1 (7) 『取り返しのつかない過ち・そして無私へ』
絶望の種が転がる音が聞こえる。
…身体強化の魔術は、超人的パフォーマンスの実現にあたり、身体強度の変性と若干の自然回復を行う魔術であった。
おかげでシャトーは、本来なら致死の一撃であった脳天への鈍痛に対し、重症で済んだ。
…それでも、感じたことのない痛み。
いや?なんか、ぼわっとしてきて、何とも思わなくなったぞ…?
…あれか。
人って、あまりにも痛過ぎると、痛くなくなるのか…。
…ってか、私、今、生きてる?
…生きてる。
けど…
…ぼんやりと知覚できてきた。
私の現状。
路地裏の地面にうつ伏せで倒れている。
背中が軽い。
うっすら目を開けてみると、自分の傍に乱雑に開かれたナップサックがくたばっていた。
ついでに、空の財布も転がっていた。
無造作に開かれた『高貴なる冒険』に、靴の踏み跡があった。
…ッ
頭部から血の滴りを感じる。
ヴェールが妙な水気を持っていて重い。
手で触れると、滴りどころではなかった。
私の頭からは、血が、滝のように流れ出していた。
「(頭の中が軽い…。意識がクラクラする…。考えが上手くまとまらない…)」
ふと、近くから、女性の悲鳴が聞こえた気がした。
いや、それはとても遠いところでの出来事だった。
いや、やっぱり、とても近くでの出来事だった。
正面に視線をやれば、容易に悲鳴の正体を見つけることが出来た。
…ラディカ様が、壁に押さえつけられていた。
暴漢の二人に、押さえつけられていた。
一人(ヒョロヒョロの体型で背が低く、帽子を被っている。以下、帽子と呼称)は立って、ラディカ様の両手を押さえていて、もう一人(ガッシリした体型で背が高く、腕に入れ墨がある。以下、入れ墨と呼称)はしゃがんで、ラディカ様を無理やり開脚させていた。
「(あ…)」
「(強姦か…)」
「(…そういや、四等車の御者が、そんなことを言ってたっけな)」
鑑みれば、この時勢に、人気のない路地裏になんて、見目麗しいラディカ様を連れるべきじゃなかった。
改めて思う。
あの時の私は、やはり、少し正気じゃなかった。
暴漢らが獲物について楽しそうに駄弁っている。
「尻がデカくて揉みごたえがありそう」とか、「下着を着けていないのは、きっと痴女だからだ」とか、そういう、下卑た駄弁り。
嘲笑い。
その片手間に、ラディカ様の弱々しい身じろぎが抑え込まれている。
そして、大した事のない防備…、死装束のチュニックと、スカーフにしていた聖骸布が剥がされようとしている。
よく見ると、ラディカ様の顔面は腫れていた。
他に、右手指の全部が無茶苦茶な方向に曲がっていた。
太ももに根性焼きの痕が幾つもついていた(ラディカ様の股の下に吸い殻が幾つも落ちていたから、多分、それ)。
あらわな腹が痣っぽく青くなっていた。
『決して損壊しない性質』を持つ聖骸布と、今にビリビリに破かれつつあるチュニックに、吐瀉したのであろう胃液が染みていた。
多分、暴漢らに激しく抵抗したからそうなったんだろう。
ラディカ様、目が腫れぼったくなるくらい泣いて、息が続かないくらい横隔膜を痙攣させてしゃっくりしてるのに、全身は恐怖で縮こまらせている。
色んなところ、触られたくないところ、触られてるのに、碌な抵抗が出来ていない。
暴漢らに従順になっている。
もう既に、暴力で躾けられてしまって、そういう抵抗をする気力を奪われてしまったんだ。
「(へぇ…)」
「(…)」
「(…!!?)」
…その惨状に、ぼんやりしていた意識は、ビクッと覚醒した。
「(…なんてこと…!!)」
私は急いで身体に力を込めた。
「(…ッ!目覚めるのが…遅過ぎた…!)」
立ち上がろうとした。
「(早く…!ラディカ様を…助けなきゃ…!)」
現状の危機に呼応し、激った身体が自然と動こうとした。
…だが、一方で、頭の方は至って冷静で、いつだって、私に理知的なアイデアを提供していた。
思考が、私の身体をピタッと止めた。
私はふと、気がついた。
ラディカ様の頭からは、血が流れていなかった。
「(私とラディカ様では、扱いが違う…?)」
考えるに、ラディカ様に負傷こそあれど、命に関わる重症が無いのは、暴漢らが“生きたラディカ様”を欲しているから。
