1 (4) 『歩み寄る二人・過度な期待』
魔術による身体強化とは、複数種の掛け合わせにより実現する素晴らしき高等技術で、繊細な魔力の操作に基づく、身体強度の変性と若干の自然回復の両立に裏付けされた、人間の根本的進化であり、術者に無期限の超人的パフォーマンスを約束する、…とにかくまぁ、なんかすごいやつだった。
おかげで、馬車ウマ娘シャトーが牽引する荷車は、本来なら徒歩で半日はかかる距離を、半分の時間で踏破することができた。
しかし、魔術で身体強化をしたとて、無駄に肉付きの良い大の女性を乗せた荷車を6時間ノンストップで引っ張って、無数に続く丘を昇り降りした疲労は甚大であった。そのせいで、シャトーはアメリーまで残り1里というところで完全に力尽き、ぶっ倒れてしまった(マラソンとかって、ゴール直前になると、途端に身体が疲労に負けて力が抜けるよね。それに近いことがシャトーの身に起きた)。
休憩を懇願するシャトーに対し、ラディカはそれでも休まず動けと彼女を踏んだり蹴ったりした。しかし、馬主が何をどうしようとも馬は脚をガクガクさせるだけで微塵も動かなかった。なので、ラディカは仕方なく休憩の許可を与えることにした。
…適当な丘の上、そこにポツンと一本生えた小さな木の下に、二人は腰を下ろすことにした。
あまりにも疲れ過ぎたシャトーは、荷車を停めた後、汗でびっしょりの身体を、木の根本を背に、ぐったりへばらせた。ヴェールを取って、だらしなく両足を伸ばして、無様に舌を出して、ぜーぜーと過呼吸を始めた。
一方で、道中、景色を眺めたり、荷車の上でゴロゴロと本を読んだり、シャトーにちょっかいかけて遊んでいただけのラディカは、1ミクロンも疲れていなかった。だから、休憩もつかの間、気の向くままに周囲の散策を始めた。
…見晴らしが良かった。
視線を軽く遠くにやるだけで、丘の少し向こうにある、夕暮れに照らされた街、アメリーがくっきり見えた。
…アメリーは、100m級の巨大な丘を囲う壁の内側に築かれた、城塞型の街であった。
街は歴史的らしく、全体的に、セピア色の木材や砂色のレンガ、酸化した真鍮などの寂しい色で包まれていた。
丘のてっぺん、街の中心には中央広場があり、その周囲に街一番の巨大建築物、バラルダ公領の長、上級貴族、バラルダ公の邸宅と、幾つかの行政支局があった。
また、中央広場から東西南北に、大通りが、丘の麓まで延びていた。
大通りと大通りの間を埋め尽くすように住宅街が広がっていた。
丘の上部は上流層の邸宅、中部は中流層の住宅区、下部は貧困層の住宅区であった。
それは、丘の上部、中部、下部で、住宅に用いられる屋根の質がまるで違うことからして明らかで、この街に蔓延る貧富の格差は、街をパノラマ観察をするだけで丸わかりであった。
また、大通り沿いは商業区であり、商店や宿屋、レストランが立ち並んでいた。人通りや馬車の数は、やはり大通りに沿って多かった。
分かりやすい外観。分かりやすい構造。
アメリーは、鳥瞰すると、まるで物好きが作ったジオラマの街みたいで、何だか面白かった。
「…っひふ、はー、ふぅ。…あ、ラディカ様、ここからの景色は如何でしたか?今日は天気が良いから一望できたでしょう?」
息を整え終えたシャトーは、一方で依然、身体はグッダグダにくたばらせながら、散策から帰ってきたラディカに尋ねた。
「えぇ、そこそこ、悪くありませんでしたわ」
ラディカはシャトーの隣に腰掛け、ついで、丁度いい高さにあった彼女の頭を肘置きにして、くつろぎながら答えた。
「古風で、ノスタルジックで、バカみたいにシンプル。おとぎ話の街みたいで、下民が住むには勿体ない良さがありますわ」
…ただ、見目のメルヘンさの一方で、アメリーの前身は、戦時の前哨基地であった。
かつて繰り広げられた、人類と魔族との全面戦争である300年戦争。
大陸の外、魔族が住まう南方の大地、スティグマから突如として現れた破壊の波に対する人類の存亡をかけた戦い。
その波の防波堤として、人が集まり、防壁や生活設備を整えられたことが、この街の始まりであった。
