

 それでも、どうしても、眼前に広がる、あまりにも面白い光景に、耐え切れなくなって。


「…ヤベェ絵面だな。親が見たら泣くぞコレ」


 …悪女ラディカは、これを聞き逃さなかった。


 衛兵の一言で一気に不快になったラディカは、瞬時に、獲物を見つけた猛獣のような、極めて鋭利な眼光を、衛兵の方に向けた。そして彼女は、シャトーを放り、衛兵へ全力で猛追した。

 ラディカは飛びかかった後、不意打ちに驚く衛兵の横っ腹を思いっきり蹴った。

 脹脛の一撃。体格故の強力。更に、運悪く、当たりどころが悪く、筋肉と骨を越え、内臓にクリーンヒットしてしまったインパクト。

 故に、ラディカのたった一撃は、衛兵を、軽くぶっ倒してしまった。

「…!?ラディカ様!?いきなり何を…!?」

 シャトーは慌てて衛兵の元に駆け寄り、悶絶する彼を介抱しようとした。

 だが、ラディカは、自分以外のことを心配するシャトーのことが気に食わなかった。だから彼女は、シャトーの首根っこを掴み、彼女を衛兵から引き剥がした。

「貴方は私の下僕でしょう!?そんな下民…、いえ、『愚民』に構うことなんて、絶対に許さないわ!!」

「愚民…?」

「えぇそうよ!愚民よ!愚民…!愚民なのよ…!この街に住まう下民共は…!」

 ラディカの傍で尻もちをつかされたシャトーは、慄いてラディカを見上げた。彼女は、衛兵を指すために、わざわざその単語を選択したラディカに、どこか、嫌な予感がした。

「下僕…!さっき、私にはやりたいことがあるって言いましたわよね…!?」

「まだ、ピンと来てないらしい貴方に、教えてあげますわ…!」

 ラディカは、泣き止んだ幼子のような腫れぼったい目をゴシゴシ擦った後、狂気的に目を血走らせた。

 そして、彼女は、強烈な怒りと共に、口走った。 

「私のやりたいこと…!そう…!この街に巣食う愚民共に、懲罰を与えることよ…!!」

「教えてやるのよ…!ラディカという存在の恐怖を…!フラン家への畏怖と崇拝を…!!」

「これは、フラン家の人間として、ラディカとして、為すべき責務ですわ…!!だから、これが完了するまで、この街から出るわけにはいきませんの…!!」

 そこまで語った後、ラディカは、その、激烈な怒りの第一歩として、うずくまる衛兵の側頭部を、容赦無く蹴り飛ばそうとした。彼を、殺そうとした。

 だが、その瞬間、シャトーが咄嗟にラディカの前に飛び出して、衛兵を庇った。

 ラディカの蹴りは、理外にもシャトーの側頭部に当たった。そのせいで、彼女は横に飛ばされてしまい、その先にあった鉄格子に思い切り額をぶつけてしまった。

「…ッ!下僕…!」

「…チッ」

 予想外に、お気に入りの下僕を傷つけてしまい、面白くなくなったラディカは、苦し紛れに舌打ちをした後、早足に、その場から立ち去った。

 シャトーは、依然痛みに苦しんでいる衛兵に謝りながら回復魔術を施した後、フラフラと立ち上った。そして、彼女は、自分への回復魔術は時間が惜しいからとせず、血がツーっと流れる額を袖で押さえながら、急いでラディカの後を追った。


 その間際、衛兵が呟いた「ほっとけよ、あんな奴…」という言葉を、シャトーは聞き逃さなかった。

 だが、彼女は目を閉じ、聞かなかったことにした。


……

 暴れる宣言をしたラディカを止めようと、急いで留置場を飛び出したシャトーが見つけたのは、意外にも、中央広場の噴水の縁にふてくされて座るだけのラディカであった。

 周囲の人々は未だ魔の手にかかっていないようで、彼らは単に行き交いながら、ラディカの美貌に横目で見惚れているだけであった。

 シャトーは、心底ホッとした。

「(そういやラディカ様、自分の美貌に見惚れてチヤホヤされることは嫌じゃなかったんだっけか…。アレはアレで、権力の象徴だからかな…)」

「(機嫌…、少しは戻ったのかな…)」


 …ところで、ジッと座っているラディカは、シャトーにとってちょうど良かった。

「…«尸位 幻影魔術»」

 シャトーは、両腕を軽く突き出し、両の指を絡めた後、手の平をピッタリと合わせた。

 …魔術詠唱のための動作であった。

 彼女はラディカに声を掛ける前に、何故か効果が切れてしまった魔術を再度かけることにした。

「«別面野(べつめんや)»」

 …術者の抽象的イメージに合わせて、対象が他に与え得る全知覚情報を、完全に作り変える魔術。

「…」

「あれ…?」

 しかし、魔術は何故か発動しなかった。

 いや、発動はしたのだが、魔術の放つ効果に対し、現状は何故か不変であった。

 その後、シャトーは首をひねりながら、同じ魔術を、数度、ラディカに向けて撃った。しかし、何度やっても、ラディカはブロンドのブスには成らなかった。

 もしかして、魔術を使えなくなったんじゃあと焦った彼女は、試しに近くのベンチで眠りこけていたお爺さんに向けて魔術を放った。すると、お爺さんの見目はちゃんとお婆さんに変わった。突然の微妙な変化に周囲が若干動揺した。

