3 筆跡を鑑定せよ
久しぶりに来る執務室は若干埃っぽかった。
窓を開けると温かい春の風が入ってきた。
優しい日差しが眩しい。
ふぅっと大きく深呼吸する。
軍支給の制服は上質だが息がつまる。
机の上には書類が山積みだった。
この分では残業しても全部終わるのに一か月はかかりそうだ。
「外廷に来るなんて珍しいね」
執務室の中に入って来たのは同僚のダニエル モーリスだ。
同じ署内の配属だが、彼は表向きは外交官だ。
男爵の次男で二十五歳の優男。
結婚はしているが社交界に顔がきき、顔立ちもよく紳士な対応から女性ファンも多い。
たまに夫婦喧嘩の愚痴を聞くが、原因は彼の浮気にある。
仕事だから女性と会食をしたというが、たまに本気の恋愛に発展するのだから自業自得だ。
国内外の情勢から貴族の他愛ない噂まで何でもよく知っている。
「ダニエルのことだから、わたしに聞かなくても知っているんでしょう」
伯爵の名誉にかけて箝口令は下されている。
この機関以外の勤務者ならこのような醜聞が耳に入る事はまずない。
しかしこの特殊機関でこの状況を知らない方が珍しい。
「全然知らないよ。クレイ画伯の個展のことを伯爵が娘に話して、その娘がクレイ画伯の諜報活動を突き止めてアトリエに出入りしたってくらい」
しれっと言ってくる。
この様子ではエドワード クレイの名前はもう使えない。
アトリエ自体はあえて人通りのある街角に構えていた。通りがかりの人からはジェイドのように普通に絵画を取り扱う店と認識されていた。
ご近所では売れない画家として鑑定もしているちょっと変わった店という認識だったと思う。
しかしソルヴェーグ嬢のように鑑定士もしているけど、諜報活動もしてますよね……という認識の人間が来るのはまずい。
ソルヴェーグ嬢に意図はなくても、本業に支障がでるからだ。
「いじわるですね。やはり耳に入っていましたか」
ダニエルはぺろっと舌をだし肩をすくめる。
「あらっ珍しい顔がお揃いで」
リラ ワトソンが部屋に入ってきた。
「ちょっと、聞いたわよルーク。上層部で噂になってたわよ。伯爵は情報漏洩で厳重注意、クレイ画伯は消息不明、アトリエは売家にして処理したそうね。エドワード クレイことルーク クラインは軍庁舎の寮を間借りして謹慎処分中ってね。何はともあれ首がとばなくてよかったわね」
リラは栗色の髪をまとめあげ、グレーの簡素なドレスを着ていた。
さりげなく品があり、知的美人という印象を受ける。
父親が司法書記官ということもあり、事件や人の動向は常に把握している。
彼女は特殊情報機関長官の秘書官という立場で機関全体を取り仕切っている。
長官よりも判断が早いため影の長官とも揶揄されているが人手がない時は表舞台に出て淑女な出で立ちでいながら男女問わない変装をしては活躍している。
後ろ盾がなければ周囲の嫉妬で出る杭は打たれていたであろう特殊情報機関の秘蔵っ子だ。
ダニエルとリラ、そしてわたしとはこの機関の同期だ。なんでも話せる数少ない友人であり理解者だ。
「わたしの場合、巻きこまれ事故みたいな感じなのに。わたしの方が処分も重いような気がするんですが」
あのアトリエも古いながらに気に入っていた。
仮住まいだったとはいえ、正体がバレなければ拠点にするつもりだったのに残念だ。
鑑定ばかりに熱を入れて本業の仕事が溜まっていたこともあり、表向きは謹慎処分だが実際は外廷勤務で事務仕事の命が下っていた。
「カモフラージュにしてた鑑定士の仕事をしすぎたんだろう。見ろこの書類の山を。出張があったとはいえ溜め込みすぎだ」
「確かにね。仕事効率を考えないで好きな仕事を優先してるから。外でフラフラ仕事してると本業の仕事に集中しないからじゃない。ここぞとばかりに謹慎処分にして自分の目の届く範囲で仕事をさせたかったのかもね」