一方で、私の頭に致命的な重症があるのは、暴漢らが、浮世離れした修道服から、私が魔術を行使できるシスターである危険性を連想し、危惧し、殺そうとしたから。
暴漢らは、魅力的なラディカ様の一方で、私に対しては、敵対者としての脅威以外の観点で、まるで興味がない。
現に、暴漢らは、“欲情をそそるラディカ様”のことは視姦する程にジロジロ眺めている一方で、血まみれになって倒れている、貧相な身体をした、ボロ雑巾のような“死体の私”には見向きすらしていない。
…その上で、予見する。
もし、ここで私が再び立ち上がれば、暴漢らは、すぐさま私の方に振り返って、直ちにとどめを刺しに来るだろう。
だって、いくら私よりガタイの良い暴漢らとはいえ、魔術で攻撃されたら、ひとたまりもないから。
私は、立ち上がれば、十中八九、命の危機に晒されることになるだろう。
一方で。
…酷い考えだけど。
…もし、私がこのまま、死んだふりをしていれば、暴漢らは決して私の方には振り向かない。
既に排除が完了した脅威の残骸、そこら辺に転がるただのゴミとして、私のことを簡単に見過ごす。
「(…)」
つまるところ
「(ここでラディカ様を見限れば、私は助かる…)」
息を呑む。
私の表情に、暗雲が立ち込める。
「(ラディカ様…)」
絶望の種が転がるのを止めて、根を生やす準備を始めた。
…普段のシャトーなら、自己保身のために他者を見限るなんてアイデア、思い付きはしても絶対に採用しない。
彼女は、理知的ではあるが、非常に善人なのだ。
本当に心優しい人間なのだ。
だから、人を見限るような真似は決してしない。
…普段の彼女であれば。
残念なことに、現在の彼女は、人に想いを裏切られ、絶望したばかりの彼女であり、“普段”ではなかった。
彼女は、優しさに疲れていた。
下卑た嗤い声と、かすかな悲鳴が、混ざって聞こえる。
多分、恐らくだけど、ラディカ様は、暴漢らに殺されない。
だって、ラディカ様の見目は殺すには惜しすぎるほどに魅惑的だから。
だから、暴漢らはきっと、ここでラディカ様を散々犯した後、自分たちの巣に持ち帰るはずだ。
自慢するために、飼うために、自分たちの従順なおもちゃにするために。
性奴として。
ラディカ様が「殺して」と懇願しても、生かし続けるはずだ。
たとえ、私がこの状況を放置したとしても、少なくとも、ラディカ様の命は確実に助かる。
そんな未来が、簡単に予想できる。
…なら、別に問題無いのではないか?
…確かに、私には、ラディカ様をお守りする義務がある。
しかし、思うに、それは、ラディカ様の貞操等の死守ではなく、命をお守りすることを意味する。
だって城とは、君主の命を護る物であり、決して身の回りのお世話をする物ではないから。
だから、あくまで城でしかない私は、ラディカ様の尊厳のために、努力義務的に動くべきではあっても、絶対厳守をする必要はない。
そんなもの、守れたら守るくらいでいい。
思うに、最善案は、今、重症の状態で下手に動き、暴漢らの格好の的になることではなく、ここを耐え忍んで、後に万全な体制で、有利対面で、彼らの巣に殴り込みをかけることだ。
逆に、ここで下手に、死の危険を侵してまで、ラディカ様の全てを守ろうとするのは愚策だ。
だって、ラディカ様の身を案じる唯一の存在である私が死んでしまえば、それこそラディカ様は、暴漢らから救われる未来を、永遠に奪われることになる。
ラディカ様は一生、陽の光を見ることなく閉じ込められ、惨めな道具として生きることになる。
私が死ぬことこそ、ラディカ様における最大の損失で、最悪の未来で、末路だ。
だから、私は決して死ねない。
ならば、私が今、ラディカに手を差し伸べるのは全く合理的じゃない。
そもそも私は、戦闘向きの魔術師じゃない。
魔術で対人戦闘をしたことなんて、一度もない。
だから、今、この場で暴漢らにタイマンを挑んだところで、勝てるかどうか分からない。
情けない話だけど。
身体強化は、重症による全身へのダメージに耐えることで精一杯になっている。
人気のない路地裏だから、衛兵の加勢も望み薄。
游赫との接続も、意識が飛んだ時に切れたっぽいから、あの子の助けも期待できない。
考えれば考えるほど、私は返り討ちに遭う可能性しか感じられない。
一方で、後日の奇襲なら、私は確実に暴漢らを蹴散らし、ラディカ様を助けることが出来る。