「『アメリーは、レクトル家の軍勢が、その総攻撃により魔族の侵攻を遂に押し止めることに成功した奇跡の街であり、人類の希望が産声を上げた聖地である』…でしたっけ?これ、神学校の歴史教育で一番最初に習うフレーズなんですよね?ラディカ様も当然、ご存じですよね?」
「?いや?知らないけど?」
「えっ…」
「で、でも、『アメリー』って、街の名前は聞いたことありますよね…?」
「まさか、名前すら知らなかったわよ。こんなクソ田舎」
「えっ…」
「えっ…!?嘘…!?あれっ…えっ…でも…、マ、マジですか…?」
…それは、他愛もない会話のはずだった。
…しかし、シャトーは、この会話の何処からか、自分のアイデンティティをも揺るがしかねない情報を受け取り、この上なく驚いた。驚きのあまり、彼女は頭の上に乗せられたラディカの腕を思い切り払い除けて、身体を起き上がらせた。
「…マジだけど、それがなに?文句でもあるの?」
ラディカは、自分の許可無く、唐突に肘置きとしての役割を放棄した下僕の両頬を本気でつねりながら答えた。
「ひあ…、しょの…」
「あにょ…、もんひゅはありましぇん…。すみまひぇんでひた…」
とりあえず謝罪の言葉を聞けたラディカは、つねる手を放した。
結構な力でつねったから、シャトーの両頰は赤く腫れた。
だが、彼女は頬を痛みにはまるで感けず、むしろ、焼けるようにジンジンする頬を、つまり口を、活発に動かした。
…それほどに、只今の他愛ない会話とは、シャトーにとって甚大であった。
「文句はありません…。ただ、『そうなんだ』って思って…」
「…お義父さんがよく言ってたんです。『神学校では、特に、フランガロの建国に深く関わる、最も重大な街であるアメリーについて、邪険に取り扱っていて、手法は、巧妙に作り込んだ“間違った歴史”と共に、その名を王国民に記憶させて、真実を歪ませる』って…」
「だから…」
「だから、私は、神学校に行けなかったんです…」
家庭の事情で、ずっと家に閉じ込められて、義父からの歪んだ教育だけを受け続けてきたシャトーは、しょんぼりした。
悲しみに暮れた彼女は黙りこくってしまって、上の空な様子になってしまった。
そんな彼女を、ラディカは「なんだコイツ」と思いながら眺めた。
…しかし、その深刻そうな表情に、彼女はどことなく、思い当たる部分があった。
…しばらくして、シャトーは顔を上げた。そして、彼女は、何を信じればいいか分からない、哀れな子羊のような顔をして、震える声で、ラディカに尋ねた。
「ラディカ様…!」
「もしかして、神学校ではアメリーのことを勉強しないのですか…!?アメリーなんて、常識的には、実は大したことが無いんですか…!?」
「それとも…、やっぱりラディカ様はフランの末裔だから、“あの方”と同じで、正しい歴史を…、小教会を中心としたアメリーの歴史を学んだのですか…!?」
「私…、変に穿って色んな事を考えちゃうタチだから…」
「お義父さんたちの言うことが正しくないかもって、一般常識を知って、そう思っちゃって…」
「でも、ずっと、箱庭の中で育てられてきたから、無知で…、そのせいで、何が本当に正しい一般常識なのか、ちゃんと分かってなくて…」
「だから、お義父さんと、一般常識、本当に正しいのはどっちなのか…、どっちを信じれば良いのか分からなくて…」
「でも…、それでも私は、お義父さんのことを信じたいんです…。だって、私は、お義父さんのことが大好きだから…。もう二度と、お義父さんのことを裏切りたくないから…」
「だから…!教えてください…!ラディカ様は、子供の頃、何を学びましたか…!?」
「どんなことを、“正しさ”として教わりましたか…!?」
只今に、シャトーは目に涙を浮かべていた。
それだけ、彼女は切羽詰まっていた。
精一杯で、今にも心が砕けてしまいそうだった。
…だが、それにも関わらず、事情をカス程も知らないラディカのカスは呑気に、平然と答えた。
「いや、そもそも私、マジメに勉強したこと無いから歴史とか知らないのよ」
…シャトーはポカーンとした。
「あ…」
「さいですか…」
知らんのは無学なだけかい。
さっきまで、あんなに思い悩んでいたのに、シャトーの緊張は唐突にどっかいった。
