1 (2) 『手に取りたい苦痛・自由を失う自由』
……
…
(回想、つまり伏線)
「ラディカ!君は…、どうしてそんなに悲しくなってしまったんだ!?」
この上ない悲壮のこもった、荒立った声が、恐ろしく長い廊下を独りで歩む、11歳のラディカの背を突いた。振り返ると、そこには血相を変えて彼女を睨む、同い年の少年がいた。
ここはシテ北東部にそびえ立つ、フランの禁裏。その名の通り、フラン家の住まう聖地。大陸で最も古い建造物の一つで、王宮よりも大きな宮廷。
そんな、天に選ばれた者しか入場することが許されない聖域にずけずけと入ることができる存在は、フラン家の面々を除けば、この世に片手指の数もいない。
オルレ・ファルサ・アウクトリタス・エ・レクトル(オルレでいいよ)。
国王の息子。ラディカの幼馴染で、後に第二王子となる男の子。天パな金髪に黄土色の目をした、学業も、運動も、魔術も優秀な、物凄く出来の良い男の子。
…何よりも、ラディカに年頃の甘酸っぱい純情を抱き、彼女のことを心の底から大切に想う、稀有な男の子。
「…はぁ、また説教しに来ましたの?…今度からは貴方を私の許可なく入れないよう、門兵共に言っておこうかしら」
本気で怒るオルレに対し、ラディカは「やれやれ」と肩を竦めて、煽り散らかした呆れ顔を見せた。
そのふざけた態度に反応して、オルレの睨む目は更に鋭くなった。顔いっぱいに憤りを浮かべていて、固く握られた拳は、すぐにでもラディカの頬に飛んできそうであった。
「…」
ラディカはスンと白けた。
何よ、その反応?
真剣ぶって、馬鹿みたい。
面白くない。
「…で、今日はなに?どんな小言を言いに来ましたの?」
「小言じゃない!!!本気の気持ちだ!!!!」
長い、長い廊下にオルレの怒声が響き渡った。
近くにいた執事の一人と、遠くにいたメイドの三人が、声に反応して振り向いた。が、視界にラディカを捉えた瞬間、執事もメイドもそそくさとどこかへ去った。
当のラディカは、「うるさっ」と両耳を指で栓して、やはり、彼を小馬鹿にしていた。
「…ラディカ、僕が今、何に怒っているのか、まさか、分からないわけないよな?」
「えー?なんだろ。貴方今、何をそんなにプリプリしていますの?」
「レジティのことだよ!…君、さっき彼女に何をした!?」
ふむ、と、ラディカは顎に手を当てて、記憶を辿った。すると、彼女の脳に、さっきの出来事…、レジティが頑張って貯めたお小遣いで、昨日ようやく手に入れた、初めての自分のドレスを「センスなーい」と彼女の目の前でハサミを入れ、ビリビリに引き裂いてみせたことが、想起された。
思い出し終えたラディカはニヤッとした。
「別に?いつも通り“仲良し”しただけですわ?」
「…君、それ本気で言ってるのか?」
ラディカを気圧す、ドスの利いた声。
流石の彼女も、今にオルレが向ける、猛烈な悲しみと怒りに感化されて、ふざけた態度を止める。
ただし、反感を覚える。
決して失望も辟易もせず、怒声で息を切らしながら、自分に真摯な言葉を訴える、オルレという存在に、苛立ち始める。
…なんか、コイツにはいつも怒鳴られてばかり。
同い年なのに。
人生経験に大した差は無いのに。
なんでコイツ、いつもいつも私のことを怒るんだろう。
王宮から禁裏って、そこそこ距離あるのに。
なんで、ご丁寧に毎日来てるんだろう。
何が楽しくて、いつでも私に真剣になってるんだろう。
…面白くない。
「…ラディカ。君だって分かってるんだろう?自分が、本心じゃ、レジティを虐めたくないって考えてることを…」
「はっ、戯言を」
「戯言?本当にそうか…?」
「だって、“本来の君”は、そんな奴じゃないだろう?本来の君は、誰よりも天真爛漫で、皆に無邪気に見せる屈託のない笑顔が魅力的な、ただの女の子だろう…?」
「その証拠に、レジティとだって、何の隔たりもない、大の仲良しだったろう…?」
「…」
「…なぁラディカ、君だって覚えているだろう?5年前、僕たち兄弟と君たち姉妹の皆で行った、ラティア南部への避寒旅行を…」
「あの時だって、君はずっとレジティの隣にいて、二人で疲れ果てるまで楽しそうに遊んで、笑って、寝る時だって手を繋いだままだったじゃないか…」
「…覚えてないわ。そんなこと…」
「…!いいや、忘れたわけがない…!今までは、そんな嘘を鵜呑みにしてしまっていたが、もう騙されないぞ…!」
「だって、この前、僕は見たんだ…!君が、自室の机の引き出しから、あの時の写真を取り出して、眺めて、泣いていたことを…!」
「…ッ!」
…なによ。なんなのよ。
いつも通り、私のことをガーッと怒鳴ればいいのに。
…変なところを見られちゃったから?
にしたって…
どうして、貴方は、そんななのよ。
どうして、私のことを簡単に信じるのよ。
…どうして、そんなに優しいのよ。
嫌な切り口。
ゾクッとする。
急に心を温められて、思い出さずにいようとしたことを思い出させられて、気分が悪い。
言い返してやりたい。
気味悪い。心外だ。余計なこと言うなって。
…でも、オルレの言うことが事実だって、自分自身、分かってしまってるから、言い返したくても言い返せない。
口が、身体が、思うように動かない。
いつも通りの悪態を付けない。
オルレの訴えが、私の心に刺さってるのが分かる。
何か、私を蝕みつつあったものが、解かされていくのが分かる。
気持ちが、軽くなる。
…でも、そんな自分に反吐が出て、彼の言葉が、うざったくなる。
キモ…。
立ち去ろうとした。
けど、そうしたら、すかさずオルレが歩み寄って、私の肩を両手で掴んだ。
私を、彼から、事実から、逃さないように
震える両手で、しっかりと掴んだ。
血も涙もない、嫌われ者の私を、彼は離さない。
絶望しそうになっても、泣きそうな顔で、それでも微笑む。
私のことを、必死に想う。
…彼のそういうところ、昔から変わってない。
つい、ほだされてしまう。
…だから、私は歯軋りをしてしまう。
やるせなくなって、身体に怒りが溜まってしまう。
嫌悪感が湧く。
意地でも、悪態をつかなきゃダメだと焦りが出てくる。
拒絶しなきゃって思っちゃう。
面白くない…。
「…ラディカ、僕は何も、君を責めたくてこんなことを言ってるわけじゃない」
「僕は、民衆や従者らとは違って知っている。君は何も悪くない…」
「…全ては君の母、ファンド女皇が悪いんだ…!」
「何の気まぐれか、あの避寒旅行の後、君たち姉妹の前に急に現れて、今まで放棄してきた育児に我が物顔で参加し出したせいで、君は変えられたんだ…。無垢で無邪気な、ただの女の子が本性だった君が、アイツによって、醜い悪女に作り替えられてしまったんだ…!」
「ラディカ…、君は今でこそ、レジティを虐めることを何とも思っていない風で、痛みも、後悔も、全部押し殺して、逆に、過剰なまでの積極性と悦楽を露骨に見せて、彼女を虐めているようだが…」
「そんな感情、全部嘘なんだろ…?」
「…もう、大分前のことだけど、君、もうレジティを虐めたくないと、禁裏から王宮まで一人で駆けて、僕の部屋に飛び込んで来たことがあっただろ…?」
「君、アイツが王宮に君を探しに来るまでの間、泣きじゃくって、大切な妹を傷つけたことを、アイツの命令に逆らえなかったことを、その後悔を、僕に必死に訴えていたよな…」
「…僕は、あの日の後悔が忘れられなくて、今でも夢に見るんだ…。あの、僕の部屋にやってきたアイツに腕を引かれて、連れていかれてしまった君の姿を…」
「だから…、それで…、僕は…、君を…」
…ベラベラベラベラベラベラ
あぁ、もう。
黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって。
何様なんだよお前?
