初めての敗北
下駄箱で外履きを手にしようとして、落とした。
床に落ちて乱雑に分かれた靴を適当に揃え、蒼は急いでそれを履く。
ここから少しでも早く、少しでも遠く、離れたかった。
※
走って校門を出る。
いつもの通り、いつもの風景のはずなのに、今日は違って見える。
「ーーい、蒼っ」
走り続ける蒼の耳に、そう呼ぶ声が聞こえた気がした。
反射的に速度を上げる。
やがてーー
「っっかまえたっ!」
蒼は後ろから肩をぐいと掴まれた。
「さすが元陸上部、手擦らせやがって…」
軽く息を切らせている相手を蒼は睨んだ。
「何で追いかけてきたの? ーー蓮」
返ってきたのは呆れたようなため息だった。
「そうやって一人で泣くくらいなら、有峰の前で泣けばいいのに」
水無瀬の言葉に、蒼は視線を逸らす。それからごしごしと涙を拭った。
さっきから視界に映るものがいつもと違って見えたのは、涙で滲んでいたせいだ。
「俺としてはお前の泣き顔なんて気分いいけど。あいつが惨めだろ。あいつは蒼やみんなの前であんなに泣きそうな顔してーー」
「お願い。私が泣いてたこと、絶対に誰にも言わないで」
涙混じりの声で蒼は小さく叫んだ。
何でこんなに泣けてくる。
何で自分は泣いている。
「…お前もめんどくさいな。何で素直にならないの? あいつのこと、好きなくせに」
自分の気持ちをさも分かってるかのように話す水無瀬に反論したいのに、分からなくなってくる。
「俺に言わせれば蒼だって人の気持ちを弄んでるよ。あいつの気持ちを」
「私はっーー」
蒼は言葉が続かなかった。
「あいつの真剣な想いを今までうまくはぐらかしてきたんだろ?」
「……………」
「あいつのために? あいつに自分はふさわしくないって? そう思うのは勝手だけど、嫌われる勇気もないくせに蒼のやってることは中途半端だよ」
「……………」
「がっかりだな。そんな女だと思わなかった」
「……ケンカ売りに来たの? 蓮。悔しいけど…蓮の言ったことは図星だった。いいよ、蓮の勝ちで」
慰めてほしいわけじゃない。優しくしてほしいわけじゃない。
だが正論を武器に攻撃してくる水無瀬に、負けを認めざるを得なかった。
水無瀬が少し驚いたような顔をし、それから苦笑気味の表情を浮かべた。
「ーー俺と付き合う?」
「……は?」
蒼は水無瀬の言葉の意味が飲み込めなかった。
「蒼にとっては多分楽だよ。俺はお前をヒーローなんて思ったことは一度もないし、お前のヒーローになりたいなんて思ったこともない」
それは、もしかしたら…本当に楽かもしれない。
自分と水無瀬だったら、弱みを見せたり甘えたりしても茶化し合って終わりだろう。
それにずっと割り切った関係でいられて、相手に何も望まないし何も望まれもしない。
男に頼るしかなかった母親と自分を重ねることもない。
魅力的な提案に思えて……ぐらつく。
でも、でもーーこれは逃げだ。
はぐらかすより最低で最悪な、最上級の逃げだ。
「なんて。あいつに殺されたくないからごめんだけど。…いや、今のあいつには負ける気しないな…蒼の言葉がだいぶ効いてるみたいだし…。とにかく、とっとと素直になりな」
蒼は目を伏せた。
「泣いてたことは黙っててやる。けど、今の蒼を一人で帰せない」
「……一人で帰れる」
ぶすっとして蒼は言った。水無瀬が少し怒りつつも諭すように言う。
「学校に戻って新田さんを呼んで来るから、今日もいつも通り彼女と帰れ。それが嫌なら俺と有峰と一緒に帰ることになるけど」
「……分かった、実咲と帰る」
蒼は目元を触った。赤くなっていないだろうか、腫れていないだろうか、心配だ。鏡なんて、自分は持ってない。
「先に駅へ行ってろ。新田さんには伝えておくから。ちゃんと待ってろよ」
水無瀬が軽やかに走り去って行く。
その背を見送りながら蒼は思いを馳せた。
昔は私に言い負かされて逃げて行ったくせに…
今は私が負けっぱなしだ。
そのことを蒼は悔しく感じたが、ほんの少しだけ水無瀬のことが頼もしく思えた。




