宝箱の中の苦い思い出
手に花冠を持って蒼は帰途についていた。
まだ仕事に行く前の母親がいるかもしれない家へと向かっているのに、足取りは軽い。
自然と口元が綻ぶ。
このふわふわとした気持ちを蒼は今まで味わったことがなかった。
自分が今幸せを感じているということに気付いたのは、しばらくしてからだった。
蒼は幸せを知らないわけじゃない。
日常の中で時々感じることくらいある。
給食がおいしかったとか、過ごしやすい天気だなとか、些細なことで。
でも今はあまりにも幸せが大きくて、そうだと気付くのが逆に難しかったのだ。
花冠を持つ手にきゅっと力を入れる。
今手にしている幸せを大事にしようと蒼は思った。
※
アパートの玄関ドアの前に立つと、中から声が聞こえてきた。
怒鳴り声や叫び声。
さらには、食器が割れるような音。
「お母さんっ!!」
反射的に蒼は部屋の中に飛び込んでいた。
部屋の中はいつにも増して荒れていた。
肩を怒らせている男と、物が散らばった床の上にへたり込む母親。
「お母さんっ!! ーーっ!」
蒼は母親から遮るようにして、男の前に立った。大きく両手を広げて。
「何だ? お前」
「やめて!! お母さんにひどいことしないで!!」
男は蒼のよく見知った顔ーー母親の彼氏だ。
「お前さ…」
少しの間蒼のことをじっと見てから、男は鼻で笑って言った。
「その母親にいつもひどいことされてるのに、健気だねー。…っていうか」
男が蒼に近付いてくる。蒼の全身が震えた。
「やっぱり。よく見るとかわいいな。息子だと思ってたけど、お前女か!」
「秋人!」
母親の大声が男の声に被さった。
「財布からお金持ってっていいから。今日はもう帰って」
その言葉に、男が母親の方を見て笑った。
「ありがと。好きだよ、恭子ちゃん」
男が蒼の横を通り過ぎる。
やっとのことで恐怖を押し殺した蒼が振り返ると、母親の前まで行った男が母親からバッグを取り上げたところだった。
男はバッグの中にあった財布から数枚のお札を抜き取る。
「じゃあ、恭子ちゃん。今日もお仕事がんばってねー」
ひらひらとお札を振り、男は機嫌良さそうに帰って行った。
「お、かあさん…。だいじょーー」
「いい気にならないで、蒼」
静かな、だが憎しみの込められた母親の声によって、蒼は『大丈夫?』と聞こうとしたのを遮られ、母親のもとへと行こうとした身体の動きも止められた。
「あんたが可愛いはずないでしょ。クズで最低な父親似のあんたが」
蒼は自分の父親の顔を知らない。物心ついた時には父親はいなかったし、写真の一枚もないから。
母親が蒼の父親について話すこともなかった。ただ、ひどく酒に酔った時や機嫌の悪い時にぼやくことがあった。
それによると、蒼の父親はあまりいい人間ではなかったらしい。あくまで母親の言い分だが。
「なに…それ…?」
ゆっくりと顔を上げた母親が、蒼のある一点に目を留めた。
「そんなもの…」
「え…?」
「そんなもの持ってるから女って言われたのよ!」
はっとして蒼は咄嗟に右手を背後に隠した。ずっと持っていたシロツメクサの花冠。
母親の言う『そんなもの』はこれのことに違いなかった。
「…渡しなさい、蒼」
母親が座ったまま身を乗り出し、蒼の方へ手を伸ばす。
蒼は首を横に振り、小さく後退りした。
「蒼!」
ヒステリックに叫ぶ母親の声に、蒼の身体が強張る。
母親は気だるそうに立ち上がると、蒼の前まで来て蒼から花冠をひったくった。
あっ、と蒼の口から声が漏れる。母親はくすくすとおかしそうに笑った。
「がらじゃないわよ、蒼。この花冠は可愛いわね、ほんと可愛い。でもーー」
「っ、かえして!」
蒼は花冠を取り返そうと必死で足掻いた。母親にまとわりつき、花冠に向かって手を伸ばす。
母親は自分に刃向ってくる蒼が目障りだったのだろう。空いた方の手で何発も蒼をぶった。
終いには母親に強く押され、蒼は尻もちをついた。
