1 (3) 『全裸土下座・屈託のない笑顔』
「ラディカ様〜?おやすみ前に白湯を用意したんですけど、要ります〜?」
消灯前。お気に入りのパジャマワンピース(自作。フリフリいっぱい付けたからいっぱい可愛い)を、“台無しにすべく表裏逆にして”着たシャトーは、湯気の立つマグカップ2つを変性魔術でフワフワ浮かしながら、現下、ラディカの宿泊部屋となっている彼女の自室に入った(客室より狭いけど、客室と違って本棚があるからマシだと、ラディカが勝手に居着いた)。
「…さゆ?」
ランプの薄明かりの中、シャトーの入室に気がついたラディカ(ほかほかの湯浴み後。何も着けず、すっぽんぽんを厳冬用のもふもふ毛布で包んでいる。…あぁ、『ちゃんとした寝間着を寄越せ』とか言われなくて良かった…。そんなのあるわけないし…。普段から自室では裸族らしくて本当に良かった…)は、ちょうど楽しんでいた本をパタンと閉じた後、ベッドに寝転んでいた状態から起き上がり、ペロンとはだけた毛布を直しながら、自分の目の前を浮遊するマグカップに注目した。
「つまり、お湯ってこと?…下民って寝る前にそんなもの飲み下しますの?」
「いやぁ…、普通に働いてる方なら、生姜湯かはちみつ湯だと思いますが…」
「ふぅん。なら、下民以下の飲み物ってわけね?で、味は?やっぱり下民以下の味なの?」
シャトーは、まず『下民の味』がどういう概念なのか分からず、首をひねった。…それと同時に、彼女の“肩より少し上程の長さに切り揃えられた金髪”が主張控えめに揺れた。
「下民以下の味…、かどうかは分かりませんけど、まぁ、美味しくはありませんよ。言うてただのお湯ですし」
「…え?“貴方”、今、美味しくない飲み物を私に飲ませようとしてますの?なに?意趣返し?」
「あー…、美味しくはない…んですけど、落ち着くんです。飲むと、無味で、単に温かいだけだからホッとして…」
「ぐっすり…眠れます…」
「…ふぅん」
「…やっぱりやめときます?」
「…いや、いただくわ」
そう言って、ラディカは眼前のマグカップを手に取った。そして、ズズッと中身を啜った後、表情をほえっと緩めた。
その素直であどけない彼女の様子を見て、シャトーはつい笑みをこぼした。
「(かわいい…)」
その後、シャトーは少しの間、ベッドに寝転び、足をパタパタさせながら、たまに白湯をすすって、時折顔をほころばせて読書をする、楽しそうなラディカを眺めて、ほわんと悦に浸った。だが、そろそろ消灯時間であることを思い出した彼女は、ハッと我に返り、脳を幸せ気分から冷ますべく首をブンブン振った。
彼女は従者モードになるべく少し咳払いした後、伝えるべき事務事を伝えた。
「…こほん、えー、それではラディカ様、明日の朝8時に起こしに参ります。…もう既にそうされているとは思いますが、この部屋の物は自由に使ってくださって構いません。シテまでは長旅になります。どうぞ、今日は存分に羽根を伸ばして、ゆっくりとお体をお休めください…」
「ホテルマンみたいなこと言いますわね」
「現状そうですから…。では、おやすみなさい」
「うん。おやすみー」
…(「あ、ランプは自分で消すわ」とラディカに消灯を断られた後)、寝転んだ姿勢のまま手だけを従者の方に向けてフリフリ振るラディカに、シャトーは小さく手を振り返して、パタリと扉を閉ざした。
彼女は扉を背に、ふぅとため息をついた。
ストレス性のものではない。厳密な理由が分からないため息。…ただ、ラディカに係るため息なのは確か。
「(まだ、お仕えして初日だからかな…。ラディカ様のことが全然分からない…)」
「(すぐに癇癪起こす割に、結構フレンドリーに接しても怒らないし…)」
「(悪女らしく怒ったり、嘲笑ったりするだけかと思ったら、無垢に、あどけない顔をすることもある…)」
…最も不思議なのは、ラディカには“悪女らしい”不機嫌な顔より、“ただの女の子のような”屈託のない笑顔の方がよく似合うこと。
「(どこか悪女っぽくない気もするし…。でも、悪女な部分はしっかり悪女だし…)」
「うーん…」
「わからん…」
「分からんから寝よ…」
シャトーは大きなあくびを一つした後、客室(自室の隣)にのそのそと歩いて行った。そして、彼女はここでようやく、ご主人様の靴用に、客室のベッドからシーツを剥がしていたことに気がついた。
…でも、もうどうしようもないので、シャトーは寝心地最悪のベッドで、気分の悪い夢見を心地った。
……
…
(断片的フィードバック、つまり夢、要するに記憶の再整理)
…全裸で土下座しなさい。
『えっ…』
『…うぇ?』
『なんで…?』
(戸惑う私)
『下民の貴女は知らないでしょうけど、真に人を謝らせるなんて不可能なのよ』
『考えてみれば当然よね。だって、強要って相手に謝る気がないから必要なわけで。行為を強いている時点で、相手が嫌々謝っていることに揺るぎないんだから』
『…だから、謝罪の強制って、本当に虚しい行為なの』
『だからこそ、人は人に罰を与えるの。痛みだったり、苦しみだったり…、相手が本気で謝らない分、こちらが見ててスッキリする享楽を追加するの』
(自分の墓石に腰掛けるラディカ様)
『私の場合は、辱めを与えるの』
『いいでしょ?全裸土下座。痛みもなく、血もでない。痕も残らなくて。それでいて十分に愉快ですわ』
『あ、ヴェールは被ってていいですわよ。あと靴下も。そうでなきゃ、シスターを辱めてるって分かりませんものね。…でも、それ以外の着用は許しませんわ。下着はもちろん、靴や、生理用品すらもダメよ』
(((どうでもいいけど、SってMだよね。
辱めたい人って、辱めている相手に自分を投影して、悦んでるよね。)))
『…え?全裸は嫌?わがままね。なら代替案として、この場で脱糞するでも許してやりますわ』