目をうるませて、微かに口角を上げて、まるで「僕は今、目の前の彼女を助けているヒーローなんだ〜!」とでも言いたげな恍惚とした顔をして…。
…え?
まさか、本気で助ける気じゃないよな…?
…マジで?
おこがましくない?
クソが。
この私をほだせただけで、それだけで快挙なんだから、それで満足してどっか行けよ。
不満なら、ご褒美にほっぺにキスでもしてやるよ。
それか、胸くらいなら触らせてやるよ。
だから早く、私の前から消えろよ。
なぁ、おい
なぁ
…
…なんで
なんで、そこまで真剣に、私と向き合ってくれるの?
私に同情して、私を助けようとしてくれるの?
私は、もうこんなに醜いんだよ?
ひょっとして、救う価値があると思ってるの?
あるわけないよ…、そんなもの…。
私はラディカで、フラン家の長女で、もう、それでしかないんだから
私は、私でしかないんだから
だから…
…
…目ぇ腐ってんのか?お前。
「…本当なら、この問題はフラン家の内で解決すべきなのだろうが、残念ながら、君の父、リヴィジョン殿は、君たちの助けになりそうにない…。今にも、聡明なシアン皇がいれば良かったんだが、あの方は先日、アイツに流刑にされてしまった…」
「でも、だからこそ、僕はあの痛ましい事件を材料に、しがらみの多い父上を、国王を説得することが出来た!」
「許可を得た!僕たち王家は、今なら君たち姉妹を助けられる!」
「だから、ラディカ!今すぐアイツの元から離れろ!レジティと共に、王宮に避難するんだ!」
「心配はするな!王家の権威なら、フラン家にだって対抗できる!遠慮だって要らない!母上にも、弟のペニーにも事情は話してある!特にペニーは、君たちに強く同情して、共に暮らすことを歓迎してくれている!」
「…あの時の僕は、弱かった。頭も悪くて、ファンド女皇に手を引かれる君を助けられなかった…」
「本当に、長い間待たせてしまった…。でも、僕は強くなった!これからは、僕が君を守る!絶対に、何を賭しても守ってみせる!」
「だから、君はもう、母親の呪縛から解放されていいんだ!」
「君らしく、幸せになっていいんだ…!」
…やめろ
やめろ
私を助けようとするな
私を助けて、今までの私を否定するな
私に愚かさを悔いさせるな
私はもう諦めてるんだ
私のことを
優しさに包まれる価値なんて
私にはもう無いんだ
だから、お母様のせいだなんて、そんな簡単に私をまとめるな
私を被害者にするな
私は加害者だ
最低なんだ
もうどうしようもないくらい、救いようの無い奴なんだ
だから、やめろ
「今まで辛かったよな」
「もう、頑張らなくても良いんだ」
なんて言って、私を慰めるな
私を楽にするな
苦しみから解放して、自由にするな
やめろ。
これ以上は
本当にやめろ
優しく、私の頭を撫でるな
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
やめろ
「…面白くない!!!」
…耐え切れなくなったラディカは、甲高く叫び、足踏みを思いっ切り鳴らした。
その爆発に、オルレは一歩、後ずさった。
だが、彼はそれでもめげすに、ラディカに寄り添おうとした。一歩下がってしまった分、一歩近づこうとした。
だから、ラディカは力任せに、彼を両手で突き飛ばした。
自分から、彼を遠ざけた。
「なっ…」
ドタッと尻もちをついたオルレは、それでも立ち上がろうとした。諦めずに手を、差し伸べようとした。
だが、そんな彼を、ラディカは威圧するように見下した。この上なく冷たく、鋭く。
…ただし、暗い、辛い、苦しい、自己嫌悪に該当する感情を抱いた顔で。
彼という存在を、やつ当たり的に憎んだ。
「ラディカ…、なんで…」
「なんで?なんでって…!そんなの…!」
…そして、ラディカは、オルレに対し、叫んだ。
…少し前までは対等な友達で、何でも話し合えて、笑い合えたのに。
そんな彼に、彼女は叫ぶしかなかった。
「いい加減にしてよ!勝手に私を定義しないで!『君は変えられた?』『醜い悪女に作り替えられてしまった?』…他人のくせに分かった口聞かないでよ!!」
本当はこんなこと言いたくない。
でも、続けなきゃいけない。
私のために。
お母様のために。
“私が私である意味”のために。
嫌なのに。嫌なのに。
本当は凄く嫌なのに。
それでも、お母様のことが大好きだから。
「貴方の話なんて全部デマカセよ!今の私こそ、紛れもない私!えぇそうよ!悪女こそが“私の本性”!生まれてから、死ぬまで、ずっと!誰が何と言おうと、たとえ貴方が、私が、否定しようとも、この無様な有様こそが、私そのものなのよ…!!」
「だから…、だから…、だから…!」
こみ上げてくる、あまりにも熱くて、寂しくて、苦い思い。
それらに溺れて、ラディカは窒息しながら、それでも拒絶を叫んだ。
そうして、壊れたラディカは、どこかに飛んでいってしまいそうなフラフラな身体で、無秩序なステップを踏み、狂気的なダンスを愉しみながら、オルレが差し伸べた救いの手を、ぞんざいにあしらった。
彼の想いを無下にして、絶望する彼を見て
ラディカは嫌らしく、悪女らしく、高笑いをした。
…だが、その時の彼女は、誰がどう見ても、目に涙を浮かべていた。
助けてと、訴えていた。
そして、遂に自分から何もかも失ってしまって、ラディカは、力尽きてしまった。
笑うことも、踊ることも出来なくなって、唯一出来た、現状に対する抵抗とは、ただ、弱々しくオルレに背を向け、本心を隠すことくらいなものだった。
彼女は、だらんと肩をずり落として、気力なく、か細い声で、彼に呟いた。
「お願いだから…」
「本当に私のことを想ってくれるなら、お願いだから、私のことは諦めて…」
「…私が諦めてるんだから、貴方だって、諦めてよ…」
ラディカはもう、オルレのことを見たくなかった。
「…もう散々言いたいこと言ったでしょ。…用が済んだらサッサと帰って。…そして、二度と来ないで」
「…さよなら」
だから、彼女はそう言って、先が見えない、暗闇しか見えない、あまりにも長過ぎる廊下を、道を歩き出した。
ただ
「…あ」
「でも…」
「私、貴方のことは、嫌いじゃないから…」
「そこだけは、勘違いしないでね…?」
最後に、何気なく
それだけ、遺言のように伝えて
…オルレの顔が、真っ青になった。
遂に、ラディカから切り離されてしまったオルレは、自死に等しい道に進み出した彼女に、必死に手を伸ばした。
そして、叫んだ。
「待て…、待ってくれ…!僕は…!」
「僕は…!ただ、ずっと…!君のことを想って…!君のことを…、君のことを…!」
しかし、段々と離れていくラディカの後ろ姿は、只今にオルレを拒んでいること、更生の未来を拒否したことを酷く物語っていた。
「あ…、あぁ…、あぁぁっ…!!」
故に、憐れなオルレの最期の叫びは、光から遠ざかるラディカに対し、虚しく、無価値に、消え落ちるしかなかった。
何の想いも届かなかったことを理解した彼は、生気を失い、崩折れ、うめき声を上げ、最後には、丸まって嗚咽を漏らすだけの肉の塊と化した。
…もっとも、そんな哀れな嗚咽もまた、届かない。
何も、ラディカには届かない。
オルレは何も、届けられない。
昔のまんま、弱くて、弱くて、弱いから…
…そんな訳がなかった。
オルレの叫びは、うめきは、嗚咽は、彼女の耳にちゃんと聞こえていた。
届いていた。
ラディカは、彼の想いを受け止めていた。
だからこそ、彼女は、溢れる涙を床にボトボト落として、表情をグチャグチャにして、悲しみで胸をいっぱいにしながら、彼以上に嗚咽を漏らしていた。
…しかし、それでも、彼女は決して振り返らなかった。
歩みを、止めなかった。
それが、彼女の選んだ道だから。
自分への、絶望だから。
そうして、ラディカは、オルレから、彼の想いから、そして、自分の本心から逃げるように、長い廊下を歩み、進んでいった。
暗い、悪女の道に入っていった。
…その道が、処刑台に続いていたことは、私にとって、意外ではなかった。
処刑。断罪。無様に首を晒される。
私は、それらを受け入れた。
助かるなんておこがましい。
自分なんて、そうなって当然だと思う。
悪女なんだから。
初めっから、救いようがないんだから。
…けど、ふと、考えてしまう。
あの時、最期の時に、オルレに、それでも諦めずに、何て言ってもらえたら、どうしてもらえたら、私は暗い、苦しい、悲しい道を歩まずに済んだのだろう?