彼女は完全に脱力して、再度、木の根本にポケッと倒れた。
ラディカは、只今に魂が抜けたように木に背もたれるシャトーを横目で見ながら言った。
「私、神学校には6歳の入学年しか行ったことないから、神学校の事情なんて知りませんの。…それに、家庭教師も付けたこと無いわ。そもそも、お母様が『貴女に勉強なんて努力は必要ない』って、仰ってましたの。だから、勉強なんてもの、私はしてこなかった」
「ほー…、そうですか…、へー…」
シャトーは生返事をした。気が抜けてしまった彼女にとって、ラディカの話はもうどうでも良かった。
「…」
…普段のラディカなら、この返事にはキレた。ブチ切れて、発言者の歯の十数本を折った。
だが、この時の彼女は何故か、茫然と話を聞く無気力なシャトーのことを罰そうとは思えず、逆に、何処となく「可哀想だな」と感じていた。
…いや、実際にはその感情は言語化されていなかった。ラディカに、そんな高度な能力が有るわけなかった。
ただ、彼女は、只今のシャトーに、どこかポカンと穴が空いたような雰囲気を感じていた。それが、物寂しかった。
…まるで、自分のようだった。
だから、ラディカは、何気なくシャトーを抱き寄せた。
それでも飽き足りなかった彼女は、シャトーを脚の間に座らせた。ちょこんと自分の元に腰掛けたシャトーをきゅっと挟んだ。
自分の大きな身体を活かして、小さなシャトーを、まるで、いたいけな子供を包容してやるように、優しく包み込んだ。
そして、ラディカは、彼女の頭を撫で始めた。
優しく、優しく、ゆっくりと。
シャトーを挟む脚と合わせて、全身で、ぬくもりを与え始めた。
…何故、自分がそうし始めたのか、彼女には、やはり、詳細な理由が分からなかった。
だが、ラディカはとにかくシャトーを愛でたかった。
…それが、自分と同じ、愛に囚われし者への同情だと、ラディカは、知る由もなかった。
包まれて、撫でられて、目を細めて安心するシャトーもまた、知る由もなかった。
木陰の下。
ラディカは、自分の内にすっぽり収まってしまう、こじんまりとしたシャトーを、ちょっと可愛いと思い、悪女らしがらず、心をほわんとさせながらも、口だけは悪女らしく、雑談を続けた。
「学位は全部、金で買ったわ。おかげで私は、神学校在学の9年間と、大学在学の3年間を遊び呆けて過ごせましたの」
「でも、大金を積んだから神学校はしっかり首席卒。最高峰のシテ第七大学も当然首席卒。しかも、大学に至っては複数の学部を同時にね」
「しかも、ついこの間、院を飛び級で卒業しましたわ。高名な学者に私名義の論文を書かせてね。だから私、こんな風でも自然学、魔術学、神話学の博士なのよ?」
「ふふん。私、勉強してないけど、肩書はしっかり超エリートなの。良いでしょ?効率良い生き方でしょ?権力者は、時間すら贅沢できますの」
「…まぁ、それはそれとして、私に知識が必要な話題を振っても無駄よ?この通り、何も答えられないから」
「…だから、私の前で、歴史とか、そういう野暮ったい話は止めなさいな。…貴方はただ、私の下僕でいれば良いんだから、ね?」
ラディカは、シャトーの頭を可愛がり、撫でながら、クスクスと笑って言った。
シャトーは、そんなラディカの顔を、惚けて見上げた後、ぽそっと呟いた。
「…ラディカ様」
「なぁに?」
ラディカは微笑んで尋ねた。
シャトーは、せせら笑って言った。
「…そういう、アホが露呈する話は、あまり他人にしないほうが良いですよ?」
…ラディカはシャトーの首根っこを掴んだ後、彼女を木陰の外に、フルスイングで投げ飛ばした。
その後、吹っ飛ばされたシャトーは、慌ててブチ切れるラディカの元に戻って、何度も何度も土下座をして、非礼を詫びた。
許しを得てからも、ラディカは膨れっぱなしだった。
シャトーは、そんなラディカの隣に、縮こまって座るしかなかった。
…だが、その時のシャトーに、苦しみや辛さは欠片も無かった。
むしろ彼女は、照れ隠しに悪態を付いた悪い下僕を、それでも隣に座らせてくれるラディカの気持ちが嬉しかった。
…何よりも、優しく撫でてくれたラディカの手は、お義父さんの手に勝るとも劣らない程に温かかった。