私には、偵察向きの魔獣を召喚する魔術がある。
だから、暴漢らが何処へ隠れようが必ず見つけることが出来る。
加えて、こちらのタイミングで仕掛けるのであれば、充分な準備の下、勝算を上げられるだけ上げた上で、暴漢らに挑める。
事前に、自身に魔術的なバフを何重にもかけて、戦闘向けの召喚獣を何十体も出して、その上で、詠唱に時間のかかる大規模な魔術を宣戦布告に撃ち込み、怯んだ隙に畳み掛ければ、いくら戦闘が苦手な私でも、ほぼ間違いなく勝利を掴める。
考えれば考えるほど、納得がいく。
下手に動かない方が、安パイだ。
後日の解決が、事態に対する最適解だ。
それに、なにより
「(わざわざ、ラディカ様の“無い純潔”のために暴れる必要はないでしょ…)」
「(そんなもののために本気で魔術を使って、関係ない人たちを巻き込むのは嫌だしね…)」
「(贅沢、言わないでよね…。命だけでも、後で絶対に助けてあげるんだから、むしろ感謝してよね…)」
…私は、いつの間にか、ラディカ様を軽率に取り扱うことが出来るようになってしまっていた。
…あぁ、嫌だ。
本当に嫌だ。
気味の悪い感情がこみ上げる。
今に、ラディカ様が喰らっている、心身の束縛や、理不尽な暴力、尊厳の破壊、蹂躙を眺めるほどに
痛みや、苦しみや、辛さや、悲しさを見つめるほどに
「それ、私もずっと味わってきたんですよ」と、ラディカ様の耳元で囁きたくなってしまう。
そんな悪感情が、私の口角をネトリと上げる。
ラディカ様が他者に苦しめられる姿を見るほどに、心が空く。
暴漢らを通して、意趣返しをしているような気分になれる。
悪女に報いを、与えているような気になれる。
「(…あれ?)」
「(私って…、こんなにも悪い子だったんだ…?)」
…そんな私が、無理をしてでもラディカ様をお守りしようだなんて、考えられるわけがなかった。
絶望の種が殻を割り、心の底に突き刺すための根の槍を覗かせた。
…シャトーが今に、ラディカに対して、嫌悪や憎悪、嘲笑しか抱けないのは、偏に、軋轢が未解消なまま、二人が引き剥がされてしまったからであった。
誰が悪いか、というと、劇的に変化した環境が一番悪かった。
だから、シャトーの発想は、不可抗力で、仕方のないことであった。
…だが、そうは言っても、今のシャトーは、少し過激であった。
自分の身勝手な絶望だけを頼りに『ラディカは悪女だ』と簡単に決めつけてしまって。
後先考えずに、自分の身を守ってしまって。
…彼女は、“現状に対しては”、十分で、全く以て正しい思考をしていた。
理知は、よく働かせていた。
しかし、ラディカについては、思慮不足であった。
特に、ラディカに訪れる可能性のある未来のパターン予測が、甘かった。
このミスの要因は、偏に、善性を機能させていないことにあった。
残酷だが、彼女はもっとラディカのことを想うべきであった。
しかし、彼女は今にそれを怠った。
だから、彼女は後に後悔する。
…ラディカ様の小さな悲鳴が、蚊が鳴くような嬌声に変わった。
衣服を捲られ、剥がされ、全てを無理やりに暴漢らの前に露出させられた、あられもないラディカ様は、どうやら自分の未来に諦めが付き始めたようで。
せめて、痛いのはやめてと、媚びを売り始めたようだった。
帽子のヒョロヒョロした手が房を激しく掴み、摘まみ、しだく。
しゃがむ入れ墨のゴツゴツした手が肢体を乱暴に撫で回す。
また、指が、肢体の先にある“それ”にまで侵食し、内に、隠れていく。
本格的に、道具としての扱いが始まる。
これに合わせて、ラディカ様は、僅かにだが、娼婦のように尻を振る。
過呼吸になりながら、少しでも慈悲を分けてくれと、過度に従順になる。
あえぎ声、猫なで声を上げながらも、暴力への恐怖に身を震わせる。
アンビバレントにグチャグチャになる。
…しかし、無視を決め込んだ私は、そんなラディカ様に対して、あえて目を逸らす。
「(知らんぷりー)」
…けど、耳だけはラディカ様の方に向ける。
気になるから。
でも、それだけ。
後は何にもしない。
死体のフリをするだけ。
「(ぶぇ…)」
…時間が経つのが遅い。
「(はぁ…)」
「(…あ)」
…ふと、思った。
ラディカ様、今、どうして、凌辱されて苦しそうなんだろう?