 魔術の理は健在であった。

 健在なのに、異常だった。

「なん…だこれ…?」

 シャトーは、目を白黒させた。

「(ラディカ様が対象の場合だけ、魔術が打ち消されている…?というより、昨日は効いた魔術が、干渉不可になっている…?なんだこれ…、マジで何なんだこれ…?)」

「(…いや、それよりも…!)」

 それよりも、アメリー入門前に考えていた、“懸念”がよぎる。

「(…これ、本当に不味いんじゃないか…!?今すぐラディカ様を家に連れ帰らないと、このままじゃ、ラディカ様が“ラディカ様”であることが世間に露呈してしまうんじゃ…)」

「…ちょっと下僕!?何をこんなところにボサッと突っ立ってますの?作戦会議するから、早くこっちに来なさい!!」

 …だが、そんな重大な憂慮を思い巡らせたその瞬間、シャトーの姿を見つけたラディカが腕をがっしり掴んだ。

 そして、ラディカは、彼女を噴水の方に強引に引っ張った。「ダメです…!これ以上アメリーには居られません…!!」という、シャトーの必死の警告を、完全に無視して。どころか、「うるさい!」と封殺して。

 ラディカは、結果的に、自分の首を完全に締めた。


……

 …さて、と、改めて噴水の縁にドカッと腰掛けたラディカは、眼の前で、未だ「家に帰りましょう…!!?」と訴えるシャトーを軽く制した後、じれったく上目遣いで尋ねた。

「…そんなことより、貴方、魔術を使ってどれくらいのことが出来ますの?」

「…!」

 その、意味有りげな質問に、シャトーはピクリと反応した。

「…なんで、いきなりそんなことを聞くんですか?」

「いいから、答えなさい」

 シャトーは、表情を凍らせた。

 答えたくなかった。

「…色々出来ます」

「あ?色々?色々って何よ。あいまいね。具体的に答えなさい?」

 彼女は別に、魔術を話題にすることが嫌いなワケではなかった。

 ただ、ラディカのような目を向ける人間が、嫌なだけだった。

「…答えなきゃ駄目ですか」

「命令よ」

 シャトーは大きなため息をついた後、陰鬱な顔でブツブツ答えた。

「…破壊・幻影・召喚・変性・回復、全ての属性の魔術を使えます。位階も、低位・中位・高位・超位までの人間の位階と、尸位・地位・天位までの魔族の位階の全てを。…それから、いくつかのオリジナルの魔術と、匣天開門と匣天喚門(ぎょうてんかんもん)も使えます。それから…」

 シャトーは、魔導書で知り得る魔術であれば、全てを身に着けていた。

 …彼女は、端的に言って、魔術の鬼才であった。


 …魔術は、属性ごとに用いるべき魔術の基礎となる概念が異なり、基礎の併存とは、たとえば静的と動的の同時実現、絶対性と相対性の無矛盾両立のような難題であり、つまるところ、極めて困難である。

 したがって、破壊・幻影・召喚・変性・回復の五種の属性のうち、二種類扱えれば、傑出した才を持つとされた。三種類も扱えれば、超人扱いされた。四種は、もはや神の領域であり、五種は、実現不可能な空想とされた。


 …また、魔術的思考の深化に応じて、扱える位階は決定する。また、深化には、ずば抜けた頭脳の才と、途方もない時間の学習が必要であった。

 したがって、中位まで深化できれば、非常に優秀な魔術師とされた。高位まで深化できれば、類稀なる魔術師とされ、軍の強力な戦力として、また、教会の高級神官として、大変重宝された。超位に至っては、両手指の数ほどの人類しか到達していない、完全なるギフトであった。魔族の位階に関しては、そもそも人類では人体の設計図的に無理とされ、見向きすらされなかった。


 …しかし、先の通り、シャトーはそんな常識を軽々とぶち壊す、例外中の例外であった。

 彼女は、魔術に愛されていて、文字通り、神の子であった。

「ふぅん?なんだか知らないけど凄いのね?流石、私のお気に入りだわ」

 尤も、肩書しか偉くないラディカには、今にシャトーの口から語られたことの恐ろしさは、まるで伝わっていなかった。だが、何だか凄いらしいことだけは受け取れた彼女は、手をパチパチ叩いてシャトーを褒めた。

「いえ…」

 対し、シャトーは、気分屋なご主人様に手放しに褒められているというのに、全く嬉しくなかった。

 …だって、彼女は、その圧倒的才能による弊害を、酷く被ってきたのだから。

「そんな貴方なら、この街を魔術でグチャグチャに破壊することなんて、余裕綽々よね?」

 …彼女は、こういう、良からぬ願望を期待されて、幼少期を過ごしてきたのだから。


『…国家転覆だ!私はこの堕落した王国を破壊し!神の国ガロを再建する!正しい秩序を作り直す!』


「(…あの時のお義父さんも、今のラディカ様みたいな目をしてたな…)」

「(…あれですら、未だに受け入れられない思い出なのに…)」

 だからこそ、シャトーは、今に自分に向けられている、ラディカの期待の目を、疎ましく睨んだ。

 そして、彼女は、もう、答えが分かり切っている質問を、ラディカに投げかけた。

「…もし、余裕綽々だったとして、ラディカ様は私に何を望むのですか?」 

「決まってるわ。破壊よ」

 ラディカは、言った。

 そして、彼女はウキウキと気分を上々させながら、ベラベラと脳内プランを語り出した。

「貴方に作戦を伝えるわ。まず、一番ハデハデな魔術を使って、そこのどデカい邸宅を思いっ切り吹き飛ばしなさい?爆発や、火炎がいいわ」

 (ラディカが顎で指し示した先にあったのは、バラルダ公領の長、バラルダ公の邸宅であった)