それを思い返すと、シャトーは、縮こまってでも、ラディカの隣に居たくてしょうがなくなれた。
……
…
…数十分後。
先の怒りを完全に忘れてしまった脳みそ空っぽのラディカは、シャトーの膝の上にゴロゴロと寝転がりながら、自分の胸の上に置いたシャトーの手を、つまんだり、握ったりして遊んでいた。まるで、母親の指で遊ぶ赤子のように。
「(…ラディカ様って、やけにボディタッチの多い方だよなぁ…)」
「(ってか、思うんだけど、ずっとラディカ様のご遺体の面倒見てた私の方はともかく、ラディカ様にとっての私って、昨日会ったばかりの謎シスターだよね…?)」
「(それなのに、ラディカ様、ちょっと警戒心無さ過ぎじゃない…?)」
「(知らない大人に付いていっちゃうタイプ、なのかな…?)」
…そうは言っても、シャトーは、ラディカのバグった距離感を黙って受け入れていた。
穏やかな時間が刻々と流れた。
……
…
…更に数十分後。
休憩を始めてから、累計小一時間後。
「…ラディカ様、本当におやつ食べないんですか?」
シャトーは、自分の後ろに座って、頭の上にあごを乗せて、首元に腕を回して、両脚で腰をホールドして、とにかくもう、軟体動物みたいに自分にベタベタに密着しているラディカに尋ねた。
「だから、要らないわよ。そんな下らないもの」
「そうですか…」
シャトーは少し残念そうな顔をしながら、自分の分のサンドイッチを頬張った後、水筒のレモン水を一口含んだ。サンドイッチの包み紙を丁寧に折り畳み、修道服のポッケに仕舞った。ついでに、取り出していたラディカの分のサンドイッチを再度包んで、防腐の変性魔術(超便利やん)をかけた後、ナップサックに仕舞った。
再出発の準備を整えた。
シャトーは、ヴェールを被り直して、言った。
「それじゃあラディカ様、日が暮れる前に街に入っちゃいましょうか」
「そうね」
ラディカは、呼応して起き上がった。それと共に、シャトーも立ち上がり、自然な流れで、土に汚れたラディカのおしりをパンパンと払った。下僕が板についてきていた。
その後、身体の伸びをしながらスタスタと荷車に寄ったラディカは、当たり前のように荷車の上に乗り込み、胡座をかいた。
「さ、行きましょ」
「えっ」
暗に荷馬車の続行を命じられたシャトーは、「…マジ?」と思いながら、おずおずと尋ねた。
「あの…、ここからは人目もありますから…、ご自身の足で歩いていただくことは…」
「は?貴方、ご主人様を歩かせるの?」
「そうですよねー、そうですよねー…」
シャトーはガクッと肩を落とした。だが抗弁はしなかった。下僕が本当に板についてきていた。
「荷車の件はかしこまりました。…でも、申し訳ありませんが、これだけはお願いします」
そう言って、シャトーはナップサックから、不思議な色合いの、スポーツタオルのように細長い布を取り出して、ラディカに渡した。
「良い布ね?」
「聖骸布です。…お義父さんがかつて、シテの大聖堂から盗んできたものだから、多分本物です。シーツ以外にラディカ様のお身体を包むに相応しい布といえば、それくらいしか持ち合わせていなかったので、持ってきました」
シャトーは、改まって伝えた。
「…ラディカ様、どうか、それでお顔を隠してもらえますか?」
ラディカが顔を隠すこと、シャトーはそれを、街で無事に過ごすための必須条件だと考えていた。
…実のところ、ラディカの正体がバレる可能性はほぼ無かった。
というのも、そもそも、アメリーを含むシタニア地方の人々はラディカの顔を知らない。知る方法が、シテに行き、実物を目撃する以外には、新聞に添付された下手な似顔絵と伝聞情報から想像を膨らませるしかなかったからだ。だから、殆どのシタニア人は、ラディカのこと、一目見てラディカとは認識できなかった。
加えて、ラディカは既に死んでいた。だから、たとえ、ラディカを直に見たことのある人でも、今のラディカのことは、『悪女ラディカのそっくりさん』としか認識できないはずだ。まさか、死人が蘇ったとは思考しないだろう。
…誰もが顔を知る織田信長にクリソツの人間が歩いているのを見て、誰が『本能寺から蘇った!?』と本気で考えるだろうか?