…いや、変な疑問ではないはずだ。
そのはずだよ?
だって、ラディカ様といえば、酷い性生活で有名なのだから。
『たまたま見つけた好みの男を脅して、その男の婚約者の前で密に性交をしてみせて遊んだとか』
『弱みを作ってゆするために実のお父様を押し倒して関係を持ったとか』
(他にも色々)
…処刑後の新聞が散々流布していた悪評を見る限り、ラディカ様は酷いアバズレのはずだ。
レイプだって自ら行う、穴女のはずだ。
下品な情動に、この上なく無頓着な売女のはずだ。
それこそ、新聞に『股が緩く、頭が緩い』と揶揄されるほどに。
それなのに、何がどうして、今のラディカ様は、ご自身の、醜く穢れて腐った肉体を、更に散らすことについて、あんなにも辛く、苦しそうな表情をしてるんだろう?
何が未練なんだろう?
何を失うことが、そんなに悲しいんだろう?
もう既に、色んなものを失っているだろうに。
「(いいじゃん…。どうせ、ラディカ様は悪女なんだから…)」
「(甘んじて受け入れろよ…)」
…酷い、かな。
こんなことを考えるなんて。
でも、それは違う。
それは違って、今までの私が甘過ぎたんだ。
よく考えれば、ラディカ様は、その権力を使って、何人もの無実な人々を理不尽に不幸に追いやった、極悪人なんだ。
それこそ、過去に惨たらしい公開処刑にかけられた程の、凄まじい悪意の持ち主だったんだ。
『悪女ラディカ』なんだ。
この上なく最低な人間なんだ。
そう易々と、幸せになって良い人間じゃないんだ。
だから、今にラディカ様が受ける不幸は、因果応報だ。
死んで、地獄に落ちなかった代わりに与えられた、生きたラディカ様への、相応しい天罰だ。
「(…ま、神様がいるかどうかは、さておきね)」
そう考えると、今に、私がラディカ様を裏切って、見捨ててしまったのも、同じ道理で、因果応報だ。
私だって、新聞に載る程ではないけども、ラディカ様の毒牙にかかった犠牲者なんだ。
悪女に誑かされて、必要以上に傷つけられた、そんな恨みを持つ被害者なんだ。
そんな可哀想な私が、どうしてラディカ様を幸せにしなくちゃいけない?
