唐突なピリオド
文化祭振替休日後の火曜日ーー
放課後の今は、帰ろうとする生徒達や部活へ行く生徒達などでざわついている。
水無瀬は何となく気になって、蒼達のクラスへと向かっていた。
その近くまで来ると、水無瀬は教室のドア付近に立っている人物に目を留めた。
水無瀬の胸をさっきまで占めていた漠然としていたものが、嫌な予感に変わる。
水無瀬はその人物のもとに行った。
「そんなとこで何してるの? 村西さん」
「ーーそうだ。あおちゃんの写真、待ち受けにしていい?」
水無瀬が葵に声をかけた直後、教室の中から日向がそう言うのが聞こえてきた。
教室内には生徒がちらほら残っており、その中には蒼に日向、実咲もいる。
「やめて。そんなことするなら消すよ」
蒼が日向のスマホを取り上げようとした。日向がそれを楽しそうに躱す。
「分かった分かった。しないから消さないで」
日向がスマホを持つ右手を上げ、それを追って蒼が手を伸ばす。
「ーーねぇ!」
突然、水無瀬の隣にいる葵が大声を出し、日向と蒼がそのままの体勢でこちらを向いた。
葵が乱暴に教室の中に入っていく。
「おいーー」
水無瀬は慌てて葵の後を追ったが、蒼の近くまで行った彼女が持っていたスクールバッグを振り回して蒼にぶつけた。
「なっ……!」
実咲が驚きの声を上げる。
ただ事ではない空気に、今やこの場にいる全員が蒼達の方を見ていた。
「大丈夫? あおちゃん」
「私は大丈夫だけど……ひなの方が、」
日向が咄嗟に腕を出して蒼を庇っていた。葵のカバンはほとんど日向の腕に当たり、蒼は大した痛みも衝撃も感じなかっただろう。
「嘘つきうそつき! 邪魔しないなんて言っておきながらっ!」
葵はというと、よほど興奮しているらしく周りが見えていないようだった。
彼女の剣幕は水無瀬でさえも引く。それほどの鬼のような形相。
「あたしから日向くんを取らないで! 日向くんはあたしの物なんだから! このーークソ女!」
さっきのスマホを取り合う二人のやり取りが、仲良く戯れ合っているように見えたのだろう。
それが気に食わなかったとしても、この葵の取り乱し方は異常だ。
だが彼女がこうなってしまう可能性があることに、水無瀬は薄々気付いていた。
「まあ彼女からしてみれば面白くないわな…。今日一日蒼に話題を取られて、主役の座を奪われたようなもんだから」
水無瀬は呟くように言った。
葵は文化祭のミスコンで優勝した。
が、ミスコンに参加しなかった蒼のメイド姿の人気が高く、今日はその話題で持ちきりだったのだ。
葵はもちろん、蒼の耳にもさすがに入っていただろう。
蒼にとっては全く興味がないに違いないが。
そんなわけで、水無瀬が休み時間に一度葵とすれ違った時も、彼女にはいつものブリブリとした愛嬌はなく機嫌の悪いのを隠そうともしていなかった。
「取ったつもりは……ちょっと落ち着いて」
蒼が何とか葵を宥めようとしている。その側で日向がくっくっと笑い出した。
「一度寝たくらいで、彼女面するのやめてくれない?」
日向の言葉に、水無瀬は、あちゃーと額に手を当てた。
「……え?」
そう声を漏らした葵が引き攣った顔をしている。
実咲が目を見開いている。
数人いる今まで固唾を呑んでいた様子の生徒達がより一層緊張するのが分かる。
蒼はーー
「初めて俺に声をかけてきた時は滑稽だったけど、後は調子に乗りすぎだ」
日向の口調や目、全てが、葵を冷たく軽蔑していた。
初めて葵が日向に声をかけてきた時のことを水無瀬は思い出す。
あの時自分もその場にいた。
彼女はこう言ったのだ。蒼に親近感を持っていると、
『あたし、白石さんと同じで「あおい」って名前なんですよ』
名前が同じだからって日向には関係ない。
蒼と同じ女だ、とか同じ人間だ、とかいうくらいのものだろう。
水無瀬は考えた。
いや、この例えも違うか
究極のところ日向にとって、愛しくてかつヒーローだと信じてやまない蒼だけが女で神のような存在だ。
蒼と並ぶ者など、ましてや蒼の上に行く者など日向の中では存在しない。
「言ったはずだよな? 君を好きになることは絶対にないって。君はそれでもいいって答えてたと思うけど」
葵は身じろぎひとつしない。
「いつの間に俺がお前の物になった? こっちはずっと吐き気を我慢してたんだ。あおを傷付けるような奴と一緒になんていたくないのに」
「あ…たしは…白石さんを傷つけるようなことは、何も……」
「あおがお前に手を出した。それだけで十分だ」
日向には蒼が白と言ったら黒も白になる。それが水無瀬には怖く感じられた。
この危うさを蒼は分かっているんだろうか。
日向にとって事実を明らかにすることはたやすいはずだ。きちんと調べ、証拠を見つける。