(強い拒絶)
『それも嫌って…』
『貴女、また嘘つくの?』
(息が詰まる私。さっき自分で喉奥に押し込んだ真綿のせいで、言い訳も言い逃れも出来なくなった)
(…嫌で、嫌でしょうがないけど、震える手で修道服の襟元を握る)
『…分かりました。けど…、お願いですから…、私のありのままを見て、嗤わないでくださいね…』
『嫌よ』
(「さ、始めなさい」の一言を合図に、始める)
(…本当に嫌だから、モタモタ、モタモタと服を脱ぐ)
(しかし、私は確実に脱衣をしているから、着実に裸になっていってしてしまう)
(…なんで修道服って、トップスとスカートが一枚に繋がってるの?憎い)
(…コルセットは着けていない。だから、上半身は、もう素っ裸になってしまった)
(…下だって、もう、ショーツしか履いてない)
(ココ外だよ…?何やってるの…?私…)
(強張る身体、異様な汗)
(剥き出しの素肌)
(襟元から下、スカートから上、…今まで、プライベート空間でしか露出したことのない部分が、私を撫で回すような、舐め回すような、いやらしい屋外の風に晒される)
(異様に冷たい。けど、身体が風で冷やされる程に私自身は変に火照る)
(もう、何も考えられないくらい頭がグルグルする)
(最後に、ショーツも脱ぐ)
(捲れてしまっていた靴下を伸ばす。修道服に巻き込まれて脱げてしまったヴェールを拾って、被り直す)
(…そして、言われた通りの姿になる)
(ヴェールと、靴下だけ。それ以外はなし)
(それ以外は、生まれたままの姿)
(理性が私を内股にする。両手で股間部を隠す)
(必死に、必死に、絶対に見られたくないから、こんなところ、誰かに見られたら、人としておしまいだから、隠す)
(…急に、小教会前のあぜ道が気になり出す)
(…あの小道を通る馬車が本当に少ないことは知っている。…けど、どうしても悪い未来予想が膨らむ)
(誰かが通るんじゃないか…?もし、誰かが通って、今の何も着ていない私を見たらどう思うか…?)
(痴女…、露出狂…、変態…、それとも、もっと酷い言葉を投げかけられる…?)
(本当は、そうじゃないのに、ただ命令されたからやってるだけなのに、私は、嗤われてしまう…?)
(そんな恐怖に、頭が支配される。支配される程に、只今に、私は野外で露出しているのだと自覚させられる)
(あちこちに、被害妄想が走る)
(草木や花々、カマキリやバッタ、空を浮かぶ雲、蟻、地べたで死に絶えている蝶々すらも)
(…私の痴態をジロジロ見ようとしている気がする)
(ラディカ様だけじゃない。この世の誰もが、心の底で私を嗤い、玩び、悦楽の餌にしようとしている気がする)
(この世界そのものが、痛くてしょうがない。冷たくて、苦しくてしょうがない)
(変な汗がいっぱい出る。過呼吸が止まらない。視界がグニョグニョになって、まともに前が見えなくなる)
(なんで、私はこんなに惨めなの?)
(服を着たい。自由になりたい。早く私を人間に戻してほしい)
(惨めさから抜け出して、尊厳を抱えて安心したい)
(身体が震える。助けてほしいと震える)
(足が小刻みに動く。力が抜ける)
(立てない)
(立てない)
『…何をしゃがみ込んでるの?』
『ちゃんと立って、私が貴女を視姦出来るよう、全てを曝け出しなさい』
『そう、自分が低能な猿のように、盛った野犬のように、人間らしい恥も知らずに、何もかもを露出している、獣同然なのだという事実と向き合って…』
『全身に不道徳な恥辱を塗りたくりなさい』
『〜ッ!!』
『…ぅ、うぅ…ッうぅァ…!』
(命令だから、ラディカ様の命令だから、歯を食いしばり、必死に心を奮い立たせて、何とか立ち上がる)
(でも、あまりの悔しさに涙が溢れてしまう)
『手、』
(いやだ、いやだ、いやだ)
『命令』
(命令…)
(あ…、あ…)
(…そうして、最後の砦を剥がれる)
(遂に、ラディカ様に、本当は絶対に見られたくなかった真実までもを見られてしまう)
『…?あら…!』
『まぁ…!そうだったのね…?』
『笑わないでって…、なるほど、ねぇ?そりゃあ…、そんな“素敵なもの”を見せつけられたら笑いたくもなる…』
『貴女のこと、てっきりシスターだと思ってたんだけどねぇ?ふふっ…ふふふっ…ははははは…!』
(ラディカ様が、手を後ろに組んで起立する私を、開かれた痴態を見て、泣くほど笑いながら罵る)
(これ以上無く歪む私の顔。過呼吸が止まらない。辛くて、辛くて、しょうがない)
(死にたい。消えてしまいたい)
(その後、堪能し切ったラディカ様が笑い涙を拭いながら、「はー、無様無様」と昂りに一息をつける)
(…そして、ようやく、本当にようやく、『土下座しなさい』と私に合図が下る)
(崩折れるように土下座する。隠したくてしょうがないものを隠すべく、むしろ積極的に身を縮こまらせる)
(そして、謝罪の言葉を伝える。喉を絞るようにして、千切れるような勢いで)
『…ッこれまで…!私は…!忠誠心もなく…ラディカ様の傍に蔓延って…、大変な不敬と、ご不快をおかけしました…!』
『本当に…、本当に…!申し訳ございませんでした…!これからは…、この通り…!ラディカ様に全てを捧げた…、文字通りの犬として…ッ!貴女に仕えさせていただきます…ッ!』
『だかっ…!だから…!どうか…!お許しッ…、おッ…お許し…ッぐ…、ッを…!』
『わたッ…、わたひに…ッ!お慈っ…お慈っ…』
『ひッ…ィっ…!ッ…ぅぅぅぅぅっ…!!』
(しかし、心が屈辱に耐えきれなくなって、私から嗚咽が漏れ始める)
(止まらなくなる)
(呻くだけになった私。身体が、悲しむことしかしたくなくなって、力が抜けて、地に突いていた腕が崩れてしまう)