…いや
ラディカ様には、確かに素敵な部分がある。
それは認める。
でも、そんなものはオマケみたいなもので、根本の部分はやっぱり悪女だ。
新聞や、世間の噂が言う通りだ。
死んでも、死んだ後でも、それは決して変わらないんだ。
絶望して、ようやく知れた。
ラディカ様は悪女だ。
…私は、舞い上がってしまっていた。
ラディカ様の、悪女っぽくない部分を見てしまって。
それが、実は本性なのかもしれないって、馬鹿みたいに信じてしまって。
そのせいで、私は、ラディカ様が、別の何者かに変わってくれるかもしれない、なんて変な期待をしてしまった。
馬鹿な考え違いをして
笑い合えると思い込んでしまった。
幸せに、共に在れると勘違いをしてしまった。
その末に、私の想いは簡単に裏切られて、心が張り裂けそうな程、悲しい思いをした。
あぁ。
馬鹿者だな、私。
ラディカ様は根っからの悪女って、最初から分かってたんだから、もっとドライに接するべきだったのに。
それなのに、存在しない希望を頼りに、鬱憤を押し殺して、何度も自分を言い聞かせちゃって。
本当に馬鹿だ。
「(私、ちょっと良い人過ぎたんだろうな…)」
「(真面目過ぎたんだろうな…)」
『…過度な実直は苦だぜ?突っ走れても、曲がれずに、壁にぶつかるしかないからな』
良い言葉だな。
反省しよう。
そして改めよう。
私は単に、お義父さんの亡き想いさえ汲めればいいんだから。
それが私の義務なんだから。
ラディカ様なんて所詮、そのための道具に過ぎないんだから。
優しさも、温かさも
真面目さも、実直さも
全部捨てて
今、恥部の全てを、暴漢の二人に指や舌で弄ばれている、恥辱的なラディカ様のことは、見なかったことにしよう。
そして、この後起きるであろう全ても、その末路も、考えないようにしよう。
絶望の種が伸ばした根が、ツプ、ツプと心の底に挿入る。
私という存在が、犯され、書き換えられ、消えて、なくなろうとする。
…それがなんとも、甘い快楽のように心地良い。
だって、ラディカ様に絶望すれば、悪女だと決めつけてしまえば、何も考えなくて済むから。
何も期待せず、何も煩わしく思わず、何も悲しまずに済むから。
楽になれるから。
…あぁ、そうか。
人を軽んじるのって、こんなにも楽で、簡単だったんだ…。
いいな…、もっと早くにやっておけば良かったな…。
シャトーの瞼が、ゆっくりと重くなり始めた。
それは、彼女の癖的な行動であった。
彼女は、現実を見るのが面倒になった時、考えることが億劫になったとき、いつも眠るようにしていた。
今もそう。
もう、煩わしい思考も、向き合いたくない現状も、何もかも投げ出してしまおう。
ラディカ様のことなんて、消し去ってしまおう。
そう、思った。
だから、目を閉じた。
おやすみ。
…しかし、シャトーはどうしても眠りに落ちることが出来なかった。
現実逃避をすることが出来なかった。
頭がクラクラしてるのに、身体がこれ以上なく気怠げなのに
眠いのに
彼女はまだ、考えるべきこと、向き合うべきことがある気がして、しょうがなかった。
分かんない…
なんでだろう…。
絶望したのに…、優しさを捨てて冷たくなれたのに…。
まだ、ラディカ様に何かがある気がする…。
もしかしたら、もしかしたらの希望的観測。
まだ、心に残っている。
どこか、期待している。
希望的観測?
いや、それには確かに、証拠がある。
『私は、ラディカ様のことが好きですよ』
そう、私は、“悪女じゃないラディカ様”が今でも大好き。
『かわいい…』
あの、素直で、あどけない、屈託のない笑顔が可愛いラディカ様が大好き。
なんで?
…あ
気がついた。
あれは、確かに、本当のラディカ様だった。
何も、嘘偽りなかったから。
それじゃあ、悪女は?
私は、ラディカ様の悪女について、今までに、色眼鏡をかけずに見たことがあったか?
…あれ?
あ…?
なんだ…?
…そうして、気がついてしまった。
違和感。
思い浮かんでしまった。
たった一つの、冴えない疑問。
「(そういや…、そうだ…)」
「(そう…、たとえば、ラディカ様が、本当に悪女だったとして…)」
「(何というか…、どうして…)」
(目の前のラディカ様を改めて見る)
(そして、確かに思う)
「(どうして、ラディカ様には、こんなにも、色っぽさが似合わないんだろう…?)」
『ラディカには“悪女らしい”不機嫌な顔より、“ただの女の子のような”屈託のない笑顔の方がよく似合う』
それもまた、観測可能な確かな事実。
理知が認める、間違いのない真実。
悪女との矛盾。
彼女が、“ラディカの美貌”という幻惑に惑わされないからこそ、読み取れる真実。
「なん…、で…?」
