君からは、謝ってほしくなかった
もう少し力を入れると、あおの手を壊してしまいそうだった。
静かな保健室の中、日向はベッドに仰向けに寝ながら自分の手を見つめた。
蒼の手を取った時の感触が蘇る。
蒼の手はひんやりとして気持ちよく、あの時、熱に浮
かされていた自分をいくらか冷静にしてくれた。
今頃、蒼は教室で二時間目の授業を受けているはずだ。
十数分前ーー蒼との話がまだ終わらない内にチャイムが鳴った。二人して授業に遅れるのは確実だった。
だから日向は、体調が悪そうな転校生を保健室に連れて行ったと言えば遅刻の理由としては十分だろう、と言って、自分は保健室で少し休むことにし、蒼には先に教室に戻ってもらったのだ。
蒼は見るからに渋々だったけれども。
日向は手の甲を額に当て、小さく息をついた。
別に体調は悪くない。
ただ、思っていたよりも自分は緊張していたらしい。
蒼を目の前にして。
やっと会えた。
ずっと会いたかった。
ずっと…謝りたかった。
でもーー
昔の自分が許せないと言った日向に、ふざけるなと言った蒼。
昔は背丈がさほど変わらなかったのに、今は日向よりも随分と小さな蒼が、彼を壁に追い詰め睨んできた。
目に涙を溜めて。
日向は小さく笑った。
相変わらずだな、あおは…
どんな時でもひなを守ろうとしてくれてーー
日向が蒼に謝るのは当然のことだった。
だから、そのことで蒼を怒らせてしまったとしても後悔はない。
ただ彼にとって想定外だったのは、あの約束のせいで日向を縛ってしまった、と蒼が彼女自身を強く責めたことだ。
謝ってほしくなかった。
蒼が謝ることは何一つなかった。
あの約束はむしろ、
俺があおを縛っていたのにーー
日向はそっと目を閉じた。
六年前の蒼と過ごした情景や心情を、日向は今も鮮明に思い出せる。
別れの日のことも。
あの日、蒼はきっと悲しんでいた。
でも彼女は別れを受け入れているようにも見えた。
そのことが、怖かった。
あおいともう会えない。
あおいに自分のことを忘れられる。
あおいが、消えてしまう。
そういった不安の感情がぐちゃぐちゃに入り混じって、ひなたは卑怯な覚悟をした。
『大好きだ』と想いを伝えた。
『強くなったら迎えに行く』と約束をした。
それはひなたの本心の言葉。
そして、
あおいを縛るための言葉。
あおいは結局、ひなを傷付けることは出来ないから。
そう言えばきっとあおいは、ひなを忘れない、ひなをずっと待っていてくれる。
ひなたにはそれが分かっていた。
あの頃のひなたは確かに甘くて弱くて泣き虫で。
でもあおいが思うほど優しくも純粋でもなかった。
自分勝手だった。
強くなる方法も迎えに行く手段も、自分の言葉に対する責任も、全てが曖昧なまま想いを伝え約束をした。
ただただあおいを失いたくないがために。
ひなたはあおいのひなへの優しさは知っていた。
そういう自分に都合のいいことばかりを知っていた。
あおいのことを知った気でいた。
実際は、何も知らなかった。
強く凛としたあおいがどんな境遇で生きていたのかを、どんな目に遭っていたのかをーー
※
あおいと別れた後、ひなたはしばらくひどい喪失感に襲われていた。
食欲がなくなり、夜も眠れず、一ヶ月近くまともに生活が送れなかった。学校も休みがちになっていた。
あおいを怒らせてしまった日からあおいが公園に来なくなった時もショックだったが、仲直りしたい一心で懸命にあおいを探した。
ひなたにとって限られた自由時間の中で。
あおいの通っている小学校は分かっていたから、何度かそこに行ってみたりもした。
タイミングが悪かったのか、あおいに会うことは出来なかったけれど。
勇気を出してそこの生徒たちに声をかけ、聞き出した少ない情報をもとにひなたはあおいの家を探し始めた。
そしてようやくあおいを見つけた日が、別れの日となったのだった。
今度ばかりは、ひなたはそう簡単に立ち直れそうになかった。
あおいがどこにいるのか分からない。どう探せばいいのか分からない。
あおいは行き先を、遠く、としか教えてくれなかった。もう会えない、ともーー
子供の自分に出来ることは小さなことしかないのに、この世界は大きすぎて挫けてしまいそうだった。
あおいを縛るだけ縛っておいて、自分には何も出来ない。
ベッドに潜りひなたは毎日泣いていた。
だけどある日、泣きながらふと、おかしいな、とひなたは思った。