(土下座が崩れてしまう。全身が、地に突っ伏してしまう)
(それでも、命令だから、力んで強張った身体を無理やり立て直して、尻を上げて、頭を下げて、土下座を続ける。ヴェールと靴下だけの姿で土下座を続ける)
(そんな私を見て、ラディカ様はまた、耐え切れなくなって、大笑いをする。本当に、本当に私を馬鹿にするように嗤い声を上げる)
(辛さが、悔しさが、心を更に支配する。頭の中がグチャグチャになる。何も考えられない。苦しくて呼吸することも出来ない。それでも必死に、必死に、ラディカ様の従者であろうとする。徹底的な尊厳の破壊にすがりつく。それが私の選んだ道だから)
(けど、もう、殺してほしい)
(…しばらくして、ラディカ様が愉しそうに、大満足そうな顔を私に見せる)
『いいわ。期待以上の余興よ。貴方のこと、凄く気に入ったわ。ふふふっ。えぇ、そうね。貴方の望みを叶えてあげる。一生、私の側で這いつくばることを許してあげますわ』
『…ただし、犬としてではなく、下僕として、ね?ふふっ、我ながら甘過ぎだけど、大のお気に入りになっちゃった貴方が、それでも犬のままなんて、なんだかこそばゆいですものね?』
『大出世よ。本当におめでとう』
(「気を楽にしなさい」と、赦しを得た途端、全身が脱力する。地べたに倒れ込む。身体が土まみれになることも気にせず、ベチャッとうつ伏せになる)
(虚ろに開いた口からは、壊れた笑いしか出ない)
『…さて、下僕。分かってるとは思うけど、私はレジティに用事がある。シテに帰りますわ』
『…でも、まぁ、今すぐに、なんて無茶は言わないわ。貴方は私の大のお気に入りですから、簡単には潰さないであげる』
『明日の朝、それまでに馬車を手配なさい。それと、このボロ布に身を包むのはそろそろ気分が悪いから、私に十分釣り合うドレスと宝飾の用意も忘れずに』
(小教会へ戻ろうとするラディカ様)
『…あぁ、服と言えば、貴方、もし裸が恥ずかしいというのなら、特別に着衣を許しますわ。ただし、私以上に目立つことのない、道端に転がる小石のような服しか許さない』
『それとついでに、貴方の金髪、とても綺麗で気に入らないわ。下僕として適切な長さに断髪しなさい』
『あ…、はは…ははは…、全て…御心のままに…』
(壊れた笑いしか出ない)
『はは…は…』
…
……
「…!!!」
ビクッと飛び起きる。
息を荒くしながら、周りを見渡す。
午前3時37分。
一瞬、7時15分かと思って焦ったけど、短針と長針を混同していただけで、ちゃんと見たら3時37分。
安堵する。
ここが悪夢の中でないことを理解する。
「はぁ…」
トラウマの再起のせいでバクバク鳴った心臓を、再びベッドの上に戻す。更に、安心させるように掛け布団で包む。
…枕から自分以外の匂いがする。
ラディカ様の匂い。
あぁ、ずっと抱いてらしたもんな。
そうか…、そのせいでフラッシュバックしたのか…。
…悪夢の刺激が強過ぎて、バチバチに目が覚めてしまった。
…寝付けない。
「白湯飲んだのに全然寝れない…」
…冴えた目を無理に閉じる。
それでも寝ようと、格闘する。
…ふと、隣の部屋、自室から、呑気ないびきが聞こえてきた。
ぐーすか、ぴーすか。
「…あぁ」
「ラディカ様…、ぐっすり眠られてるんだろうな…」
大きなため息をついた。
…ラディカ様との付き合い、やっぱりやめときゃ良かったかな…。
「…いや」
「もうちょっと…、もうちょっとだけ…」
もうちょっとだけ頑張ろう…。
しっかり向き合って、理解しようとすれば分かるはず…。
私があまり理解してないだけで、ラディカ様だって、本当は素敵な人のはずだから…。
だって、ラディカ様は嘲笑うだけじゃなくて…。
あんなにも、“屈託のない笑顔”をみせる人なんだから…。
無邪気で、かわいい、あの笑顔…。
私にはもう、それくらいしか救いがないんだから…
だから…
私が、信じ切れていないだけなんだから…。
私が…、悪いんだから…。
…
……
………
「まー…ラディカ様ー。ラディカ様ー?おーい」
睡眠不足の翌朝。10時。
シャトーは荷物でいっぱいのナップサックを背負っていた。
「…んぁ?なに?」
礼拝堂の長椅子に寝そべって、昨夜から読み進めていた小説に熱中していたラディカは、シャトーの3度目の呼びかけでようやく反応し、顔を上げた。
「お待たせしました。出発の準備、ようやく完了しました」
「…ホント、『ようやく』よね。貴方如きが、この私をどれだけ待たせるのかしら」
「あはは…、まさか私の方が寝坊するなんて、思いもしなかったものですから…」
8時に起こすと言ったのに、シャトー本人が8時過ぎまで眠りこけていたなんて…。真面目な彼女にとって、これが人生初の寝坊だった。だから、本人自身も驚いていた。
でも、予想できなかったというのは嘘。
あんな時間に寝付けなかった時点で、シャトーは寝坊することを予見できていた。
「ったく、今日は優しく起こしてあげましたけど、次は手厳しく叩き起こしますからね?」
「あはは…ご慈悲に感謝します…」
「(…配膳用の鉄トレイで熟睡中の顔面をバンバン殴りまくることの、どこが“優しく起こす”なんだろう…?)」
でも、ラディカが時間にはちゃんと起きていて、更には起こしに来てくれたこと、シャトーはちょっと嬉しかった。
…「さて」と、ラディカは長椅子から立ち上がり、最後に手元の小説を2,3度一瞥した後、ぱたむと閉じた。
「下僕」
犬に続く、シャトーの新たな呼び名。
当人は微妙な顔をした。
「あの…これは命令とかじゃないんですけど…、やっぱり私の名前、覚えてくれませんか…?シャトーって、ファーストネームだけでいいですから…」
「嫌よ。死ね」
「そうですか…」
「それよりも、ほら」
しょんぼりするシャトーの胸に、ラディカは小説を押し付けた。