脳が不可解に支配された。
…が、それもつかの間
その不可解の解は、幸か不幸か、間もなく、シャトーの元に届いた。
「…ッぐァ!あァ…!」
突如、ラディカの身が大きくよじれた。
「…うぉ」
「もしかしてとは思ったけど…、マジか」
入れ墨は、ラディカの身じろぎを軽く抑えながら、意外な事実に感嘆に近しい声を漏らした。
「んぉ?何?」
「いや、見てみろよこれ」
そう言って、入れ墨は、帽子に、先ほどまでラディカの恥部を無理やり押し拡げていた自分のブ太い指三本を見せた。
赤黒に染まったそれらを見せた。
「えっ?血?マジぃ?」
帽子も、入れ墨と同じく驚きの声を漏らした。次いで、「こんなに美人なのに?うっそだぁ?」と嗤った。
入れ墨もまた、ラディカを嗤いながら、帽子の感想に同意した。
「いやぁ、まぁ?さっきから触ってて、固ぇし、伸びねぇし、ほぐれねぇから、あんまり遊んでねぇのかな?とは思ったんだけど…」
「でも…、まさか…なぁ?」
「…!!」
シャトーは、目を見開いた。
顔を上げて、力が入らない身体を無理に起こした。
白黒する瞳で、入れ墨の指を見た。
そして、ラディカを見た。
只今に起こった悲劇に、この上なく絶望している彼女を凝視した。
悲劇。
悲劇。
明らかな悲劇。
破瓜。
「まさか…、そんな…」
「嘘…、なんで…」
「なんで…、ラディカ様は、まだ…」
「処女、なの…?」
偏見と異なる事実。
知見と異なる現実。
有り得ない。
ラディカ様の身持ちの悪さは、悪評になるほど酷いらしかったのに。
新聞だって、世間の噂だって、そう言ってたのに。
…私も、そうなんだと納得していたのに。
「ちが…、う…?」
「違う…の…?」
…シャトーの生活環境における情報の隔離具合を鑑みれば、こと、情報弱者である彼女において、新聞が与え得る情報の信憑性は極めて高かった。
加えて、新聞の情報が世間一般の風評と一致すれば、たちまちそれは、真実となった。
更に、実際に体感した現物のラディカが、端的に言ってクソみたいな態度ばかり取る歯クソ野郎だったことを踏まえれば、真実は確固たるものになった。
…しかし、それは合理性のもたらす弊害であった。
彼女は、頭脳明晰であるが故に、論理的帰結に従い過ぎ、あまりにも、情報を鵜呑みにしてしまっていた。
理知による、変な期待、思い込み、勘違いをしていた。
だからこそ、彼女には、偏見とのバランスを取るために、善性が必要であった。
情報と、整合性と、経験則の上では、間違いなく悪女であるラディカが、根っこの根っこから、本当の本当に悪女であるかどうか、ラディカの心情を感知することを通して、しっかりと見極める必要があった。
頭で真実を決めつけるのであれば、心で、真実の裏に隠された真相を見つける必要があった。
その上で、ラディカという人間について、納得をする必要があった。
『理知』な『善人』
二つ合わせて、シャトーなのだ。
しかし、愚かなシャトーは、只今に、善人としての自分を捨ててしまっていた。
絶望とかいう、何もかもをラディカのせいに出来る便利な理由を見つけてしまったが故に。
楽をしてしまっていた。
愚かな彼女は、手遅れになってから、ようやく気がついた。
取り返しのつかない過ちを犯して、やっと知ることが出来た。
ラディカの正体。
「本当の…、ラディカ様は…」
「悪女じゃない…?」
「…あ」
…思考がそこまで巡った時、シャトーは、ラディカと目が合った。
そして、シャトーの眼に映った。
「助けて」と必死に懇願した、その跡として細く残る涙の痕と
それを伝った先にある、もう、唯の光を失ってしまって、二度と輝きを取り戻せない、手遅れになってしまった虚ろな眼が
悲痛のラディカが
今に見えた、純粋な煌めきを持つ現実に照らされて、徐々に希望を取り戻す、身勝手なシャトーの瞳と
今にある、真っ暗闇の現実が鮮明に映ってしまって、もはや、何の希望も取り戻せない、見捨てられたラディカの瞳
本当は悪女じゃないかもしれない
しかし、それでも、守るべきだった彼女
もう、守れなくなってしまった彼女
お前が守らなかった彼女
「あ…ぁ」
脳にじわりと、しかし、爆発するように広がる後悔
ガチガチと震える歯
歪み、歪み、歪む視界
荒く、荒い、呼吸できない呼吸
反芻されていく自らの愚行、愚行、愚行
自らの、愚か過ぎる考え
全て、間違い
「あ…ぁぁ、…ぁッ…!!」
「…っあああああああああア!!!!」
…シャトーは、心の底からグチャグチャになった。
自分という存在の何もかもが憎くなった。
死んでも、死に切れなくなった。
最悪だ。最悪だ。最悪だ。
私のせいで、私のせいで、私のせいで。
ラディカ様に、途方もないものを失わせた。
