宝箱の中の幸せな思い出
季節は春を迎えていた。
いつもは寒いだけの冬を、今回は凍えることなく過ごすことができた。
何だかあったかくて、何だか心地よい。
蒼はこんな日々に不思議な戸惑いを覚えていた。
そして、春休み。
学校がない期間は、蒼にとって決して嬉しいものではない。
給食がないからご飯に困るし、長い時間家にいることになるからーー母親の機嫌が悪くなる。
去年の夏休みは、蒼は児童相談所に一時保護されるほどだった。
「…何で、あんたがいるの…?」
お昼過ぎ、母親が起きたなり蒼を見て言った。
「学校はどうしたのよ」
「お母さん…今、春休みだからーー」
「ああ、そういうのもあったわね。…ったく、ほんと迷惑」
母親が毛布から出てゆっくりと立ち上がる。蒼の側まで来た時、母親は蒼を憎らしげに見た。
「何よ、その目。そんなことも知らなかったの、って言いたいわけ?」
蒼は首を横に振る。
「蒼。あんた、誰のおかげで生活出来てるか分かってる?」
今度は、蒼は首を縦に振った。
寝起きだから余計に母親の機嫌が悪いんだろう。
今は何も喋らない方がいい。
母親に好きなだけ喋らせて、波が静まるのを待つ。
「もう嫌…あんたのせいで苦労ばっかり。何で私だけがこんな目に遭わなきゃいけないの? 私の幸せを返してよ」
この話の流れを、蒼はよく知っている。
「あんたなんかいらない。本当、あんたなんかーー産まなきゃよかった」
…ごめんなさい、お母さん。
わたしなんかいなければよかったね…
昨日の夜、酔っ払って帰ってきてそのまま眠ってしまった母親に、毛布をかけたのが蒼だということに母親が気付くことはないだろう。
それでも。
愛されたい、いつかきっと愛してくれる。
その想いを捨てることは出来なかった。
大人びた考えを持つ蒼だけれど、やっぱりまだ子供で。
母親の存在は、九年しか生きていない蒼にとっては何よりも大きかった。
蒼の世界の大部分を占めるほどに。
ぶつぶつ呟きながら母親がシンクに向かう。
言葉の刃は鋭く、蒼の心を切り裂く。
ふと、蒼の脳裏にひなたの言葉がよぎった。
『あおちゃんは、ぼくのヒーローだ』
蒼は泣きそうな顔で微笑んだ。
わたしにも、現れないかな…
わたしを救ってくれる…ヒーロー
神様なんて信じない。
それでもヒーローの存在は信じたくて、蒼は願った。
※
「ーーどうしたの? あおちゃん」
公園のブランコに座っているひなたが言った。
蒼ははっと我に返る。
いつもの公園、いつもの時間。
ひなたの隣のブランコで、蒼は立ったままぼんやりとしていたのだった。
「あ…何でもないよ」
「…ほんと?」
ひなたは心配そうな顔をしている。
「ほんとだって」
言って、蒼はブランコを強く漕ぎ出す。
風が気持ちいい。肌を優しく柔らかく撫でていく。
うっすらオレンジがかった薄青い空だけを見て、蒼はブランコを漕いでいた。
そうしていると、どこまでも高く飛んでいけるような気がした。
いつの間にか、少し先の雑草が生い茂っている場所にひなたの姿があった。
こちらに背を向けてしゃがみ込み、何かをしている。
蒼はブランコから降りた。
「ひな、何してるの?」
ひなたの側まで来た蒼は聞いた。
「あっ…えっと、ね…」
少し狼狽えている様子のひなたの手には、何本かのシロツメクサがある。
どうやらそれで何かを作っている途中だったようだ。
「えっと…ちょっと待ってて」
そう言うと、ひなたはシロツメクサを器用に編み出した。
数分後ーー
「できたっ! あおちゃん、ちょっとしゃがんでくれる?」
「え…? ん」
立ち上がって言ったひなたの言葉に、蒼は深く考えずに従う。
「ーーはい」
蒼の頭上に、ひなたが手にしていたものが載せられた。
「……は……?」
蒼の顔が引き攣った。
「うんっ、すっごく似合ってる」
強張っている蒼とは反対に、ひなたはにこにこと嬉しそうだ。
何言ってるの? ひな…
これが似合うのはひなの方でしょ?
わたしには、似合わない…
蒼の頭上にあるのはーーシロツメクサの花冠。
蒼はさっき花冠を作るひなたをずっと見ていた。ひなたの白く細い指が動くたび、シロツメクサが連なっていく。
蒼は作り方を知らないから、段々と出来上がっていく様子を見て感心していた。
そしてそれは、ひなたの頭上を飾るものだと思っていた。
「そんな…おれに似合うわけーー」
「あおちゃん、かわいい!」
花冠を取ろうとした蒼の手が止まった。
かあっと顔が熱くなる。
可愛いなんて言われることが、こんなにくすぐったいものだとは知らなかった。
照れくさくて、どうしたらいいのか分からなくて、蒼は誤魔化すように笑った。
「…っ、ばかだな。ひなは」
蒼の顔がほぐれる。
数時間前の母親とのやり取りの後、蒼の表情は強張っていた。
蒼自身はそのことに気付いていなかったけれど。
蒼を見てひなたが嬉しそうに笑う。
二人の間に穏やかな時間が流れる。
これは、蒼の知らない世界だった。