「持っていくわ。馬車の中で読むの」
「…酔いませんか?」
「酔っても吐くものが胃に溜まってないから平気よ。誰かさんの甲斐性なしのせいでね」
ラディカは死後未だに機能を果たしていない、スッカスカの腹に手を当てて、シャトーを軽く睨んだ。
「はい…。それについてはもう、マジですみませんでした…」
…いくら貧乏で、しょうがないとはいえ、主の晩御飯にマッシュしたポテトだけってのは、シャトー自身、酷なことをしたと反省していた。
…ただ、一抹、思うところはあった。
今でも悲しい記憶として覚えている。
…貧相なマッシュポテトを提供されたことを、自分への反逆か何かだと受け取って、『これ残飯!?』『ムカついた!貴方、これを全身に塗りたくった後、裸踊りをしなさい!じゃないと絶対許さない!』とブチブチに切れて、キッチンが目茶苦茶になるほど大暴れしたラディカの態度。
…出来るならば、ラディカと、“あのまま、楽しくおしゃべりをして”夕食を共にしたかったシャトーは、幾ばくか不満を感じていた。
…いくら酷いと言っても、手製のグレイビーソースをたっぷりかけて出したから美味しかったはずなんだけどなぁ。
…お義父さんはいつも、美味い美味いって食べてくれてたんだけどなぁ。
…せめて、一口くらい食べてほしかったなぁ。
(ちなみに朝ご飯はなし。ラディカ、朝は食べない派)
「…」
「…?」
ふと、心痛から現に還ったシャトーは、只今にラディカが自分の方をジッと睨んでいることに気がついた。
「…あの」
ジッと、ジッと、睨まれる。
鋭い目つきで…。
…昨日に色々あり過ぎて、もはや、それだけで怖くなる。
「(…もしかして、昨夜の怒りが再燃した…?)」
「(それとも、準備で待ちぼうけにされたこと、まだ怒ってる…?)」
「(それとも、もっと、他のこと…?)」
身が委縮する。
トラウマに沿って、思考が走る。
想像が働く。
「(なに…?何に怒ってるの…?)」
「(…もしかして私、また全裸土下座させられる…?それとも、裸踊りの方…?)」
ラディカのことが、一気に悪女に見え始める。
シャトーの顔が引きつる。
「(嫌だ…、嫌だ…)」
怖い。
何されるか分からない。
「はぁ…」
ラディカの、軽いため息。
シャトーの身体が、反射的にビクッと跳ねた。
「あ…あの、ラディカ様…?その…」
涙目になったシャトーは、ビクビクしながらも、堪らず、ラディカに尋ねようとした。
使えない下僕の、何に対して怒っているのか。
何か、分からないけど、粗相に怒っているなら、直すから。
だから、お仕置きだけはしないで。
私に、慈悲を与えて。
そう、尋ねようとした。
…が、次の瞬間、質問は遮られた。
「はぁ…、カンヂダエ王妃ぃ…」
その、恋煩いに。
「…へ?」
「…あ」
「(ラディカ様が見てるのは、私じゃない…?)」
シャトーは、ようやく気がついた。
只今に、ラディカが使えない下僕を睨んでいるのではなく、下僕が腕に抱かえる小説を睨んでいることに。
もっと言えば、睨むのではなく、この小説を名残惜しそうに眺めていることに。
「(…そっか)」
「(ラディカ様…、本当にこの小説がお好きなんだな…)」
シャトーは、自分から中々抜けない、ラディカへの被害妄想癖を恥じた。
同時に彼女は、ラディカはやっぱり、自分の思った通り“素敵な人”なのかもしれないと、すごく嬉しくなって、微笑んだ。
(…ラディカと付き合うと、感情が二転三転して疲れそうだね)
……
…
(ちょっと回想。なんか今回はこんな語り口ばっかだね)
全裸土下座の後。
恐ろしいことに、シャトーは、ヴェールと靴下だけの格好で、そのまま気絶してしまっていた。
身体の冷えから、彼女は目覚めた。
見ると、夕暮れ。狂気から、一、二時間は軽く過ぎていた。
彼女は、その事実にゾッとして、顔を真っ青にした。が、次の瞬間には、硬直する身体を起立させて、慌てて行動を開始した。
…傷付いた自身の為ではなく、ラディカの命令を遵守するために。
震える手で、自慢の金髪を、言われた通りの長さまでバッサリ切り落とした。
修道服のカフスのボタンが金色だったことに気がついて、目立たない黒の物に付け替えた。
あと、他の命令については…。
「(…怒られるの嫌だから、明日告白しよ)」
今日に心をボロボロにされた彼女は、もうこれ以上、ラディカのことを嫌いになりたくなかった。
その後、シャトーは、夕飯の要望を尋ねるべく、いつの間にかどこかへ消えたラディカを探した。
「(…フルコースとか希望されたらどうしよう…?ウチにそんな余裕はないってこと、訴えたところで、分かってもらえるかな…?)」
「(無理…、かなぁ…)」
「(でも…、料理には自信があるから…、もしかしたら…)」
「(…こんな希望さえ、持つだけ無駄なのかなぁ…?)」
…小教会中を探し回った末、彼女はラディカを見つけた。
ラディカは、シャトーの自室の、本棚の前で、一冊の本を読んでいた。
「あ、ラディカさ…」
シャトーは呼びかけようとした。次の未来に肩を落としながら。
…だが、その時、シャトーは立ち止まった。
ふと、ラディカが何の本を読んでいるのか、…それも、シャトーの入室にも気が付かず、目を釘付けにして、…一体何にそんなに熱中しているのか気になった。
…彼女の部屋の、壁一面に広がる本棚には、幼少期から現在にかけて蒐集してきた本が、ギチギチに全て並んでいた。古今東西の魔導書から、非流通の歴史書、小説、絵本などの娯楽本、雑誌など、とにかく様々が揃っていた(…尤も、大半は幼少期にお義父さんから与えられたもので、最近の彼女の趣味に合うものは少なかったが)。
ともかく、ジャンル、バラエティが豊富であった。
その中で、ラディカが一体何を選んだのか?