きっと今まで、大切にし続けてたのであろう、大事な、大事なものを、失わせてしまった。
どう取り繕おうとも償えない、とんでもない痛みを負わせてしまった。
私なんかじゃ遠く及ばない、あまりにも大きな絶望をさせてしまった。
「(私を、私なんかの好きにさせたから…!)」
シャトーは、あまりの自責の念に、溢れ出る膨大な涙に、ラディカを見る目のピントが合わなくなった。
それでも、彼女はラディカの方を見た。
身を震わせて。
守るべきだったのに、暴漢らに手籠めにされ、完璧に蹂躙されてしまったラディカを見た。
自分の愚かしさがもたらしてしまった、惨憺たる結末を、目を逸らさずに見た。
そして、彼女は、溢れんばかりの悔恨を漏らすようにして伝えた。
「ごめん…なさい…!」
止まらない懺悔の気持ちと共に、苦しみでいっぱいの嗚咽が漏れる。
ラディカへの、謝っても、謝り切れない謝罪が漏れる。
「私が…馬鹿で…愚かだったから…」
「そのせいで…守れなかった…!」
「守るべきだったのに…、本当は、守るべきだったのに…!」
「ラディカ様…!」
「本当に…本当にごめんなさい…!」
…自分が壊れてしまう程の心痛、ラディカへの想い、止め処無い謝罪の言葉が押し出した、ドロドロで冷ややかな血は、絶望の種を巻き込んで、シャトーの内から、これをポロリと流れ落とした。
シャトーはもう、ラディカを疑わなかった。
彼女の赤黒い瞳は、一心にラディカとの未来に向いていた。
彼女は、何をおいても、ラディカを守る決意に包まれていたのだった。
……
…
…ここで、この話を終えるのが良いと、私も思う。
そこそこ綺麗だし。
だが、私は恭しく注釈をする。
だって、何よりも、これは、尊きシャトーの人生なのだから。
…実のところ、『ラディカを信じ、守る』という決断は、一見ほど崇高なものではなかった。
むしろ、シャトーという存在の健康を鑑みれば、これ以上無くおどろおどろしい採択であった。
なにせ、これには大きな代償があった。
それは、最初の方に語った、重大なテーゼが物語る。
希望や絶望をする自由を捨て、何があろうとも誰かを信じて疑わないとすることは、己の内に、他者への盲目的な狂愛を許すことになる。
また、もう二度と後悔したくないからと、誰かを守るために戦いに出ることは、己の傷と死、又、他者への危害と是に伴う怨嗟という、苦しみを受け入れることに繋がる。
考えるに、そういう、極端な結末に陥らないために、常識というものは存在する。
物事には多少の諦めが肝要で、いつも妥協と分別を忘れないことで、長寿と豊かさは、実現する。
そうして、人は適度な幸福を手に入れる。
これで良いと、ホッとできる生を享受する。
(…実際、ラディカの正体が如何なるか、フラットな目で見れば、まだ分からないはずだ。だって、彼女が暴力的で暴言を躊躇なく放つ人間なのは依然、事実だし、新聞や世間からの情報は、あくまで彼女の性生活についてだけ誤報だったに過ぎない)
(それ故、シャトーは本来ならば、まだ、判断を保留すべきだった。ラディカが悪女であるか否か、命を賭けて守るべき人間なのかどうか、まだ、情報収集と分析をして、考えるべきだった)
つまるところ、只今に、ラディカを信じ、守ると固く誓ってしまったシャトーが被った代償とは、一つに、絶望の種どころか、正常な思考と判断能力すらも吐き出してしまったことであり、もう一つに、まるで気立った猛獣のように、後先考えずに、守るべきもの以外の全てを軽んじて、敵に立ち向かおうとするピーキーさを獲得してしまったことであった。
極端。
全てを手に入れる代わりに、全てを失いかねない。
シャトーは、そんな危うい存在と化したのであった。
…でも、彼女は、それでいいと断定する。
彼女は、そんな自分が素敵だと考える。
彼女はもう、思考の癖を有さない。
だって、それはもはや、ノイズではなく真理だから。
『…いいか?私の可愛いシャトーよ。世間は御方について穿ったことばかり言うがな、あんなもんは全部嘘だ。本当のラディカ様は、きっと素晴らしい方だ。あの方もまた、レジティ様同様、神に選ばれし存在なのだ。素晴らしい方でなければ、道理が叶わんってもんだ』
「あはっ…、ははは…、ははははは!!!」
甘美
甘美
甘美
「(あぁ…そうなんだ…!)」
「(お義父さんは、やっぱり、何もかも正しかったんだ!)」
「(常識的で、合理的で、何もかも間違っている馬鹿な私には、最初から、大好きなお義父さんを疑う資格なんてなかったんだ!!)」
そして、取捨
真理に基づく取捨
私の、取捨
私が本気で魔術を使ったら、この街一つなんて簡単に消し飛ばせちゃう…
そしたら、街の人たちが大勢死んじゃうよぉ…!