つまり、そういうことだ。
…しかし、理知なシャトーはいくつかの問題点に気がついていた。
一つに、ラディカのあまりの美貌は目立ち過ぎるということ。順調な旅の進行を考えれば、存在するだけで注目を集め、話題を呼び、人だかりを作り、ニュースになるであろうラディカの顔面を、やすやすと公衆の面前に晒すわけにはいかなかった。ただし、これは、方方でプチパニックを起こす程度の問題なので、さして重大ではなかった。
…重大なのは、二つ目。それは、ラディカが、本当に“ラディカ”だとバレてしまう危険性が、ごく僅かではあるが、存在しているということ。
…実は、殆どの王国民相手に、ラディカが身バレする可能性が限りなくゼロだとしても、ごく一部の人間にはラディカが“復活した張本人”であると気がつける可能性が、限りなく微小だが確かにあった。
ごく一部の人間とは、たとえば、かつてラディカの側で仕えていた従者や、兵、その他、シテの住民など。つまるところ、ラディカのことを実際に見たことがあるどころか、肌で“ラディカ”を経験している人。
…いや、今から向かうのはド辺境のアメリーなんだから気にしなくても良いじゃん。…平時なら、そう楽に構えても問題はない。
しかし、近年のアメリーの街は少々事情が異なり、慌ただしかった。
というのも、アメリーは、幾年か前から始まった魔族の再侵攻を受けて、かつての役割、…前哨基地としての役割を取り戻しつつあり、現下、王国中から軍事力と物量が集結していた。そのために、今でも丘から見下ろせるアメリーの壁門には、門を行き来する、本来ならシテに常駐しているはずの王立軍の重装騎兵や高位魔術師、更には、各地からやって来た大量の物資を積んだ荷馬車が多数見えた。
「(…あの中に、ラディカ様に接触したことがある人が完全に居ないと考えるのはあまりにも不自然。…まさか、禁断である『建国記』や“祝福”のことを知る人はいないだろうけど、“ラディカ様の存在が露見した場合に起き得る危機”は、身を預かる者として、常に予測して、防ぐべきだよね…)」
…軽い思考実験だが、もし、万が一、被処刑者が“神懸かり的理由”で生存していたという事実が、権威性こそ価値の政治の世界に知れ渡ったら、一体どうなってしまうのだろう?
元より、ラディカは絶対的な権力者で、存在自体が王国政治のパワーバランスを揺るがす存在だった。のに、そんな彼女が、神の御業で復活して、絶大だった権威性を更にパワーアップさせて、今現在の王国政治、…つまり、“ラディカという巨大過ぎるピースが存在しないことを前提に構成された権力構造”に戻ってきたとしたら、果たしてどうなる?
揺らぐことを忘れ、静かに凪いでいた湖に、いきなり巨大隕石を投げ込んだら、どうなる?
…間違いなく、想像を絶するパニックとカオスが起こる。王国政治の未来は悲惨に突き進み、内紛や醜い貶め合いが過熱することは必須で、あらゆるものが闘争により焼け焦げ、その身を蒸発させてしまう。軽く、甚大な被害が発生することが目に見える。
…それに、何よりも、ラディカ自身を駒として利用される身に墜とし、幸せから隔絶させてしまう。
正直、シャトーにとっては、王国政治の将来より、そっちの方が重大な懸念。
ラディカに、『高貴なる冒険』とは程遠い人生を歩ませることになること。それは、あの素敵な姿を知った人間として、何としてでも避けたい。
「(ラディカ様には申し訳ないけど…、ラディカ様が“ラディカ様”であることは、絶対に知られてはならない…!)」
それこそが、シャトーがこの旅を始める上で決心した留意の一つであった。
…もっとも、それが、シャトーの懸案するほどに巨大な発生可能性を有しているかどうかは、定かではないが。
しかし、とにかく慎重派のシャトーは、せめてこれだけはと、ラディカに顔を隠すことをお願いをしたのであった。
「…ふむ」
「確かに、これは私に相応しい献上品ですわね?」
聖骸布の妖しい赫きに見惚れたラディカは上機嫌になった。
「よくやったわ、下僕。褒めてつかわすわ」
ラディカはシャトーの顎の下をうりうりと撫でて存分に褒めた。
「えへへ…、あ、ありがとうございます…」
シャトーは、褒められたことに照れた。
「(よ、よかった…。私の懸念すること、分かってくれたんだ…)」
それと同時に、彼女はラディカが自分の想いを汲み取ってくれたんだと理解して、喜んだ。
その想いに示し合わせをするかのように、ラディカは、シャトーにニッコリと微笑んでみせた。
シャトーは理解を確信に変えて、更に喜んだ。嬉しくて、ふにゃふにゃになった。
「それじゃあ、ラディカ様…?早速、その聖骸布を…」
「えぇ、そうね」
シャトーの呼びかけに応じて、ラディカは、聖骸布をバサリと翻した。
そして、彼女は、何の迷いもなく、聖骸布をスカーフのようにシュルっと首に巻いた。
…首?