…その問いに、ラディカという人間を理解する一糸があるのではないかと、彼女は思った。
一縷の希望があると思った。
シャトーは、“忠誠心を持って、ラディカ様に仕えなきゃいけない”という自分の現状に、光を見出したかった。
自分の一生を捧げなければいけない相手に、可能性を見出したかった。
もっと端的に言えば、彼女は、ラディカが悪女である事実を否定し、ラディカを大好きになれる未来を夢見たかった。
だって、それくらいしか、自分の人生には、もう、希望が残されていないから。
『世間は御方について穿ったことばかり言うがな、あんなもんは全部嘘だ。本当のラディカ様は、きっと素晴らしい方だ』
自分でも、馬鹿な希望だと思う。
だけど…
「(…お義父さんの言ってたこと、もう少しだけ信じてみてみようかな)」
そして、シャトーは、ラディカに気づかれないように、そーっと彼女が読み耽る本のタイトルを覗いた。
見えた。
『高貴なる冒険』
(紹介:『高貴なる冒険』…剣と魔法の世界のお姫様、『カンヂダエ王妃』が全てのしがらみから逃走し、快美な自由と雄大な愛を謳歌する物語。特に高尚な文章も目を見張る技巧もない、ただの少女向けファンタジー小説。挿絵が非常に豊富で、文がスカスカ。普通なら、7,8歳にもなれば卒業する、ゆるふわ幼稚小説)
「…へぇ!」
意外過ぎる本の正体に、シャトーは大きな声を漏らした。
「…んぁ?なに?いたの?」
本に集中していたラディカは、シャトーの一声でようやく彼女が側にいることに気がついた。
「えっ、あっ、いやぁ…、はい…。いました…」
シャトーは、気づかれたことに焦った後、観念した。彼女は何か、いけないものを覗き見してしまったような気がして、申し訳なくなった。
…それもそのはず、『高貴なる冒険』とは、確実に子供向けの娯楽作品なのだから。
…少女による読書を想定して汲み出された無学で単調な言葉遣い、程度の低いリアリティ、妄想的なアクション、陳腐な情景、短絡でご都合主義な恋愛描写。
…それらをニコニコと楽しむ19歳とは、それだけで、背徳的であろう?
(…尤も、私(作者)は、少女小説が対象年齢以上の人間にとって楽しめない物だとは言わない。思い出補正か、分野内の技工か、いずれにしても多少なり高尚な理由で、それらに目を見張ることは出来る。しかし、感心は出来ても“熱中”は出来ない。思索を凝らせても“純粋な面持ちで心の底から楽しむこと”は出来ない。だって、大人とは、つまり、そういうおこがましさを手に入れてしまった人間を言うのだから)
…だが、先程までのラディカは、どう見ても夢中に熱中していた。
キラキラした目で、心の底のソコから小説を楽しんでいた。
あどけない、無邪気な、子どものような、…悪女に反する顔をしていた。
「あ、あの…、ラディカ様…、その…、えっと…」
シャトーは、しどろもどろになりながら、ラディカに謝罪しようとした。そして、先ほどの光景を忘れることを誓おうとした。
「…へぇ?…ふぅん?」
しかし、相変わらずシャトーの心境なんて全く意に介さないラディカは、眼前でモジモジするシャトーを一瞥した後、ふと、何かに気付いた顔をした。
彼女は、小説をパタンと閉じた後、それを片腕に抱えた。
そして、ゆっくりとシャトーとの距離を縮め始めた。
「…へ?へ?へ?へ…?」
先の懲罰の痛みが冷めやらないシャトーには、それは、懲罰のための前進に見えた。
彼女は反射的に一歩だけ後退った。
だが、先刻に、自分は犬だと誓いを立てた以上、彼女は飼い主のラディカから逃げることは出来なかった。
だから彼女は、身を縮こまらせることしか出来なかった。足をガタガタ震わせて、断罪を待つしか出来なかった。
ラディカの手が、おもむろに、シャトーの首筋に触れた。ひんやりとした指先。シャトーから、「ひゃっ…!」と情けない声が上がった。
だが、ラディカは、シャトーの小心に追撃するように、彼女の首筋に触れた手を、しとやかに、彼女の後ろ首にまで這わせた。
そして、ラディカは、シャトーの、肩上まで短くなった金髪をジッと見つめた後、柔らかな手さばきでさらりと撫でた。
シャトーは、ビクビクした。また殺されると思って、目をギュッと瞑った。
だが、ラディカは、シャトーに何をするでもなく、ただ、苦笑いをした。
「…貴方だって、女の子なんでしょう?」
「下僕として、私の命令に盲目になってくれるのは凄く嬉しいけど…」
「…流石に、ここまで短くしなくても良かったのよ?」
「…へ?」
優しい言葉。
優しい言葉?
…実際には優しさではなくて、せめてもの情けでしかない言葉だろう。
だが、それでも、先程にズタボロにされたシャトーの心には、そんな不意の温かな言葉がジーンと響く。
更に、ラディカは、シャトーの手首を手に取り、そっと呟いた。
「それとカフス…。ボタンの色まで変えてきてくれたのね?」
「(…!気づいてくれるの…!?こんな小さな変化に…!?)」
ラディカが、優しい手つきでシャトーの手を握る。まさに、功労者を労るように。
「ふふっ…。本当に貴方は素敵な下僕ね…?」
「可愛い…。私のお気に入り…」
「…って、なによ。拍子抜けた顔して」
「へ…、え…?」
シャトーは明確に拍子抜けた顔をしていた。
当然だ。
唐突に、たまらない程の優しさを目一杯に与えられた彼女は、ラディカのことが、まるで分からなくなっていた。
ラディカへの固定観念が、瞬く間に壊れていく。
「(…ラディカ様って、悪女だよね…?)」
新聞が、世間が言う分と、実際に経験した“ラディカ様”は、悪女であった。
それは確か。
…それなのに、今、目の前で、小首を傾げているラディカは、どう見たってただの女の子。
惚けた立ち姿で、『高貴なる冒険』を片腕で、子供みたいな持ち方をして抱かえている。
まるで、自分の大好きなおもちゃを包容するように、胸に本をキュッと押さえている。
その上で、不思議そうにシャトーを眺めている。
まるで、汚れを何も知らない、無垢な少女のよう。
「(…あれ?)」
「(ラディカ様って、ひょっとしてかわいい…?)」
容姿ではなく、内面しか見ることが出来ないからこそ見出だせる、ラディカの愛らしさ。