悪女にならずに済んだのだろう?
分かっている。
そんな希望、抱くことすら許されない。
望むことすらおこがましい。
私には、どんな幸せも似合わない。
…でも、それでも、何度も考えた。
自分が悪女であると、日々に悪徳を積み重ねて、凍りの感覚を実感するほどに、身体が狂気に侵食される程に。
私は考えた。
そんな愚行の末に、いつの日か、私は答えを導き出していた。
導き出してしまっていた。希望を。もう、手に入れることのできない、最高の幸せを。何も見えなければ、そのまま狂っていられたのに。
レジティのことも。
オルレのことも。
自分のことも。
諦めて死ねたのに。
…それでも一つ、希望を言っていいのなら
自分の選択に、後悔してもいいのなら
あの時、あの時
ただ一言、ただ一つの行動だけ有ればよかった
オルレに、本当はお母様からしか与えられてはならない言葉を、「愛している」と言ってもらえたら
そして、強引に腕を引っ張って、王宮でも、どこでもいいから、私を無理やり連れ去ってくれたなら
私の全部、全部をほだして、私を支配するように、私という存在の全てを、彼のものしてくれたのなら
私は死なずに済んだのだろう
悪女にならずに済んだのだろう
…最期の最後で他人任せかよ。だっさぁ
(耳障りなノイズ)
『…ラディカ。貴女は私の“本当の娘”なの。お父様と、あの忌々しい男に無理矢理作らされた子じゃなくて、私が生まれてきて欲しいと願って産まれた、素敵な子なの。分かる?貴女はアイツとは“根本の出来”が違うの。あのゴミとは違って、貴女は“私の宝物”なの。だから、貴女は私の思うがままにならなきゃいけないの。宝物の所有者である、私の言うことが全てなの。お父様も、あの官僚野郎も、私以外の誰も、貴女を否定できないの。貴女の思考も、言葉も、行動も、全部。否定できないの。貴女自身にもね』
『何べんも言わせないでちょうだいね。ラディカ、貴女は私の可愛い子で、私の次に尊大でなきゃいけないの。誰にも媚びちゃダメだし、誰とも共存しちゃいけないの。分かる?分かんないわよね?貴女は今まで、私の許可無く、私以外の愛を求めようとしてたんだから。でも、ダメよ。そんなの、ダメ。貴女は一生、私に束縛されて、私からの愛だけを啜ろうと必死にならなきゃいけないの。私に愛されたくてしょうがないと、私を愛して、苦しまなきゃいけないの』
『…素敵な貴女は、惨めな私を肯定するために、私と同じ、いいえ、それ以上に悪女にならなきゃいけないの。それが貴女に許された、唯一の幸せだから…』
『貴女は、悪女にならなきゃいけないの』
(嫌な思い出、打ち切り。勝手に見てんじゃねぇよハゲ)
……
…
「…なるほど?つまり、貴女の話をまとめると、私が今、屈辱的な場所に置かれて、酷い格好をさせられてるのは、全部レジティのいたずらってことなのね?」
「いや、だから…、処刑はレジティ様のいたずらじゃなくて、事実で…」
「だから、その『処刑は事実だ』って頑なに主張する行為こそが、レジティのいたずらなんでしょ?…それと、レジティに“様”なんて付けなくていいわよ?ボケとかカスとか、そんな感じに呼びなさい」
「そんなわけにいきませんよ…!レジティ様はレジティ様ですし、処刑はいたずらじゃなくてマジなんです!マジのマジで大マジなんです!」
「ふぅん、つまり?貴女はやっぱりいたずらの加担者で、あのボケとは共謀者って訳ね?いいわ、貴女の処遇が決まった。この後、アイツ共々衣服を剥いで、柱に縛り付けて、身体中に蜂蜜を塗りたくって、蟻の大群に全身を這わせるの刑に処しますわ。そんで、その無様な様子を、お母様や従者たちと面白く眺めてティータイムしてやりますの」
「あぁ!もう!だから、いたずらじゃないんですってば!いたずらは一旦頭から外して!あと、申し訳ないですけどラディカ様のお母様も処刑されてますからね!」
「…お母様もいたずらの憂き目にあってますの!?いくらなんでもそれは命知らず過ぎじゃない…!?」
「んぁぁぁぁ!!もぉぉぉぉぉ!!分っかんないかなぁぁぁ!!?」
ストレスがマッハなシャトーはヴェール越しに頭を掻きむしった後、フーッ、フーッと猫の威嚇みたいな息を吐いた。対し、ベッドにちょこんと腰掛け、枕をぬいぐるみのように腕に抱いているアホの子ラディカは、やかましさが気に障ったのか、ムッとした。
…そういや、いつの間にか、シャトーはラディカに対して形式的な敬意すら払わなくなった。理由?見りゃ分かんだろ。さっき読んだような低レベルなやり取りを、もう小一時間は続けてるんだ。そりゃ忠誠心も消えてなくなるわな。
…いや、元から忠誠心なんて無い彼女の場合は、素が晒けただけか。
「あぁもう分かりました!ラディカ様にはショッキングだと思うから、できれば見せずにいたかったけど!貴女のご両親のお墓!見ます!?」
「…ふぅん?いいわ、見せてみなさい。その案内のために私の前を歩くことを許す」
「ああそうですかい!」とぷんすかしながら客室を後にするシャトーを、ラディカは軽く見送った。
…ただし、腹に一物抱えて、腕の中の枕を潰さんばかりに抱き締めて。
「…アイツ、本当に私の犬なのよね?」
……
…
客室のある二階から降りて一階、そして、未だにラディカの棺桶が放置されている礼拝堂を抜けた先の扉から外に出、建物をくるっと右に回ると、小教会付属の墓地…、もとい、墓地(笑)があった。…(笑)なのは、墓地が、元々ひもじくじゃがいもを栽培していた場所を、急遽改装して作り上げた、簡易簡素なものだから。
「うわぁ…、何よココ…。何もありませんわね…」
…それは、死後初めて小教会から外に出たラディカの第一声であった。
無理はない。だって、只今の彼女が見渡す限りに広がるのは、無限に続くデコボコと隆起した原っぱと、ポツポツと生えた草木だけだったのだから。
…バラルダ公領の辺境、特に小教会の建つ辺りは、標高50m程度の丘(低山?)が無数に連続する、見通しの悪い、平野の対義語のような地であった。人が住むにはバイタリティか魔術がなければ苦しすぎる地で、事実、ここは人里離れていた。
「一番近くの村でも直線距離で8里はあります。…実際に歩く場合は、起伏を上り下りしなきゃいけないので、その1.5倍はあります。…バラルダ公領の中心街、アメリーまではもっと遠くて…」
小教会以外に存在する人間の跡といえば、小教会正面から少し先に細々と横たわる、獣道みたいな馬車道の一本だけであった。…存在価値の希薄なあぜ道を極稀にコロコロと通る物好きな馬車の一台、それだけが幼少期のシャトーにおける、お義父さん以外の流動的な社会との接…
「そんな説明、クソどうでもいいですわ」
ラディカはサッサと墓とやらを紹介せいと、話の腰とシャトーのこむらをゲシッと蹴った。尤も、蹴りの方は全く痛くなかった。
理由は靴。小教会にはラディカに合うサイズの靴が無かったので、代わりにベッドから剥がしたシーツを真っ二つに千切ったものを、片足ずつに巻いて、只今の彼女の靴にしていたのだった(小教会には、ちっちゃいシャトーのちんちくりん靴と、成人男性のゴツい靴しか無かった)。