「うん。鏡が無いから姿の確認は出来ないけど、どうせ私のことだから、これも最高に似合ってますわよね。がはは」
…もちろん、顔なんて隠れたわけがない。
「それじゃ、先を急ぎましょ」
「え…」
シャトーは当然、困惑した。だって、なんか思ってたんと違うから…。
「いや…、それは顔を隠す用で…。どっちかっていうと、ストールかマスクのように使ってほしいのですが…」
「なに?私に文句?」
…まぁ、そうっすよねー。そう易々とラディカ様が他人の意図を汲み取ってくれるわけないよねー。
期待、し過ぎてたー。はははー。
はぁ…。
「…はい、分かりました。それじゃあ、幻影の魔術をかけることにしますね…」
「(まぁ…、これでも顔は隠せるから、いいか…)」
シャトーは、対象がブロンドのデブに見える幻影魔術をラディカにかけながら、本当に、本当に大きくため息をついた。
「(分かり合えないかなぁ…、ラディカ様と…)」
……
…
「えぇっ!?タンドまでの車馬賃、そんなにするんですか…!?」
夕刻。アメリーへ入門した二人は、宿よりも先に、翌日の馬車を確保すべく領営の乗合い所に訪れていた(宿から馬車を手配すると、ちょっと割高だから)。
目的地のシテに辿り着くには、アメリーから南東、フラン・ガロ王国と隣国ラティア・ガロ共和国連邦との国境にあるフラン領タンドに向かい、そこから王領リーンを通り、シテまで伸びる南方鉄道に乗り込む必要があった。
ということで、シャトーはまず、タンドまでの馬車を調達したかった。だが、そこで突きつけられたのは、順調な旅の終局であった。
両手に全財産の31フランと6スー(フランは紙幣。日本円で2000円。スーは硬貨。日本円で100円)が入った財布を握りしめるシャトーは、そこまで立派とは言えない、雑な色をした馬の御者に、改めて車馬賃を問い質した。
「あぁ、間違いないよ。ウチみたいなポンコツ馬車…、四等車でも、タンドまでなら最低40フランは貰いたいね」
シャトーは震えた。というのも、普段の馬車の相場は、三等車で15フランであった。車輪がバネで出来てるんじゃないか?ってくらい跳ねる四等車なら、8フランもあれば乗れた。
先刻までのシャトーは、せっかくラディカを乗せるのだから、奮発して三等車を手配しようと思っていた。しかし、どの三等車を当たっても、タンドまでは60フランだとふっかけられた。だから、今に諦めて四等車にあたったのに…。
「ぼ、ぼったくり…じゃなくて…?」
「世情だねぇ。今のアメリーの御者業界は、あまりにも景気が良すぎるんだ。シスターさんも見たろ?街を闊歩する王立軍の兵隊を。王国は、アレを常駐させるために、この街に大量の物資を送ろうとしていて、そのためにバラルダ公領中の馬車を片っ端に買い占めまくってるんだ。それも馬鹿みたいな高値で」
「おかげで、御者はボロ儲けだが、一方で人運びなんかやってられなくなってね。俺だって、小銭でシスターさんを運ぶくらいなら、明日も物資運搬の列に並ぶさ」
「それで…、40フラン…」
「そ、最低限ね」
「そんな…」
シャトーの脳内プランは崩れ去った。同時に、彼女は膝から崩れ落ちた。
「まぁ…、今のアメリーはシスターさんみたいな人でごった返してるよ。せっかくの秋なのに、リーン王領で美食旅行が出来ないって、そこら中の人が食べ飽きたオリーブ煮をつついて嘆いてるさ」
「尤も、野郎共は団子より花。ちょうど冬越えのために必死になってる売女共を食い散らかすべくツロン市に行くのが今時期の楽しみだったのに、それが出来ないからって股間に鬱憤をパンパンに溜めてるよ。はははは」
「…私、一応聖職者なので、そういう話は止めてもらえますか?」
「…は?聖職者っても異端で、しかも野良だろ?いつもファンキーな街頭演説してるくせに、この期に及んで体裁を気にするとか、生意気だね」
四等車の御者は下卑た表情でシャトーを嘲笑った。それに対し、シャトーは何も言わずに俯いた。
「あー…、ははは、流れで煽っちゃった。悪かったね。…でも、ファンキーシスターさんなら、旅行くらい、魔術でどうとでもなるんじゃないのかい?」
「…まぁ、私一人なら、どうとでもなるんですけど…」