二人してまるで仕事をしていないような言い方だ。
特殊情報機関のこの仕事は正直つまらない。
しかし、依頼された仕事はしっかりこなしている。
依頼者の望んだ情報に必要な絵を描く。
この前の伯爵の依頼以外にも依頼人は二人いた。
国防大臣からは他国の要塞の見取り図と城下の道路地図、宰相からは最近隣国の首相になった人物の人相画と身辺情報だ。
これだってなかなか大変な作業だった。
絵画的な価値は要求されていないとはいえ正確さは求められる。
国外に行くのも体力がいるので過酷な勤務だ。
不審者として扱われたら牢獄に留まらないといけないのも精神的につらい。
牢屋には二回ほど捕まった経験がある。
それなりに大変な思いをした。
それ以来、検問を通る時にフェイクの風景画やカモフラージュ用の絵を用意するようになった。
相応に準備しないといけないのだから手間も時間もかかる。
命がけな上に仕事量と給金があっていない気がする。
せっかく絵を扱うのだから、鑑定士のように作者の意図や構図の工夫を読み解きたい。
読み解いた達成感は何より得難い満足感が得られる。
「はぁ~、本気で転職しようかな」
ソルヴェーグ嬢の仕事の誘いがまた頭を過ぎる。
***
ヴェネーノ長官が突然入室し、三人は反射的に姿勢を正し敬礼した。
「三人揃っていたか。よかった。突然だが緊急指令が入った」
長官がゆっくり自分のデスクの椅子に座る。
いつも眉間にシワを寄せているが、今日はいつにも増してシワの溝が深い。
会議から終わったばかりだろう。抱えていた書類を机に無造作に置いた。
「何事ですか」
ダニエルが真剣な顔に変わる。
「国王陛下主催の夜会が来週開かれる。そこで闇取引きが行われると情報が入った。ダニエルとリラは潜入捜査を担当」
「承知しました」
「ルークは闇取引の招待状の鑑定だ。できるな」
「わかりました」
全員の顔に緊張感が走った。
夜会では闇取引がまれにある。
人や金品、商談ごとから薬まで取り引き内容は様々だ。
闇取引はもちろん非合法だ。
人が多く集まる所は客になり得るカモが多いといえる。いい話しがあると持ちかければ新しい顧客になるのだ。
しかし国王陛下主催の夜会で闇取引をするというのは大胆不敵だ。
客層は上流階級の貴族に絞られる。
身元のしっかりした者ばかりだが、たまに親戚などを連れてきて国王陛下と謁見することがある。
功績や商売など自身の有能さををアピールし取り立てて貰うことがあるのだ。
招待状は厚みもあり明らかに上質な紙を使っている。
見たところ王室御用達の紙だ。
手触りもよく紙の繊維も整っている。
エンボス加工されデザインはとても美しい。
光に当てて透かしてみる。
特に細工はされていない。
エンボス加工の部分を手でなぞるが特に文章になるようなものはない。
招待状の側面を手でなぞる。
特に凹凸もなく、加工された様子はない。
いたって普通の招待状だ。
大体この手の取り引きには暗号や招待状に細工が仕掛けられているものだ。
妙だ。
国王陛下主催の夜会に招かれること自体、名誉であり光栄なことだ。このような自体、陛下の耳に入ったら、確実にご不興をかう。
近衛兵だっている城内で闇取引をする必要があるだろうか。
わたしなら危険すぎてそんな所で取り引きはしない。
『次の夜会、夜十時中庭にて』そう書かれていた。
筆跡から執着心と独立心が強いのだろうと推察できる。インクのにじみ、筆圧から男性だ。
名前などは記載もない。
裏も表もそれ以外は何も書かれていない。
ちょっと角張った癖字、どこかでみたような……。
つい最近、これと同じような筆跡の書簡をみたことがある。
そうだ、机の上、書類の中にあったやつだ。
確か治水管理の書類だ。
探しだし、確信した。