シャトーは、無力な暴力しか振るえないラディカに若干ほくそ笑みつつ、ほら、と眼前に見える、膝ほどの高さの墓石の三つを指し示した。
…三つのうち、二つは精巧に四角に切り出されていて、細かな文字が無数に彫られていた。最後の一つだけは、そこら辺から拾ってきたようなただの岩で、名だけが掘られていた。それらが等間隔に並んでいた。
墓地とは、ただそれだけであった(笑)。
「えっ」
「ショボくね?」
その反応は妥当。遠慮を知らないラディカでなくとも、第一印象は同じであったろう(笑)。
「ねぇ犬、これ本当に墓?」
ラディカは、シャトーの後ろ髪をクイクイ引っ張って尋ねた。
「墓ですよ。あと、私の名前は犬じゃなくて、シャトー・ブリアンです」
「は?」
「…なんですか、は?って」
「私に名を覚えろっていうの?」
「そりゃあ、これから長いお付き合いになるんですから…」
「…なによ、偉そうに。私が呼びやすいよう、今から犬に改名なさい」
「えぇ…?」
犬は心外だという顔をした。
「…それで?これらが墓だとして、どれがお母様の墓なのよ?」
「あー…、一番左です。真ん中はラディカ様のお墓(予定だったもの)です」
「一番右のへなちょこなやつは?」
「…私の義父の墓です」
「ふぅん、あっそ」
ラディカは、案内のために前に立っていたシャトーの肩を掴み、グイと横にどかした後、一番左の墓石…、つまるところ、自分の父母が眠る墓をじっと見た。
「これがお母様のお墓…?うっそぉ…」
ラディカは父母の墓の周りをウロウロして、神妙な面持ちでその真偽を確かめ始めた。至近距離で墓石の肌を見つめたり、両手でペタペタ触ったり、付近の土を手で掘ってみたり、お供えの花を手に取りクンクン匂いを嗅いだりした。
「…、」
「(…これで、処刑のことを分かってくれるかな…?)」
そんなラディカの様子を背後から見守るシャトーは、期待と不安でいっぱいだった。
…正直、これで理解してくれなければ、後に残された手段は“本当に残酷なもの”しかなくなる。
だから、シャトーは、ラディカ自身の精神的健康の為にも、比較的ライトな証拠だけで、処刑の事実を理解してくれることを願っていた。
…昼過ぎの長閑な空。優しい陽の光。殺害現場の探偵のようにうごめくラディカ。娘の受験発表を見守るような心持ちのシャトー。
さく、さく、むぎにゅと、田舎の湿っていたり、乾いていたりする土の上をうろつく音。都会っ子であるはずのラディカは意外とすんなり動き回っている。
「(…あんまり抵抗感とかないのかな?虫とか素手でいけるタイプ?)」
…ふんわりと考える頭の上。ゆったりとした雲が泳ぐ。バッタが空を飛ぶ。カマキリが捕獲に失敗する。雑草が緑。花は茶黒。蝶が死んでいる。アリが生きている。
流れる時間。変わらない空間。ぼぇーっとしてきて、意識が飛びそう。
…そんな時、シャトーは頭上にピコンとアイデアを光らせた。
「(…あ!そうだ!ついでにアレをお見せすれば…!)」
妙案。彼女は両手をパチンと合わせて閃きを歓迎した。ついでに、それが考えるほどに良いアイデアだったので、顔をぱぁっと明るくした。
シャトーは早速、墓石に釘付けのラディカを余所に、ササッと小教会に戻った。どたどたと階段を上がり、自室の、宝物入れである机の引き出しから一部の新聞を取り出して、これをしっかり胸に抱えた。
「(これならきっと、ラディカ様のお役に立てるはず…!)」
そして、彼女は、もしかしたら褒めてもらえるかも?なんて楽しいことを考えながら、嬉しそうな顔をして、急いでラディカの元に駆けた。
「ラディカ様ー!これ!処刑当時の新聞!これをついでにお読みになれば、現状への理解が深まるはず…、って、あぁ!!」
…走って取りに戻ったから、時間にして1分も経っていなかったと思う。
それでも、タコ糸よりも切れやすいラディカの堪忍袋の緒はブチギレてしまっていて…
…帰ってきたシャトーの目の前には、自分の父母の墓石をガンガン蹴りつけ、ブッ倒そうとする、不埒で不作法なラディカの姿があった。
「ちょっ…、ちょっと!ラディカ様!お止め下さい!それはただの石じゃなくて、貴女のご両親…、ファンド女皇とリヴィジョン殿のお墓ですよ!?」
慄いたシャトーは、ラディカの暴走を止めるべく、低身長を頑張って伸ばして(それでもラディカに届かなかったからジャンプして)、彼女を羽交い絞めにしようとした。
しかし、体格差とは絶対的なもので、暴れまわるラディカに対し、シャトーはただ、彼女の背に引っ付くリュックのようにしかなれなかった。
「何が墓よ!不敬よ不敬!たとえこれが本当にお母様のお墓だったとしても…、これ!この掘り込みだけは見過ごせませんわ!」
ラディカの視線の先にあるのは、墓の彫刻であった。
…ファンドとリヴィジョンの墓石に刻まれた言葉は、大別すると、名と、弔いの句と、主な功績の三つであった。
このうち、“主な功績”が問題で、元々優秀な官僚であったリヴィジョンの欄には幾つもの功績が記載されていた一方、生まれながらの悪女であったファンドの欄には、『この世から消えてなくなったこと』の一文しか添えられていなかった。
「これを作らせたのがレジティなわけでしょ!?アイツ、お母様のことを舐め腐りやがって!いくら家族でも、今度という今度は半殺しにしてやりますわ!!」
「お、落ち着いてください!それは決してレジティ様が作られたわけじゃ…」
「…あ」
墓石の入手経路を思い出す。
シャトーから怒涛の冷や汗が溢れる。
「あるかも…」
…ラディカの怒りが更に加速した。
じゃじゃ馬ロデオ。
「やっぱり!これでレジティのいたずらって私の主張は確定ですわね!?…あの野郎、まだ処女ですわよね!?それなら適当な浮浪者でも集めてきて、縛り上げたアイツを何日も輪姦させて、生き地獄を見せてやりますわ!」
「いや…!墓石の件はアレですけど、いたずらではないんですって…!あ!ほら!新聞!持ってきました!処刑の様子が鮮明に記されています!しかも写真の印刷付きで!」
シャトーはラディカの背からサッと降りた後、跪き、賞状を渡すように両腕をははーっと突き出して新聞を主に献上した。ラディカは最高度に苛立ちながら、彼女から新聞をひったくった。
新聞は乱雑に広げられた。
フラン・シテ自由労働新聞社発行。主に、シテの工場労働者が愛読する左翼系新聞の一つ。日付は公開処刑の翌日。『特別版』と題され、一面にはでかでかと処刑時の大広場の俯瞰写真が貼られている。加えて、二面、三面にも写真の数々(レジティと第一王子のツーショット写真や、ファンド女皇の生首の写真、ラディカの首無し胴体の写真など、色々)がある。
(…写真の印刷は最近実用化したばかりで、技術面もコスト面も、未だ大量生産には向いていないというにも関わらず、処刑に舞い上がった新聞社は有る袖を全力で振りまくって刷りまくり、これを号外として無料で配ったというのだから、首都のシテは凄い。バラルダ公領、敷いてはフラン・ガロ王国南部のシタニア地区で一般的な新聞なんて、未だに挿絵すら碌に貼られないというのに。っていうか、シタニアの新聞って、未だに速報でも1日遅れで掲載するんだよね。普通に不便だからサッサと何とかしろ)。