だが、蒼のことを信じ切っている日向にはそれさえも必要ない。
相手は一方的に理不尽に、敵か味方か認定される。
今回の場合、葵が蒼に嫌がらせをしていたのは間違いないけれど。
「だから俺は、お前をこれ以上ないくらい傷付けてやりたかった。そろそろ行動に移そうと思ってたから丁度よかったよ」
「そんな……」
愕然とした様子で葵が声を漏らす。
日向が葵と一緒にいたのはこのためか、と水無瀬はようやく思い至る。
好意を持っていると葵に勘違いさせて舞い上がらせてーー突き落とす。
そんな最低なことを意図的に、より確実に実行する。
まるで、悪魔だ。
「……まあまあ、」
重い空気と葵の青褪めた顔に、さすがに見かねて水無瀬はフォローに入ろうとし、
「……ひな……」
静かに、震える声がした。
日向と葵に気を取られ、水無瀬はあまり蒼の表情を見ていなかった。
だが蒼だってショックだったに違いなくーー
「……あお、ちゃん……?」
あまりに弱々しい声に、思わず水無瀬はそちらを見た。
昔の日向が、そこにはいた。
不安気な泣きそうに揺れる瞳。さっきまでの鋭く冷酷な雰囲気は少しもなく、今の日向はまるで捨て犬のようだった。
「…あおちゃん、何でーー」
蒼は日向を見つめていた。怒りと悲しみを滲ませた瞳で。
「人の気持ちを弄ぶのは、許されないことだよ」
蒼が重々しく言った。
教室内がしんと静まり返る中、水無瀬は自分の唾を飲み込む音がやけに響いた気がした。
「…ごめん…あおちゃーー」
はあーっと蒼が大きく息をついたのが、日向の謝罪を遮った。
「謝る相手が違うでしょ?」
その言葉に日向が戸惑うように目を泳がせる。
何度か葵の方に目をやっていたが、謝ることに躊躇いがあるようだ。
「……私を信じてくれるのは嬉しい。だけどひなには、こんな最低なことしてほしくない」
「っ……」
日向が下唇を噛む。少しして彼は葵を一瞥した後、伏目がちに言った。
「……俺が、悪かった…すまない…」
葵が泣き出す。しばらくの間彼女のしゃくり上げる声や鼻を啜る音だけが聞こえていた。
やがて、黙って様子を見ていた蒼が動こうとしーー蒼の制服のブレザーの裾を、日向が掴んだ。
「…あお……」
「ーー何?」
「俺は…あおちゃんにとっての、ヒーローになりたかった……」
蒼がじっと日向を見る。逃げるように日向が俯く。水無瀬には日向が小さく震えているように見えた。
「誰よりも大事だから、愛してるから……あおを傷付けるもの全てから守りたかった……。そのためなら僕は、どんなことだってしようと決めた……。世界中の人間に拒絶されたっていい。でもあおちゃんは、あおだけはーー俺を拒絶しないで……!」
潤んだ声で日向が言った。一人称も言葉遣いもめちゃくちゃに。
「…ひなは……昔から私のヒーローだよ」
日向がゆっくりと蒼を見た。蒼の言葉の意味が飲み込めないらしく、困惑の色を浮かべている。
「昔はなかなか気付くことが出来なかった。ひなは私が守るって思ってたから。ひなの前では嘘でも強くありたくて……。ひなのいないところでは独り、私のことも誰か助けてって、願ってた……」
記憶を辿るように蒼が言った。
「離れてから、気付いた。私はひなに救われてたって、ずっと守ってもらってたって。ひながいたから、私は色んなことを乗り越えられたの。ごめんね……もっと、早く言ってあげればよかった」
蒼が手を伸ばし、日向の頭にそっと触れる。今にも泣きそうな表情になった日向が、蒼に合わせるように頭を動かす。
蒼は優しく撫でーー日向は甘えているかのようにされるがままだ。
その一連の動きはまるで自然な流れで、懐かしい光景だった。
「…でも……ごっこ遊びは終わりにしよう。私たちはもう子供じゃない。ヒーローごっこは、おしまい」
日向がはっとしたように顔を上げた。蒼の口調は強くはっきりとしていて、確かな決意が込められたものだった。
蒼が微笑む。
「っ、あおーー」
日向が蒼に手を伸ばす一方、蒼は側にある席から素早くリュックを手にして右肩にかけた。
「実咲ごめん。今日は先に帰る」
「えっ…? ちょっちょっとーー」
蒼が足早に教室を出て行く。実咲が慌てた様子で蒼を追いかけようとしーー
「新田さん、俺が行く」
水無瀬は引き止めた。
「え? でも……」
「新田さんの前だったら、君に心配をかけないよう蒼は平気なふりをするから。その点俺には、あいつは平気で噛みついてくる」
そして日向の方を顎で示して、続けた。
「悪いけど、後で俺が引き取りにくるまでそいつの面倒見てやって。多分大人しいから」
日向は愕然とした顔のまま動かないでいる。
「……分かりました」
日向の様子を見て、まだどこか渋々ながらも実咲が答えた。
水無瀬は急いで教室を出た。立ち去る蒼が不意に見せた表情が、気になっていた。