シャトーは面倒臭そうに後ろを振り返った。そこには、荷車の上に寝そべって、腹をボリボリ掻いて、呑気に『高貴なる冒険』を読んでいるラディカがいた。
ブッ、と屁をこく音が聞こえた。
「…随分ファンタスティックな荷物だね」
「ホント…ラディカ様ったらお荷物…、じゃない!あの方は私のご主人様です!!」
「ご主人様…?あぁ…、世迷言を拗らせ過ぎて、遂に頭がおかしくなっちゃったのか。まだ若いのに、可哀想だねぇ。値切りはしないけど」
「…まぁ、タンドまで行きたいなら、安宿に泊まりながら車馬賃を稼ぐか、なけなしのお金で徒歩での長旅の準備でもしなよ。とにかく、今ドキの馬車は30フランぽっちじゃ無理だからね」
それだけ伝えて、四等車の御者は「ごめんねー」とシャトーを追い払った。金が無いからどうしようもないシャトーは、トボトボと踵を返すしかなかった。彼女は無言で荷車の元に行き、暗い顔のまま、安宿に向けて荷車を引き始めた。
唐突に動き始めた荷車に驚いたラディカは、シャトーの頭上めがけてたんこぶが出来る威力のチョップをかました。その後、頭を抑えてうずくまる下僕に尋ねた。
「それで?私の馬車はどれになりましたの?言っとくけど、さっき貴方が交渉してたみたいなボロは嫌よ」
ラディカは、向こうに居る四等車と雑な毛色の馬を一瞥して、ペッと唾を吐いた。
「…それすら手配できなかったんですよ」
シャトーはうずくまりながら、苦虫を噛み潰したような顔をして、ポツリと呟いた。
「?…ふぅん?そう?よく分からないけど、それなら他を当たればいいわ。事情が事情、流石に貴方が役立たず貧乏だってことは、私も飲み込めてきましたから、特等車とは言わず、一等車くらいなら甘んじて許してやりますわよ?」
「…そんなの、平時でも無理ですよ」
「えぇ…?一等車って上級貴族が乗る程度の雑魚車ですわよ…?貴方、そんなのも用意できないの…?」
「貴方ってば本当、役立たずですわねぇ…?」
ラディカの下僕であるシャトーは、ジンジンとしたチョップの痛みにも、無神経な言葉の数々にも、何も反撃できなかった。懸命に苦労する彼女は、何もしない、わがまましか言わない。彼女は、ラディカに対し、ただひたすら、下唇を噛んで、涙を堪えて、荷車を引くことしか出来なかった。
……
…
安宿に着いた後、シャトーは心の底から安堵した。というのも、地域一帯の車馬賃が爆上がりしているということは、周辺からアメリーに向かいたい人々の足すらも止まってるわけで、そのおかげで、客足がピタッと泊まっていて困っていた宿屋は、少しでも客を入れようと軒並み宿泊代を大幅に下げていた。
「本当に!?本当に一泊1.5フランでいいんですか!?朝食付きで、二人部屋なのに、そんなはした金で…!?」
「いいさいいさ、是非はした金で泊まっておくれ。私たちゃこの頃、儲けが欠片もなくて困り果ててたんだ。1.5フランぽっちでも、異端のシスターちゃんでも、喜んでもてなすよ」
安宿の女将はおおらかに笑って、シャトーにそう伝えた。
シャトーは嬉しさのあまり、カウンターに掴まりながらピョンピョンとジャンプした。その後、彼女は、宿の外、大通り沿いに停めた荷車の上で、相変わらず小説を読んでいるラディカ(変な奴過ぎて周りの注目めっちゃ集めてる)に駆け寄って、耳をピコピコさせながら喜びの報告をした。
「やりましたよ!ラ…、ご主人様!普段なら3.5フランはかかる宿に、半額以下の値段で泊まれますよ!ベッド2つ借りて、しかも朝食付きで!」
「ん…、あ?なに?宿借りましたの?どこの?」
顔を上げたラディカは、適当に周りをキョロキョロ見回して、借りたらしい宿を探した。
「もう!ラデ…、ご主人様ったら!ここですよ!ここ!」
シャトーは自慢したげに自分の背後にある建物を指さした。…ただ、それは、宿屋と言うより民泊で、一軒家に屋号の彫られた看板がついただけの建物で、まさにボロの安宿であった。
「…は?何よコレ?宿じゃなくて下民の豚小屋じゃない。馬鹿ねぇ貴方。宿ってのは、もっとこう、綺羅びやかで、大きな扉があって、玄関に使用人が何人も並んでるような場所ですわ」
ラディカは歪な常識に基づいて、シャトーに対し、呆れたとため息をつき、首を横に振った。