それが、シャトーの胸を深く刺した。
彼女はドキドキし始めた。
同時に、彼女は『高貴なる冒険』のことが、気になって堪らなくなった。
尋ねてみたい。その小説について。
だって、今の、少女のように可愛いラディカには、『高貴なる冒険』のような無邪気なお話が、本当によく似合うから。
「あの…」
「なに?」
「その、『高貴なる冒険』…、ですけど…」
「…!」
ラディカは、ぴくんと反応した。
「私、それ…、小さい頃によく読んでいて…、好き…だったんですけど…」
「ラディカ様も…、お好きなのですか…?」
「…!!」
ラディカは質問に反応して、一瞬、瞳を輝かせた。
彼女は喜んで口を開こうとした。
…だが、彼女は何かを思い出したのか、行動を留まり、瞳を瞼で塞ぎ、口を紡ぎ、沈黙した。
顔を俯かせ、何か、答え辛そうに、苦しそうな表情をしていた。
「あ…」
「あの…、その…、すみません…。変なこと聞いちゃいました、か…?」
シャトーは、もしかして地雷を踏んだか?とオロオロした。
「いや、別に、そんなことはないけど…」
そんなシャトーを、ラディカは軽く制した。そしてまた、沈黙した。
…その後、遂に観念したのか、ラディカは軽くため息をついた。
「…ここには、貴方しかいませんもんね」
「…このことは、誰にも言っちゃ駄目よ」
そして、ラディカは、本来なら重く閉ざすべきであった口を、ゆっくり開いた。
…ただし、どこか嬉しそうな表情で。
「…この本、『高貴なる冒険』は、昔、お祖父様に頂いた本なの。貰ったときは嬉しくて、しょうがなくて、お話も凄く面白くて、毎日、毎日、紙に穴が空くくらい読み返したの…」
「でも、ある日、お母様に、こんなものは幼稚で非現実的でダメだって言われちゃって…。こんなものは読むなって、取り上げられたの…。買い直すことも許されなくて、それで、私は諦めることにしたの…。何より、私は悪女で、高尚だから…」
「…でも、カンヂダエ王妃がお城を飛び出して、見たこともない場所を冒険して、色んなものを食べて、色んな景色を見て、色んな人に出会って、…恋をして。最後は、自分が一番穏やかになれる、さびれた水車小屋でゆっくりと目を閉じるの…」
「何度も思い返した…。それで、何度も憧れた…。ううん、私はラディカで、世界の頂点に立つ一人だから、誰にも憧れない、憧れないんだけど…」
「でも…、どれだけ心から想いを捨てようとしても、悔しいくらいカンヂダエ王妃のことが大好きなの…」
「だから、いつか、いつかね…?この本を読み返したいって、ずっと思ってたの…」
「…だから、この本が貴方の本棚にあって、本当に嬉しかったの…」
…そのことを、ラディカは顔を真っ赤にしながら、潰れそうな小声で、鳴くように告白した。
…言葉の通り、ラディカの思考は、…育て上げられた、歪な思考は、これを後ろめたい話だと認識していた。
カンヂダエ王妃に憧れていた、なんて、自分の存在意義からして、絶対に他者にバラしてはいけない事実だと理解していた。
だから、彼女は、このことについて、今までずっと、誰にも話さずに、隠していた。
どころか彼女は、ずっと、母の意向に従い、“こんなもの”に反吐を吐き続けていた。
ラディカは、猟奇的で悪女的な好きばかりを表向きには口に出す一方、ずっと、純粋な“好き”を心の内に留めていた。
そんな生活を、死ぬまで続けていた。
…しかし、只今に眼の前に現れた、フラン家とはまるで関係がなくて、かつ、凄く気に入っていて、信頼だって出来る一人のシスター。
シャトー。
だからこそ、ラディカは決壊できた。
全てを告白したことに、凄く恥ずかしくなってしまって…。
赤らめた顔を本で隠して、でも、膨らんだ気持ちは隠し切れなくて、本の裏で、歓心に表情筋が歪めてしまう…。
ただでさえ感情を面に出してしまうタイプなのに、加えて、それが、ずっと抑え込んできた気持ちなもんだから、身体中から、余りにも露骨に出てしまって…。
モジモジして…、目を細めて…、子猫のように鳴く…。
本から少しだけ顔を出して、シャトーに、にへらと笑いかける…。
そんな、自分に正直になったラディカは、本当に可愛かった。
「お好き…、でしたか…」
「えへへ…」
シャトーは、その顔につられて照れた。
同時に、笑みをこぼした。
彼女は、間違いなく、ラディカの本当を見た。
他者の尊厳を踏みにじる悪意ではなく、他者の親切に唾を吐く傲慢ではなく…
屈託のない笑顔を向ける、本当に、本当に可愛いラディカを見た。
…その後、二人は『高貴なる冒険』の、好きなシーンの話で盛り上がった。
日が暮れても、二人の間に笑顔は絶えなかった。
幸せだった。
…だから、あの後、シャトーは自信をもってマッシュポテトを出そうと思った。
フルコースでなくても、あれが彼女の得意料理で、見目は貧相でも、きっと、あんなに可愛いラディカなら喜んでくれると思ったから。
(ちょっと?した回想終わり)
……
…
…最後こそ上手くいかなかったが、その思い出は、シャトーにとって、宝物であった。
初めて、ラディカと通じ合えて、ラディカのことを一人の人として見られて、何よりも、ラディカと笑い合えたのだから。
その記憶は、彼女の心の拠り所であった。
故に、只今に記憶を思い出したシャトーは、心に、じわりじわりと、ラディカへの好きを溢れさせていた。
「…なによ。ニヤニヤして気持ち悪い」
「いやぁ、まぁ…へへへ」
表情筋が緩む。
口蓋が勝手に開く。
嬉しい。なんか嬉しい。
ラディカ様のことが大好きになれるかもしれないなんて意外。全裸土下座の後の私じゃ、想像すら出来なかった。
私は、間違いなくラディカ様の素敵な本性を知っている。
それは偏に、お義父さんの言葉に従って、ラディカ様のことを見限らず、希望を持って寄り添おうとしたから。
信じようとしたから。
その、努力の結果だから。
へへへ。
幸せ。
「…それで?そんなことより馬車はどこ?どこからも足音が聞こえてきませんけど?分かってるだろうけど、私、一等級以下の駄馬車は嫌よ?」
「…」
一気に閉口。ムスッと閉口。