「へ、へへっ…、どうです…?ご理解いただけましたか…?」
顛末の好転を祈るシャトーは、ついでに悪い空気を和ませようと、無理くり笑った。彼女は、どうにかラディカに冷静になってもらおうと慌てふためいていた。だが、そうやってヘラヘラする彼女をラディカはギロリと睨み殺した。
ビクッと怯えたシャトーを余所に、彼女はもう一度新聞に目をやった。じっと見た。そして、衝動に任せて、新聞を持つ手に物理の力を込めた。
…答えはNO。
次の瞬間、ラディカはせっかくの特別版新聞をビリビリと破り、破り、破り、細切れにしてシャトーの足元に放った。
「あぁっ!新聞…!!」
「(新聞、レジティ様のご厚意で特別にいただいた大切なものなのに…!)」
シャトーは慌てて屈み、わたわたして、涙目になりながら、元新聞の紙片を拾い集めようとした。
しかし直後、彼女はラディカに胸ぐらを掴まれて、強引に起立させられた。
そして、ラディカに世界の中心は私だと言わんばかりに凄まれた。
「ねぇ、それ今必要…!?私より、嘘つき新聞の方が大事…!?」
「…ッ!」
シャトーは歯噛みした。
違う。
大事なのは新聞ではなく、レジティの厚意。
“大恩人である”レジティへの好意。
「…い、いえ…」
…だが、結局彼女は、ラディカのために、また自分を曲げた。
「ラディカ様の方が…大事です…」
彼女はラディカと自分を天秤にかけて、また自分を殺す選択をした。ラディカのために怒りを飲み込んで、代わりに、彼女が喜ぶ言葉を口にした。
…心にもない言葉。
それで、ラディカの鬱憤が収まると思ったから。
「…ふぅん」
しかし、ラディカの反応は違った。
彼女は、先の平服のときのように、シャトーの形ばかりの忠誠心に満足するかと思いきや、逆に、憮然とした。軽いため息を、白々しく吐いた。
…次の瞬間、ラディカはおもむろにシャトーの頬を叩いた。
ただし、一度だけでなく、五度。
バチン、バチン、バチン、バチン、バチン、と、同じ箇所を、絶え間なく、全て本気の力で。
シャトーは目を白黒させた。
そんな彼女に、ラディカは静かに口を開いた。
「ねぇ…、犬…?さっきからずっと思ってたけど、貴女、少し生意気じゃない…?私の意に反することばかり言って、勝手な行動ばかり取って…」
「これって、どう考えたって調子乗ってるわよね…?」
「…!!」
叩かれて赤く腫れた頬を押さえて悄然としていたシャトーは、不意のラディカの言葉に、胸を突き上げられた。
「…調子になんて、乗ってるわけないじゃないですか…!!」
シャトーは、堪らず言い返した。今までの自分に対して『調子に乗ってる』なんて、あまりにも心外だった。
だから、彼女は怯まなかった。自分の尊厳のために、ラディカの意見を強く否定した。
だが、ラディカはこれが気に入らなかった。彼女は只今に反論したシャトーを封殺すべく、胸ぐらをガッと引き寄せた。
そして、改めて尋ねた。
「貴女は、調子乗ってる。そうよね?」
「…ッ!だから!調子になんか乗って…!」
…るわけないって、言ってるでしょう!?そう言おうとした時。
…ふと見ると、ラディカは胸ぐらを掴む手と反対の手で、拳を作っていた。
目は、明らかにシャトーの真っ赤な頬を捉えていた。
「…ぃえ」
「…調子に、…乗ってました」
だから、シャトーは、穴の空いた水風船のようにしぼみながら、心にも無いことを答えた。
彼女は、苦しそうに俯いた。
胸がズキズキ痛かった。
やりきれない。シャトーは、どうして自分が『調子に乗ってる』なんて言われなきゃいけないのか、分からなかった。別に悪いことしてないのに。ただ、私情をグッと押し殺して、ラディカのために出来ることをしようとしているだけなのに。
「(それなのに、なんで…)」
彼女の中に鬱憤が溜まる。親切を無下にされる苦痛。どころか、いちゃもんをつけられて反感を買われる悲痛。理不尽。無力感。憤り。脱力。それらは必死に抑えようとしても、余憤だけで充分な滞留を起こし、波としての勢いを作る。
「…ラディカ様」
…その、どうしようもない想いが、抑えきれず、喉奥から漏れてしまうのは、ラディカという結核に冒され続けた者の末路として、当然であった。
「…私は犬じゃなくて、シャトー・ブリアンです…」
…ポツリと呟かれたその発言は、歪なラディカに、容易に反抗と受け取られた。
一気に逆立った彼女は、シャトーの胸ぐらを掴む手と、拳を作っていた手を、シャトーの細い首に移し、なんの躊躇いもなく、一気に力を込めた。
シャトーの首が、突如として絞め上がった。
かかとが、ふわりと地面から離れた。
「…っぅがッ!…ぁッ!」
彼女の肺から、悶絶の声が漏れた。
苦しい。
「(息が…、できない…!)」
「らぁ…さ…、やぇ…て…!」
ラディカのたおやかな指が、麻縄のように鋭く食い込む。首で指の型が取られる。気管支がギリギリ締まる。
抵抗。シャトーはラディカの攻撃に対し、生存本能の赴くままに、手足をバタバタさせた。…しかし、やはり体格差とは絶対的なもので、小さなシャトーの懸命な抵抗なんてものは所詮、恵体のラディカにとって、小鳥のはためきに同じだった。
シャトーの表情が、徐々に歪んだ青に変わる。
口元から、泡が漏れる。
身体が、ガクガク震え始める。
…しかし、悪女として成熟してしまったラディカはやはり、そんなこと全く気にしない。
そんなことよりも、彼女は自分の簡単な怒りの方が大事。
だから、シャトーの気持ちを軽々しく踏みにじる。
シャトーを、赴くままに傷つける。
「うざいわねぇ、貴女」
「ねぇ、さっきからずっと思ってたけど、貴女って一体何様なの?」
「百歩譲って、勝手な行動は許してやりますわ。でも、その減らず口はなんなの?ねぇ、なんで、“この私”の主張に対して、頑なに『貴女は処刑された』とか『レジティはいたずらなんかしていない』って、反論できるの?」
「おかしい、おかしいわよね?挙句の果てには名前を覚えろと抗議するって…、プライド無く私の足を舐めることがよく似合う犬畜生の分際でねぇ?本当に生意気ですわよねぇ?」
「が…、ぁ…らィ…あッ…!」
シャトーは答えようとした。何らか、謝罪でも、抗弁でも、何でもいいから、とにかく今の苦しみから解放されるための言葉を。しかし、絞まる喉のせいで彼女は上手く発声が出来なかった。ただ、よだれと鼻水、涙を出すことしか出来なかった。
小教会を出る前にしたような、低レベルなやり取りすら、只今のシャトーには許されていなかった。
不自由。
だが、ラディカは止まらない。
むしろ彼女は、歪んだ知見に従い、何かを口にしようとしたシャトーの動態自体を不愉快だと考え、更に力を加える。
首がこれ以上なく締め上がる。血管か、筋繊維か、骨か、何かは分からないけど、シャトーの首からプツ、コキッと音が鳴り始める。
…死が、本格的に見え始める。
こうなればもう、主張の正しさなんてどうでもいい。そんなことより死にたくない。
シャトーは「ごめんなさい」「助けて」「許してください」と、大粒の涙を流しながら、空の声で何度も訴えた。
しかし、ラディカはそんな痛々しい切実さを呆気なく無視した。