「それが終わったら、次に、ここら一帯に蔓延る愚民共を、手段は問わないから一掃なさい。大事なのは一掃、一掃だからね。しっかり皆殺しにしなさい」 

「そしたら、その後は下がっていいわ。頑張った貴方はお茶でも飲んでゆっくりしてて?」

「後は私の仕事。貴方の魔術に慄いて、恐怖で顔を歪めた愚民共の前に颯爽と現れて、仕上げとして、フラン家の名を高らかに宣言してやるわ」

「…そしたらきっと、馬鹿な愚民共なんて、直ぐに居直って、ラディカである私にひれ伏すわ?」

「泣いて、ボロボロになって、私に赦しを乞う愚民共の姿…。ふふっ。考えただけでも最高…!」

「最後はそれを見下して、二人で一緒に高笑いましょうね?」

 …この、馬鹿馬鹿しい作戦には、褒められる点が一点だけあった。

 それは、ラディカが自分の未来を語る際に、もれなくシャトーを組みこんでいたこと。

 彼女は、シャトーとの密な付き合いに加え、先刻に、心に深刻なダメージを受けたことにより、無意識に、“他者を受け入れる”ことが、出来るようになっていた。


 彼女は、自分だけでなく、他者の幸福を考えられるようになっていた。

 それは、今までの彼女を鑑みれば、非常に偉大な成長であった。

 しかし、ここまで来ても、彼女は未だに『悪女ラディカ』という重病に冒されっぱなしであった。


 だから、彼女は、結果として、自分の大のお気に入りであるシャトーの幸福以外を考慮できないという、極めておかしな成長を遂げていたのであった。

 あと一歩のところで、歪みに負けていたのであった。

「ね?結構良い作戦でしょう?貴方だってそう思いますわよね?」

 ラディカはすべてを伝え終えた後、ふふんと胸を張って、自慢気に尋ねた。

 シャトーの答えは決まっていた。

「…その作戦には同意できません」

「…は?え?なんで?」

 ラディカは、軽くのけぞった。

 シャトーの答えが、本当に意外だという態度を取った。

「なんで?なんで?これ以上無いくらい良い作戦だったでしょう?なに?どこが不満なの?」

「…あ!もしかして!貴方ったら、もっと良いアイデアを思いつきましたの?そうなの?そうなのよね?」

「なによ、もったいぶっちゃって。ほら、遠慮せず言ってみなさい?貴方は私の超超お気に入りの下僕だから、超超特別に、私への異見くらい、余裕で許しますわよ?」

 パチンと手を合わせて勝手に自己解決したラディカは、ワクワクした面持ちでシャトーから異見を待った。

 間違いなく、他者の考えを受け入れる準備が出来ていた。

 …だが、そんな態度こそが、シャトーをイライラさせた。

「(…この期に及んで、この人は…!)」

 彼女は、成長以前に、現実に対して全く的を得ていない狂ったラディカに、この上ない怒りを覚えた。

 彼女は叫んだ。

「…作戦が、アイデアがどうだとか、関係ないですよ…!!」

「貴女はもう、他人を侵害することが出来ないんですよ…!!それに…」

「私は絶対に、魔術で誰かに危害を加えたくありません…!!」

 シャトーの訴えを聞いたラディカは、目を見開いた後、俯き、シンと黙り込んだ。

 シャトーは、ラディカを怒らせたと確信した。

 無茶苦茶な罰を強いられることも、確信した。

 …だが、彼女は、まるで怯えていなかった。

「(…そっちの方が、ずっとマシに決まってる…)」

「(私が傷つくだけなら、それが一番なんだ…)」

「(全裸土下座でも何でもやって、ラディカ様を満足させたら、サッサと小教会に連れ帰ろう…)」

 この妥協は当然であった。

 シャトーは、善人なのだ。

 うさぎの一羽相手にも冷酷になれない、弱い人間なのだ。


 愛を受けて育ったのだ。

 大きな手で、ぶきっちょな微笑みで、包まれて育ったのだ。

 だからこそ、彼女はずっと、“生命へ向けた破壊魔術”は完全に封印してきたのだ。


 そんな彼女が、ラディカの恐るべき命令なんて、聞けるわけがなかった。


「…何なりと、罰をお与えください」

 シャトーは、自ら膝を付き、ラディカの前に頭を垂れた。

 そして、彼女は自分を、諦めて目を瞑った。

 それが、悪女ラディカに対する、下僕としての答えであった。

「…そう」

 そう呟き、影を落としたかと思えば、ラディカは、おもむろに動いた。

 身を乗り出し、シャトーに迫ろうとした。

 シャトーは、じっと待った。

 暴力も、屈辱も、すべて受け入れる心で待った。


 …だが、そんな彼女の感情のまとまりに反して、ラディカから受け取った感触は、暴力や、屈辱とは程遠い、柔らかな手つきであった。


 (本日二度目の裏切り)

 (良かったな、シャトー?)

 (こういう展開が、好きなんだろ??)