はい出た悪女。飛んできましたわがまま。
幸せな時間、一瞬で終わり。
微笑みなんてスンって消えた。
あーあ、ラディカ様、せっかくあんなに素敵な一面があるのになぁ…。
…本当、止めてくんないかな、それ。
「…いやぁ、まぁ…それが…」
シャトーは、昨日の彼女が打った愚かさの楔を、これ以上無く疎ましく思いながら、悪女ラディカの召喚を下した。
「馬車を手配するなんて、金銭的に考えて、ちゃんとした晩御飯を用意する以上に無理なんですよねぇ…」
……
…
改めて外に出たラディカは、昨日のように周囲をキョロキョロと見回した。
が、やはり、何をどう見ようとも昨日と同じ、無数の丘と僅かな木々しか見つけられなかった。
馬車なんて無かった。
「どうすんのよ、これ」
「…ですから、アメリーまでは徒歩…ってことになります…」
その答えを聞いたラディカは、シャトーの顔面を2,3発ぶん殴った後、眉間にしわを寄せて、酷いブサイクになった。彼女は明確に苛立った。
「…貴方、さっき準備が出来たって言ってましたわよね?」
「…あ、あー、そのー…、そこで言ってた準備ってのはですね…」
シャトーは、ボコボコに凹んだ顔面を回復魔術で修復した後、背負っていたナップサックの巾着を開けてみせた。
中には財布、水筒2本、紙で包んだサンドイッチ2つと、ボロ雑巾のようなタオルで保護した謎の陶器が3点、不思議な色合いの布が1枚、それから、『高貴なる冒険』の一冊が、ひしめき合い、押しつぶし合いながら入っていた。
「アメリーまでの道中での飲食料と、お金と、…あと、小教会中を探して見つけた、旅の資金になりそうな換金物を…」
「それが準備と?」
「はい…」
ラディカは大きくため息をついた。
「…情けない」
ラディカはおもむろに、シャトーのおでこを中指でグリグリと押した。…指の腹ではなく、爪を立てて、皮膚に痕が残るようにグリグリと押した。痛い。
「…貴方、私が用意しろと言ったものを覚えているわよね?」
「馬車と…、ラディカ様にふさわしいお召し物…、です…」
「現状は?」
「現状は…、ラディカ様にはドレスではなく、昨日のチュニックを着回していただいています…。靴も同じく昨日のものを…。また、宝飾は一つも献上できず、化粧道具の一つすら提供できませんでした…」
「加えて…、馬車の手配は出来ていません…。徒歩での移動をお願いしています…」
「そうよね?」
呆れた顔をしたラディカは、シャトーの額をなじる中指をこめかみから頬、顎に伝わせた後、彼女の顎をクイと上げた。
そして、ラディカは人差し指と中指でシャトーの顎の下を撫でつつ、親指を彼女の唇に当てた。親指の先端が唇を押しのけ、歯の前面にほんの少しだけ触れ、唾液の湿り気を持った。歯を押し広げられ、そして、挿れられた。親指の腹が舌の表面や裏頬をゾリゾリと這う。
「歯ぁ、立てたら殺すわよ」
ラディカの指が、シャトー内側をなぞる。悪女の気まぐれが、シスターの小さな口の全部をゆっくりと愛撫する。ツ、ツと感じる、くすっぐったい、じれったい刺激のせいで、シスターの身体がピクピクする。「あ…、ぅ…」と、つい背教的な喘ぎ声が漏れる。軽く、えずきもする。それもまた、小さな快感を生み、シスターを困らせる。
そして、充分な愛撫の後、悪女は「舐めなさい」と言う。だから、シスターは悪女の親指を舐める。しゃぶって、舌を這わせて、…悪女を蜜のように愛する。
そんな光景。
傍から見れば淫靡、傍から見れば蠱惑。
…しかし、シャトーは全く嬉しさを感じていなかった。
彼女は、淫靡よりも萎縮を、蠱惑よりも不快を感じていた。
昨日に咲いた笑顔に比べたら、今の甘美な性愛なんて、まるで無価値。
悪女ラディカなんて、ただの女の子のラディカには、遠く及ばない。
「貴方…、悉く無能ね?」
ラディカが冷たく見下す。
シャトーは見上げるしかなくなる。
だからこそ、彼女は思う。
「(あぁ…)」
「(私、やっぱり、このラディカ様は嫌いだなぁ…)」
「(…この先、どれだけ理解が深化して、私がラディカ様のことを奥深くまで知り得たとしても…)」
「(…悪女なラディカ様だけは、絶対に好きになれないなぁ…)」
「黙ってないで何とか言いなさいよ」
「ふぁぇ…」
「ふざけた返事ね。私のこと舐めてるの?」
「(文字通り、ディカ様の親指を舐めさせられてるから、これくらいの返事が限界なんですけど…)」
「ねぇ、貴方、これどうすんの?」
「ふぃ…ぇぁお」
「(どうするって言われてもなぁ…。無理なもんは無理だし…)」
無能な下僕の口から、親指が抜かれた。
罰は終わり。(罰…?)
ラディカは、ボロチュニックの腰元で指にまとわる湿気を拭いながら、シャトーに言った。
「…まぁ、貴方は私の超お気に入りだから、大抵のことは許してあげるわ。泣いて感謝なさい」
「でも、歩くのは絶対に嫌よ。絶対に、絶対に嫌。何とかしなさい」
「(何とかって言われてもなぁ…。無い袖で舞えって言われてもなぁ…)」
その後、ラディカは、使えない下僕をフンッと鼻で嗤った後、スタスタと墓地に向かった。
下僕、もといシャトーは当然追った。
追いついて見ると、ラディカは、椅子として気に入ったのか、昨日のように墓石に座っていた。脚を組んで、ブスッとしていた。
ただし、それは左端の墓石であった。
「(あっ…、そっちはファンド女皇のお墓…)」
「(…まぁいいや)」
投げやりー。
「はぁ…」
シャトーは、ラディカと付き合い始めてから、何度目になるか分からないため息を深くついた後、仕方なしに色々と考えてみることにした。
…権威の有無とか関係なく、実際問題、今のラディカ様を歩かせるのは酷だよなぁ。
底の厚いブーツ(身長5cm UP!)を履いてる私はともかく、未だシーツを靴代わりにされているラディカ様を半日も歩かせるのは良くないよなぁ。
何より、昨日復活されたばかりだし。今までずっと寝たきりだった人に、長時間の運動なんてさせたくないし…。
…魔術に頼る?
私一人だけなら、変性魔術で空を飛ぶなり、瞬間移動するなり出来るけど、ラディカ様が付属しないんじゃあ、意味無いしなぁ。
召喚魔術、久々に使ってみようかな…?