だから何?
ラディカ様のためならば、別に良くない?
「(私と、お義父さんと、ラディカ様だけが存在する…、そんな世界…)」
「(考えただけでゾクゾクする…!!)」
「(あぁ…、それ以外のことなんて要らない…!それ以外のことを大切にしようとする私なんて、もう要らない…!!)」
…だから、私なんて存在はもう、死んでしまえばいいんだ!!!
「はははははははははははっ!!!!」
理知を憎み、善性をエゴイスティックに取り扱う。
彼女を規律していた二つの性質の基本原理を無視し、それらの排斥と言っても過言でない言動を取る。
人の本性は変わらない。
であれば、“理知な善人”としての有様を、全て捨て去ってしまった彼女とは、一体何なのか?
…シャトーは、壊れてしまったのだ。
濃硫酸のように強烈な失敗に、脳をドロドロに溶かされてしまって
彼女はもう、自律できない、ポンコツになってしまったのだ。
しかし、彼女はとても、清々しかった。
お義父さんの言葉を鵜呑みにしたい、ラディカ様を何よりも慈しみたい、その想いだけが自己を支配していて、気持ち良いくらい、心地良かった。
その機序は、何もかもを見限ることと同じ。
信じるもの以外のことを、軽率に扱えるから。
何も考えず、瞼を閉じていられるから。
愛するお義父さんの言葉、その意志は束縛ではなくなった。
それは、彼女を構成する全てになっていた。
ラディカへの疑り、悪感情は消え失せた。
ラディカへの想いは、神への信仰よりも重い、カルト的崇拝へと変わっていた。
彼女は、それこそが、“信じる”という行為の意味であり、『お義父さんの子』であり、『シャトー・ブリアン』であり、何よりも『私』であると、解釈した。
そうして、彼女は、己が歪みに心身の全てを許し、ずっと未完成だった“無私”を実現したのであった。
…あぁ、レジティ様
私は遂に、やりました
お義父さんの全てを愛せました
貴女と、貴女のお姉様のおかげです
ふふっ、ふふふっ、ふふふふっ
…世間一般の、平凡な感覚なら、思考停止は愚で、盲信は悪なのだろう。
故に歪みとは、批判され、否定されるべきなのだろう。
歪さを排すための物語、正義の追求こそが、小説らしい、面白い物語で、人々の快楽で、私は、故意にそういうものを提供すべきなのだろう。
だが、これはシャトーの生だ。
本質的に、あなたへの娯楽でも、刹那的な消費物でもなく、彼女が懸命に歩む生だ。
だからこそ、あなたも、私も、この物語を真に楽しむことはできない。
私たちは、この歪に慄くしかない。
物語の初めに表された、ラディカの歪、悪女っぷりに向けていた目と同じものを、彼女に向けるしかない。
…改めて伝えるが、この物語において最も重要な登場人物の一人として抜擢された彼女とは、あなたや、私や、他の全てとは違う。
彼女は、何者でもない私たちとは違い、特別な何かを持っている。
特別な何か、それは、彼女の出生や育ち、保有する突出した天賦の才を見てもそうであったが、何よりも、“お義父さんへの愛”という異形の想いを見るに、そうなのだ。
彼女には、ずっと紡いできた己と、愛がある。
そういう、尊さにまみれた過去がある。
だからこそ、彼女は今、この上なく幸せなのだ。
【人物紹介】
『シャトー』
告白する時は舞い上がり過ぎて、変に奇をてらい過ぎて空回りするタイプ。
『ラディカ』
都度、好きという感情をモロ出しするので、根本的に告白という概念が無いタイプ。