 シャトーは、ラディカに頭を撫でられていた。

 微笑みを、向けられていた。

 優しい声を、かけられていた。


「貴方、気遣ってくれてるのよね?」 

「貴方ってば、本当に真面目な下僕なんだから…。魔術で愚民とはいえ、国民を殺した後に、それを命令した私の評判が下がることを気にしてくれてるんでしょう?」


「…ふふっ。貴方ってば、本当に、本当に“善い”心の持ち主ね…」

「そうやって、私のことを常に考えてくれる貴方の姿勢、大好きですわよ」


 只今に、ラディカの手、表情、声色から感じられるそれは、間違いなく、慈しみであり、愛情。

 シャトーをほだす、温もり。


 頭を撫でるだけでは満足できなかったのか、ラディカの手が、指が、ヴェールから、耳、頬に伝う。

 ラディカの愛が、加速する。


「…思えば、貴方はずっと、私のために尽くしてくれてたものね…」

「…あぁ、こうして貴方に触れて、今までの献身を思い出すと、貴方からの想いが蘇ってきて、心を潤しますわ…」


 金色の、可愛らしい前髪をそっとかき上げる。

 …ふと、ラディカは、シャトーの額に傷が出来ていることに気がついた。


「…さっき出来た傷ね」

 ラディカは、心を痛めて、表情を曇らせた。

 彼女は、自分の親指を舐め、唾液で湿らせたそれで、シャトーの傷口を拭った。

 「悪いことしたわね…」と、軽く呟いた。


 そしてラディカは、クスクスと笑って言った。

「ふふっ、この私がこんな気持ちになるなんて…」

「貴方って、本当に不思議な人ね…?」


 ラディカは、腰掛けていた噴水の縁から降りて、シャトーと同じように地べたに両膝をついた。

 権力者としては異常なこと。

 しかし、彼女はそうしたかったから、そうした。


 彼女は、目線の高さを同じにしてシャトーを見つめた。

 改めて微笑み、頬に優しく触れた。

 そして彼女は、確信を持って言った。


「どうやら私たち…、“分かり合えた”ようね…」


 …だってそうだろう?

 シャトーは、ラディカに傷つけられて、尊厳を踏み躙られるのが、嫌いだった訳だ。

 ならば、今に、シャトーを可愛がって、気遣って、大事に想う、真反対のラディカは、彼女にとっての理想だろう?


 …そんな訳がない。


 微笑みと、優しさと、慈しみ。


 それらを受けたシャトーが感じていたのは、ただひたすらに、乱脈と拒絶であった。


 彼女は、只今に頬から感じる、ラディカの手の温もりが、気味悪くてしょうがなかった。


 ラディカの微笑みが、狂人の壊れたそれに見えて、しょうがなかった。


 優しさが、怖くてしょうがなかった。


 彼女は、ラディカからの目一杯の愛情に、顔を酷く歪めていた。


 …それにも関わらず、ラディカは嬉しそうな顔をしていた。

 彼女は、本気でシャトーと分かり合えていると思っていた。

 愛し合えていると思っていた。

 彼女の基準で。

 彼女の常識の中で。


 彼女は、怯え震えるシャトーの手を、両手でキュッと握った。

 そして、安心を促す口ぶりで、まるでプロポーズをするかのような真摯さで、伝えた。


「…貴方の優しさ、機智、その全て。私は、この世の何よりも大好きよ」

「…でもね、今は遠慮しなくてもいいの。貴方は、存分に魔術を振るえばいいの。…大丈夫。少し評判が落ちるくらい、私がラディカだって価値に比べたら、大樹の葉っぱが一枚枯れ落ちるようなもんですわ」

「それに、安心して…?もし、魔術がそこまで上手くいかなくて、作戦が上手くいかなかったとしても、私は、貴方を抱き締めて、しっかりと慰めてあげますわ…?」

「怒るなんて、絶対にしませんわ…?だって、貴方は、私にとって、この世で一番大好きな、私の下僕なんですもの。一生、一生、私が手ずから飼う、私の可愛い下僕なんですもの。どんなミスをしたって、何度ミスしたって、何度でも、何度でも、挽回のチャンスを与えますわ…?」

「だから、安心して…、ね?」


 そう伝えた後、ラディカは、今に伝えた想いが嘘じゃないと知らしめるべく、動いた。


 彼女は、シャトーの前髪を軽く上げた。

 そして、そっと、シャトーの額にキスをした。


「…どうかしら。これで勇気がもてたかしら…?」

 頬を緩めて、そう言った。


 そして、ラディカは、シャトーの手を引いて、ゆっくりと彼女を立ち上がらせた後、咳払いをした。

 喉の調子を整えた。

 その上で、彼女は、改めてバラルダ公の邸宅を指差して、伝えた。

「…さぁ!奮い立ったならば命令よ!」

「紛れもない、この私が破壊を所望してるんだから、貴方は存分に魔術を発揮して、愚民共を恐怖のどん底に突き落としてやりなさい!!」

「そして、私という誉れを、貴方の手で実現してみせなさい!!」


 (じぃ〜ん)