「…そんなカジノみたいな宿、アメリーのどこを探しても存在しませんよ。ここ、一応街ですけど、本質的には田舎ですよ?」
せっかく気分が良かったのに、ラディカの妄言のせいで興が削がれたシャトーは、眉をひそめながら、呆れたとため息をつき返し、首を横に振り返した。
ラディカは唖然とした。
「…マジですの?こんな豚小屋が、この街で一番良い宿屋ですの?」
「…えっ、いや、安宿だから一番良い宿なワケが…」
シャトーは反射的に否定しようとした。しかし、そうやって否定してしまったら『一番良い宿に泊まらせろ』論争が始まるであろうことを、彼女は余裕で感知できた。
彼女は、もう、面倒臭くなった。
「…いや、そうです。その通り、ここがアメリーで一番良い宿です」
「(私たちの身分に相応って意味ではね…)」
だから、彼女は主に嘘を付くことにした。…俯いて、目を逸らして、申し訳程度の言い訳を心の中で付け足して。
…なんだか、シャトーは段々とラディカという人間を理解してきた。
ラディカには、確かに良いところもあるんだけど、現状、それを覆い尽くし、有り余るほどに悪いところばかりなんだということを、彼女は理解できてきた。
…ただ、シャトーは、只今に発揮されるラディカの悪いところの根本的な原因が、自分が故人であり、もう、横暴できる身分にないことを認知できていない点にあるのではないかと仮定していた。
すると、それさえ解消できれば、悪いところは、つまり、権力に裏打ちされた“悪女”なところは、自然と消滅するんじゃないかと予想していた。
…だから、シャトーはむしろ、ラディカがアメリーで文句を言いまくり、その結果、現実に揉まれまくることは良いことじゃないかと考えていた。
…それは、凄く“残酷な方法”だけど、後々、わがままを理由に、大掛かりな旅の途中で手を付けられない程の大問題を起こされるより、アメリーで何度と辛い現実に直面して、挫折して、ゆっくりと、“もう、何もかもが自分の思い通りにはならないんだ”ということを、学んでいってもらえれば、それがベストだと企てていた。
私には、いくら迷惑をかけてくれても構わないから。
ゆっくり、ゆっくりと学べばいい。
私は、きっとそれに付き添う。
…ただし、シャトーは、その計画が、『ラディカがシャトー以外には危害を加えないこと』『ラディカの怒涛で果てしない癇癪に対し、シャトー自身が辛抱強く我慢できること』を前提にしていることを失念していた。
彼女は、ラディカという人間の良いところを知ってしまったために、ラディカに過度な期待をしてしまっていた。『良いところがちゃんとあるラディカ様なら、きっと変われるはずだ』と、変な希望を抱いてしまっていた。
だから、こんな無茶で、若干の矛盾さえ孕んだ期待をしてしまっていた。
…後に大きな絶望に変わるかもしれない、そんな危険の“種”を、シャトーはもう既に、飲み下し、心の底に沈殿させてしまっていた。
しかし、今日のところは、種は芽吹かなかったので、シャトーは、ぶつくさ文句を言うラディカを宿泊部屋に案内した後、気持ちを切り替えて、車馬賃を稼ぐために日が暮れた街に駆け出した。
ラディカと分かり合える明日を夢見ながら。
そう、夢見るように、自分に何度も言い聞かせながら。
どうせタンドまで歩いてはくれないご主人様のために、身を粉にするのであった。
【人物紹介】
『ラディカ』
乗り物に乗る前に、何故かトイレに行きたくなりがち。気持ち的な問題じゃなくて、膀胱がマジで絞り出そうとするんだから困る。
『シャトー』
実は汽車って乗ったことがない。どんな感じなんだろうなぁ。私の亜音速飛翔の魔術とどっちが速いかなぁ。
【説明し忘れていたこと】
…大陸には、大きく分けて3つの国が存在します。大陸の北西に、フラン・ガロ王国。王国の東-南東に、ジャー・ガロ帝国諸邦。王国の南-南西にラティア・ガロ共和国連邦。そして、ジャーとラティアの南部国境沿い、…つまり、大陸と呼ばれる部分の端に、スティグマと呼ばれる✝死の大地✝が広がっています。っても言葉じゃビジュアル的に伝わらねぇかガハハ。
…貴族は、三種類に分類されます。一つ目は、フラン家。最高位の貴族です。二つ目は、上級貴族。政治・経済的な重要拠点の管轄を担う貴族です。最後に、下級貴族。辺境のゴミです。