あおいと出会ってからこんなに泣くことはなかったのにーー
泣くな、とは言わない
だけど、泣いてるだけじゃ何も変わらないよ
初めてあおいと出会った日、泣いていたひなたにあおいが言った言葉。
そうだ、この言葉を聞いてから泣き虫のひなたは少しマシになった。
泣いているひなたに対して、呆れる人、からかう人、慰める人、そんな人たちがほとんどだった。
だが、あおいは違った。
泣く弱さを否定せず、そして言い聞かせてくれた。今まで誰もくれなかった言葉を、あおいはくれた。
あの時、あまりにもびっくりして涙が引っ込んだことをひなたは覚えている。
そういえば、あの日あおいがひなたをからかっている少年たちを追い払ったやり取りも意外なものだった。
ひなたにとってあおいの全てが新鮮でかっこよく、憧れだった。
このままじゃいけない、ひなたはベッドから起き上がり外へ出た。
そして一ヶ月以上ぶりに例の公園に行った。
七月に入ったばかりの蒸し暑い日。
ひなたが公園に来た昼過ぎの時間、砂場には一組の親子連れと思われる小さな子供と母親らしき女性の姿があった。
楽しそうな彼女たちに目を留めた後、ひなたは公園中を見渡した。
そこかしこにあおいとの思い出がある。あおいの気配を何となく感じる。
「…あおちゃん…」
ひなたは小さく呟いてみた。
どうした? ひな
笑ってそう返してくれるあおいの姿が目の前にあるようだった。
「あおちゃんっ…」
さっきよりも少し大きめの声を出してみた。
どこか困ったような顔をするあおいの姿が見えるようだった。
だけどこれは思い出をなぞっているだけで。
実際にあおいがいたら違う反応をするかもしれなかった。
彼女のことだから、ひなたの思いもよらない反応をーー
「ぼく…さみしいよ…」
こんなに世界がくすんで見えるのは、曇り空のせいだけじゃない。
聞こえてくる親子連れの笑い声がひなたの胸を痛くする。
ひなたは頼りない足取りで公園を出た。
※
あおいの姿を求めるように歩き、気付くとひなたはあおいが住んでいたアパートの前にいた。
久し振りにあおいに会えた喜びが、この先永遠に忘れることは出来ない悲しみに変わった場所。
ここに来ても辛いだけなのに、あおいがここでどんなふうに過ごしていたのかも知らないのに、あおいのことを少しでも近くに感じたかった。
それに、もしかしたらあおいが帰ってきているかもしれない。
1パーセントにも満たない可能性を信じたかった。
古ぼけたアパートを見ながら、ひなたは突っ立ったままでいた。
そうやってどれくらい時間が経っただろう。
アパートのひと部屋の玄関ドアが開き、そこから男女二人が出てきた。
ひなたは何とはなしに彼らを見た。
カンカンカン、とアパートの外階段を二人は降りてくる。
段々と彼らはひなたのいるところに近付いてきた。
「ーーそういや、あんたの娘ちゃんは?」
不意に、ひなたの耳に男の声が入ってきた。
「最近見ないけど。ほら、あの、男みたいなガキ」
はっとしてひなたは二人を見た。今度は意識的に。
彼らは二人とも若く、男の赤っぽい髪や女の派手な化粧、それぞれの服装などから怖い印象を受けた。
緊張しつつも、ひなたは耳をそばだてた。
「…別に…どうだっていいでしょ」
「ガリガリで小汚いガキだったけど、結構かわいい顔してたのに」
「やめて!」
突然の女の大声に、ひなたはびくっとした。
「…全然、かわいくなかった」
今度は低いトーンの掠れた声で女が言った。
「あんな子…私の娘でも何でもない。もう私とは一切関係ないの」
ため息混じりの女から急に疲れた雰囲気が漂った。そのせいか、ひなたには女がさっきよりも老け込んだように見えた。
そして、ひなたの心をもやもやとした嫌な予感が襲ってきていた。
男と女がひなたの横を通り過ぎる。それぞれから漂う人工的な強い香りに、ひなたは思わず眉をひそめた。
「本当にかわいくない子だった。けど、あんなかわいくない子でも、面倒見たいっていう物好きっているものね。だからくれてやったわ。いなくなって清々した」
振り返ったひなたの耳に聞こえたのは、心底そう思っているような女の声音だった。
「娘ちゃんかわいそ〜。あんた、ひでー母親だな」
男がケラケラと笑う。ひなたからは後ろ姿しか見えないが、無言でいる女は多分男を睨んでいた。
ひなたの嫌な予感が、今はもう全身を包んでいた。
…ちがう、ちがう!