代わりに、彼女は、シャトーの心の底からの懇願をかき消すように、タラタラと自分のどうでもいい言い分をまくし立てた。
「ねぇ、貴女、調子に乗っちゃったのよね?この私に気に入ってもらえたからって、尻尾振って、喜んで、甘噛みくらいなら許されると思っちゃったのよね?」
死が近づく。
シャトーの顔が、真っ青から真っ白に変わっていく。
「でも、ダメよ。そんなの、ダメ。当たり前でしょ?貴女に異見が許されるわけないじゃない。私が右に向けば、全ては右に向くべきなのに、世界はそうであるべきなのに、何がどうして貴女はそれに逆らう権利があると思っちゃったの?」
死が近づく。
吐ける息が肺から無くなる。
新たな空気も取り込むことが出来ない。
肺が空っぽになる。
「私はフラン家の長女で、この世界じゃ、お母様の次に尊大なのよ?私の存在は、“誰の否定も許さない”ほどに絶対なのよ?」
死が近づく。
抵抗しなきゃ死ぬ。
でも腕力じゃ勝てない。
かと言って“本気で”抵抗したら、ラディカ様を傷つけてしまうかもしれない。
そんなの嫌だ。
いくらラディカ様が相手でも、そんなことはしたくない。
だから、お願いだから、本当にお願いだから、手遅れになる前に手を放して。
「分かる?貴女には根本的に、私への肯定と賛美しか許されていないの。貴女には私に抵抗する赦しはないの。分かる?分かんないわよね。貴女は私に否定どころか、命令さえするゴミだもんね」
締める指に、更なる力が加わる。
「…恥を知りなさい」
死が、眼の前に立つ。
もう無理だ。
ラディカ様がどうとか言ってられない。
自分の好き嫌いとか言ってられない。
このままじゃ本当に死ぬ。
死にたくない。
死んだら、今まで苦しんで生きた意味が無くなる。
苦しくても、お義父さんのことを想い続けた意味がなくなる。
だから、死にたくない。
死にたくない。
死にたくないから…
ごめんなさい
…遂に、身体中から酸素が無くなったシャトーは、ラディカによる赦しを諦めて、腕を構えて、魔術の詠唱の体勢に入ろうとした。
自分を守るための行動を取ろうとした。
…その瞬間、ラディカは腕にこもった力をフッと抜いた。自然に、彼女の手から、シャトーの首が離れた。
…唐突に、彼女の命は助かった。…ただ、それは別に、ラディカがシャトーの危機を察知したからでも、寸でシャトーを殺すことを躊躇ったからでもなく、単に、ただの気まぐれであった。
しかし、ともかく、シャトーは助かった。
ドタッと地面に倒れたシャトーは、肩を上下させ、何度も荒く呼吸をした。確かに息が出来るようになった喉元を手で抑えて、自分の生を確認した。
その後、彼女はラディカをキッと睨んだ。
歯を食いしばって、ボロボロに泣いて。
「本当に死んだらどうするんだ!」…そう訴えたかった。
生物としての至極当然の権利、生存。
それは、これまでに心も身体も踏み潰されてきたシャトーに残された、最後の尊厳であった。
だから、彼女は、これだけは何としてでも守りたかった。
これだけは、これだけは、大事なんだと分かってもらいたかった。
…しかし、それにも関わらず、睨んだ先に光っていたラディカの碧眼は、そんな尊厳すら踏み潰すように、当然のように冷徹だった。
冷ややかに、見下し、嘲り、シャトーの全てを許していなかった。
「貴女が死にそうだったから、何なの?」
…シャトーは、その、あまりにもさらりとした、あっけなさ過ぎる残酷さに、魂までもズタズタにされた。
涙が奪われた。
ラディカを恨む目が、怯える目に変わった。
ただ、恐怖は反射的な反応であったため、すぐに消えた。
代わりにシャトーの目を彩ったのは、深い悲しみと、底知れないやるせなさであった。
だが、そんな目をして、絶望して、自分の方を見上げるシャトーを、ラディカは鼻で嗤った。
「惨めね。とてもお似合いよ」
その後、ラディカは、放心してしまったシャトーを余所に、傍に転がっていた蝶々の死骸に寄って、これをつま先でグリグリ躙って遊びながら言った。
「…ま、そうは言っても、貴女は私のお気に入りだから、最後のチャンスをあげる」
「最後に一回だけ、アピールをさせてあげる。忠誠心を測ってあげる。その結果次第で、貴女を飼うかどうか決めますわ」
「まぁ、そこで這いつくばりながら、私という存在の大きさと、貴女という存在の矮小さをよく嚥下しなさいな。そして、次に発する言葉は、何度も反芻して、よく考えた末に吐き出しなさい」
「期待してるわよ。私の可愛い犬」
この期に及んでも、ラディカにとって、シャトーとは犬で、それ以外の何物でもない。
犬畜生程度だから、殺したって何とも思わない。
シャトーは、改めて理解できた。
この人は、本当に私のことに興味がなくて、私のことを何とも思ってないんだなと。
だから、私のことを簡単に殺せてしまうのだなと。
ラディカという人間に、心底ガッカリできた。
シャトーは酸欠による荒い息を整える中、自失な気分に従い突っ伏して、全てを塞ぎ込むような体勢になった。
彼女は、自分の頭と両腕、胴、それから地面の四つで作った仮想の暗闇の中、陰鬱に思った。
投げやりになっていく自分。冷たい、人に対して冷めていく感情。なんだか、冷めるこちらが悪いような気がしてしまうが、いやそうじゃない、ラディカが悪いんだと、良心の呵責で事実を否定しないように努める。
そして、彼女は静かに思った。
…ラディカ様がどこまでもそんな風なんだったら、私だってもういいや。
こんな人のこと、変に気を遣って、親切にしなくてもいいや。
思えば、挨拶すらマトモに交わせなかった時点で、この結末は決まっていたのだろう。
ラディカ様と私では、互いに尊重し、尊敬し合える関係には成れない。
私は、どうしようともラディカ様のことを好きになれない。だって、人の想いを簡単に無下に出来る人なんて、嫌いだから。
私は、ラディカ様の隣では笑顔になれない。だって、ラディカ様は全てが暴力的で、私を傷つけるから。
私は、この人の隣にいればいるほど不幸になる。
できれば、この人とは一緒に居たくない。居たくないどころか、突き放したい。
餞別に一発ほどぶん殴って、そのまま小教会から放り出したい。
…でも、そうは言っても、お義父さんは、私に、ラディカ様に慎んでお仕えしろって言ってたから、私は、それだけは守りたい。
大嫌いなラディカ様はともかく、大好きなお義父さんの意志は、意地でも汲みたい。
…そういや、お義父さん、ラディカ様のことを「きっと素晴らしい方だ」ってそう言ってた。そう信じて疑わなかった。
…残念だったね、お義父さん。実際のラディカ様は、こんなにも酷いお方だったよ。ご主人様にするだなんて以ての外。友達どころか、知人にすらなりたくない、悲しい人だったよ。
私、こんな人に仕えなきゃいけないみたい。ごめんね、お義父さん。
あーあ、本当なら、ラディカ様なんかよりお義父さんに蘇ってほしかったー、…なんて言ったら、私は悪いコになっちゃうんだろうな。
…でもホント、なんでお義父さんは、こんな人に最期まで尽くそうとしたの?サッサと見切りをつければ良かったのに。
ホント、なんで…
なんで…、お義父さんは、こんな人のために殺されなきゃいけなかったの…?