これは……第三王子……マイロ王子の筆跡と一致する。
王子という立場なら陛下主催という場は都合がいいのだろうか。
いや、国王陛下とマイロ王子は確執があると言われていた。
以前お付き合いした人との結婚を国王陛下が反対され破談になったとか。
それ以来、仲が険悪になっているらしい。
破談になったお相手は結婚したそうだが、マイロ王子はそれ以来、誰とも付き合っていない。
自由恋愛ができないのもお立場上、悲しい話しだ。
この招待状はアレクサンダー公爵が入手したという。
この招待状の受け取り人は誰だ。
『次の夜会』が国王陛下の夜会として、その前の夜会か会合、何かしら接触した時期があったはず。
招待状を王子が書いたとして。誰と会っていたんだ。
公爵はどうやってこの招待状を手に入れたのか。
考えこんでいると急に視界が狭まり頭がぐらりと倒れる。
急に力が入らなくなった。
頭の中がまどろみ考えがまとまらなくなってきた。
懐中時計を見ると深夜一時を過ぎていた。
三日徹夜はさすがにきつい。
そういえば……確かマイロ王子とアレクサンダー公爵は従兄弟同士だったか……。
一旦仮眠をとらないとだめだ。マイロ王子の家系図を頭の中で描いた瞬間、ソファーに倒れこむ。意識が遠のきそのまま寝入っていた。
***
夜会のシーズンということもあり、ダニエルの情報収集はさすがだ。
マイロ王子の行動からある特定の人物と会うのだろうというところまでは絞れた。
とりあえず闇取引をする疑いのある人物を徹底マークする。
今日はその現場を押さえる必要がある。
ダニエルはマイロ王子をターゲットにしつつその近辺の王族の動きを探る。
リラは令嬢達と付かず離れず距離をとりながら招待状の受け取り人の動向をチェックする。
わたしはフットマンに変装してこの仕掛け人の動きを把握する。
正直、人混みは苦手だ。かと言って周りの雰囲気に溶け込まないと不信に思われる。
国王陛下の許可を得て特殊情報機関の職員が潜入している。事を荒立てないよう、秘密裏に処理するのが目的だ。
いつも以上に出席者が多く、息苦しい。
ワイングラスを運びながら、招待客の顔や会話をチェックする。
取り立てて闇取引をにおわせる話題をする人物は見当たらない。
ふと背中に悪寒が走った。
誰かが自分を見ている視線を感じた。
振り返るが見知った人間はいない。
気のせいかと思って視線を戻すがやはり誰かに見られている。
変装は完璧だ。変装名人のリラが自信をもって別人にしてくれた。諜報員と気取れてはいないだろう。
ご婦人方から「ワインを」とよく声をかけられてはいた。
ワインのグラスはだいぶ配ったが、もう少しフットマンとして動いた方がよかったか。
殺気こそないがまとわりつくような視線だ。
一旦キッチンへ戻り、態勢を立て直すか。
まるで金縛りにあったようだ。考えこんでいると、視線が外れたのがわかった。
大きく一呼吸する。
何だったのだろう……。
曲が流れだした。
男女ペアになり次々とホール中央に集まる。
アレクサンダー公爵と公爵夫人はお互い目を合わせない。
夫婦仲が冷えているのか。
夫婦なら一緒にダンスを踊りそうなものだが声をかける様子もない。
ダニエルに視線をやり『公爵夫人をダンスに誘うように』と合図する。
ダニエルはごく自然に公爵夫人を誘い出し華麗にダンスを躍る。
肝心のマイロ王子は視線だけ公爵夫人を追っていた。
アレクサンダー公爵は夫人を少し見ただけで、あとはマイロ王子を睨んでいるかのように見える。
リラに合図を送りアレクサンダー公爵と話すよう勧める。リラと公爵は少し話した後、公爵だけバルコニーへと去っていった。
「おかわりをいただけるかしら」
リラがお盆からワインをとる。