 ラディカは、完全にキマったと思った。

 思いの丈を全てシャトーに伝えられて、その上で作戦の実行を権力者らしく命じられて、自分は今、最高に“ラディカ”出来ていると、確信していた。


 …だが、彼女による感動的で、カッコ良い命令が生み出した結末は、ただひたすらに、無変化であった。

 彼女の後には、どれだけのものも続かなかった。


 シャトーは、何も構えずに、腕をだらんと垂らして、暗然と顔を地へ向けていた。


 ラディカは、首を傾げた。

「…あれ?話聞いてた?もう破壊していいのよ?」

「…え?あれ?ねぇ?おーい」

「…下僕?」


 問われた。

 答えた。

「…出来ません」


 小さな拒絶。

 シャトーは、呼吸を荒くしていた。

 彼女は、只今にラディカが気持ち悪くてしょうがなかった。


 …どうして、人にそこまで愛を向けられるようになって、中身が依然『悪女』なのか。

 そのアンビバレントが嫌でしょうがなかった。


「…?出来るでしょ?だってさっき、私自ら、貴方に愛と勇気を分けてあげましたもんね?」

「出来ません…!」


 さっきよりも大きい、語気を強い拒絶。

 歯を食いしばって、今にもラディカを罵ってしまいそうな自分を必死に押し殺す。


 シャトーは、ラディカの悪女じゃない部分が大好きだった。

 好きなものに夢中になったり、雄大な光景に心を踊らせたり、怖いとすぐに泣いちゃったりする、無垢で無邪気、ちょっと幼稚なラディカが、大好きだった。


 彼女は、本物を知っていた。


 だからこそ、彼女は、今にラディカが見せる、『悪女ラディカ』の狂気に犯された愛が、受け入れられなかった。


「…出来るでしょ!?やれったらやりなさいよ!」

「出来ませんよ!!そんなこと…!!」


 徐々に迸る嫌悪。

 どこまでもラディカに巣食う“悪女”への嫌悪。


 …頼むから、『悪女ラディカ』は死んでくれ。


「…ッ!私の命令なのに!?それでも出来ないっていうの!?」

「…貴女の命令が何だって言うんですか!!!」


 …想いが決壊してしまったシャトーは、遂に、下僕として言ってはならないことを、ラディカに訴えた。

 あまりにも強く言い返されたので、ラディカは狼狽えた。

 しかし、シャトーは構わず続けた。

「貴女はもう、フラン家のラディカではないんですよ!!民衆の前で死んで、私の前で復活した貴女は、単に名前がラディカってだけの、何の変哲もない一般人なんですよ!!」

「ラディカ様は、私相手でしか『悪女ラディカ』でいられないんです!!でも、そんなの、実態はおままごとみたいなもんなんですよ!?実際の貴女は、もっとチンケでしょうもない、『悪女ラディカごっこ』をするしか出来ない、ただの、女の子なんですよ!?」

「それなのに…、それなのに…!色んな人にわがまま言って、迷惑かけて、暴力まで振るって…。挙句の果てには街の破壊!?一体何様のつもりですか!!?」

「…何様!?貴方がずっと呼んでるじゃない!!『ラディカ様』って!!それ以外に何があるっていうのよ!?」

「…それとも!?処刑とか、お墓だとか、またワケの分からないことでも言い始めるわけ!?それならレジティのいたずらだってことで解決したでしょ!?何を今更掘り返してるの!?」

「だから…!!イタズラじゃないってずっと言ってるじゃないですか!!まだ分かってなかったんですか!!?」

「貴方こそ!!まだレジティと一緒になって私を騙そうとしてるの!?でも、騙されないわ!!騙されるわけがない!!そうに決まってるわ!?だって、実際に、この世界で私は…!!」

 ラディカは自分の周りを指差した。

「私は…!」

 自分を中心に回っているはずの世界を見回した。

「へ…?」

 …そこで、ラディカはようやく気がついた。


 自分の周りに、人だかりができているということに。


 それも、『見目麗しフラン家の長女、世界の頂点ラディカ様』を崇め奉るためではなく、『中央広場で、異端のシスター相手に騒ぐ、銀髪碧眼の変なデカ女』を見物するために、人だかりができていることに。