無情。
不条理。
理不尽さ。
道理が通らない。
でも、そんなムチャクチャこそが、この世の真実なんだって。
はは、ウケる。これだから私は神が嫌いだ。
私はただ、お義父さんと一緒に居たいって、それだけしか願ってないのにね。
それも叶わないなら、もういいや。
私なんて、もう。
もう、どうでもいい。
…思考の末、シャトーは遂に、無私になった。自暴自棄に、“私”を“無”くした。
その様子は、一言で言えば、空虚であった。彼女はまるで、亡人のようであった。
でも、そんな自分を、ラディカ様が、お義父さんが望んでいるのなら、そうなってしまおうと、彼女は自分を諦めることにしたのであった。
シャトーは、塞ぎ込んだ体勢から、マリオネットのようにムクリと起き上がった。
「…言葉が決まったのね?」
ラディカが尋ねた。
なので、シャトーは俯いて、彼女の顔を見ないようにして(ずり下がったヴェールのせいで、目元が深々と隠れていて、それが中々、丁度良かった)、機械的に呼応した。
「…ラディカ様の言う通り、処刑なんてありませんでした。…全て、レジティ様のいたずらで、私はそのために使役されたレジティ様の従者です…」
「…今までのことは全て、謝罪します。…私は、調子に乗っていました。…私は、貴女の犬です。…どうぞ、私の命までご自由に、お使いください…」
そして、シャトーはペコリと頭を下げた。
彼女は、それが自分の役目だと思ったから、そうした。
別に大丈夫でしょ。どうせ分からないよ。私の忠誠心がぺらっぺらなことなんて。
バレるわけないよ。だって、ラディカ様は、私のことなんて、何にも見てないんだもの。
「貴女、嘘ついてるのね」
分か…
「え…?」
「なん…で…?」
予想外の言葉に顔を上げる。
瞳孔が開き、虚ろだった頭に視界が取り戻されていく。
ラディカの、冷めた表情。
シャトーは、あからさまに動揺した。
が、彼女は即座、ハッとした。ハッとして、予想外の起因たる自分の頬に手を当てた。
…触れた頬は、滅茶苦茶に歪んでいた。
只今に、ラディカへの鬱憤と呆然自失に押し潰されていた彼女は、無意識に、とても憂鬱な、面倒臭そうな顔をしてしまっていた。
いくら他者に無神経なラディカでも、流石に把握できてしまうほどに、呆れた顔をしてしまっていた。
“誠心誠意、仕えてほしい”と言う、ラディカの期待に反する顔をしてしまっていた。
「あっ…」
「いや…」
シャトーは慌てて己を是正しようとした。
「これっ…、これはっ…そのっ…ちがっ、あっ…」
また、彼女は言い訳をしようともした。
しかし、もう遅かった。
シャトーへの関心を完全に失ったラディカは、不遜なシャトーに暴言を吐くでも、暴力を振るうでもなく、ただただ失望した表情を見せた。
「…せっかく、少しだけ気に入ってたのにね」
「もういいわ」
「あのっ…、ラディカ様…!違います…!これは…!」
「ほら、また私を否定した。やっぱり貴女に忠誠心なんて無いのね」
「ち、ちがっ…、あっ、そうじゃなくて…ちがう…、ちがうのは…」
うすっぺらがバレたシャトーは、必死に弁明した。自分の本心を隠すために、また嘘の言葉を繕おうとした。うすっぺらに、何処まで行ってもぺらぺらに。
本当は忠誠心なんて、どこを探しても無いのに。
対し、そんな、シャトーにとって都合の悪いことばかりはつぶさに感じ取れるラディカは、本当に無関心そうに、彼女にふいと背を向けた。
そして、唯一、横目だけを彼女の方にやって、さらっと吐き捨てた。
「もういいわよ、喋らなくて。貴女みたいな嘘吐きの下衆、罰する気にもなりませんわ」
「それじゃあね。『さようなら』すら値しない人。二度と私の前に顔を出さないでね」
それを最期の言葉として、ラディカは一歩、前に踏み出した。
シャトーから遠ざかった。
二歩、三歩、もっと。
「あ、あのっ…!ど、どちらへ行かれるのですか…?」
「シテに、家に帰って、今頃ふんぞり返ってるであろうレジティのボケを嬲り殺してやるのよ。面倒臭いから付いてこないでね」
歩数が更に足される。
「…アイツ、お母様の次に頂点であるはずの私を馬鹿にするなんて、生意気にも程がありますわ。何としてでも潰してやらなくちゃ…。それが“私が私である意味”なんだから…」
ラディカとの距離がどんどん離れていく。
シャトーは慌てて付いていこうとした。ブツクサと恨み言を言うラディカに、苦し紛れにお供しようとした。一歩、二歩。
…しかし、三歩目は踏み出せなかった。
それを踏み出そうとしたとき、命令無視に勘付いたラディカが、シャトーをきつく睨んだから。
シャトーは立ち止まってしまった。そして、今に小教会の建つ丘を下りつつあるラディカを見つめるしか出来なくなってしまった。
シャトーの身体は動けなくなった。一方で、彼女の心は焦りに焦っていた。
「(…ラディカ様が、お義父さんの想いが、私が仕えるべき人が、目の前から消えようとしている…!)」
「(引き留めなきゃ…!引き留めなきゃ…!何としてでも引き留めなきゃ…!)」
「(引き留め…!引き留め…!引き留め…)」
…待って?
ふと、“当然の思考”が、彼女の脳をノックした。
「(これ、別に引き留めなくてもいいんじゃない?)」
「(だって私、あの人に辟易するほど不快にさせられていたんだよ?『知人にすらしたくない』なんて、失礼な陰口を心の中で呟いていたんだよ?そんな人を、どうして引き留めなきゃいけないの?)」
「(勝手にどっか行ってくれるっていうなら、もう、それでいいんじゃない?『不可抗力で、お義父さんの意志は汲めませんでした。ごめんなさい』で、それで終わりでいいんじゃない?)」
そうだ。
これで解放されるじゃない。これで楽になれるじゃない。これでもう、ラディカ様を介抱する必要も、横暴に付き合う必要もなくなるんだから。これ以上、身体も心も傷つくことはなくなるんだから。
楽になれるじゃない。自由になれるじゃない。
「肩の荷が下りるじゃない…」
…ラディカの傍若無人ぶりを考えれば、これは当然の結末であった。
いや、むしろ、シャトーはよくやったほうだ。
お義父さんのためと、本来なら頑張らなくても良いことを頑張って、よくもラディカに尽くした。
その終幕だというのだ。
うやうやしく敬礼をしよう。
これで、シャトーから重たい責任は無くなる。
彼女は自由になれる。
明日から、四ヶ月と三週間ぶりに自分本位な一人暮らしを再開できる。
このまま黙っていれば。
一歩も動かずにいれば。
俯いた。
彼女は「これでいいんだ」と、心に何度も言い聞かせた。
安心しようとした。
…でも、どうしてか、戸惑いが収まらない。
この、明らかに正しい選択が、自分の解放と気楽に繋がる選択が、どうしても悪いものに思えてしまう。
罪を感じてしまう。
「私は、自由になって…、楽になって…、本当にいいの…?」
シャトーは、今の自分を誰かに肯定してもらいたい一心から、無意識に周囲を見回した。…辺境も辺境。ラディカと自分しかいるはずのない場所で、誰かの意見を求めた。
…当然、誰も彼女を肯定してくれなかった。
誰も居なかったから。
しかし、否定はされた。彼女は後ろ指を差されてしまった。
何故なら彼女は、辺境で、誰も居ない場所のはずなのに、一人、あまりにも大切な人を
見つけてしまった。
見つけなきゃよかったものを。
そこら辺から拾ってきたようなただの岩。
名だけが掘られている。
「…あ」
墓。
「お義父さん…」
溢れ出す思い出。
瞬間、空虚が、シャトーの肩をドンッと押した。
足を踏み外したその先には、やはり地獄が広がっていた。
甘い、甘い、地獄が広がっていた。
……
…
(回想、つまりこれも伏線)
『…シャトーよ。私がお前をシャトー・ブリアンと名付けた意味、覚えているな?』
あどけないシャトーは、拙いながらもハキハキと答えた。
正解だったから、お義父さんが頭をワシャワシャと撫でてくれた。…大きな手。小さいシャトーの頭なんて、すっぽりと収まってしまう。