これはあおちゃんのことじゃない!
あおちゃんは愛されてなきゃ、幸せじゃなきゃ…!
それに、あおちゃんは誰よりもかわいいのにーー
ひなたは心の中で叫んで強く否定した。
そして居てもたってもいられなくて、ひなたは走り出した。
男女が向かったのとは違う方向、目指す場所もなく。
やがて、ひなたは立ち止まり空を仰いだ。
それは今にも泣き出しそうな空で、いっそのこと雨が降ればいいのに、とひなたは思った。
涙がこぼれても誤魔化せるからーー
湿度の高い不快な空気が肌にまとわりつく。
ひなたはしばらくの間、下を向くことが出来ずにそうして立っていた。
※
それからひなたはあおいを探すための行動を始めた。
自分一人では出来ることは限られている。だから、とある大人の力も使って。
あおいを探す過程ーー彼女のことを調べていく内にひなたは知った。
あおいが実の母親からネグレクトや虐待を受けていたことをーー
ひなたには彼女の身に起こっていたことをすぐには理解出来なかった。
自分には無縁の世界だと思っていた…?
いや、ひなたは子供を愛さない親がいることは知っていた。
愛していなくても子供に対して最低限のことはするとは思っていたが。
ひなたはきっと、理解したくなかった。あおいを取り巻くひどい環境、それは彼女には少しもふさわしくなかったから。
やがて、何とか理解した時、ようやく受け止めた時、ひなたは怒りで気が狂いそうになった。
彼女の母親、彼女の周りの大人たち、彼女の学校のクラスメート。彼女以外の、全ての人間。
そして、自分に腹が立って仕方なかった。
吐き気がする。
何故自分は彼女を守らなかった。
何故自分は彼女に守られていた。
本当に守らなければいけなかったのは、彼女の方だったのにーー
何も気付かなかった。
何も気付けなかった。
…本当に…?
いつからかひなたは、あおいのそこかしこに違和感を覚えていた。
あおいの個性や自分の気のせい、というには片付けられない違和感をーー
棒のように細い手足、青白い顔。いつも同じような着古した服。
ひなたとあおいが会っていたのは、二人が小学三年生の秋から小学四年生の春にかけての間だった。
寒い時季だったから、彼女の薄着の格好にひなたは内心風邪をひかないか心配したものだ。
何度かひなたは羽織っていた上着を貸そうとしたが、自分は暑がりだから、と言ってあおいに断わられていた。
それに、あおいはよく怪我をしていた。
あおいの服から覗く手足に、時には顔に、あざがないことはなかった。
大丈夫? とひなたが聞くと、あおいからはいつも同じ返事が来た。何でもない、ドジっただけーー
それらの頑なな彼女の態度に、ひなたはそれ以上深くは踏みこめなかった。
そもそもひなたはあおいのことを信じていた。
彼女の全てを、盲目的に。
だから、どう考えても嘘だろうと思えるような言葉も疑いたくなかった。
バカだった。
自分だって、あおいに話せないことがあったというのにーー
ひなたは自分が身勝手だったことは分かっている。
あおいに会いたくて、あおいと遊びたくて、寒い公園であおいと過ごすのをやめられなかった。
唯一ひなたなりにあおいに出来たことは、天気の悪い日になるべくあおいが雨に当たらないように強い風に身を晒さないように、そんな場所に何気なく誘導したことくらいだった。
それであおいのことを守ったなんて言うほどひなたは図々しくなれなかったが。
あおいは遠い親戚に引き取られたらしい。その人たちは彼女にひどいことをしないだろうか。
あおいとの別れの日、彼女と一緒にいた人たちの姿をひなたはうっすらと覚えている。
恐らくあの人たちが遠い親戚なんだろう。
優しそうに見えた。
どうか、どうか、これ以上あおいが辛い目にあいませんようにーー
ひなたは祈ることしか出来なかった。
あおいに何度も救ってもらったのに。
自分はあおいを救えなかった。
悔しくて悔しくて……
だから『日向』はーー今までの『ひなた』を殺した。
強くなるために。
あおいを迎えに行くためにーー
日向は目を開けた。
ごめん、あお。
あおの知ってるひなは、もういない。
そして日向は、ひなたを殺した日からずっと胸にしている誓いを改めて強くした。
俺はあおのヒーローになる。
例えあお以外の人間に、悪魔だと罵られる存在になったとしてもーー