いやでも、召喚で出てくる魔獣って、大体変なのばっかだし…(腕がアホみたいな数生えたゴリラとか、通常の150倍ネトネトした巨大ナメクジとか…)。
そんなのにラディカ様を運ばせるわけにはいかないよなぁ…。というか、個人的にそんなのと一緒に人前をウロウロしたくない…。ただでさえ、周囲から『異端のシスター』って煙たがられてるんだから…。
あと、物質創造は使えるけど使いたくない。
それじゃあ、魔術ではどうにもならないかぁ。諦めるしかないかぁ。
「うーん…」
考えに煮詰まったシャトーは、ふと、顔を上げてラディカの様子を見た。
ラディカは、いつの間にか怒りを忘れて、呑気に自分の頭上をヒラヒラと飛ぶ秋の蛾を目で追っていた。
首を上に傾けて、口を半開きにして。
あどけなさを超えた、アホっぽい顔で、バカっぽい行動を取っていた。
「(…さっきの威圧感はどこ行ったんだろう)」
「(…やっぱり根本的にはアホなんだろうな、ラディカ様って)」
シャトーは流石に、このラディカは見なかったことにした。彼女は首をブンブン振った。先ほどの威厳の欠片もないご尊顔を記憶から抹消すべく。
「あ…」
ただ、アクシデンタルに、その動作は功を奏した。
シャトーは現状の打開策を講じることが出来た。
ちょうど墓地は、四ヶ月と三週間前まで、じゃがいも畑に使っていた。
……
…
「…ふむ、乗り心地にさえ目を瞑れば悪くありませんわね?この駄馬車」
小教会からアメリーにかけて延々と続くあぜ道。
曲がり、くねり、幾つもの丘を上り下りする小道。
そのど真ん中を、人一人を乗せた土運び用の荷車が、小さなシスターに引かれ、ゴロゴロ転がる。
「そりゃあ…良うござんした…!」
単なる貧乏ガリガリチビシスターでは、発育のすこぶる良い女性をドカッと乗せた荷車を引いて前進することなど、不可能そのものであった。
ただ、シャトーは身体強化の魔術が使えた。
それ故に、彼女は不可能を可能にし、只今に筋肉モリモリマッチョマンの全力以上の馬力を発揮して、ラディカを運ぶことが出来た。
…人力以上、馬力以下の速度で進む荷車。
ガタガタと揺れる。
いくら魔術で身体強化をしているとはいえ、シスターは、奴隷並みの重労働のためにひぃひぃと苦しそうに息を吐く。
…ゆるやかに流れる景色と時間。
遠くでサワサワとざわめく一本の青い木。
よく見ると、ほんの一部は秋の到来を喜び始めている。
ふらふらと頭を揺らす草花。
物言わぬくせになんだか楽しそう。
その周りを飛ぶ、越冬のために頑張って働くクマバチ。
血が繋がってるからか、空を飛べなくても、地を這ってでも頑張る蟻。
不規則にひらひらして、見た目じゃ何考えてるか分からない、地味色だが綺麗な蝶々。
それを妬むように、雑草にふんすと居座る、みっともない蛾。
他、地をうねる名前も知らない、長い虫。
カサカサと、傍にヤモリもいる。イモリかな?
あっ、食べた。
…ラディカは、呆けてそれらを見渡す。
どれも、大したことのない光景。
きらびやかな首都のシテでは、高貴なるフランの禁裏では決して見ることのできない、しょぼい光景。
“誰もが知るラディカ”にとっては、見るに値しない光景。
でも、今のラディカは、シスターと二人きり。
「はぁ…」
…ため息が出る。
何度見ても、ここは王国のド辺境で、ド田舎。
何もない、面白味の欠片もない場所。
…でも、権威の届かない、しがらみも何もない。
“城の外”。
「ふふっ…」
背後には段々と遠のく小教会。
お母様の墓。
しかし、後ろさえ見なければ、周りには悠然な自然が広がっている。
のんびりとした自由が広がっている。
…ラディカは大きく息を吸った。
美味しい空気と共に、気持ちいい心地が肺をいっぱいにした。
ふわっと、幸せが溢れた。
「ねぇ、下僕…」
だからこそ、彼女は、『高貴なる冒険』への好きを語るときのような、震える心に堪らなくなって、シャトーに吐露した。
「本当に、悪くないわね…!この駄馬車…!」
…その言葉は、額面だけはトゲトゲしていた。
「そりゃあ、良う…」
「…いえ、本当に良かった…!」
…しかし、ラディカの内側を知ったシャトーは、微笑まずにはいられなかった。
…だって、今に、そよ風になびいた横髪を大胆にかき上げ、自分の居る世界に夢中になっているラディカは
まるでファンタジー小説のヒロインのような、前向きな喜びに満ちた表情で…。
まさに、憧れの“冒険”をしているようで…。
…屈託のない笑顔をしていたのだから。
シャトーは、そんなラディカが、たまらなく、たまらなく大好きだった。
…あぁ、心の底から想う。
無垢に、無邪気に、あどけなく笑うラディカ様とのお付き合いは、本当に楽しい。
傲慢で横暴なラディカ様とは違って、大切にしたいって思える。
従者として、命を賭しても守りたいって思える。
ラディカ様、ずっとこうだといいな…。
これから向かう、アメリーは歴史ある良い街だ。
不思議なこと、楽しいこと、いっぱいある。
それに、アメリーを抜けた先の、シテまでの長い旅路はきっと、もっと不思議で、楽しみがいっぱいだ。
それこそ正に、自由で、冒険だ。
だからこそ、私は、この旅を通して、ラディカ様の可愛いお姿をたくさん見られるはず。
いっぱい、いっぱい、心が揺さぶられるはず。
「(ふふっ…)」
「(楽しみだなぁ…)」
この旅が終わった時、ラディカ様の全部が、大好きでしょうがなくなれたらいいな…。
それこそ、本当に、いつまでも傍でお仕えしたいって、思えたらいいな…。
…シャトーの心の底に、小さな種が転がった。
何の種かは、まだ知らない。
【人物紹介】
『ラディカ』
バカだから挿絵のない本は読めない。
『シャトー』
一人暮らしだからと、自室の本棚に堂々といかがわしい本を置いてたことをスッカリ忘れてた。その件を、アメリーまでの道中でラディカに詰られた。マジで死にたくなった。