「アレクサンダー公爵は夫人のこと、よく思っていないようよ。夫人のこと睨んでるし、無自覚に『くそっ』て舌打ちしてるし。取り付くしまもなかったわ」
「ありがとう」
公爵は遠目から見ても苛立っているように見えた。
この後、事が起こるのに落ち着かないのだろう。
「ワインを貰えるかな」
曲がおわりダニエルが声をかける。
「公爵夫人はどうだった」
「視線はマイロ王子を見ていることが多い。会うのは王子と公爵夫人で間違いないだろう。ダンスの時に『この後ご予定は?』ってきくと『先約がありまして』と丁重に断られたよ」
ホールではまた談笑の声が聞こえてくる。
「しまった!マイロ王子と公爵夫人がいない」
ダニエルが焦った表情をみせる。
時間を見るともうすぐ十時になろうとしていた。
中庭には警備兵が何人か隠れて待機するよう手配済みだ。
二人が何かなることはない。
わたし達が動くならば別の人物。
気になるのはアレクサンダー公爵の方だから。
***
バルコニーにはアレクサンダー公爵が一人佇んでいた。
「ワインは如何ですか?」
どこか泣きそうな哀愁漂う表情だ。
「ありがとう。いただくよ」
公爵はワインをいっきに飲み干した。
「もう一杯貰えるかい」
そう言ってあおるようにワインを飲む。
やけ酒だろう。飲んでいないとやっていられないのだ。
「公爵閣下、お尋ねしたいのですが」
「何かな」
公爵はかなり酔っているようにみえる。
「あの『次の夜会、夜十時に中庭で』という招待状はどこで見つけたのですか」
「この前、王子主催の夜会の時だ。王子がフットマンに例の招待状を妻にこっそり届けたのをみてね。屋敷に帰ってからメイドに頼んで招待状を預かったんだよ」
「二人が恋仲だとご存知だったんですか」
「元々、殿下と妻は付き合っていたんだ。国王陛下が結婚を反対して別れたんだが。その後、妻とわたしは結婚した。わたしの中では二人の恋愛は終わったものだと思っていた。だが二年前、競馬観戦していた時だ。マイロ王子が来られていたのでご挨拶をしたんだが、そこで王子と妻は意気投合してね。事あるごとに密会をするようになった。どこへ行ったかもはぐらかす。付き人に聞けば王子と会っていたというじゃないか。そうこうする内に夫婦仲は冷え切っていった。招待状を貰ってからの妻は本当に嬉しそうに自分の持ち物を整理しだす有り様だ。これは駆け落ちでもするのだと思った」
酒のおかげか、かなり饒舌だ。隠そうともしない。
嫉妬にかられた公爵は二人の仲を破談させようと諜報機関に闇取引があると嘘の通報をしたと。
「だから今日その場を公爵ではなく、我々見張りに現場を押さえさせ、事を露見させようとしたのですね」
「最後の悪あがきでしたね」
確かにこの夜会で王子と公爵夫人との駆け落ちするつもりだったようだ。
先ほど裏門に不審な馬車が停められていたと情報が入っていた。
マイロ王子からすると国王陛下主催の夜会でマイロ王子とアレクサンダー公爵夫人が駆け落ちともなればスキャンダルだ。
親に恥をかかせ、かつての恋人と甘い生活ができればマイロ王子は満足だったろう。
しかしアレクサンダー公爵はたまったものではない。
闇取引という名目で警備兵が駆け落ち現場を押さえ取り調べを行う。
駆け落ちを阻止できればマイロ王子には意趣返しができ公爵夫人も自分から離れないという思惑だったようだ。
けれど夫人はきっともう戻ってはこないだろう。
アレクサンダー公爵は事が終わって抜け殻のようだ。
いろんなことがどうでもよくなってしまったのだろう。
「閣下。詳しい事情をお伺いしたい。ご同行願えますか」
背後から警備兵が来た。マイロ王子と公爵夫人は闇取引の容疑で一時身柄を拘束されたのだろう。
情報提供者と意見の食い違いから、アレクサンダー公爵もまた身柄を我々が預かることになった。
闇取引の調査は無事に解決するに至ったのだった。