「これは、あんたには似合わない」
蒼のことを見下ろした母親が、花冠をぐしゃっと握り潰した。
ひなたの笑顔が崩れた。蒼の脳裏で。
スッゴクニアッテル
アオチャン、カワイイ
ひなたの声が壊れて聞こえる。
「まさか、似合うと思ってたの? 自分が可愛いとでも思った? そんなわけないじゃない」
ショックを受けている蒼の顔を見て少し機嫌が良くなったのか、母親は楽しそうに花冠をさらにぐしゃぐしゃにしていく。
「これから仕事にいくから、このゴミどっかに捨てておくわ。ねぇ蒼、私が優しくてよかったわね」
母親がそう言った時には、花冠はすでに『花冠』だったものになっていた。
母親の手によって破壊されたそれは、誰から見ても『ゴミ』と呼べるものだった。
でもーー蒼には違った。
例えどんな形になろうとそれは、ひなたから貰った幸せだった。
「…返して……」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、伸ばした手を力無く握り締める。
蒼は空しさだけを掴んでいた。
母親が家を出て行く。ぼろぼろになった花冠が入ったビニール袋を持って。
蒼の目から涙が溢れた。
泣かないのは得意なはずなのに、今はそれが難しかった。
「ひな…ごめん…」
花冠を守れなくて。
泣くことしか出来なくて。
「ごめんね…」
※
ひなたにどんな顔をして会えばいいのか分からなくて、蒼は次の週の水曜日落ち着かない気分でいた。
しかも、天気が悪く朝から雨が降っていた。
「あおちゃんっ」
蒼の姿を見つけるなり、ぶんぶんと手を大きく振るひなたはいつもと変わらなかった。
淡い水色のレインコートを着ているひなたの周りは、
雨に煙る中でもなぜか明るく見える。
蒼は罪悪感を押し殺すことに努めた。
ひなたが駆け寄って来る。
蒼もひなたのもとへと小走りで行った。雨で足元が悪いので、ひなたをあまり走らせたくなかった。
「…あおちゃん…大丈夫…?」
蒼の側まで来たひなたが心配そうに聞いた。蒼の顔にはあざがあり、ニか所に絆創膏も貼ってある。
「ちょっと…ぶつけただけ」
蒼の怪我は今に始まったことじゃない。心配してくれるひなたに、蒼はいつも適当に誤魔化していた。
でも今日の怪我は隠れる場所にあるわけじゃなく目立っているから、いつもよりひどく見えると思う。今の言い訳はさすがに無理があるような気がしたが。
花冠の件以降、蒼は母親に対して少し反抗的な目になっていたんだろう。
それはもちろん母親には面白いわけがなく、蒼への当たりがさらに強くなっていた。
「あおちゃんは、ぼく以外の誰かのヒーローでもあるの?」
純粋な口調でひなたが聞く。
「…え…?」
「誰かを助けようとして無茶したのかなぁと思って…」
この時、蒼の脳裏に母親の姿が浮かんだ。自分のことを憎らし気に見てくる母親の顔が。
わたしは…お母さんのヒーローにはなれない…
力はないけど、わたしはお母さんを守りたかった…
でも…
ひなたのような笑顔をわたしに向けてくれたことなんて、なかった。
「そうだとよかったのにな…」
「……?」
蒼の呟きが聞き取れなかったのか、ひなたが小首を傾げる。
蒼は笑った。
「ただ、おれがドジなだけだよ。気にしないで」
少し安心したようにひなたも笑った。
「ね、じゃあ、今日はどこ行こっか?」
ひなたが聞いた。
雨が降ると公園で遊べないから、二人で適当に散歩をするのが常だった。
しかし割とすぐに、ひなたは雨宿りが出来る場所を探すのだが。
そりゃあ、雨の中にいるのは嫌だよな…。
蒼はそんなふうにしか考えていなかった。
折れた安物のビニール傘。靴底のすり減ったぼろぼろのシューズ。
傘は破れている場所もあるし、靴下は濡れてぐじょぐじょになる。
蒼を雨から守る装備は弱かった。
そんな自分をひなたが気遣ってくれていることに蒼が気付いたのは、まだずっと先のことだった。