「なによ…」

「何見てんのよ…!!ゴミ共が…!!」

 ラディカは吠えた、人だかりに。つまり世間に。

 相変わらずの口調で。

「何をそんなに…、私は見世物じゃないのよ!?私を誰だと思ってるの!?」

 いつもなら、誰もが怯え、震える脅し。

「私は…!この世で最も高貴なるフラン家の長女で…!泣く子も黙る悪女ラディカ様で…!それで…、」

 だが

「それ…で…」

 依然、世間は、自分のことを、稀有なものを見る目で見つめる。

 残念なものを見る目で、嘲笑う目で、面白がって自分を見つめる。

 誰も、畏敬の眼差しをかけてくれない。

 「それなのに…、なんで…?」

 信じがたいもの。

「なんで、そんな目で、私を見るの…?」

 受け入れがたいもの。

「そんな不遜な目で見られたことは、今まで一度も無かったのに…」

「ラディカじゃ、有り得なかったのに…」

「なんで…?」

「私はラディカなのに…?それなのに…?」

 しかし、今、眼の前にあるもの。


「貴方達には…、私がラディカに見えないの…?」


 …そこまで思考したラディカは、ふと先程までのシャトーとの口喧嘩に立ち返った。

 瞬間、ゾッと、悪寒が彼女の全身を駆け巡った。

 ラディカは、恐る恐るシャトーの目を見て、怯える声で彼女に尋ねた。

「貴方も…だったの…?」

「貴方にも…私がラディカに見えていなかったの…?」

「だから…命令が聞けないの…?」

「…ラディカ様は、ラディカ様ですよ」

「じゃあ…あの邸宅を破壊して、ついでに周りの愚民をみんな殺してよ…」

「だから、出来ませんよ…。そんなこと…」

「なんで…?私がラディカに見えてるのに…?」

「…そう見るように、託されているだけです」

「…だから、私以外に対して、ラディカ様がラディカ様であることを無理強いなんて出来ませんし、それに近しい命令を聞くことは出来ません」

「…???なんで…?なんで…!?分かんない…!分かんない…!!私の下僕なのに、お気に入りの下僕なのに、私はラディカなのに、どうして命令を聞かないの…!??」

「…私だけに迷惑がかかる範囲なら、いくらでも、『悪女ラディカごっこ』に付き合いますよ」

「…変な呼び名の襲名でも、全裸土下座でも、駄馬係でも、何でも聞きますよ」

「…もういいじゃないですか。私の前だけでも、ラディカ様が『ラディカ様』でいられるなんて、現状を鑑みれば、充分贅沢ですよ」

「…そろそろ、自分の立場を理解してください」

 …それ以上、シャトーは何も言わなかった。

 それ以上はもう、黙って、ゆったりとラディカを見つめるだけであった。

 ラディカは、そんなシャトーが怖かった。

 現状に自分を放り投げる、冷たいような、温かいような、しかし、間違いなく冷たさはある彼女が、怖くて、怖くて、しょうがなかった。

「なによ…」

「なんで、何も言わないのよ…」

「ねぇ…」

「ねぇ…!なんとか言ってよ…!ねぇ…!ねぇ…!」

「ねぇ…!ねぇってば…!」

 耐え切れなくなったラディカは、崩折れて、シャトーにすがった。

 …彼女は、下僕に命令をしている主人の立場であるはずなのに、当の下僕の足元にひざまずいた。

 そして、憐れなご主人様は、下僕の腰元に抱きついて、みっともなく、必死に、命令遵守を懇願した。

「ねぇ…!私の命令を聞いてよ…!」

「破壊してよ…!こんな街…、貴方の魔術で全部ぶち壊して、誰も彼もを皆殺しにしてよ…!」

「私が私じゃなくなる世界なんて、この世から消し去ってよ…!」


「なんで、返事もしてくれないの…?」

「私のこと、ラディカ様って呼んでくれないの…?」


「やだ…、やだ…、やだよ…!!」

「お願い…、お願いだから…!消し去ってよ…!この街を全部消し去って、私が悪女ラディカだってことを証明してよ…!」

「お願い…、だから…!!!」

「私が私じゃない世界なんて!!全部ぶっ壊してよ!!!!」

 ラディカは喉を壊れるほど叫んだ。

 断末が、空を裂いた。

 しかし、シャトーは、何も言わなかった。

 そして、ラディカは遂に、壊れようとした。


 …その瞬間、人だかりの奥から、鋭い男勇の一言が、二人の間に飛び込んできた。


「待て。私の民に危害を加えるでない」

 声に反応して、左右にどいた人々の先には、明らかに高価な服装をして仁王立ちする、私兵の鎧兵二人と魔術師一人を侍らせた、いかにもな権力者な老人がいた。


 …中央広場は、バラルダ公領の長、上級貴族、バラルダ公の邸宅の真ん前にあった。


「バラルダ公…!?どうしてここへ…!?」

 人だかりの誰かが言った。

「民が何やら騒がしくしてるのに、関心を持たない統治者が何処にいる?…それで、これは何事かね」

 バラルダ公は口髭をつまんで弄りながら、周囲を見回し、民草に問うた。

「…バラルダ、公…?貴族の人…?」

 周囲が何らかの回答をするより先に、騒ぎの中心であるラディカが反応した。

「ん…?なっ!?悪女ラディカ!?」

「…の、空似か…?あれは…」

 …バラルダ公は、王国の貴族の中でも上位に位置する上級貴族なのだ。だから、彼は周囲の人々とは違い、フラン家主催の催し物には何度も出席したことがあり、当然、ラディカのことも近くで幾度と見たことがあった。なんなら、謁見と、会食すらしたことがあった。

 彼は、“ラディカ”を知っている。

 シャトーが“懸念”した、対象の一人であった。

「悪女ラディカ…?」

 ラディカは、自分の顔を一目見て、声を聞いて驚愕する彼にピクリと反応した。

 また、彼が彼女を“自認に一致する名”で呼んだことにも反応した。

 ラディカは、目に希望の光を取り戻し始めた。

 彼女は、もっと光が欲しいと、フラフラと歩み、バラルダ公に近づこうとした。

 しかし、1mほど手前まで近づいたところで、彼女は鎧兵二人が振りかざした槍2本に行く手を阻まれた。

 ラディカは、柵のように自分を阻む槍の1本を掴んで、身を乗り出して、まるで、助け舟に呼び掛けるようにしてバラルダ公に問うた。

「貴方…!貴方には…、私がラディカに見えるのね…!?」

「そう…なのね…!?そうなのよね…!?」

 ラディカは懸命に嬉しそうな顔をした。

 只今に、彼女の脳は、『きっと、周囲のゴミ共は学の無い愚民だから、私の凄さに気づかなかっただけなんだ。分かる人には分かるんだ』と、都合の良すぎる理屈を並べていた。

 対し、バラルダ公は、先の驚きで出た“場違いな冷や汗”を拭い、軽く咳払いをした後、至って冷静な態度で返答した。

「…悪女ラディカは知っているが、他人の空似であるお前のことは知らん。誰だ?いくら見目が悪女ラディカによく似るとは言え、どのような了見で、我が領地にて騒ぎを起こす?」

「誰って…。似…?へ…?」

 ラディカは首をひねった。

 彼女は話が噛み合ってない違和感を感じた。

 話、というより、噛み合ってないのは現実と彼女の妄想なのだが。

「私は、ラディカですわよ…?貴方だって、そう呼んでくれているじゃない…。私のこと、ラディカだって…」

 ラディカは自分を指さして、バラルダ公に確認をした。

「…?馬鹿な勘違いをするな。私は、お前がアレによく似ていると言っているのだ」

「似てる…?違う、違いますわよ…?似てるんじゃくて、私は正真正銘の本物ですわ…?ラディカは、生まれながらのラディカで、フラン家の長女で…、お母様はファンドってお名前で…、お祖父様は…」

 ラディカは、なんとかしてバラルダ公に、自分の妄想が正しいことを肯定してもらいたかった。

 だから、彼女は、ラディカの身のうちを話し始めた。ついでに、長い銀髪をかき上げたり、潤んだ碧眼をパチパチさせたり、豊満な胸に手を当たり、スカートを少したくし上げ、艶めかしい脚を軽く覗かせたりと、とにかく必死に自分がラディカであることを全身でアピールした。

 …だが、その不審な挙動は、逆に、バラルダ公の訝しみを確信へと連れて行った。

「…あぁ、そういうことか。なるほどな」

 事情を理解したバラルダ公は、周囲の人々と顔を見合わせた後、呆れて失笑した。

「いつも、ジーヴルと共に妄言を流布していた、異端のシスターを見かけた時から、もしかしてとは思ったが…。なるほど、本当にきな臭い面倒事だ…」

 バラルダ公は、アメリーの長年の厄介者であるシャトーをジロリと睨んだ。シャトーは咄嗟に目を逸らした。

「…まぁ、この哀れな女が異端のシスターに洗脳されて祭り上げられたのか、それとも天然の気狂いなのかは、この際どうだって良い。問題は、我が民を惑わす騒ぎの解決なんだからな…」