お義父さんは、シャトーの頭をポンポンと叩きながら言う。何度も何度も、彼女に言い聞かせる。
『…そう。お前はかの姉妹を仇なす全てから守護し、そして、うち滅ぼす強靭な“城”なのだ。…それこそが、お前の存在意義で…』
『…私がわざわざ、お前を拾ってやった理由なんだ』
(幸せな思い出、終わり)
…
……
…そうだった。
お義父さんは私の自由なんて望んじゃいない。
それどころか、お義父さんは、私が永遠にラディカ様に束縛されることを望んでいる。
苦しんで、悲しい思いをすることを望んでいる。
…あぁ、馬鹿だな私。そんなことすら忘れちゃって。
偽りの忠誠心なんて、本当に馬鹿なことだ。
根本的に、お義父さんの意志を汲みたいというなら、初めっから“これをしなきゃ”いけなかったんだ。
それこそが、大好きなお義父さんを信じることで、愛に応えることなんだ。
私がシャトー・ブリアンである意味なんだ。
…私の存在意義なんだ。
「…ラディカ様!!」
シャトーは叫んだ。消えつつあったラディカの背にめがけて叫んだ。
ラディカは唐突な大声にビクッとした後、不機嫌満々な顔で振り返った。
「…なに?まだなんか用なの?」
シャトーは、胸いっぱいに空気を吸った。そして、思いの丈をぶつけるように、ラディカに吐き出した。
「…ここからシテまでは、馬車と汽車を駆使しても丸3日はかかります!何より…、始めの馬車を調達するためには、バラルダ公領の中心街、アメリーに向かわなければなりません!でも!アメリーには、ここから徒歩で半日はかかります!」
シャトーは続ける。ラディカの従者としてあるべき真剣な顔をして、異見ではなく、意見を続ける。
「ハッキリ言って、ラディカ様お一人ではシテどころか、アメリーにすら辿り着けません!だって、ここからアメリーまでは一本道じゃないから!途中に多くの分かれ道、ぐねり道を挟むから!だから…!」
「だから…、ラディカ様にはお供が必要です!」
「…それで?」
「…私には土地勘があります!それに、いざという時には魔術が使えます!…魔術で戦った経験は一度もないから、ちょっと不安ですけど…。でも、お義父さんはよく言っていました!私の魔術の才能は類を見ないほどで、疑いよう無く大陸最強だって…!魔族だって目じゃないって…!だから…」
「…だから?」
…いつの間にか、ラディカは踵を返していた。
ふわりと吹く風に、美しい銀髪をなびかせながら、シャトーの前に佇んでいた。
…心地良い風。ここら辺にはよく吹く、強くも弱くもない、珍しくもないそよ風。
…お義父さんに連れられて、小教会にやってきた時にも感じた、変わらない風。
ラディカの銀髪と同じように、シャトーの金髪も優しく撫で、なびかせる。
自分という、尊厳の死を意味する風。
「だから…!」
シャトーは片膝をついた。平伏の意を表すべく。それだけでなく、今度はラディカに自分を見下してもらうべく、自ら進んで片膝をついた。
心の底からの、忠誠心をもって。
そして、伝えた。
「私を、ラディカの側に置いてください!絶対に役に立ちます!ご命令とあらば何でもします!」
「だって…それが、それこそが…」
「“私が私である意味”だから…!」
…自我のない発言
奴隷根性極まれり
だが…
「“私が私である意味”…!」
…だからこそ、同じ苦しみを持つ、不自由なラディカを強く惹きつけた。
ラディカは完全に、シャトーに心を奪われた。
もう、彼女を捨てる理由がどこにも無くなった。
「…益々気に入りましたわ。貴女、私と同じで自分をよく理解しているのね?」
「面を上げなさい。貴女が心の底から首を垂れていることは、もう十分伝わったから」
ラディカはシャト―の前に屈んで、彼女の顎を指でそっと摘んだ。そして、シャトーの顔は、軽い力でゆっくりと上げられた。
同じ高さの目線。
その先には、優しく微笑むラディカがいた。
「本当に素敵よ。貴女」
「…ありがとう、ございます…!」
シャトーは、涙ぐみながら答えた。
だが、同時に思った。
「(何で私、感謝してるんだろう…)」
「(不自由になったのに…、また苦しむだけなのに…)」
「(でも…)」
それでも、シャトーは感極まっていた。
ラディカに、もう一度拾ってもらえて、
心の底から安堵していた。
同時に、恍惚としていた。
遂に、身も心もラディカに飼われてしまって、
もう、どうしようもなくなってしまって
悦に入っていた。
甘美に、トロトロに溶けていた。
笑顔が、止まらなかった。
束縛されて、自由を失って
これから、ご主人様にたくさん苦しめられてしまうことが
たまらなく嬉しくて、しょうがなくて
犬らしく、尻尾をふりふり振っていた。
シャトーは、愛する人のせいで人生に絶望できて、最高に幸せであった。
…これは、この物語の重大なテーゼ。
幸福とは、苦しみのなさではない。
人は、苦しみのなさ以上に後悔のなさを望む。…というより、人は、心身に壮絶な苦しみを賭しても生に後味の悪さがないことを望む。
また、幸福とは、不自由のなさではない。
人は、不自由のなさ以上に愛の多さを望む。…というより、人は、心身が雁字搦めに束縛されようとも、生に肉欲的温もりと、言葉の安心が満ちることを望む。
幸福とは、生の澱みのなさである。
後悔という、生の推進力に対する障害のなさと、愛という生の加速力の充足こそ、幸福なのである。
全ての人は、無意識にそれを理解している。言葉でどれだけ否定しようとも、魂がそれを肯定している。人は幸福の定義から逃れられない。
だからこそ、ラディカも、シャトーも、只今に己の心を苦しめる選択をし、一方は母に、もう一方は義父に身体を縛られ、奴隷となった。
それが、彼女らの目に、澱みない生であると映ったから。
…ただし、彼女たちは未だ気がついていない。
その選択が、苦しみに見合うほどに、後悔の不在を保証していないことに。
その束縛が、不自由に見合うだけの愛を提供しているかどうか分からないことに。
長生きしたくば、物事には、多少の諦念と妥協が必要だということに。
だから、彼女たちは、己の不健康に戸惑うこととなる。
己の危うさに、正しさを疑うことになる。
彼女たちは、迷い続ける。
一番の幸福を求めて
最もな自分を求めて
苦しみ、自由無く
快楽と、自由に憧れて
歪みながら、それでも生きる。
死ぬまで。
そう、死ぬまで。
…シャトーに起立を許したラディカは、立ち上がる彼女を眺めて言った。
「…そういや貴女、さっき何でもするって言いましたわね?」
「はい!何でもします!何が何でもします!どうぞご用命でも、ご命令でも!」
「それじゃあ命令」
「はい!」
「さっきまでの不敬を侘びて。そのために、この場で着ているものを全て脱いで、全裸で土下座をしなさい」
「はい!…えっ?」
…最後に一つ、大事なレッスン。
これは本当に、残念なことだが、
人間の本性は、変わらない。
どれだけ表層の想いが本物になろうとも、深層にある、本質的に持つ人格と、性質は変わらない。
どこまでいっても、ラディカが、“どうしようもない悪女”であるように、どこまでいっても、シャトーは、“理知的な善人”なのだ。
違和感に、簡単に気づけてしまえる。
だからこそ、世に苦しみと不自由があるのだ。
【人物紹介】
『ラディカ』
冗長でくどい小説は嫌い。
『シャトー』
この後ちゃんと新聞の紙片を全部拾い集めた。そよ風で飛んでいった分もあって大変だった。とりあえず全部お椀に入れた。後で糊使ってチマチマ直そ。
『オルレ・ファなんとか』
主人公のパートナーor恋人としての『メインヒロイン』って言葉はよく聞くけど、『メインヒーロー』って言葉は全く聞かないよね。『メインヒーロー』って言うと、何だか週刊少年誌の主人公か、アメコミのスーパーヒーローみたいなイメージが湧くもんね。え?コイツの紹介?少なくとも『メインヒーロー』ではないよ。