「ひなに任せるよ。ひなの行きたいとこならどこでも」
「うん、分かった。んーとね…」
ひなたが視線を宙に泳がせ、考える素振りを見せる。
ひなたが少し顔を動かした時、レインコートのフードを被ったひなたの髪に、何かが留めてあるのを蒼は見つけた。
「それ…」
蒼は手を伸ばし、フードをほんの少しずらしてひなたの髪が見えるようにした。
「いいじゃん、似合ってる」
苺の飾りが付いた赤いヘアピン。ひなたはそれで耳にかけた髪を留めている。
えへへ、という感じでひなたが笑った。
「クラスの女の子がつけてくれたんだ」
それを聞いた時、蒼の胸が何だか変な気がした。
今まで感じたことのない異様なものが胸一杯に広がって、内心戸惑う。
そんな中、ひなたが思いついたように言った。
「あおちゃんもつけてみて」
ひなたが髪からヘアピンを外す。
「絶対似合うよ。絶対、かわいいよ」
それを聞いた時、蒼はかっとなった。
「かわいいなんて言われたって、嬉しくない!」
ヘアピンを差し出すひなたの手を、蒼は振り払っていた。
「あお、ちゃん…?」
「おれのことなんか何も知らないくせに! かわいいなんて言うな! おれはひなみたいに甘くないから。そんなんじゃ、やってけなかった!」
蒼は今まで誰かに自分の境遇を嘆いたことはなかった。それが今、噴火したように溢れ出た。
蒼が荒い息をつく。ひなたは少し驚いた顔をしていたが、しばらくしてそれはひどく悲しそうな色を帯びた。
「…ごめんね、あおちゃん…」
泣き声の混じったひなたの言葉に、蒼は我に返った。
「あ……」
ヘアピンはぬかるんだ土の上に落ちている。
「ごめん…ひな…」
さっきあんなに出た声が、嘘みたいに今は出ない。
「…おれには…似合わないから…。かわいいわけ、ないから…」
そう言ってから蒼はヘアピンを拾い上げた。自分の服でごしごしと擦り汚れを落とす。
「だめっ。あおちゃんの服が汚れちゃう」
「これできれいになったと思うから」
ひなたが制止するのも聞かずに服で汚れを拭いた蒼は、無理に強い口調で言った。ヘアピンをひなたに差し出しつつ、少し震える声になって続ける。
「だから…ひながつけていてよ…。ひなには似合うから…。おれとは違って…ひなは本当に、かわいいから…」
蒼はひなたにヘアピンを押し付けるようにして手渡した。
そしてその場から逃げるようにして駆け出した。
「あっ、待って!」
蒼を呼び止めるひなたの声。
ズシャッ
後に続いた何かが倒れる音。
蒼が振り返って見ると、ひなたが地面に倒れていた。
蒼を追いかけようとして転んだのだろう。
何とか身体を起こそうとするひなたのレインコートは、泥だらけになっていた。
「ひな…」
蒼は立ち止まったけれど、ひなたのもとへとは動けなかった。
ひなたの側に行って手を差し伸べたい。
だけど自分にはその資格がない。
勇気が、なかった。
ひなたが蒼の方を見た。蒼とひなたの目が合う。蒼は思い切り目を逸らした。
「あおちゃん!!」
再び走り出した蒼の背後で声がする。だけど蒼はもう振り返らなかった。立ち止まらなかった。
ごめんね…ひな…
ひなは何も悪くないのに…
ひなたにかわいいと言われた時、母親の怒る顔がフラッシュバックした。
怖くて怖くて。そんな風に思う自分が情けなくて。
色んな感情が混ざって、ひなたに八つ当たりをした。
自分とは違って、きっと幸せな家族がいて満たされていて、きっと友達ともうまくいっているひなたのことが、羨ましかった。
純粋で無垢なひなたを傷付けたいと思ってしまった。
自分は何て醜いんだろう。
宝石のようなキャンディーも、シロツメクサの花冠も、苺の飾りがついたヘアピンも、似合うはずがない。
かっこいいヒーローでいることも、ひなたの友達でいることも、ふさわしくなかった。
走り続ける蒼の身体を雨が打つ。
雨が、ひどくなってきた。