 失笑をしていたバラルダ公は咳払いをした後、すぅと息を吸った。

「…!」

 シャトーは、身が震えた。

 彼女は、バラルダ公が次に何を言おうとしているのか、予想が出来た。

 …何故なら、バラルダ公のような人への“懸念”が杞憂だったと、今に分かったから。

 しかし、彼女は目を閉じた。

 彼女は、ラディカのために、そして、未来のために、この苦難を止めないことを選んだ。

 ラディカを、見捨てることを選んだ。


 その末に、バラルダ公は、容赦なくラディカに伝えた。

 現実を、突きつけた。


「悪女ラディカは死んだ」


「悪女ラディカは、四ヶ月ほど前の晩春に、シテの大広場で公開処刑された」


「…はっ?」

 ラディカは固まった。目を白黒させた。

「それは、レジティのいたずらじゃ…?」

「皆が知る事実だ」

「…でも、私は生きてる…。生きてるよ…?」

「過去は覆らん」

「悪女ラディカは死に、栄光ある最高位貴族から、蛆まみれのただの死に体に没落した」

「そんなの…、そんなの嘘よ…!」

「なら、今の現状はどう説明する?」

「どうって…!どうって…?」

「どう…」

 …突然、ラディカの目に鮮明な“現実”が流れ込んできた。


 誰もが自分にひれ伏さず、誰もが命令に従わない、『レジティの大規模ないたずら』なんて非現実的な妄言か、『ラディカという権威が没落した』という極めて妥当な回答でしか説明が出来ない現実が、彼女の奥底に、ドロドロと溜まっていった。


 彼女を、壊していった。


 ラディカは、歯をガチガチと震わせた。

 視点が合わなくなり、まるでモルヒネ中毒者の離脱症状のようになった。

 そんな彼女を、バラルダ公は鼻で嗤った。

「…しかし、よりにもよって、民衆の敵である悪女ラディカなんかになりきろうだなんて、滑稽この上ない。狂人の考えることというのは、つくづく分からんもんだ…」

「まぁ…、何を企んでいたかは知らんが、今、それすら失敗に終わるのだ…」

「…憐れな。お前は本当に無様だな」

「お前は、単なる“気狂い”だ」

 その一言の後、人々や、彼の従者は、揃って冷笑を始めた。

 クスクスと、限界寸前のラディカを指差して、おかしな奴だと嘲笑った。

 同時に、人々は、ラディカを完膚なきまでに叩きのめしたバラルダ公へ、盛大な拍手を送りだした。熱狂的な数人は、「バラルダ公万歳!」と讃え始めた。

 ラディカが欲しがっていた、権威者への反応が、バラルダ公の方に集中した。

 その音圧が、自分に向けられていない、自分には関係がないという事実を理解するほどに、ラディカという存在は、押し潰されていった。


 現実が、彼女を殺そうとした。


 …だが、そんな現実に、辛抱が出来ない性分のラディカが、じっとしていられないのは、自明の理であった。

「そんなの…」

「そんなの嘘よ…!」

「嘘よ…!嘘、嘘、嘘よ…!!!」

「…っあああああああああア!!!!」

 ラディカは、発狂と同時に、呑気に嘲笑って油断し切っていた鎧兵2人を押しのけて、バラルダ公に襲いかかった。

「…!!中位変性!縛板そ…」

 咄嗟に、魔術師がラディカの前に立ちはだかり、十字を切って魔術を唱えようとした。

 しかし、彼もまた、油断していたので、詠唱はラディカの猛進に間に合わなかった。彼は、ラディカに肩を掴まれ、勢いよく横に退けられた。

 …そして、バラルダ公はがら空きになった。

 ラディカの拳が、彼の顔面を捉えようとした。


 …唯一、ラディカが“ラディカ”であることを知る、彼女の忠臣であるシャトーだけが、冷笑も油断も何もせず、緊張と共に只今を注視していた。


 だから、彼女だけは、ラディカの発狂に即座に対応し、適切な魔術を、事態に提供することが出来た。


「«超位 変性魔術 現霧楼(げんむろう)»!!」

 …動作と共に唱えられたシャトーの魔術に伴い、世界は超自然的に歪んだ。

 『術者の指定した物質への干渉効を完全に失う魔術』を受けたラディカの拳…、いや、全身は、まるでホログラムのように、バラルダ公を通り過ぎていった。


 …そのため、ラディカの、現実に対する最後の抵抗は、ただ、勢い余って、地面に転ぶだけに終わった。

 どこまでも無様なラディカは、転んだ痛みに縮こまり、弱々しく泣くしか出来なかった。


 …一方、そんな哀れなラディカに対し、周囲は全く関心を示さなかった。

 彼らの目線は、しょうもない気狂いのラディカの方ではなく、只今に魔術詠唱の動作を解き、すくっと仁王立ちする、異質なシスターの方に集まっていた。

「なんだ…?何が起こった…!?魔術か…!?」

「…一瞬だが、あの魔力量…!ハッタリじゃねぇ!超位魔術です!!」

「…超位魔術だと!?」

「えぇ…!それを…、そんな神業を…!こんなガキが扱うなんて…!夢でも見てんのか…!?俺は…!?」

 バラルダ公の驚愕と、魔術師の畏怖を皮切りに、周囲は動揺し始めた。

 騒ぎの中心は、一気にシャトーになった。全ての人々が彼女に慄き、恐怖し始めた。

「(…遂に、バレちゃったな)」

 シャトーは、特に、超位魔術だけは人前で使いたくなかった。

 なにせ、あまりにもハイレベル過ぎて、人類の尺度では測れない魔族の魔術や、使える人間が少なからずいる高位魔術とは違い、人類の限界にピッタリと当てはまる超位魔術は、凡夫が彼女の凄まじさを理解するには、丁度良い塩梅の魔術であったから。

「(…でも、あの時に咄嗟に出せた最適解がアレだったから、…悔いはない)」


 彼女は、自分の魔術の才がバレたことにより辿る末路を予見し、嫌な気分になれた。

 しかし、今は、その憂鬱さよりも、ラディカが最悪の事態を巻き起こさなくて良かったと安堵することにした。


 彼女はゆっくりとラディカに歩み寄った。

 すると、この超常の存在に、誰もが、鎧兵らや魔術師、果てはバラルダ公までもが、息を呑んで道を開けた。

 …ただし、胆力のあるバラルダ公だけは、通り過ぎるシャトーを睨みながら叫ぶことが出来た。

 彼は、彼女が常々予見していた、憂鬱な末路をそっくりそのまま再現してくれた。

「…異端のシスター、シャトー・ブリアンよ!お前が有力な魔術師である可能性は、以前から噂には聞いていたが…。まさか…、まさか…!人類に4人しか存在しない、超位魔術師に匹敵する存在だったとは…!!」

「…どうやら、お前がジーヴル・ベルと一緒になって叫び続けていた、国家転覆の狂言は絵空事ではないようだ…!お前を、我が領地から追放することは勿論のこと…、すぐにでも、この事実を貴族議会に提出し、お前に対する王立軍全軍の動員を決議させる…!」

「偉大なる王国は、必ず、お前に抵抗してみせる…!戦争すら辞さん…!この世界が、お前のような狂人の自由になると思うなよ…!?」

 シャトーの絶大な力量と脅威を理解したバラルダ公は、とにかく懸命に、威嚇するように、彼女に吠えた。

 対し、一応、自分も所属するバラルダ公領のボスの話だからと、憮然と立ち止まって聞いていたシャトーは、本当に暗い顔をした。

「…過大評価ですよ」

 シャトーは、今に怪物を目の当たりにしたような、怯えた目で自分を睨むバラルダ公に、小さく呟いた。

「だって…」

「国家転覆なんて…、私が私じゃなければ、とっくの昔にやってますから…」

「…それが出来なかったから、私は愛に生きて、お義父さんは失意の内に殺されたんだから…」

 シャトーは、バラルダ公に頭を下げて言った。

「…私に対し、どんな目を向けてくれても構いません。どんな世評も受け入れます。ですが、どうか、矛は向けないでください」

「それに、公領からの追放もやめてください。わがままでごめんなさい。ですが、本当にやめてください。大人しく、小教会に閉じ籠もって、二度とアメリーには足を踏み入れませんから、お願いですから勘弁してください」

 それだけ伝えた後、シャトーは、当惑するバラルダ公を横切って、倒れているラディカの元に寄った。

 彼女は、脱力するラディカの上半身を、小さな身体で何とか起こした後、何も言わずに抱き締めた。

 そして、静かに想った。


「(私も少し、言い過ぎたかな…)」

「(…でも、今回の一件は、ラディカ様にとって、本当に良い薬になった…)」

「(ラディカ様に、ご自身が、もう、ラディカ様ではないと分からせることが出来て、本当に良かった…。それだけで、アメリーに来た甲斐はあった…)」

「(…打ちひしがれて、かわいそうに震えるラディカ様は見てて辛いけど…)」

「(これこそが、ラディカ様が向き合うべき現実だから…)」

「(…後は、私が寄り添う番だ)」

「(頑張らなくちゃいけない時間だ。これからの未来で、ラディカ様と笑い合えるように…)」

「(ラディカ様に仕えることを選んだ、自分の選択に、後悔しないように…)」

 シャトーは、改めて死んでしまったラディカに肩を貸し、…というか、ほぼ彼女を背負い、よろめきながら立ち上がった。


「…行きましょう、ラディカ様」

 そして、シャトーは重い、重過ぎる荷物であるラディカを、引きずるようにして、歩み出した。

 奇異や、衝撃や、敵意や、色々なものを背に受けながら

 それでも彼女は、中央広場を後にした。

 それが、幸せに繋がる選択だと、信じたから。


 …だが、少なくとも、この一件で、彼女は、幼少期から親しんでいたアメリーに、二度と行けなくなった。


 その選択のせいで、行けなくなった。


【人物紹介】


『ラディカ』

 自室では裸族だけど、宿では流石に服を着る。


『シャトー』

 別に冷え性とかじゃないけど、部屋ではいっぱい着込んでモコモコになるのが好き。だって女の子っぽくて可愛いじゃん。



【説明し忘れたこと】

 …どっかで説明描写入れるとは思うけど、一応、軽く魔術の解説を

 作中の通り、魔術には、五つの属性があります。破壊・回復・召喚・幻影・変性、です。

 破壊魔術は、自然の崩壊を司る魔術です。使うと人が死にます。あと物も壊せます。

 回復魔術は、自然の復元を司る魔術です。使うと怪我が治ります。あと物も修復できます。

 召喚魔術は、自然の創生を司る魔術です。使うと召喚獣と呼ばれる生命のキメラを生み出せます。

 幻影魔術は、自然による感官を司る魔術です。使うと幻視、幻聴、幻臭、幻触とか、でます。

 変性魔術は、上記四種に分類できない魔術が雑多にぶち込まれる枠です。雑に何でもあります。

 あと、作中の通り、魔術には位階があります。説明だるくなってきたな。終わります。

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